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28.目覚め

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 ティオは、水面の上に立っていた。
 辺り一面、見渡す限り水面が続き、空は塗料をぶちまけたかのように真っ白だ。誰かいないか声をかけてみるも、己の声が反響するだけで何も反応はない。

『…嘘、…?目を、開け…。連れて……約束した…』

 やがて、どこかから誰かの声が聞こえてきた。周囲を見渡すも、人影はない。それに反響が酷く、内容が断片的にしかわからない。ただ、声が泣きそうに震えていることだけがはっきりと分かった。
 ティオは言い知れぬ焦燥に駆られて、水面の上を走りだした。何としても声の主を見つけて、安心させなければという思いで胸がいっぱいになる。
 そのうち、別の声も混ざってきた。幾人もの人が一斉に喋り、より内容が分からなくなってしまう。子供の泣き声まで聞こえてきて、音の奔流にティオの頭はズキズキと痛んだ。たまらず、その場にしゃがみこみ、耳を塞ぐ。
 ふいに頭を撫でられた気がした。顔を上げると目の前に人の形をした黒いもやが、同じくしゃがみこんでいる。誰と問いかける間もなく、人型の顔を形どったもやが近づいてくる。得体が知れないというのに、ティオは恐怖や嫌悪感を全く感じなかった。靄の動向をじっと見つめる。

『…死ぬな、ティオ』

 靄が唇に触れた瞬間、反響が消えて、ただ一つの言葉だけが明瞭に耳に届いた。

「待って!行かないで…っ!」

 霧散する靄を捕まえようと手を伸ばすも、ただ空を切るだけだ。追いかけようと足に力を入れた瞬間、ティオの体は水中へと沈んだ。先程とは違い、水の中は暗い闇が広がっていた。容赦なく水が口の中へと入っていく。光のように見える地上を目指そうとしても、枷でもつけられているかのように手足が動かず、ティオは溺れていくだけだった。
 そこでティオは目を覚ました。真っ先に視界に入った天井は、見慣れたものだった。だが、洞窟内ではないことに違和感を感じ、ティオは体を起こそうとした。腹筋に力を入れた途端に激痛が走る。仕方なく、ティオは顔だけを動かして周囲を見渡した。
 見慣れた間取りに家具の配置。まぎれもなく自分の部屋だった。少し前までは毎日過ごしていた部屋だというのに、なぜだか落ち着かない。自分の居場所ではないような、妙な気分だ。
 まるで本当に水中にいたかのように、全身が汗でびっしょりと濡れている。あれは、夢だったのだろうか。それにしてはやけに生々しかった。唇に何か柔らかなものが触れた、その感覚すらありありと覚えていると言うのに。
 重たく感じる腕を可能な範囲で動かして、体をまさぐる。全身包帯だらけだ。無理もない。四つ目の狼と戦ったのだ。ある部分から記憶がぷつりと途絶えている。狼はどうなったのだろう。ザクセンとタータは無事だろうか。…そもそも自分はどうやって戻ってきたのだろう。森の入り口はずっと閉じていたはずだが。そうでなければ、ザクセンがさっさと自分を洞窟から追い出していたはずだ。
 ドアが開く音に、ティオは考えるのを中断させられる。入室してきたのは、ソルダートだった。彼の目覚めに気づいたソルダートが驚きに目を見開く。ティオが声をかけるよりも先に、兵士見習いは彼の元へと駆け寄った。

「ティオ…、ティオ…っ!良かった、目を覚ましてくれた…っ」

 寝そべった状態で、逞しい体にぎゅうと抱きしめられる。力加減を知らない抱擁に、傷を負ったところが痛む。だが、友人の声が震えているのがわかって、ティオものどの奥がぎゅっと締まるのを感じていた。

「…っと、こうしちゃいられない。早くイェゼロ様に報告しないと!」

 急に体を起こしたソルダートはそう言い残すと、あっという間に部屋を出て行った。まるで嵐のような友人のいつも通りの姿が懐かしくて、自然と笑い声が漏れてしまう。
 幾ばくも経たない内に、イェゼロがソルダートを伴って、勢いよく部屋に入ってきた。

「ティオ…!」

 信じられないものでも見たかのように、イェゼロは呆然と停止している。あんぐりと開いた唇がわななき、きゅっと引き結ばれる。目に光るものが浮かんでいる気がする。
 見たことのない師匠の表情に、ティオの涙腺がとうとう決壊した。目の奥が焼ける程に熱くなり、視界が見る見るうちに涙で歪む。嗚咽をこらえようとするも胸が苦しくて、噛み締めた唇の隙間から声がこぼれ落ちてしまう。
 なぜこんなにも泣いてしまうのか、自分でもわからない。ただ、イェゼロの顔を見た瞬間、心の奥にしまいこんでいた様々な感情が洪水のようにどっと湧き出て止まらない。

「…ったく、馬鹿弟子が。どんだけ心配したと思ってる…っ!」

 後頭部に手を通されて、頭を胸に強く押しつけられる。言葉は乱暴だが、声には嬉しさがにじんでいた。頭を撫でる手つきもとても優しい。
 イェゼロの腕の中はとても温かい。ティオはまるで赤ん坊のように声を上げて泣いた。

「…落ち着いたか、泣き虫ティオ」

 ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべる師匠を、ティオは腫れぼったい目で睨みつけながらも頷いた。ひとしきり泣いてすっきりすると、途端にとんでもない羞恥に見舞われる。

「でも、良かった。あれだけ泣けるってことは、それだけ元気があるってことですよね、イェゼロ様」

 ソルダートは、大げさに息を大きく吐いて胸をなでおろす。さりげなく話を逸らしてくれたのがわかって、うれしくなる。

「まーな。ほら、口開けろ」

 上体を起こせるように、重ねて積んだ枕に背中を預けたティオは、言われたとおりに口を開けた。茶色に澄んだ液体が乗ったスプーンが口の中に入ってくる。具がなくなるまで煮こんで、丁寧に漉した薬膳スープだ。温かなスープがのどを通り、全身に染みわたっていくのがわかる。

「お、完食したな。上出来上出来」

 イェゼロは感心した様子でティオの頭を撫でた。自分でも驚きだが、無性にお腹がすいていたらしい。一口飲んで食欲に火が点き、あれよあれよと言う間に完食してしまっていた。

「ティオ、一週間も意識がなかったんだ。そりゃ、腹ペコだよな」

 食べ終わった食器を片すソルダートは相変わらず笑みを浮かべている。
 屈託もない笑みに、自分の帰還と目覚めを心から喜んでくれているのが痛いほどに伝わってきて、照れくさい。心がむず痒い、という謎の現象に見舞われるティオだったが、ソルダートの放った言葉に目を丸くした。

「え…っ、一週間も!?」
「そうだぞ。一週間前のお前、それはもう酷い状態だったんだからな。いくら俺の腕が超一流だからって、流石に肝冷えたっつの」

 額をこつりと指で小突かれる。

「…師匠、俺、どうやって戻って…」
「あー、いくらなんでも無駄話をしすぎたな。仮にもティオはさっき目覚めたばかりなんだし。さて、ティオくん。腹も満たしたことだし、楽しい楽しい薬の時間だ」

 イェゼロは明るい声で、注ぎ口のついた瓶を目の前に掲げて見せる。あからさまに話を逸らしているのがわかったが、答える気が更々ないらしいイェゼロの様子に、ティオも口をつぐむしかなかった。

「イェゼロ様特製の煎じ薬だ。効果は申し分なし。不味さも折り紙つきだ」

 粘り気のある深緑色の液体に、ティオは短く悲鳴を上げた。視界の端で、ソルダートが真っ青な顔で口元を押さえている。兵士やその見習いは職業柄負傷が多く、嫌と言うほど薬師による煎じ薬のお世話になっているからだ。重症であれば調合する材料が増え、さらに不味く濃度の高い薬に。軽傷であれば、あっさりとした飲み口の薬になるのだ。

「濃い~薬を少量で一気にいくか、水で薄めたのを大量に飲むか、…どうする、ティオ」

 あくどい笑みを浮かべたイェゼロに選択を迫られ、ティオは頭を悩ませた。今までは自分が煎じる方の立場だったのに、まさか自分が飲む羽目になるとは。
 完全に楽しんでいる師匠に追い詰められつつも、ティオは少量の薬を一息に飲むことに決めた。小さなカップに入れられたそれは、むわりと嫌な臭気を漂わせている。かなりためらう。だが、どっちにしろ飲まなければいけないのだ。苦しみは短い方が良い。
 ティオは覚悟を決めると、ぎゅっと目を閉じて、のどに流しこんだ。水分の少ない、ほぼペースト状のそれにえずきそうになるも、頑張って嚥下する。

「ティオ、漢らしい!」

 ソルダートの拍手と羨望の眼差しを受けつつ、ティオはカップをイェゼロに返した。すかさず持たされた水差しから水をがぶ飲みする。それでもまだ、口の中の違和感が酷い。鼻から息を吸う度に、口の中に苦味が広がる。

「よしよし、よく頑張ったな。明日から朝昼晩飲んでもらうけど、いけるよな?」

 爽やかににこりと笑う悪魔の化身に、ティオは今度こそ悲鳴をあげたのだった。
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