見習い薬師は臆病者を抱いて眠る

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31. 奮い立つ

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 順調に回復し、ティオは自分の足で動き回ることができるようになった。裂傷の酷かった部分は完治していないものの、自分で食事を取ったり顔を洗ったりと最低限のことなら問題なくできるようになっていた。
 イェゼロとソルダートは変わらず毎日顔を出してくれている。ただ、最近は部屋に入り浸りすぎだと追い返すようにしていた。流石に彼らの業務に支障をきたしているだろうと思ってのことだ。全面に不満を押し出す二人に、ティオは笑いを堪えることができなかった。
 天気の良い日には、窓際に椅子を置いて読書をして過ごした。本当ならイェゼロの薬務室でせめて片付けでもして体を動かしたいのだが、彼に療養してろと怒られてしまった。落ち着かないのなら、本でも読んで知識をつけろ、と。
 あの日以来、イェゼロは森のことについて一切言及しない。森で群生している珍しい植物の話を自分からしようとしても、話を逸らされるか、聞こえなかったと言われる始末で、悲しくなってしまう。胸にくすぶるもやもやを抱えたまま、ティオは口を閉じるしかなかった。
 ページをめくる手がふと止まる。ティオは本から視線を上げ、窓の外を見た。遠くに深淵の森が見える。
 ことあるごとに、ティオは森を眺めた。無意識に視線が、心が、意識が、体が森の見える窓へと向かってしまう。この間は朝食を食べた後、ソルダートが昼食を運んでくれるまでの間、ずっと森を見ていた。それも、そこまで時間が経っているとすら気づいていなかったのだ。
 イェゼロに内緒でソルダートから借りた双眼鏡を手に取り、森の入り口に焦点を当てる。今までと同じく、入り口は閉じられたままで、口から無意識に落胆のため息が漏れる。
 何を期待しているのか自分でもわからない。入り口が開くことなのか、ザクセンとタータの姿なのか。

「ん?」

 入り口から何かが飛び出したように見えて、ティオは目を擦った。目に入ったごみのせいかと思い、もう一度双眼鏡をのぞきこむ。
 見間違いではなかった。一瞬だけ森の入り口が開き、中から出てきた茶色い毛玉が屋敷の方に向かって走っている。

「…っ!」

 ティオは思わず立ち上がる。あまりの勢いの良さに、本が膝から滑り落ち、腰かけていた椅子が大きな音を立てて倒れる。
 まさか、そんな。
 信じられない思いを抱きつつ、気がつけばティオは走り出していた。イェゼロから安静に、と口を酸っぱくして言われていたことも忘れて、部屋を出る。廊下を駆け抜けながら、窓の外の毛玉を視界に捉える。鬼気迫るティオの様子に、第六階層の住人は何事かと思いながらも彼に道を譲る。

「ティオ…!?」

 通り過ぎる住人の顔ぶれの中には、ソルダートがいた。大きな声で名を呼ぶも、ティオの耳には入らない。彼が腕に巻いた包帯から血が滲んでいるのを目にしたソルダートは、ティオの後を追いかける。
 一階へと降り、玄関を抜けたティオは足を止め、きょろきょろと周囲に視線を這わせた。汗が頬を伝う。毛玉の軌跡を目で追う限り、場所はこの近くで間違いないはずだ。
 ある一角が騒がしいことに気がつき、ティオは急いで足を向けた。

「おやおや、こんなところに魔獣が迷いこんでいるぞ!警備は何をやってる!」
「全くだ、頭の中にあるのは筋肉のことだけか、無能共めっ」
「はなせっ…はなせよ…!」

 ドゥレンとその取り巻き達だ。いつも通り他者を見下す発言をしている。その彼が首根っこを掴んで掲げているもの。茶色いふわふわの毛をまとった小さい狸の、タータだった。タータは短い脚をぶんぶんと振り回して抵抗しているが、効果の程は全く見られない。

「しゃ、喋った…!?」
「ドゥレン、幼獣のナリをしているが、相当に危険な種かもしれない!」
「第六階層の平穏のために、始末を!」

 。物騒な言葉に、怒りで頭に血が上るのがわかった。胃液がぐつぐつと煮立っているかのように、腹が熱い。

「ドゥレン、手を離せッ!」
「ティオっ!」

 恋焦がれた相手、それも最後に見たときは血塗れでぐったりとしていた相手が目を開けて立っているのを見て、タータの目はみるみるうちに涙で覆われた。
 だが、ティオはその涙をドゥレンに首根っこを掴まれた恐怖からきたものだと勘違いした。彼の中で激しい怒りが渦巻く。

「おや、ティオ。この可愛らしい魔獣は君の友達だったのか。こいつはもしかしてもしかすると深淵の森に住む魔獣かい?」
「森の中から連れてきたんじゃないだろうな!?」
「はっ、ドゥレン、もしかしたらこの穢れた罪人は他にも魔獣を手引きしているかもしれない!でなければ、こんな役立たずが探索隊とはぐれて一人、数ヶ月も森の中で生き永らえるはずがない!」
「成る程、命を助けてもらうかわりに第六階層の住人の命を捧げようという訳か。それならば納得がいく。瀕死の重傷で戻ってきたと聞いたが、おかしいとは思っていたのだ。深い傷を負ったタイミングで森の入り口が開いたなどと!」
「今にも捕縛して拷問にかけるべきだ!」

 いわれも無い中傷に、ティオは自分の堪忍袋の緒が切れる音をはっきりと耳にした。叫びながらドゥレンに突進し、彼を地面に押し倒す。タータを捕らえていた手が離れ、子狸は地面に着地した。ティオはドゥレンに馬乗りになると、胸ぐらを掴んで、彼の横っ面を拳で殴りつけた。
 ティオのまさかの行動に、タータだけでなくドゥレン達も驚いた。これまでティオは、自分たちが何を言っても言い返さずに逃げ去るだけだった。だが今の彼は見たこともない形相で暴力を奮っている。衝撃のあまり、誰も身動きが取れなかった。

「ティオ!ティオ、止めろ!」

 なんだなんだと集まってくる野次馬を掻き分けて、ソルダートはティオが振りかぶる腕を掴んだ。脇の下から腕を通して羽交い締めにし、ドゥレンから引き離す。

「ティオ、落ち着け!どうしたんだ一体…っ!?」
「よくも…タータを怖がらせて、泣かせたな…っ。許さない…っ!」

 背後から腕を押さえつけられても、ティオはソルダートの腕から逃れようと、なおも暴れた。見開かれた目は完全に血走っている。

「ティオ、ちがうの!オイラ、怖くて泣いたんじゃないよ。ティオに会えたから、うれしくて泣いたんだよっ」
「え…?」

 ドゥレン達との間に、子狸が躍り出た。タータの言葉に、ティオの全身から力が抜けていく。憑き物が落ちたかのように呆然とするティオに、ドゥレン達は悲鳴を上げながら逃げて行った。

「お、俺…てっきり…」
「とりあえず、部屋に戻ろう。腕、血が滲んでる」
「あ…本当だ。全然気づかなかった…」
「タータくんも、ついておいで」

 ソルダートはティオを横抱きにすると、野次馬の住人達に何でもない、お騒がせしてすみません、と声をかけながら歩き出した。その後ろを小さな狸が短い脚でとことことついていく。
 部屋に戻ったティオは、イェゼロを呼ぼうとしたソルダートを引き止め、包帯を替えてもらった。その間、タータは扉の近くで大人しく座って待っている。

「タータ、もういいよ。おいで」

 手招きされたタータは一目散に駆け寄り、ティオに飛びついた。青年は子狸を受け止め、柔らかな毛並みに頬擦りする。

「タータ、良かった…無事だったんだね」

 会いたくてたまらなかったティオに優しく体を撫でられ、彼の匂いに包まれ、タータの涙腺はついに決壊した。こらえきれない感情が堰を切ったようにあふれ出す。タータは人型になると、ティオの首に両腕を回して、ぎゅうと抱きついた。

「タータくん、ティオはまだ本調子じゃないから…」

 見るからに力をこめてしがみつくタータを、ソルダートはなだめようとした。先程も血が包帯に滲んでいたというのに、そんなに力をこめてしまったら、また傷が開いてしまう。

「ソルダート、大丈夫。大丈夫だから、もう少し好きにさせてあげて」

 声を潜めたティオはソルダートを手で制した。泣きじゃくるタータの頭を優しく撫でる。その顔は慈愛に満ちていて、ソルダートは何も言えなくなってしまった。

「タータ、どうやってここに…森の入り口は閉まってたのに」
「?オイラ、森の入り口開けるよ…?」
「え?」

 タータのまさかの言葉に、ティオとソルダートは驚きに目を瞬いた。

「オイラ…ティオを迎えにきたの…」
「迎え?」

 ようやく息をついたタータの言葉を、ティオはおうむ返しに口にする。下睫毛に大きな涙の粒をくっつけて、子供は頷いた。目と鼻は真っ赤に染まり、ひっくひっくと小さな体を震わせている。

「ティオ、帰ってきてえ…。オイラ、もうティオがいないと生きていけない…。ど、洞窟の中もすごく静かなの…。父ちゃんもね、…ずっと元気ないの…。ご飯もあんまり食べないし、ずうっとねてるんだよ…っ。父ちゃんも、ティオに、…会いたがってるの…っ!」
「ザクセンさん、も…」

 ティオの脳裏に、顔に赤い隈取りのある大狐の姿浮かぶ。大きく悠然とした、白金の毛並みの美しい魔獣。
 ティオはただ、ぎゅっとタータを抱きしめた。
 泣き疲れた子狸をベッドに寝かせると、ティオとソルダートは部屋の外に出た。

「ソルダート、タータのこと、師匠には内緒にしてくれないかな」
「ティオ、それは…」
「今は気が動転してるから無理だけど、明日には森に帰すから。色んな人にタータの姿を見られちゃったし、どっちみちここには置いておけないし。今日だけ、二人きりにして欲しい」

 青年に懇願され、ソルダートは承諾するしかなかった。ティオが今にも泣き出しそうだったからだ。彼にとっても辛い決断なのだろう、と察する。

「分かった。いつもイェゼロ様が持ってきてる薬も、俺が持ってくるようにするよ。…勘ぐられるかもしれないけど、なんとかごまかしてみる」
「ありがとう、ソルダート!」

 ソルダートの協力に、ティオは安堵したように満面の笑みを浮かべた。感激のあまり、ソルダートに抱きつく。耳元で何度もありがとうと繰り返すティオの背中を、友人の男は優しく叩いた。
 その夜、暗闇の中で動く大小の影が二つあった。周囲を警戒し、足音を極力立てずに、だが急いで廊下を駆け抜けていく。
 ティオとタータだった。ティオの肩からは、薬草や包帯の詰まったカバンがさげられている。
 一人と一匹は、巡回の警備兵の目をかいくぐって、騎獣舎へとやってきた。眠っていた騎獣を起こし、餌をあげて大人しくさせる。柵を外して手綱に手をかけたところで、騎獣舎の照明がついた。急に強い光に晒され、思わず目を細めてしまう。目の上に手をかざしながら、周囲を見回す。

「こんな夜更けにどこに行く気だ、馬鹿弟子」

 騎獣舎の入り口に立っていたのは、イェゼロだった。その後ろには、いたたまれなさそうに視線を下に落としているソルダートがいた。
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