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26.虫の息

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周囲はだんだんと暗くなり始めていた。
 飛び出していったきり帰ってこない息子と、採取に出かけたまま戻ってくる気配のない青年が心配になり、ザクセンは洞窟から出た。鼻をひくつかせ、匂いを辿る。
 そうして彼は、地面に放置された大量の山菜や果実を見つけた。まるで誰かが落としていったかのような、不自然な状態に、大狐は首を傾げる。周囲を匂ってみれば、青年の残り香が残っている。

「洞窟に帰ろうとしていたのに、また森の中へと戻って行ったのか…?何のためだ?」

 注意深く探ってみるも、残っているのは青年の匂いだけ。獣と遭遇して逃げたようではなかった。
 何かがおかしい、とザクセンは眉間にシワを寄せた。そもそも小魔獣の気配がない。似たような感覚を、自分は知っているような気がした。
 ザクセンははっとした。何故すぐに気がつかないのか、と己を罵る。忘れもしないあの日、愛しい妻のナンナを、一族を失った日と森の雰囲気が全く同じだと言うのに。
 全身の血が恐怖で凍りつくような感覚がする。ザクセンはたまらず駆け出した。神経を研ぎ澄まし、必死で青年の匂いを追う。
 途中で青年だけでなくタータの匂いも混じり、ザクセンは停止した。二人は合流したらしかった。二人の行方をそれぞれ探す必要がなくなった。それは幸いだ。しかし、二人が四つ目の狼に遭遇していた場合、同時に青年とタータを失う可能性が出てくる。
 ザクセンは顔をしかめた。忌々しい獣の悪臭を嗅ぎつけてしまった。大狐の頭が、真っ白になる。だが、茂みの中で何かが蠢く音に、彼は我に返った。
 木の影に身を隠し、体勢を低く構える。瞬きもせず、葉を揺らす茂みに目を凝らす。
 仇敵の四つ目狼かと思ったが、飛び出してきたのは愛息子だった。

「タータ!」

 ザクセンは息子の首元を咥えて捕まえた。地面に優しく降ろすと、子狸は呆然と父親を見上げた。突然現れたザクセンの存在を認識するのに時間がかかっているらしい。
 その間にザクセンは我が子の全身に視線を這わせた。見たところ傷一つ見受けられない。大狐はひとまずほっと息を吐いた。

「タータ…一人か?」
「父ちゃん…っ!ティオ、ティオが…っ!」

 弾かれたように泣き出した我が子に、ザクセンは続きを聞かずとも状況を理解した。事態は一刻を争う。

「タータ、いいか。お前は先に洞窟に戻っていろ。周囲に危険な魔獣の気配はないが、一応用心はしてな。父も、薬師を助け出したらすぐに戻る」
「うっ、…ティオ、ティオ…!」
「薬師は、必ず生きたまま連れて帰る。…泣くな」
「うん…っ!」

 涙をこらえて力強く頷く子狸に、父親は表情を和らげる。涙に濡れた頬を舌で舐めてやる。

「お前は強い子だ、タータ。さあ、行け」

 小さなお尻を鼻先で押すと、タータはこちらを振り返ることなく一目散に洞窟の方向へと走り出す。その姿をしばし見届け、ザクセンも我が子がやってきた道を全速力で駆けた。
 どうか間に合ってくれ、と心の中で必死に祈る。
 あの日、多くを失った。諸悪の根源は四つ目の狼達だ。だが、異変に気づけなかった己にも責任はある。森は雄弁に異変を語っていたというのに。
 また、失うのか。狼によって。また、守れないのか。己のせいで。
 向かう先から血の匂いが漂ってくる。ザクセンは歯を食いしばり、全力で脚を動かした。

 *

 ティオは、汗と共に目に流れ落ちてくる血を袖で拭った。ふう、と息を吐き、目の前の魔獣を睨みつける。
 四つ目の狼の身は、ティオの周囲に張り巡らされた蔦によって拘束されていた。溶解液によって、四つのうち二つの目はただれ、棘のついた蔦が巻きついた胴体は、肉がえぐれ流血している。大きな口は上下の顎がくっつき、もはや唸り声しか漏れていない。
 負傷具合で言えば、ティオも良い勝負だった。最初に肩を噛まれたのに加えて、襲いかかられた際に迫り来る牙を腕で防御した。無数の牙が食い込んだ、肘から下の腕には穴が開いてしまっている。それから、鋭い爪がかすったことによる、頭部の裂傷に、投げ飛ばされ木に体を打ちつけられたことによる打撲。狼に比べれば、一つ一つの怪我は致命傷ではないが、応急処置をする暇がなく出血が続いている。
 だが、流した血は一滴も無駄にはなっていなかった。ティオはヴァンピアを根から分けたものを携帯していた。核に己の血を吸わせることで急速な成長を促し、簡易の結界的なものを造ったのだ。今もヴァンピアには血を供給し、狼が暴れて蔦を破壊するそばから、新たな蔦が形成されている。ヴァンピアは狼の血も養分として吸い上げているから、形成速度は並みではない。
 狼の身を拘束できたのは大きい。おかげで、インドラの胃袋に包んだ溶解液を投げるのに、的を外さずに済む。大きく口を開けた瞬間に溶解液を投げこめたおかげで、狼の舌を溶かし、言葉を発せないよう、強力な顎による攻撃を封じることが出来た。逆上し、言葉を失った狼は、もはやただの獣だ。
 だが、手持ちの道具はほぼ使い切ってしまった。残っているのは、揮発油をインドラの胃袋に包んだものだけだ。着火剤はあるにはあるが、この距離で揮発油を投げつけて着火すれば、自分も巻き込まれる。かと言って他に有効な手立てはない。
 ヴァンピアの締めつけに負けて狼が力尽きるのが先か、ヴァンピアがティオの血を吸い尽くすのが先か。それとも火に呑まれて、共に灰となるか。

「…自分の体が燃えるのは嫌だな…」

 全身に鈍い痛みが走る。指一本たりとも動かしたくない。揮発油を投げる気力さえない。
 既に許容量を超えた痛みを感じているのだ。この身を焦がして更なる痛い思いはしたくない。

「ねえ、…もう諦めない?どうあがいたって、その蔦は外せないよ」

 ティオはそう声をかけるも、狼は唸り声をあげる。残った二つの目は血走り、殺意に満ちている。全く戦意を喪失した様子の無い獣に、ティオは小さく笑った。笑う度に、全身に激痛が走る。

「やっぱり、諦めないよね。でも俺も、見逃してあげられない。ザクセンさんとタータを守ってあげたいから。二人に、これ以上苦しんで欲しくないから。譲れない。…悪いけど、道連れは僕で我慢して欲しい」

 ティオは苦笑いを浮かべる。名前を口に出したことで、彼の脳裏にザクセンとタータの顔が浮かぶ。ついで、イェゼロとソルダートの顔も。

「…もう、会えないのか…」

 もう一度、皆の顔を見たかった。出来れば、皆をこの腕で抱きしめたい。でもそれはもう叶わぬ願いだと、ティオは悟っていた。
 頭が重い。目もかすみ始めた。妙に寒気がし、頭がまともに回転しなくなっている。
 師匠、不出来な弟子でごめんなさい。ソルダート、告白した俺を変わらず友人として接してくれてありがとう。タータは…、泣いてしまうかな。でも、彼の命を守れて本当に良かった。ザクセンさん、いつも怒らせてばかりでごめん。でも、これでもう苦しまずに済むよ。少しずつ心を開いてくれて、とても嬉しかった。
 悪くない最期だと、ティオは思った。役立たずだと思っていた自分が、誰かを守ることができた。それだけで自分の人生は意味があるものだと思えた。
 まぶたの重さに耐えきれず閉じられた瞳からは、一筋の涙が流れていた。
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