41 / 87
41. 強くなりたい
しおりを挟む
「なあ、戦争って終わった?もう行かなくてもいいのか?」
翌朝、朝食を食べ終えたリュカは、当然のように座椅子でくつろぐ蘇芳に声をかけた。しょっちゅう入り浸るものだから、少年もすっかり慣れた。赤鬼がふんぞり返っていようとも、何とも思わない。
「ああ、昨日のうちにな。俺が途中で抜けても何ら問題ねえような、元々大した戦じゃなかった」
「ふーん」
気のない返事だったが、リュカは内心安堵していた。昨日のことがあってから、一人で部屋でいるのが少し怖いと感じていた。蘇芳でもセキシでも、誰かが傍にいるだけで安心する。
「リュカ、昨日仮面の奴を一人倒したらしいじゃねえか。九鬼丸に聞いたぞ」
「あ…うん」
「何だよ。嬉しくねえのか?」
浮かない表情のリュカに、にやついた顔から一転、蘇芳は怪訝そうに片眉を跳ね上げる。
「そんなの、わかんねえよ。俺、無我夢中だったもん。絶対捕まりたくない、とにかく逃げなきゃって、頭の中そればっかで。仮面の奴が動かなくなって初めて、殺したかもしれないって思って急に怖くなった。気絶してるだけだってすぐに分かったけど…」
少年は座卓の上で両手を合わせた。何だか落ち着かなくて、手遊びをする。
「それに、あんだけいたのに倒せたのはたった一人で、無様に逃げ回ってただけだし。結局誰かに守ってもらうしかない、自分の無力さを思い知らされただけだ。みっともないだけで、ちっとも嬉しくなんかない」
内心ひそかに思っていたことを言葉にすると、改めて自分がどれほど弱いのか、現実を突きつけられる気がした。声がどんどん刺々しいものに変わっていくのが分かる。そんなつもりは毛頭ないのに、まるで蘇芳を責めているかのようで、そんな自分にも嫌気が差す。顔を上げられなくて、リュカはじっと己の手を見つめていた。
「けど、暴走しなかっただろ」
「え?」
思いがけない言葉に、少年は顔を上げた。赤鬼は彼の発言に気分を害した様子もなく、けろりとしている。
「お前は多勢に無勢で襲われて、山の中まで執拗に追われて、背中も刺された。ステラの餓鬼一人にやられた時よりも危険な状況だったってのに、正気のまま冷静に行動した。リュカ、お前、暴走しなかったんだぞ。誰も殺してねえ。どこがみっともねえんだよ」
「っでも…!」
「そりゃ強えにこしたことはねえよ。異形の力に頼らず、一人で全員蹴散らせるんなら、願ったり叶ったりだ。けど、俺もセキシもそこまで期待してねえ」
「…っ」
面と向かって期待してないと言われ、明らかに傷ついた様子でリュカは顔を歪めた。
確かに自分には無理だ。己も何らかの異形とは言われているが、抜きんでた能力など何もない。身体能力だって、下等生物である人間の平均的なものだ。蘇芳とセキシに稽古をつけてもらっているのに、何も出来ずにせいぜい逃げ回るだけで精一杯。それも、沙楼羅がくれた御守りがあったからこそ。御守りがなくて丸腰だったら、自分もきっと仮面達と同様に異形に弄ばれ、喰われていた。何一つ自分の力ではない。誰かの助けが無ければ、自分一人では何もできない。
事実なだけに反論の余地もないが、悔しくてたまらない。自然と視線が下に向かう。溢れそうになる涙を、唇を噛んでこらえた。
「バァカ」
「っい゛」
額に突然鋭い痛みが走って、少年は慌てて両手で押さえた。顔を上げれば、先程より距離を詰めてきた蘇芳がむすっとした顔をしていた。目の前にある指に、どうやら額を弾かれたのだと判断する。
「勘違いすんなよ?期待してない、ってのはリュカに対してじゃねえ。出来なくて当然って思ってるからだ。お前はテル・メルで戦争には無縁の世界で生きてきた。なのに、稽古をたかだか1ヵ月したくらいで、いきなり大人数を相手に互角に戦って当然、なんざ微塵も思ってねえんだよ。むしろあの人数相手に逃げられただけでも、俺らの期待以上だ」
「…でも、背中に暗器受けちゃったし…」
「沙楼羅に聞いたが、背中を刺されたのも話をしていて気を取られたからだろ?気を取られてなきゃ、無傷でいられた可能性が高い。リュカ、お前はよくやった。自分のこと、そんなに卑下すんな」
優しく頭を撫でられて、鼻の奥がツンとする。褒められて嬉しいが、やはり悔しさが先立つ。何もできない無力な自分に腹が立ってしょうがない。
喉を絞められているかのように苦しい。声が震えるのが分かったが、リュカは言葉を絞り出した。
「…でも、俺、もっと何とかしたかった…!ただ逃げ回るだけじゃなくて、自分で戦えるようになりたい…っ!守られるだけなんて嫌だ!俺も誰かを守れるようになりたい…!」
「なら、稽古頑張るしかねえ。けど、すぐに結果を求めるな。上手く立ち回れるようになるには、どうしても時間がかかる。思うように出来なくても、それはお前が人間だからとか異形の力が現れてないからだとかは関係ねえ。戦うことに関して、お前はまだ赤子だ。俺でも戦場に出たのは三十を超えてからだ。焦るな。いいな?」
なかば脅迫的に同意を求められる。鋭い光をたたえた瞳をじっと見据えて、リュカは静かに頷いた。すると蘇芳はふと柔らかな笑みを浮かべた。ただでさえ今にも泣きそうなのを必死で我慢しているのに、頬に触れる手のひらの温もりに邪魔されてしまう。
努力の甲斐もなく、涙が一粒落下する。一度流れ出したら、もう抑えがきかなかった。次々に大粒の涙が零れ落ちていく。手の甲で拭うも、決壊した川のように次々にあふれて止まらない。
「おい、擦るな。腫れるぞ」
「…でも、止まらな、……っ!?」
目を擦るのを咎められたかと思えば、腕を掴まれて引っ張られる。強い力に抗えず、蘇芳に抱きとめられる。
「止めなくていいだろ。泣きたかったら泣け。泣くことは弱さの証明じゃねえ」
ぽんぽんと優しく背中を叩かれて、リュカの涙腺は完全に決壊した。蘇芳の肩に顔を埋め、彼の服をぎゅうと掴む。
温もりに包まれ、赤鬼の着物がびしょびしょになるまでひとしきり泣いて、リュカは小さく息を吐いた。
「…あいつら、俺のことを連れて行きたがってるみたいだった…。何でだろ…」
「さあな。目的は不明だが、大方俺に恨みを持ってたとかだろ。で、お前が俺の弱点になると思って攫おうとしたんじゃねえか」
「……そっか」
リュカは鼻をすすりながら、ぽつりと呟く。
自分なんか攫おうとも蘇芳の弱点になりうるはずがないのに。何せ自分は暇潰しの存在で仮初の嫁なのだ。少年は内心そう自嘲した。
「あのさ、…稽古、今日から…」
「あ?なわけないだろ。リュカの当面の仕事は静養だ」
「けど、じっとしてるの、時間を無駄にしてる気がすんだよ…。それに俺、もう元気だし」
「お前なあ…」
「嘘じゃない。本当」
蘇芳が呆れた表情を浮かべてこちらを見る。強がって無理をしていると思っているのだろう。リュカはそんな赤鬼の瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。
「蘇芳とのセックスに付き合えたら、信じてくれる?嘘じゃねえって」
少年の発言に赤鬼の目が大きく見開かれる。リュカはしばらく返答を待ったが、よほど驚いたのか、蘇芳は固まったままだ。
何だよ。蘇芳が昨日、元気なら自分の相手しろって言ったんだろ。なのに俺が言ったからって、そんなに驚くことかよ。リュカは少しだけむっとした。
じれったくなった少年は自ら顔を寄せ、赤鬼に口づけた。唇を軽く合わせると、柔らかな弾力を感じる。下唇を食めば、びくりと蘇芳の体が跳ねた。舌を差し込もうとすると、肩を掴まれて引き離されてしまった。
「待て待て待て。何だこれは」
「何って…キスだけど」
「それは分かってるっつの。お前が俺にキスするとか、どういうつもりかって聞いてんだよ」
「蘇芳、セックスする時、いっつもキスしてくるじゃん」
「…俺、まだ承諾してねえぞ」
「だから強制的に始めようかなーって。キスしてたらその気になるかと思ってさ」
平然と言ってのけるリュカに、蘇芳は大きく溜息を吐きながら脱力した。頭痛がするとばかりに、俯いたまま額に手をあてる赤鬼の顔を覗きこむ。
「…お前…マジ、凶悪…」
「何?よく聞こえない」
うまく聞き取れなかったリュカは、蘇芳の口元にぐっと耳を寄せた。指の隙間から一瞥され、少年は眉根を寄せた。何かを訴えかける視線に、何だよと言い返す。
「…今日はしねえからな」
「はあーっ!?何でだよ!」
「焦んなって言ったばかりだろうが。俺の言うことは、リュカの小せえ脳味噌には難しかったか?」
明らかな挑発とは分かっていても、やはり腹が立った。言葉にできない音が口から漏れる。
「お前実は猿の異形なんじゃねえの?今の鳴き声、猿にそっくり。ああ、でもリュカと同類扱いしたら猿に悪いな」
「うるせーバカ!バカ蘇芳!」
「お前、馬鹿しか言ってねえじゃん。悪口のレパートリー、貧相かよ」
声を上げてゲラゲラと笑う赤鬼に、少年は顔を真っ赤にさせた。怒りで体が震えている。もはや言い返す言葉すら出てこないのか、ただひたすらに蘇芳の腹を拳で殴りつけた。だが鉄板のように硬い腹は全くと言っていいほどにダメージを受けていないようで、尚も赤鬼は笑い続けている。
「…でもマジな話、せめて一週間は大人しくしてくれ。でなきゃセキシがぶっ倒れるぞ。あいつ、リュカのことが可愛いあまり、心配でたまらねえんだと。リュカだって、セキシが悲しむ姿見たくねえだろ?」
蘇芳は目尻に浮かんだ涙を手の甲で拭った。リュカはまだ頭に来ていたものの、セキシの名を出されてたじろいだ。セキシが眉尻を垂らして、悲しそうに微笑む姿が容易に脳裏に浮かぶ。
リュカもあの優しい青年のことが大好きだ。確かに彼を悲しませるようなことはしたくない。
少年は赤鬼のことをずるいと思った。彼のことを引き合いに出されては、もはや文句など言えなかった。俯き、唇を尖らせながらも小さく頷いて応える。
蘇芳の笑みが柔らかくなり、慰めるように頭を撫でられる。その指が顎へと下りて、顔を上げさせられた。と思えば唇を塞がれた。先程リュカがしたように下唇を食み、口内に舌を差し入れられる。
「ん!?んン…っ」
傍若無人な舌が我が物顔で口内を隅々まで舐める。それを舌で押し返そうとすると、逆に絡め取られてしまう。
「…ぁふ、…んう、ぅ…っ!」
後頭部と腰に手を回され、逃れられるどころか口づけは一層濃厚なものになってしまう。注ぎこまれた唾液が溢れそうになり、少年は慌ててそれを嚥下した。
舌に軽く歯を立てられると、下腹が痺れる感覚がする。その度にリュカの体は小さく震えていた。
長い口づけが終わると、互いの唇を唾液が繋いだ。全力疾走した後のように切れる息を整えながら、リュカは唾液の糸をぼんやりと見ていた。再び唇を押しつけられ、糸は切れた。
「な、何でキスすんだよ…?口だって封じられてないし、セックスもしねえのに…」
「はあ?何でって、ンなもん決まって…」
目を丸くして困惑するリュカに、蘇芳は盛大に顔をしかめた。だが次の瞬間には、何かを思案する様子で明後日の方向に視線を彷徨わせた。
「…アレだよ、アレ。手本だ」
「てほん?」
「俺をその気にさせたいなら、あれくらいはやってもらわねえとな。あんなママゴトみてえなキスで欲情はできそうにねえわ」
「!うっせー!バーカバーカ!」
リュカは猿さながらに顔を紅潮させて殴りかかった。乏しい語彙力で悪態を吐く少年に、蘇芳はまた腹を抱えて爆笑したのだった。
翌朝、朝食を食べ終えたリュカは、当然のように座椅子でくつろぐ蘇芳に声をかけた。しょっちゅう入り浸るものだから、少年もすっかり慣れた。赤鬼がふんぞり返っていようとも、何とも思わない。
「ああ、昨日のうちにな。俺が途中で抜けても何ら問題ねえような、元々大した戦じゃなかった」
「ふーん」
気のない返事だったが、リュカは内心安堵していた。昨日のことがあってから、一人で部屋でいるのが少し怖いと感じていた。蘇芳でもセキシでも、誰かが傍にいるだけで安心する。
「リュカ、昨日仮面の奴を一人倒したらしいじゃねえか。九鬼丸に聞いたぞ」
「あ…うん」
「何だよ。嬉しくねえのか?」
浮かない表情のリュカに、にやついた顔から一転、蘇芳は怪訝そうに片眉を跳ね上げる。
「そんなの、わかんねえよ。俺、無我夢中だったもん。絶対捕まりたくない、とにかく逃げなきゃって、頭の中そればっかで。仮面の奴が動かなくなって初めて、殺したかもしれないって思って急に怖くなった。気絶してるだけだってすぐに分かったけど…」
少年は座卓の上で両手を合わせた。何だか落ち着かなくて、手遊びをする。
「それに、あんだけいたのに倒せたのはたった一人で、無様に逃げ回ってただけだし。結局誰かに守ってもらうしかない、自分の無力さを思い知らされただけだ。みっともないだけで、ちっとも嬉しくなんかない」
内心ひそかに思っていたことを言葉にすると、改めて自分がどれほど弱いのか、現実を突きつけられる気がした。声がどんどん刺々しいものに変わっていくのが分かる。そんなつもりは毛頭ないのに、まるで蘇芳を責めているかのようで、そんな自分にも嫌気が差す。顔を上げられなくて、リュカはじっと己の手を見つめていた。
「けど、暴走しなかっただろ」
「え?」
思いがけない言葉に、少年は顔を上げた。赤鬼は彼の発言に気分を害した様子もなく、けろりとしている。
「お前は多勢に無勢で襲われて、山の中まで執拗に追われて、背中も刺された。ステラの餓鬼一人にやられた時よりも危険な状況だったってのに、正気のまま冷静に行動した。リュカ、お前、暴走しなかったんだぞ。誰も殺してねえ。どこがみっともねえんだよ」
「っでも…!」
「そりゃ強えにこしたことはねえよ。異形の力に頼らず、一人で全員蹴散らせるんなら、願ったり叶ったりだ。けど、俺もセキシもそこまで期待してねえ」
「…っ」
面と向かって期待してないと言われ、明らかに傷ついた様子でリュカは顔を歪めた。
確かに自分には無理だ。己も何らかの異形とは言われているが、抜きんでた能力など何もない。身体能力だって、下等生物である人間の平均的なものだ。蘇芳とセキシに稽古をつけてもらっているのに、何も出来ずにせいぜい逃げ回るだけで精一杯。それも、沙楼羅がくれた御守りがあったからこそ。御守りがなくて丸腰だったら、自分もきっと仮面達と同様に異形に弄ばれ、喰われていた。何一つ自分の力ではない。誰かの助けが無ければ、自分一人では何もできない。
事実なだけに反論の余地もないが、悔しくてたまらない。自然と視線が下に向かう。溢れそうになる涙を、唇を噛んでこらえた。
「バァカ」
「っい゛」
額に突然鋭い痛みが走って、少年は慌てて両手で押さえた。顔を上げれば、先程より距離を詰めてきた蘇芳がむすっとした顔をしていた。目の前にある指に、どうやら額を弾かれたのだと判断する。
「勘違いすんなよ?期待してない、ってのはリュカに対してじゃねえ。出来なくて当然って思ってるからだ。お前はテル・メルで戦争には無縁の世界で生きてきた。なのに、稽古をたかだか1ヵ月したくらいで、いきなり大人数を相手に互角に戦って当然、なんざ微塵も思ってねえんだよ。むしろあの人数相手に逃げられただけでも、俺らの期待以上だ」
「…でも、背中に暗器受けちゃったし…」
「沙楼羅に聞いたが、背中を刺されたのも話をしていて気を取られたからだろ?気を取られてなきゃ、無傷でいられた可能性が高い。リュカ、お前はよくやった。自分のこと、そんなに卑下すんな」
優しく頭を撫でられて、鼻の奥がツンとする。褒められて嬉しいが、やはり悔しさが先立つ。何もできない無力な自分に腹が立ってしょうがない。
喉を絞められているかのように苦しい。声が震えるのが分かったが、リュカは言葉を絞り出した。
「…でも、俺、もっと何とかしたかった…!ただ逃げ回るだけじゃなくて、自分で戦えるようになりたい…っ!守られるだけなんて嫌だ!俺も誰かを守れるようになりたい…!」
「なら、稽古頑張るしかねえ。けど、すぐに結果を求めるな。上手く立ち回れるようになるには、どうしても時間がかかる。思うように出来なくても、それはお前が人間だからとか異形の力が現れてないからだとかは関係ねえ。戦うことに関して、お前はまだ赤子だ。俺でも戦場に出たのは三十を超えてからだ。焦るな。いいな?」
なかば脅迫的に同意を求められる。鋭い光をたたえた瞳をじっと見据えて、リュカは静かに頷いた。すると蘇芳はふと柔らかな笑みを浮かべた。ただでさえ今にも泣きそうなのを必死で我慢しているのに、頬に触れる手のひらの温もりに邪魔されてしまう。
努力の甲斐もなく、涙が一粒落下する。一度流れ出したら、もう抑えがきかなかった。次々に大粒の涙が零れ落ちていく。手の甲で拭うも、決壊した川のように次々にあふれて止まらない。
「おい、擦るな。腫れるぞ」
「…でも、止まらな、……っ!?」
目を擦るのを咎められたかと思えば、腕を掴まれて引っ張られる。強い力に抗えず、蘇芳に抱きとめられる。
「止めなくていいだろ。泣きたかったら泣け。泣くことは弱さの証明じゃねえ」
ぽんぽんと優しく背中を叩かれて、リュカの涙腺は完全に決壊した。蘇芳の肩に顔を埋め、彼の服をぎゅうと掴む。
温もりに包まれ、赤鬼の着物がびしょびしょになるまでひとしきり泣いて、リュカは小さく息を吐いた。
「…あいつら、俺のことを連れて行きたがってるみたいだった…。何でだろ…」
「さあな。目的は不明だが、大方俺に恨みを持ってたとかだろ。で、お前が俺の弱点になると思って攫おうとしたんじゃねえか」
「……そっか」
リュカは鼻をすすりながら、ぽつりと呟く。
自分なんか攫おうとも蘇芳の弱点になりうるはずがないのに。何せ自分は暇潰しの存在で仮初の嫁なのだ。少年は内心そう自嘲した。
「あのさ、…稽古、今日から…」
「あ?なわけないだろ。リュカの当面の仕事は静養だ」
「けど、じっとしてるの、時間を無駄にしてる気がすんだよ…。それに俺、もう元気だし」
「お前なあ…」
「嘘じゃない。本当」
蘇芳が呆れた表情を浮かべてこちらを見る。強がって無理をしていると思っているのだろう。リュカはそんな赤鬼の瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。
「蘇芳とのセックスに付き合えたら、信じてくれる?嘘じゃねえって」
少年の発言に赤鬼の目が大きく見開かれる。リュカはしばらく返答を待ったが、よほど驚いたのか、蘇芳は固まったままだ。
何だよ。蘇芳が昨日、元気なら自分の相手しろって言ったんだろ。なのに俺が言ったからって、そんなに驚くことかよ。リュカは少しだけむっとした。
じれったくなった少年は自ら顔を寄せ、赤鬼に口づけた。唇を軽く合わせると、柔らかな弾力を感じる。下唇を食めば、びくりと蘇芳の体が跳ねた。舌を差し込もうとすると、肩を掴まれて引き離されてしまった。
「待て待て待て。何だこれは」
「何って…キスだけど」
「それは分かってるっつの。お前が俺にキスするとか、どういうつもりかって聞いてんだよ」
「蘇芳、セックスする時、いっつもキスしてくるじゃん」
「…俺、まだ承諾してねえぞ」
「だから強制的に始めようかなーって。キスしてたらその気になるかと思ってさ」
平然と言ってのけるリュカに、蘇芳は大きく溜息を吐きながら脱力した。頭痛がするとばかりに、俯いたまま額に手をあてる赤鬼の顔を覗きこむ。
「…お前…マジ、凶悪…」
「何?よく聞こえない」
うまく聞き取れなかったリュカは、蘇芳の口元にぐっと耳を寄せた。指の隙間から一瞥され、少年は眉根を寄せた。何かを訴えかける視線に、何だよと言い返す。
「…今日はしねえからな」
「はあーっ!?何でだよ!」
「焦んなって言ったばかりだろうが。俺の言うことは、リュカの小せえ脳味噌には難しかったか?」
明らかな挑発とは分かっていても、やはり腹が立った。言葉にできない音が口から漏れる。
「お前実は猿の異形なんじゃねえの?今の鳴き声、猿にそっくり。ああ、でもリュカと同類扱いしたら猿に悪いな」
「うるせーバカ!バカ蘇芳!」
「お前、馬鹿しか言ってねえじゃん。悪口のレパートリー、貧相かよ」
声を上げてゲラゲラと笑う赤鬼に、少年は顔を真っ赤にさせた。怒りで体が震えている。もはや言い返す言葉すら出てこないのか、ただひたすらに蘇芳の腹を拳で殴りつけた。だが鉄板のように硬い腹は全くと言っていいほどにダメージを受けていないようで、尚も赤鬼は笑い続けている。
「…でもマジな話、せめて一週間は大人しくしてくれ。でなきゃセキシがぶっ倒れるぞ。あいつ、リュカのことが可愛いあまり、心配でたまらねえんだと。リュカだって、セキシが悲しむ姿見たくねえだろ?」
蘇芳は目尻に浮かんだ涙を手の甲で拭った。リュカはまだ頭に来ていたものの、セキシの名を出されてたじろいだ。セキシが眉尻を垂らして、悲しそうに微笑む姿が容易に脳裏に浮かぶ。
リュカもあの優しい青年のことが大好きだ。確かに彼を悲しませるようなことはしたくない。
少年は赤鬼のことをずるいと思った。彼のことを引き合いに出されては、もはや文句など言えなかった。俯き、唇を尖らせながらも小さく頷いて応える。
蘇芳の笑みが柔らかくなり、慰めるように頭を撫でられる。その指が顎へと下りて、顔を上げさせられた。と思えば唇を塞がれた。先程リュカがしたように下唇を食み、口内に舌を差し入れられる。
「ん!?んン…っ」
傍若無人な舌が我が物顔で口内を隅々まで舐める。それを舌で押し返そうとすると、逆に絡め取られてしまう。
「…ぁふ、…んう、ぅ…っ!」
後頭部と腰に手を回され、逃れられるどころか口づけは一層濃厚なものになってしまう。注ぎこまれた唾液が溢れそうになり、少年は慌ててそれを嚥下した。
舌に軽く歯を立てられると、下腹が痺れる感覚がする。その度にリュカの体は小さく震えていた。
長い口づけが終わると、互いの唇を唾液が繋いだ。全力疾走した後のように切れる息を整えながら、リュカは唾液の糸をぼんやりと見ていた。再び唇を押しつけられ、糸は切れた。
「な、何でキスすんだよ…?口だって封じられてないし、セックスもしねえのに…」
「はあ?何でって、ンなもん決まって…」
目を丸くして困惑するリュカに、蘇芳は盛大に顔をしかめた。だが次の瞬間には、何かを思案する様子で明後日の方向に視線を彷徨わせた。
「…アレだよ、アレ。手本だ」
「てほん?」
「俺をその気にさせたいなら、あれくらいはやってもらわねえとな。あんなママゴトみてえなキスで欲情はできそうにねえわ」
「!うっせー!バーカバーカ!」
リュカは猿さながらに顔を紅潮させて殴りかかった。乏しい語彙力で悪態を吐く少年に、蘇芳はまた腹を抱えて爆笑したのだった。
0
お気に入りに追加
252
あなたにおすすめの小説
【完結】別れ……ますよね?
325号室の住人
BL
☆全3話、完結済
僕の恋人は、テレビドラマに数多く出演する俳優を生業としている。
ある朝、テレビから流れてきたニュースに、僕は恋人との別れを決意した。
つかぬことをお伺いいたしますが、私はお飾りの妻ですよね?
蓮
恋愛
少しネガティブな天然鈍感辺境伯令嬢と目つきが悪く恋愛に関してはポンコツコミュ障公爵令息のコミュニケーションエラー必至の爆笑(?)すれ違いラブコメ!
ランツベルク辺境伯令嬢ローザリンデは優秀な兄弟姉妹に囲まれて少し自信を持てずにいた。そんなローザリンデを夜会でエスコートしたいと申し出たのはオルデンブルク公爵令息ルートヴィヒ。そして複数回のエスコートを経て、ルートヴィヒとの結婚が決まるローザリンデ。しかし、ルートヴィヒには身分違いだが恋仲の女性がいる噂をローザリンデは知っていた。
エーベルシュタイン女男爵であるハイデマリー。彼女こそ、ルートヴィヒの恋人である。しかし上級貴族と下級貴族の結婚は許されていない上、ハイデマリーは既婚者である。
ローザリンデは自分がお飾りの妻だと理解した。その上でルートヴィヒとの結婚を受け入れる。ランツベルク家としても、筆頭公爵家であるオルデンブルク家と繋がりを持てることは有益なのだ。
しかし結婚後、ルートヴィヒの様子が明らかにおかしい。ローザリンデはルートヴィヒからお菓子、花、アクセサリー、更にはドレスまでことあるごとにプレゼントされる。プレゼントの量はどんどん増える。流石にこれはおかしいと思ったローザリンデはある日の夜会で聞いてみる。
「つかぬことをお伺いいたしますが、私はお飾りの妻ですよね?」
するとルートヴィヒからは予想外の返事があった。
小説家になろう、カクヨムにも投稿しています。
王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る
家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。
しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。
仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。
そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。
淫愛家族
箕田 悠
BL
婿養子として篠山家で生活している睦紀は、結婚一年目にして妻との不仲を悩んでいた。
事あるごとに身の丈に合わない結婚かもしれないと考える睦紀だったが、以前から親交があった義父の俊政と義兄の春馬とは良好な関係を築いていた。
二人から向けられる優しさは心地よく、迷惑をかけたくないという思いから、睦紀は妻と向き合うことを決意する。
だが、同僚から渡された風俗店のカードを返し忘れてしまったことで、正しい三人の関係性が次第に壊れていく――
白い結婚はそちらが言い出したことですわ
来住野つかさ
恋愛
サリーは怒っていた。今日は幼馴染で喧嘩ばかりのスコットとの結婚式だったが、あろうことかバーティでスコットの友人たちが「白い結婚にするって言ってたよな?」「奥さんのこと色気ないとかさ」と騒ぎながら話している。スコットがその気なら喧嘩買うわよ! 白い結婚上等よ! 許せん! これから舌戦だ!!
なんども濡れ衣で責められるので、いい加減諦めて崖から身を投げてみた
下菊みこと
恋愛
悪役令嬢の最後の抵抗は吉と出るか凶と出るか。
ご都合主義のハッピーエンドのSSです。
でも周りは全くハッピーじゃないです。
小説家になろう様でも投稿しています。
ご落胤じゃありませんから!
実川えむ
恋愛
レイ・マイアール、十六歳。
黒い三つ編みの髪に、長い前髪。
その下には、黒ぶちのメガネと、それに隠れるようにあるのは、金色の瞳。
母さまが亡くなってから、母さまの親友のおじさんのところに世話になっているけれど。
最近急に、周りが騒々しくなってきた。
え? 父親が国王!? ありえないからっ!
*別名義で書いてた作品を、設定を変えて校正しなおしております。
*不定期更新
*カクヨム・魔法のiらんどでも掲載中
公爵家の五男坊はあきらめない
三矢由巳
BL
ローテンエルデ王国のレームブルック公爵の妾腹の五男グスタフは公爵領で領民と交流し、気ままに日々を過ごしていた。
生母と生き別れ、父に放任されて育った彼は誰にも期待なんかしない、将来のことはあきらめていると乳兄弟のエルンストに語っていた。
冬至の祭の夜に暴漢に襲われ二人の運命は急変する。
負傷し意識のないエルンストの枕元でグスタフは叫ぶ。
「俺はおまえなしでは生きていけないんだ」
都では次の王位をめぐる政争が繰り広げられていた。
知らぬ間に巻き込まれていたことを知るグスタフ。
生き延びるため、グスタフはエルンストとともに都へ向かう。
あきらめたら待つのは死のみ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる