3 / 9
2章 予感
しおりを挟む
2章 予感
四月の夕方は思ったよりも冷える。何か上着を持ってくれば良かったと私は後悔した。
校門を出てすぐの桜の木は完全に散ってしまっていて、何だかちょっと寂しい。満開の時期は春休みで、学校に通っていなかったので、校門前の満開の桜は見ていない。白みがかったピンクの桜と青空とのコントラストを想像する。想像の中の満開の桜の木は風でゆらゆらと揺れながらも、しっかりと咲き誇っていて、私の胸を打つ。桜は私に何とも言えない高揚感を与えてくれる。これまでの人生でまともなお花見はしたことがないけれど、私はなぜか桜が好きだった。
学校から家までは徒歩十五分程で着く。着いてしまう。学校を出てから真っすぐ家路を辿り、十分程経ったのでこのまま歩けばあと五分で家だ。家にはまだあの人がいるだろうか。
毎日通る小さな公園に立ち寄り、ブランコに座る。ブランコを漕ぐ、というよりはほんの少し揺らしながら考え事をする。
皆がよく口にする早く家に帰りたいという言葉。
「早く家に帰ってテレビ観たい」
今日の帰り際に、佐倉さんも言っていた。でも、私はその感覚が、その気持ちがよく分からない。早く帰りたいという気持ちが。
学校が好きなわけではないけれど、家にいるよりはずいぶんましだ。だから、学校が終わる時間が来るのがいつも少し怖い。でも、学校が私の居場所だと感じているわけではないし、学校に居ても嫌なものを目にすることはある。
私は今日の学校での出来事を思い返す。
シーンと静まり返った教室。慧君が振り下ろしたカッターナイフは梅沢君には当たらなかった。カッターナイフは仰向けになっていた梅沢君の顔からほんの数センチ離れた教室の床に突き刺さった。
カッターナイフを振り下ろした後、慧君はその場を離れなかった。震えながら金魚のようにパクパクと口を動かす梅沢君をじっと見ていた。その時間はほんのわずかだったのかもしれないが、私には果てしなく長く感じた。
授業開始のチャイムとほぼ同時に教室のドアが開くと、教室内の光景を目にした数学教師の平(たいら)先生はぎょっとしたようだった。先生はすぐさま「何やってんだ」と言葉を発し、慧君と梅沢君は先生に連れて行かれた。慧君と梅沢君がいなくなった後の教室もずっと静かなままだった。教室の壁に寄りかかっていた加藤君を見ると、目には涙が浮かんでいた。加藤君は悲しんでるようにも、怖がっているようにも見えなかった。安堵の涙だったのかもしれない。
瞑想に耽っている間に二、三時間ほど経っただろうか。辺りはすっかり暗くなり、冷え込みも厳しくなってきたので、私は家に帰る決心をした。ブランコから立ち上がり、スカートについた砂をパンパンとはらうと、私は足を踏み出した。
「冬子ちゃん、帰って来るの遅いんだね」
玄関のドアを開けると、顔を赤らめた男が目の前に立っていた。お酒の匂いが漂ってきて、私は鼻をつまみたくなったが、我慢する。母の恋人である菅原(すがわら)は一週間以上前からずっと家に居座っている。菅原のこちらをじっとりと観察するような目が私は苦手だった。今日の慧君も私のことを見てきたけれど、その目とは全然違う。
「こんばんは」
形式的な挨拶だけすると、私は菅原と壁の間をさっと通り抜け、リビングの椅子の上に通学カバンを置いた。
「部活やってないんでしょ。どうしてこんな遅いの?」
「友達と話し込んでて」
私は嘘をついた。私にそんな友達はいない。
「へえ、いいね。青春してて」
菅原は缶ビールをグイッと呷り、歯を見せて笑った。歯と歯の間に食べかすが挟まっている。口ひげと顎ひげを整えていて、小綺麗なチノパンとワイシャツを着こなしている。きっとおしゃれな中年男性なのだろうが、私には何かが歪んで見えた。
「お母さんは今日仕事ですか?」
「そうだよ。聞いてない?」
菅原は飲み終えた缶ビールを流し台に置くと、冷蔵庫をあさり始めた。母とはここ一週間近く顔を合わせていない。
「俺もこの後、仕事場に行くけどね」
冷蔵庫からエビスの缶ビールを取り出し、菅原はプルタブを開ける。プシュッと軽快な音が飛んでくる。
母は水商売をしており、菅原はそこへ足繁く通うお客さんだった。お客さんとホステスとの関係から恋人に発展し、家に寄生するようになった男は菅原が初めてではなかった。
もう何人もそんな男を見てきた。
「ねえ、冬子ちゃん。今度三人で旅行にでも行こうよ」
カバンから弁当箱を取り出している最中に、菅原が背後から肩に手を乗せてきた。その手の感触が何だか嫌で、私はすぐさま台所へ移動し、菅原から離れた。
「りょ、旅行ですか?」
蛇口を捻ってスポンジを濡らし、洗剤をつける。動揺したからか、洗剤を多く出しすぎてしまった。
「うん、箱根とか熱海とかでゆっくりするのなんてどうかな、と思って」
「いいですね」
もちろん嫌だが、その場しのぎの返事をした。弁当箱を水で濯いでから、洗剤をつけたスポンジでごしごしと擦る。弁当箱にこびり付いた汚れが落ちていく様を見ると少し気持ちがいい。
「よし、決まりだ。じゃあプランを考えとくよ」
背後から椅子を引く音がした。カタンと缶ビールとテーブルがぶつかる音の後に、ドサッと椅子に腰かける音が聞こえた。
気がつくと私の手は止まり、その場に立ち尽くしていた。蛇口からは水滴が一定の間隔でポトポトと滴り落ちている。
母は二十一歳の時に私を産んだので、現在は三十五歳で外見も非常に若々しい。父親は私が物心つく頃には既にいなかった。母には付き合いのある親戚がいなかったので、私は親戚との交流というものを持ったことがなかった。その代わり、母は代わる代わる恋人である男を家に連れてきた。
母が連れてきた男の中には優しい人もいたが、幼い私を蹴っ飛ばすような乱暴な人もいた。私が「ごめんなさい、やめて、やめて」と泣き叫んでもその男の人は蹴るのを止めなかった。母がその様子を横目に見ながら飲み物を口にしていたことは今でも覚えている。
その出来事のせいか、それ以降は至極普通に見える人でも大人の男の人は何だかとても怖かった。いつか私に暴力を振るったりしてくるような気がしてならなかった。
現在家に住み着いている菅原は距離が近く、ねっとりとした視線には嫌悪感を覚えるが、今のところこれといった被害は受けてはいない。それでも私の心はじわじわと消耗してすり減っているような気がした。
「転校生を紹介します」
翌朝のホームルーム。普段は冷静で物静かな佐々木先生の声がいつもよりわずかにうわずっているように聞こえた。
「神(かみ)城(しろ)昌(あきら)です。みんなとできるだけ早く仲良くなれれば嬉しいです。よろしくお願いします」
中性的な声と外見だった。人懐こそうな笑みを浮かべて自己紹介をした神城君はとてもぱっちりとした目をしており、顔立ちが整っていた。世間で言う甘いマスクというのだろうか、女の子が十人いたら、十人はかっこいいという感想を抱くと推測されるようなきれいな顔だった。
ご両親の仕事の都合で始業式の日に引っ越しが間に合わず、少し遅れての転入になったのだという佐々木先生からの説明があった。
「神城君はそうだな、谷村さんの隣の席に座ってもらおうかな」
佐々木先生は空いている私の右隣りの席を指し、神城君が歩いて近づいてくる。
「よろしくね」
神城君は椅子を引きながら私に挨拶し、私もこちらこそよろしく、と返した。とても感じの良さそうな人で私は安心した。でも、私は左隣の席の慧君の席が空席なのが気になって頭の中に靄がかかっているような感覚が消えなかった。
* * *
「白野くーん、ビールがないよ」
仕事を終え、部屋でくつろいでいた所、黒田は僕のアパートに帰って来るとすぐに冷蔵庫を開け、文句をつけてきた。実に図々しい。黒田は二日前から僕のアパートに住み着いている。一体どうしてこんなことになってしまったのだろう。
「チェッ。これからがお楽しみだったのにな」
今にもカツアゲ男の腕を折ろうかとしていた黒田と呼ばれた男は、突如現れたストレートのロングヘアーの女性の方に向きなおりながら顔をしかめた。
「その男の身柄はこちらで預かるわ」
「こいつは組織の末端の人間か? ハルカ」
「ええ。色々聞き出さなきゃいけないから。あなたに余計なことされると困るのよ」
「まあお前にもらった情報のおかげでこいつを仕留められたからな。今日はもう大人しくしとくよ」
僕は今の状況が上手く呑み込めず、茫然としながらハルカという女性を直視する。サラサラの髪とキリっとした目、綺麗な鼻の形が印象的で、凛とした雰囲気の人だなと思った。
ハルカの肩から猫が飛び降り、黒田の方へ向かってトコトコと歩き出した。黒田の足元に顔をすりすりと擦り付けている様子から、黒田に懐いているのか、それとも人懐こい猫なのか。
「久しぶり。ケプリル」
ケプリルと呼ばれた猫は体が細く、毛並みがツヤツヤだった。僕とケプリルの目が合う。瞳の中の小さい眼球に宇宙人のような印象も抱いたが、よく見るとかわいらしい猫のように見えた。
「こいつと奴は関係ありそうか?」
黒田がケプリルの頭を撫でながら、ハルカに真剣な声色で尋ねる。
「まだ分からないけど、おそらく無関係だと思うわ。破壊者の影響を受けていないと思われるから」
破壊者。その単語に覚えがあった。しかし、今朝のイタズラメールとは無関係かもしれないし、この話をこの人達にすべきがどうか迷った。面倒なことになりかねないと思ったからだ。
「あの」
僕はさんざん頭を悩ませた結果、勇気を振り絞って聞いてみることにした。
「破壊者って何ですか?」
二人とも僕の声にハッとして振り返る。僕の存在は忘れられていたのだろうか。影が薄いとは良く言われるが。
「カツアゲの被害者の方ね。何でもないわ」
「怪我はない? こんな時間だし、もう帰っ 」
「何か知ってるのか?」
ハルカの言葉を遮り、黒田が真剣な眼差しで僕の方を見て尋ねる。期待と怒りがない交ぜになったような不思議な声だった。
「あ、いや関係あるかどうか分からないんですが」
僕は破壊者という単語について尋ねたことを少し後悔しながらも、黒田に助けられたという恩にも近い感情も相まって、もうあのメールを見せるしかないと思った。ポケットからスマートフォンを取り出す。会社メールは外部の端末からでも見れるようにしているので、今朝のメールを開き、再度あの気味の悪い文面を確認する。
壊すことは楽しいよ。
君はいつも我慢してばかりで、苦しいだろう。辛いだろう。
彼のように全てを開放して奪ってみようよ。壊してみようよ。
きっと新しい世界が開けるよ。
新しい世界は本当の君を輝かせてくれるよ。救ってくれるよ。
だから君も壊してみようよ。
Breaker
「こんなメールが届いて」
スマートフォンでメールを二人に見せると、二人とも一瞬固まった。
「これは・・・」
黒田がまじまじと画面を見つめながら、顔をこわばらせた。獲物を狩る狩人のような、犯人を追い詰める刑事のような目つきに変わっていく。
「この文面。奴のものだと思われるわね。このメールが届いたのはいつ?」
「今朝です。たしか九時過ぎぐらいだったと思います」
「危ないな」
「ええ、危ないわね」
危ない?
「あんた、名前は?」
突然黒田に尋ねられた。
「白野といいます」
「白野君。君は今非常に危険な状況に陥っている」
「ビールがなきゃ、俺生きていけないよ。買ってきてよ」
「自分で買ってきてくださいよ」
溜息をつき、冷蔵庫のドアをパタリと閉じる黒田はまるで駄々をこねる子供のようだ。
「ボディガードに対してそんな扱いしていいのかな?」
イタズラ少年のようににやりと笑う黒田に僕は少しイラっとした。
「別に頼んだ覚えはないんですけどね」
カツアゲにあったところを助けられたあの夜、黒田達に不気味なメールを見せた所、僕は破壊者という人間に狙われている可能性が高く、僕の身を案じて黒田がボディガードをすることになった。だが、これは本当にボディガードになっているのだろうか。ただ僕の家に寄生しているだけなのではないか。
「そんなこと言っていいのかなぁ? 俺は君の命の恩人だよ」
以前は君を助けたわけじゃないと言っていたにも関わらず、黒田は恩着せがましく言葉を放つ。そもそもあのカツアゲ男は僕の命ではなく、僕の所持金を狙っていただけなのだから、命の恩人というのはおおげさではないか。もちろん助けてもらったことには感謝しているが。
「お、オーウェルの「一九八四年」持ってるのか? 読んでいいか?」
「別にかまいませんよ」
僕は本棚から「一九八四年」の文庫本を取り出し、黒田へと手渡す。黒田は本を手に取ると、即座にページをめくり始めた。
「破壊者って何者なんです?」
少年のような顔していた黒田の顔が破壊者という単語を聞いたとたんにこわばる。
「・・・分からない。年齢も性別もどんな顔なのかも。奴は表には出てこず、人を駒のように使って犯罪を起こさせるだけだからな」
長い沈黙の後、黒田が答える。
「でも俺は何年も奴を探してる」
黒田の口調は僕に情報を隠しているわけではなさそうに思えた。でも、それだけの情報でどうやって破壊者を探すのだろう。そもそも僕は破壊者という存在について半信半疑、いやほとんど信じていなかった。僕に危険が迫っているということも。
「ハルカも先日お前に届いたメールから破壊者を辿っているところだ」
長い黒髪のミステリアスな女性。彼女も何者なのだろう。黒田の協力者のように思えるが。
「ハルカさんってどんな人なんですか?」
「あいつは情報屋だ。表の社会にも裏の社会にも通じていて、俺はあいつに雇われてる」
「裏の社会にも通じているって・・・。物騒ですね」
とても綺麗な人だったが黒田の言葉を聞き、お近づきになるのはよしたほうがいいと僕の心は警告を出した。
「それよりも今はビール。ビール買ってきてくれ」
黒田に命じられるがまま、僕は自宅を出て近所のコンビニまでの道を辿る。徒歩三分程のため、上着はピーコートを着てきたが、思ったりも寒く体の芯が冷え込む。暗い夜に見えるコンビニまでの道には小さな個人店の本屋があり、僕はその本屋のチェーン店にはない雰囲気を少し気に入っている。今は深夜十時で、もうすでに少し錆びついたシャッターがかかっている。この辺りは本屋の他にも個人店の飲食店等が並んでいるが、同様にシャッターがかかっていた。ハァっと吐き出す息が白く、僕は冬という季節を実感する。
僕のボディガードとして家に住み着いているのだったら、黒田が買い出しにいくのが筋じゃないかと思ったが、しぶしぶ了承した。だいたい僕が命を狙われているというのが、信じがたい。こんな価値のない人間を狙って何になるのだろう。
「いらっしゃいませー」
深夜のコンビニ。やる気のなさそうな声の形だけのあいさつ。レジの前には幼稚園児ぐらいの小さな女の子を連れた厳つい男が立っており、深夜十時過ぎというこの時間に子供を連れてコンビニを訪れる神経に疑問を抱く。男は手ぶらで、タバコの銘柄だけを店員に告げ、とてもぶっきらぼうなでふてぶてしい態度だった。タバコの番号を言った方が店員も分かりやすいだろうが、この男にそんな気配りは似つかない。
買い物かごを取って、足早に酒類のコーナーに向かう。黒田はエビスじゃないと駄目だというぜいたく指向だったので、ビールが並んでいる冷蔵庫からエビスを探す。
「白野君?」
呼ばれて振り返ると買い物かごを持ったスラっとした女性が立っていた。ハルカだった。
「こ、こんばんは」
まさかこんな所で会うとは思わなかったのもあり、少しどもってしまった。
「もしかして、黒田のおつかい?」
「ええ、ビールを買いに」
ハルカの買い物かごの中をちらりと見ると、チャオチュールが何本か入っていた。おそらくケプリルのご飯だろう。
「あんな奴の言うこと聞かなくてもいいのよ。本来あなたの家に住み着いているあいつが買いにいくべきなんだから」
あんな奴という呼び方に親しみを感じさせる。ハルカと黒田は長い付き合いなのだろうか。
冷蔵庫の中にエビスを見つけ、僕は扉に手をかける。
「良かったらウチの店に来ない? 喫茶店なんだけど」
突然のハルカの誘いに僕はぎょっとして固まった。この人も黒田同様謎めいていて危うさを感じさせ、僕は警戒心を抱く。同時にこんな美人からの誘いに心躍る自分もいた。
「いいんですか?」
僕は条件反射で答えてしまい、ハルカが営んでいるという喫茶店に行くことになった。会計を終えると大通りの照明がいつもよりぼんやりしているような気がした。大通りといっても片側一車線だが。
喫茶店は大通りを僕の自宅とは反対側に徒歩で五分程歩いたあとの小さな路地を入ってすぐにあった。三鷹には長いこと住んでいるが、近所のこんな場所に喫茶店があることを僕は今まで知らなかった。看板にはシンプルなデザインで「シャーロック」と書かれている。喫茶シャーロックか。僕は有名な探偵を思い浮かべた。
「今日は定休日なんだけど、さあ入って」
促されるままにドアを引いて店内に入ると薄めの茶を基調としたテーブルやカウンターが目についた。壁には古い映画のポスター等が貼ってあり、新しくはなかったが、昔ながらの本格的な喫茶店を思わせるような内装は僕は嫌いではなかった。
「すいません、お邪魔しちゃって」
ハルカは全然いいのよ、と言うとカウンターの椅子を引いた。僕は椅子に腰かけるとハルカから渡されたメニュー表に目を通す。
ブレンドコーヒー三百円。カフェオレ三百三十円。ずいぶん良心的な価格だ。僕はコーヒーは好きだが、この時間帯に飲むと眠れなくなることを心配した。今日は金曜日なので、明日は仕事は休みではあるが。
「ホットココアお願いしてもいいですか?」
ハルカは了承し、カウンターの中に入る。
「ハルカさんは喫茶店のオーナーだったんですね。びっくりしました」
「オーナーといっても私一人でやってる店だからね。それに半分は道楽だし」
半分はという言葉が引っ掛かった。ここも情報屋としての仕事場でもあるということか。
二階に続く階段からニャーという鳴き声と共にケプリルが降りてきた。カウンターの椅子に腰掛けている僕の足元までトコトコと歩いてくると、顔をすりすりと寄せてきた。どうやら甘えているようだ。
「さっきまで寝てたのに。起きたのね、ケプ」
ケプリルの頭を撫でながらハルカの話を聞くと、ケプリルは喫茶店の営業時間にも一階に降りてくることがしばしばあり、お客さんにとても可愛がられるそうだ。
「看板猫ですね。ケプリル君は」
そんな大層なものじゃないけれど、とハルカはカップを持ちながらクスリと笑った。美味しそうな甘いココアの匂いが漂ってくる。
「お待たせしました。ホットココアよ」
コトンと僕の目の前にカップが置かれる。一口飲むと、甘さ加減がちょうどよく、飲みやすかった。
「美味しいです。とても」
「お口に合ったならなにより」
「ハルカさんは黒田さんとは長いんですか?」
僕は唐突に疑問に思っていたことを訪ねた。ケプリルが椅子を経由してカウンターの上に飛び乗る。
「ケプ。カウンターの上は駄目よ。黒田? そうね、あいつと知り合ってから五年ぐらいになるかしら」
ケプリルに注意している時のハルカの声は普段の声とは異なり、少し甘い声だった。
「あいつ、迷惑掛けてない?」
「あ、いえ、大丈夫です。さっそくビールの買い出しを催促されましたが」
僕は笑いながら答え、黒田の事を思い返す。カツアゲ男と戦っているときの黒田。僕の家でヘラヘラと笑っている黒田。
「不思議な人ですよね。黒田さんって」
「そうね。そして頭のねじが何本も外れてる。いや外してるというべきか」
外してる?
でも、とハルカが続ける。
「きっとあなたのことを守ってくれると思うわ」
信頼という言葉が頭をよぎる。二人の関係はまだよく分からない部分も多いが、僕は少し羨ましかった。
「白野君。例のメールは職場のパソコンに送られてきたのよね?」
「ええ、そうです」
「白野君はどんな仕事してるの?」
例のメールについての掘り下げた質問がくるかと思ったので、僕は少し拍子抜けした。
「電気設備の設計してます。技術コンサルタントってやつですね」
「技術職なのね。コンサルタント会社って忙しいんでしょう?」
「繁忙期になるとけっこう残業多くて忙しいですね。でも、この業界ではマシな方だと思います」
残業が多くて嫌になることもあるが、福利厚生はしっかりしているし、ブラック企業というわけではない。世間一般的に見たら、残業は多い方になるのかもしれないが、僕の会社よりも忙しい会社なんて山のようにある。
「まあでも理不尽なお客さんがたまにいて、ちょっとキツイなって時もありますね」
理不尽。
僕は自分が放った言葉で、松林にパワハラを受けている新入社員の倉木のやつれた顔を思い起こす。
「あと、後輩がちょっと社内の人間に理不尽な扱いを受けてて」
するりと言葉が口からこぼれ落ちた。数少ない友人にも相談などしたことがないが、ハルカの前だと自然と言葉出てくる。
「理不尽?」
ハルカに尋ねられ、僕は松林が倉木を説教部屋と呼ばれる会議室へ連れていき、何時間にもわたり叱責すること、皆のいるデスクの上でも倉木の仕事のミスについて頻繁に怒鳴りつけること等を事細かに話した。これほどすんなり人に相談をする自分がいることに少し驚いている。
「なるほど。それはひどいわね」
ハルカが少し顔をしかめる。
「その松林っていう上司が部下に怒鳴りつける内容はきっと仕事上は正論なんでしょう。だからこそタチが悪いわね」
正論。ハルカの口から出たその言葉は的を得ていた。
「仕事上は正論だから部下の子も反論できない。周囲の人もその行為について止めることができないのだと思うわ」
「その通りです。僕を含めて周りは見て見ぬふりで、僕は本当に情けない人間だなって思ってしまいます」
暖かいココアを一口すする。後輩を助けてやれない自分が甘い物を口にするのがとても悪いことのように思えた。
白野君に責任があるわけじゃないと思うわ、とハルカが言い、しばらく沈黙が続いた。カウンターの奥にはたくさんの種類のコーヒー豆があり、ケプリルがその匂いを嗅いでいる。少し薄暗い店内は何だかとても落ち着いた。
「ねえ、白野君」
ハルカが口を開く。
「ハラスメントっていう言葉について否定的な意見があるじゃない? 最近はちょっとしたことですぐに《ハラスメント》だって騒ぐ、昔ならそんなの考えられないって」
テレビやネットニュースである程度聞いたことがある意見だ。
「確かに業務の適正な範囲での叱ること等についてすぐパワハラだって騒ぐ人はいると思うの。でもその意見って本当に理不尽な扱いを受けている人達が声を上げにくくなってしまうことを全く想定していない軽薄な意見だって思ってしまう。虐待を受けている子供が助けを呼ぶ声を上げにくくなるような」
ハルカの言葉は僕がずっともやもやと抱えていた疑問を言語化してくれたかのようで、僕の頭の中にあった靄が少し消えていくような感じがした。それと同時に過去に僕に起きた出来事をどうしても思い出してしまった。
お前みたいな出来損ないには罰が必要だ。
「生きづらい世の中ですね。本当に」
「ええ。立場の弱い人にとっては特にそうね」
弱者ではなく、立場の弱い人という言葉を選んだハルカはとても優しい人なんだなと思えた。時計の針の音が聞こえ、時刻は午後十一時三十分を少し回った。ココアが入ったカップも空になった。
「ごちそうさまでした。こんな遅くにありがとうございました」
「全然いいのよ、私が言い出したんだし。それとお金はいいからね」
「え? それはさすがに悪いですよ」
申し訳ない気持ちで財布を出す仕草をするが、同時にラッキーという気持ちもあった。
「本当にいいからね」
「すみません、ありがとうございます」
「喫茶店の収入よりも、色々な人に売る情報料の方が多いから。気にしなくていいのよ」
黒田がハルカは情報屋だと言っていたことを思い出した。
「ああ、それと」
ハルカが何かを思い出したように声を出す。
「この間あなたに届いた例のメール、解析してみたけど海外のサーバーをいくつも経由しているみたいで、送信者は突き止められなかった」
破壊者。本当に存在しているか分からない謎の存在。
「白野君、気を付けてね。奴は何をしでかすか分からないから」
お礼を重ね重ね言い、喫茶店を後にした。帰ったら黒田からビールの買い出しに時間が掛かりすぎだと文句を言われるだろう。空を見上げると、小雨がパラパラと降ってきていたので、僕は手をかざして雨の感触を確かめた。
* * *
五人分の机をくっつけた状態で、私の隣に慧君が座っている。この席は修学旅行の班で構成されており、私の目の前に佐倉さん、佐倉さんの隣に神城君、お誕生日席には加藤君がいる。
慧君が梅沢君にカッターナイフを突き付けてから一週間後、慧君は教室に戻ってきた。梅沢君はよほどあの出来事が怖かったからなのか、あれから大人しくしているようだ。私は慧君が戻ってきてくれたことにすごくホッとしていた。
「自由行動どうしようか?」
この班で皆のまとめ役を買って出てくれている神城君が皆に声を投げかける。神城君の中性的な声には何とも言えない安心感がある。
三か月後の修学旅行で、私達は沖縄に行くことになっている。修学旅行は家から離れられる私にとって少しいいイベント程度の認識だったが、同じ班に慧君がいることでそれはもっと特別なものに変わった。現在行われている話し合いで慧君はまだ一度も発言していないが。
「私は国際通りに行きたいな。映画とかでも出てくる所でしょ」
佐倉さんが我先にと意見を述べる。
修学旅行の班決めは、自由に好きな物同士で五人のグループを作るように担任の佐々木先生が指示を出した。私は最初佐倉さんに誘われ、二つ返事で了承した。転校生の神城君は一人でおろおろと周囲をうかがっていた加藤君に声を掛け、続いて一人で机に肘をついて悠然としていた慧君の方へ近づいていった。神城君達が男子三人のグループを作ると、クラスであぶれていた私達女子二人に、よかったら一緒の班にならない? と神城君に誘われたおかげで無事に修学旅行の班が決まった。神城君に誘われた時の佐倉さんはいつも細い目を少し大きくして驚き、頬が少し紅潮しているように見え、その佐倉さんの反応がとても新鮮だった。佐倉さんは神城君の隣にいた慧君には対しては、神城君とは対照的に訝し気な視線を送っていた。
教室を見渡すとクラスの皆が修学旅行というイベントに浮かれているような、とても楽しみにしているような雰囲気で、ワイワイと話をしている。私達の班は他の班と比べるとかなり静かだ。
「国際通りは色々とお土産も買えそうだしいいかもね。皆は他に行きたい所ある?」
私達の班は神城君がリーダーシップを発揮してくれるおかげで、かろうじて話し合いが進行している。私と加藤君は物怖じしてしまうタイプなので、自分の意見を主張することがなかなかできない。
「沖縄って」
慧君が初めて口を開いた。皆が少し驚き、慧君の方を見る。
「歴史資料館とかはあるのかな?」
慧君からそんな言葉が出てくるのにびっくりして、皆が一瞬固まる。が、意外にも加藤君が食いついた。
「た、確か那覇にあったはずだと思う。沖縄の琉球文化は興味深いよ」
えー何か地味、と佐倉さんは難色を示したが、慧君と加藤君は意気投合したようで沖縄の歴史について語り合い始めた。修学旅行の自由行動の行き先を決めるにあたっては進行が遅れてしまうのかもしれないが、慧君と加藤君が仲良くなったような気がして、私は少し嬉しかった。
「今日は塾だー。行きたくないなぁ」
帰りのホームルームが終わると、佐倉さんは憂鬱そうな表情を見せ、足早に帰っていった。
塾か。私も塾に行ければ家に帰る時間を遅らせる正当な理由ができるのかな、と考えたがそもそも私の母は塾のお金など出さないだろうし、文字が頭に入ってこず、壊滅的に勉強ができない私が塾に通った所で学力が上がる気はしない。
「谷村さん」
塾について考えを巡らせていると、後ろから神城君の声がしたので振り返る。
「良かったら四人でどこかに行かない? 本当は五人で行ければ良かったんだけど、佐倉さんは今日塾があるみたいで」
神城君の口から発せられる心地の良い声が私の耳に入る。そして、神城君の隣には慧君と加藤君が立っていた。
「うん、いいよ」
断る理由がないので、即答する。家に帰る時間を遅らせたいのもあるが、慧君と一緒にいられる。
「アイスコーヒー四つでお願いします」
学校から徒歩で十分程の小さな商店街の中にある喫茶店に私達は入った。照明が明るく、おしゃれな北欧雑貨が飾ってある開放的な店内とは対照的に、面倒くさそうな声で「いらっしゃいませ」と声を出す店員さんはとても無愛想だった。
「神城は東京からこっちに来たんだよな?」
「うん、両親の仕事の都合でね。これまでもあちこち転校してるよ」
「転勤族なんだな」
梅沢君の一件で慧君のことを心配していたが、こうして神城君と言葉を交わす姿を見て、私は少しホッとした。
「アイスコーヒー四つです」
注文したアイスコーヒーが四人の前にそれぞれ置かれる。店員さんのグラスの置き方はお世辞にも丁寧とは言えなかった。
アイスコーヒーを何も入れずにそのまま一口飲むと、口の中で苦みが広がっていく。私にはブラックコーヒーはまだ早いようだと思い、ガムシロップを入れてストローでかき混ぜる。
「田中君たちはずっと仙台?」
慧君と加藤君が無言でうなずく。私は返事をする。
「うん。私と田中君は小学校が別だけどね」
私と加藤君は同じ小学校出身で五、六年生は同じクラスだった。私も加藤君もお互い大人しい性格で人見知りのため、会話はしたことはなかった。慧君とは小学校が別で中学一
年生の時に初めて同じクラスになり、三年生になった今年、再び同じクラスになった。慧君とも会話を交わしたことはないが、私は一年生の時から慧君の存在が気になっていて、休み時間に窓際の席で肘をつきながら、一人で校庭をぼんやり眺めている慧君の後ろ姿をずっと見ていた記憶がある。
「地元があるのって何だか羨ましいな」
神城君は少し寂しそうな目をしているように見えた。コーヒーを飲む姿も何だか絵になるようなルックスとオーラを神城君は持っていた。芸能人にいてもおかしくないような。そういえば、神城君も慧君もガムシロップとミルクを全くいれずに平然とコーヒーを飲んでいて、何だかとても大人なように感じた。加藤君はガムシロップを二つ入れていて、私はちょっと安心した。
「でも、こうして友達ができて安心したよ。皆と仲良くなれるか不安だったから」
友達。私にはその言葉がとてつもなく眩しかった。真っ暗闇な部屋から雲一つなく輝く太陽が出ている外に出た時のように。私は慧君達と友達になれたのだろうか。
「友達か」
私の隣に座っている加藤君の顔がほころぶ。少し前までずっといじめを受けていた加藤君にとって、神城君の言葉はきっと嬉しかったのだろう。
「田中君、この間は助けてくれてありがとう。ずっとお礼を言おうと思ってたんだけど、なかなか言い出せなくて」
慧君が珍しく少し驚いたような表情を見せる。
「あ、あれは」
慧君が口ごもる。
「別に加藤を助けたわけじゃなくて、俺がやりたいことをやっただけだ」
慧君はとても照れくさそうで、何だかとても可愛かった。慧君のこんな表情を見るのは初めてだ。
神城君は転校してくる前の出来事だったので、事情は分からないようだが二人の表情を見て、微笑んでいる。
「そうだ、谷村さん」
何かを思い出したように神城君が話を切り出す。少し言いにくそうな遠慮を含んだ口調だ。
「授業中に谷村さんの書いているノートが見えちゃったんだけど、もしかして、字が見えてない?」
一瞬心臓が止まったかのような感覚に襲われた。
「神城」
慧君が神城君を牽制するような声を出す。私の体は硬直したままだ。
「いや、僕も言おうかどうか迷ったんだけど」
神城君の声に悪意がないのが分かり、私は少し落ち着きを取り戻す。
「学習障害っていうのがあってね。LDとも呼ばれてるんだけど、もしかしたらと思って」
学習障害。
「今までずっと苦しんでたんじゃないのかなと思って」
慧君が楠瀬先生に言い放った言葉が頭をよぎる。
先生は車椅子の人に階段登れって言いますか?
俺は車椅子の人に階段登れって言う人や、足のない人に歩けっていうような人の授業なんて受けたくない。
昔から私は極端に読み書きが苦手だった。母からは努力が足りないと言われてきたから私のせいなのだと思ってきた。
「正式には医者に判断してもらわないと分からないけど、先天的なものだから、生まれ持った特性だから、谷村は何も悪くないってことだ」
慧君がまっすぐに私を見て丁寧に言葉を届けてくれる。
「気を悪くしたらごめんね」
神城君が謝る。
私は二人の言葉で肩の荷が、心の荷がふっと軽くなった気がした。謝られることなんて何もない。むしろ私は何かから解放されるような気がして、感謝の気持ちしか湧かなかった。
「今度病院行ったら、先生に相談してみよう」
「うん、それがいいと思うよ」
二人の声が私の心に響く。響きわたる。
「慧君、神城君」
自然と慧君と呼べた。苗字ではなく。
「ありがとう」
喫茶店から出て解散してから、私はいつもの公園でブランコを揺すっていた。頭の中で言葉をぐるりぐるりと回していく。
学習障害とは先天的な脳の特徴だと神城君は言った。障害という言葉がついているが、個性なのだと。慧君は足が速い遅いとかそういう個性と同じだと言ってくれた。決して私の努力不足なのではないと。
あんたは努力が足りないのよ。もっと努力しなさいよ。
幼い頃から勉強ができない私に対して母に浴びせられ続けた言葉。その忌まわしい言葉を吹き飛ばすような、払いのけるような二人の暖かな言葉が私の体の中に染み渡っていく。加藤君も谷村さんは何も悪くないと言ってくれた。
友達、仲間というものとは私は縁がなかった。でも、そうじゃないと初めて思えた。
立ち上がってブランコを勢いよく漕ぐ。ギーコギーコと錆び付いた金具が擦れる音が聞こえる。体に吹き付ける風が気持ちいい。私はもっと自分を信じてもいいのかもしれないと思えた。
ブランコの揺れが収まるのを待って、ヒョイと飛び降りて着地する。土の上に置いていた通学カバンを肩に掛けて、私は家へと向かう。いつもは何とも思わない街灯の明かりが、私の進む道を照らしてくれているような、そんな感覚を覚えた。
玄関の扉を開こうとすると、鍵がかかっていた。誰もいないのだろう。私はカバンから家の鍵を取り出すと鍵穴に差し込み、開錠する。
ガチャリという音と共に違う世界に来たような空気を感じる。私の居場所ではない私の家。真っ暗なリビングに寒気がした。気温は外に比べると高いはずなのに。
電気をつけるとリビングのテーブルに菅原の吸っているタバコの箱が置かれていた。箱の下に何枚か写真が置いてある。私はテーブルに近づいてタバコの箱を持ち上げる。時間が止まる。
なんで。
写真にはプールで遊ぶ幼い私が映っていた。何も服を着ていない全裸の私が。
五枚あった写真は全て小さい頃の私の写真で、どれも私は裸だった。冷汗が首筋からにじみ出てくる。何かが壊れていくような音が私の心の中で響き渡った。
* * *
榊原(さかきばら)はネクタイがいつも曲がっている。いつもと同じ薄いブルーのネクタイ。僕の直属の上司が不在のため、課長の榊原に作成した書類のチェックを受けていた。
「ここの定格容量間違えてるぞ。あとここはMCCB(配線用遮断器)が必要だな」
図面に大量の赤が入る。僕は仕事ができない方なので、直属の上司の鈴木(すずき)にチェックしてもらっても、修正事項がそれなりに出てくるが、榊原のチェックはそれよりも細かく精度が高かった。
「これ、この間の品質点検でも指摘があった所だぞ」
社内全体で行われた品質点検という技術勉強会の場で出た情報が僕の頭にきちんと入っておらず、榊原に注意を受ける。
「すみません」
「まあ、修正事項はこんな所か。修正したらコンサルに送っていいぞ」
少し溜息をつきながら、榊原から書類を手渡される。大量の付箋と朱書きが入った書類。
「ありがとうございました」
忙しい中チェックの時間を割いてくれた榊原に礼を言い、僕は自分の席に戻る。何だか少し疲れた。コーヒーでも淹れに行こうか。
席を立ってインスタントコーヒーを淹れに行く途中、行き先を表示するホワイトボードが目に入る。松林と倉木は今日と明日の丸二日出張で、行き先は北海道となっている。
きっと出張先でも説教されてるんだろうな。
「北海道か。俺も行ってジンギスカンでも食いたいよ」
同期の坂本が大量の書類を抱えていた。
「ま、でも松林さんと一緒に行くのは勘弁だな。飲みの席でも説教や武勇伝の繰り返しだ。倉木がかわいそうだ」
かわいそうという言葉が坂本の口から出たが、あまり倉木に同情しているようには見えなかった。むしろ楽しんでいるような。
松林は飲み会等の場で、下の世代に説教を繰り返すことが社内に知れ渡っていた。また、俺達の若い頃は徹夜が当たり前だった等の自慢話も多い。実際僕も残業規制が緩かった時代の残業自慢を耳にしている。
「坂本は遠方出張の予定はないのか?」
坂本に聞くと、今の所予定は入っていないとの返事が返ってきた。泊まりの出張を楽しみたいらしい。
「忙しそうだな」
「まあね、でも年度末の忙しさに比べたら、まだいい方だよ。坂本も忙しいんじゃない?」
「今大きい仕事が始まってこれから打合せだよ。忙しくなりそうだ」
坂本は技術力が高くて非常に仕事ができ、同期のエースのような存在で、周囲からの期待も大きい。僕とはまるで違う。
インスタントコーヒーを紙コップに注いで、リフレッシュコーナーでぼんやりとしていた。ブラックコーヒーの何とも言えない苦みが僕は好きだ。僕は考える。自分の今後のことを。
この先この仕事を続けていけるか。松林にパワハラを受けている倉木。優秀な坂本。破壊者。僕の身に迫っている危険。
一人で考え続けても同じ思考がぐるぐると回るだけで、何も変わらない。そんなことは分かっていても僕の頭の中の動きは止められなかった。
席に戻るとメールが届いている知らせがポップアップに表示されている。僕はメール画面を開くと、件名のないメールが一通あった。
君は壊したい? それとも壊されたい?
この世界がひどく理不尽なのは知っているだろう。
壊すか壊されるか。
どうせなら壊す側に回ってみるのはどうだろう。
退屈してるかもしれないから、面白いショーを見せてあげるよ。
Breaker
マウスを握る手が止まり、脳も停止した。
会社を出てすぐに、破壊者からのメールについて黒田に連絡すると、黒田は今からこちらに向かうと返事をした。いつも飄々としている黒田だが、破壊者がからむと真剣で前のめりになる。
・・・。
僕は会社のある五反田まで来られるのは嫌だったので、新宿駅で黒田と落ち合うことにした。
JR五反田駅から新宿駅まではすぐに着く。僕はいつも乗っている山手線に揺られながら少しウトウトする。立っているのに少し眠気が襲う。
「次は代々木、代々木」
アナウンスが次の駅を知らせる声が響いてくる。代々木の次が新宿駅だ。僕は目を覚ますように左の太ももをつねる。周囲の人達はスマートフォンが世界の全てであるかのようにのぞき込んでいる。
僕もスマートフォンを取り出して、時刻を確認すると午後九時を少し回った所だった。
新宿駅で降りて、ごった返す人の波について行き、東口の改札を出る。黒田との待ち合わせはアルタ前なので、東口駅前のロータリーを経由して、目的地を目指す。十二月だからか、通ってきた駅の中はクリスマス用の装飾が多く見られた。僕には縁のないイベントだ。同棲していた彼女とは半年前に別れた。別れた後もその家に住み続けていたため、皮肉なことに黒田の住むスペースも問題なく確保できた。
私達って傷の舐め合いしているだけだよね。
彼女が別れ際に放った一言が僕の頭の中を駆け巡る。僕と似た境遇で育った元カノ。精神が安定せず、よくオーバードーズ(薬の過剰摂取)をしていた。元カノの浮気に始まり、僕達は別れることになった。
十二月の新宿アルタ前は鮮やかな青のイルミネーションで彩られ、その綺麗な光景に僕は目を奪われた。が、いちゃついているカップルや恋人と待ち合わせをしているだろうと想定されるワクワクした表情の人間を見るとげんなりした。つくづく僕は人間が小さいなと認識させられた。
アルタ前で黒田を待ちながら周囲の人間を観察していると、見覚えのある女性が楽しそうな表情で一人立っていた。待ち合わせをしているように見える。
紗(さ)良(ら)。
半年前に別れた彼女に間違いなかった。濃い赤リップや派手な化粧は僕と付き合っていた頃には見られなかったものだ。いつも着ていた黒のダウンジャケットではなく可愛らしい白のボアコートを羽織っており、ゆるふわパーマをかけていた。見違えるように可愛くなっていた。
待ち合わせの相手はあの時の浮気相手だろうか。気まずくなった僕は彼女の視界に入らないように注意して新宿駅まで引き返す。ロータリーまで戻ると、僕はアルタ方面に背を向けて待ち合わせ場所について少し考える。その後、黒田に電話をかける。
「すみません黒田さん。待ち合わせ場所を変えたいんですが」
「ああ? もう着く所だよ」
黒田はどうやら既に新宿駅東口改札を出て、もう僕の近くまで来ているようだった。
ごった返す新宿駅前で黒田が僕を見つけたようで、右手を大きく挙げた。その直後だった。
「うわぁーーーーーーー」
けたたましい声が聞こえた。アルタ方面からだ。僕はアルタの方へ向き直ると女が男にのしかかり、何らかのもので顔面を何度も叩きつけているようだった。
嘘だろ。
アルタまで近づくと、男の顔面を殴打している女性の姿がはっきり見えた。白のボアコートを着ている女性。紗良に間違いなかった。
紗良は先程見た様子とは打って変わって、死んだような目をしながら、ハンマーのようなもので男の顔を何度も何度も叩きつけている。周囲の人間は止める様子はなく、茫然と立ち尽くしているようだった。僕も同じだった。
壊してやる。
紗良が繰り返し何かを呟いているのが聞こえてきた。壊す?
僕の頭の中に先程届いたメールの文面がよぎる。
退屈してるかもしれないから、面白いショーを見せてあげるよ。
殴られた男の顔は腫れ上がり、出血もしている。紗良の真っ白なボアコートには返り血が付着していた。
「何を、やってるんだ!」
黒田が叫びながら男を殴り続ける紗良の元へ駆ける。十二月だというのに、僕の頬から汗が滴り落ちた。
真っ暗な中で青白く光るイルミネーションが不気味に思えた。
四月の夕方は思ったよりも冷える。何か上着を持ってくれば良かったと私は後悔した。
校門を出てすぐの桜の木は完全に散ってしまっていて、何だかちょっと寂しい。満開の時期は春休みで、学校に通っていなかったので、校門前の満開の桜は見ていない。白みがかったピンクの桜と青空とのコントラストを想像する。想像の中の満開の桜の木は風でゆらゆらと揺れながらも、しっかりと咲き誇っていて、私の胸を打つ。桜は私に何とも言えない高揚感を与えてくれる。これまでの人生でまともなお花見はしたことがないけれど、私はなぜか桜が好きだった。
学校から家までは徒歩十五分程で着く。着いてしまう。学校を出てから真っすぐ家路を辿り、十分程経ったのでこのまま歩けばあと五分で家だ。家にはまだあの人がいるだろうか。
毎日通る小さな公園に立ち寄り、ブランコに座る。ブランコを漕ぐ、というよりはほんの少し揺らしながら考え事をする。
皆がよく口にする早く家に帰りたいという言葉。
「早く家に帰ってテレビ観たい」
今日の帰り際に、佐倉さんも言っていた。でも、私はその感覚が、その気持ちがよく分からない。早く帰りたいという気持ちが。
学校が好きなわけではないけれど、家にいるよりはずいぶんましだ。だから、学校が終わる時間が来るのがいつも少し怖い。でも、学校が私の居場所だと感じているわけではないし、学校に居ても嫌なものを目にすることはある。
私は今日の学校での出来事を思い返す。
シーンと静まり返った教室。慧君が振り下ろしたカッターナイフは梅沢君には当たらなかった。カッターナイフは仰向けになっていた梅沢君の顔からほんの数センチ離れた教室の床に突き刺さった。
カッターナイフを振り下ろした後、慧君はその場を離れなかった。震えながら金魚のようにパクパクと口を動かす梅沢君をじっと見ていた。その時間はほんのわずかだったのかもしれないが、私には果てしなく長く感じた。
授業開始のチャイムとほぼ同時に教室のドアが開くと、教室内の光景を目にした数学教師の平(たいら)先生はぎょっとしたようだった。先生はすぐさま「何やってんだ」と言葉を発し、慧君と梅沢君は先生に連れて行かれた。慧君と梅沢君がいなくなった後の教室もずっと静かなままだった。教室の壁に寄りかかっていた加藤君を見ると、目には涙が浮かんでいた。加藤君は悲しんでるようにも、怖がっているようにも見えなかった。安堵の涙だったのかもしれない。
瞑想に耽っている間に二、三時間ほど経っただろうか。辺りはすっかり暗くなり、冷え込みも厳しくなってきたので、私は家に帰る決心をした。ブランコから立ち上がり、スカートについた砂をパンパンとはらうと、私は足を踏み出した。
「冬子ちゃん、帰って来るの遅いんだね」
玄関のドアを開けると、顔を赤らめた男が目の前に立っていた。お酒の匂いが漂ってきて、私は鼻をつまみたくなったが、我慢する。母の恋人である菅原(すがわら)は一週間以上前からずっと家に居座っている。菅原のこちらをじっとりと観察するような目が私は苦手だった。今日の慧君も私のことを見てきたけれど、その目とは全然違う。
「こんばんは」
形式的な挨拶だけすると、私は菅原と壁の間をさっと通り抜け、リビングの椅子の上に通学カバンを置いた。
「部活やってないんでしょ。どうしてこんな遅いの?」
「友達と話し込んでて」
私は嘘をついた。私にそんな友達はいない。
「へえ、いいね。青春してて」
菅原は缶ビールをグイッと呷り、歯を見せて笑った。歯と歯の間に食べかすが挟まっている。口ひげと顎ひげを整えていて、小綺麗なチノパンとワイシャツを着こなしている。きっとおしゃれな中年男性なのだろうが、私には何かが歪んで見えた。
「お母さんは今日仕事ですか?」
「そうだよ。聞いてない?」
菅原は飲み終えた缶ビールを流し台に置くと、冷蔵庫をあさり始めた。母とはここ一週間近く顔を合わせていない。
「俺もこの後、仕事場に行くけどね」
冷蔵庫からエビスの缶ビールを取り出し、菅原はプルタブを開ける。プシュッと軽快な音が飛んでくる。
母は水商売をしており、菅原はそこへ足繁く通うお客さんだった。お客さんとホステスとの関係から恋人に発展し、家に寄生するようになった男は菅原が初めてではなかった。
もう何人もそんな男を見てきた。
「ねえ、冬子ちゃん。今度三人で旅行にでも行こうよ」
カバンから弁当箱を取り出している最中に、菅原が背後から肩に手を乗せてきた。その手の感触が何だか嫌で、私はすぐさま台所へ移動し、菅原から離れた。
「りょ、旅行ですか?」
蛇口を捻ってスポンジを濡らし、洗剤をつける。動揺したからか、洗剤を多く出しすぎてしまった。
「うん、箱根とか熱海とかでゆっくりするのなんてどうかな、と思って」
「いいですね」
もちろん嫌だが、その場しのぎの返事をした。弁当箱を水で濯いでから、洗剤をつけたスポンジでごしごしと擦る。弁当箱にこびり付いた汚れが落ちていく様を見ると少し気持ちがいい。
「よし、決まりだ。じゃあプランを考えとくよ」
背後から椅子を引く音がした。カタンと缶ビールとテーブルがぶつかる音の後に、ドサッと椅子に腰かける音が聞こえた。
気がつくと私の手は止まり、その場に立ち尽くしていた。蛇口からは水滴が一定の間隔でポトポトと滴り落ちている。
母は二十一歳の時に私を産んだので、現在は三十五歳で外見も非常に若々しい。父親は私が物心つく頃には既にいなかった。母には付き合いのある親戚がいなかったので、私は親戚との交流というものを持ったことがなかった。その代わり、母は代わる代わる恋人である男を家に連れてきた。
母が連れてきた男の中には優しい人もいたが、幼い私を蹴っ飛ばすような乱暴な人もいた。私が「ごめんなさい、やめて、やめて」と泣き叫んでもその男の人は蹴るのを止めなかった。母がその様子を横目に見ながら飲み物を口にしていたことは今でも覚えている。
その出来事のせいか、それ以降は至極普通に見える人でも大人の男の人は何だかとても怖かった。いつか私に暴力を振るったりしてくるような気がしてならなかった。
現在家に住み着いている菅原は距離が近く、ねっとりとした視線には嫌悪感を覚えるが、今のところこれといった被害は受けてはいない。それでも私の心はじわじわと消耗してすり減っているような気がした。
「転校生を紹介します」
翌朝のホームルーム。普段は冷静で物静かな佐々木先生の声がいつもよりわずかにうわずっているように聞こえた。
「神(かみ)城(しろ)昌(あきら)です。みんなとできるだけ早く仲良くなれれば嬉しいです。よろしくお願いします」
中性的な声と外見だった。人懐こそうな笑みを浮かべて自己紹介をした神城君はとてもぱっちりとした目をしており、顔立ちが整っていた。世間で言う甘いマスクというのだろうか、女の子が十人いたら、十人はかっこいいという感想を抱くと推測されるようなきれいな顔だった。
ご両親の仕事の都合で始業式の日に引っ越しが間に合わず、少し遅れての転入になったのだという佐々木先生からの説明があった。
「神城君はそうだな、谷村さんの隣の席に座ってもらおうかな」
佐々木先生は空いている私の右隣りの席を指し、神城君が歩いて近づいてくる。
「よろしくね」
神城君は椅子を引きながら私に挨拶し、私もこちらこそよろしく、と返した。とても感じの良さそうな人で私は安心した。でも、私は左隣の席の慧君の席が空席なのが気になって頭の中に靄がかかっているような感覚が消えなかった。
* * *
「白野くーん、ビールがないよ」
仕事を終え、部屋でくつろいでいた所、黒田は僕のアパートに帰って来るとすぐに冷蔵庫を開け、文句をつけてきた。実に図々しい。黒田は二日前から僕のアパートに住み着いている。一体どうしてこんなことになってしまったのだろう。
「チェッ。これからがお楽しみだったのにな」
今にもカツアゲ男の腕を折ろうかとしていた黒田と呼ばれた男は、突如現れたストレートのロングヘアーの女性の方に向きなおりながら顔をしかめた。
「その男の身柄はこちらで預かるわ」
「こいつは組織の末端の人間か? ハルカ」
「ええ。色々聞き出さなきゃいけないから。あなたに余計なことされると困るのよ」
「まあお前にもらった情報のおかげでこいつを仕留められたからな。今日はもう大人しくしとくよ」
僕は今の状況が上手く呑み込めず、茫然としながらハルカという女性を直視する。サラサラの髪とキリっとした目、綺麗な鼻の形が印象的で、凛とした雰囲気の人だなと思った。
ハルカの肩から猫が飛び降り、黒田の方へ向かってトコトコと歩き出した。黒田の足元に顔をすりすりと擦り付けている様子から、黒田に懐いているのか、それとも人懐こい猫なのか。
「久しぶり。ケプリル」
ケプリルと呼ばれた猫は体が細く、毛並みがツヤツヤだった。僕とケプリルの目が合う。瞳の中の小さい眼球に宇宙人のような印象も抱いたが、よく見るとかわいらしい猫のように見えた。
「こいつと奴は関係ありそうか?」
黒田がケプリルの頭を撫でながら、ハルカに真剣な声色で尋ねる。
「まだ分からないけど、おそらく無関係だと思うわ。破壊者の影響を受けていないと思われるから」
破壊者。その単語に覚えがあった。しかし、今朝のイタズラメールとは無関係かもしれないし、この話をこの人達にすべきがどうか迷った。面倒なことになりかねないと思ったからだ。
「あの」
僕はさんざん頭を悩ませた結果、勇気を振り絞って聞いてみることにした。
「破壊者って何ですか?」
二人とも僕の声にハッとして振り返る。僕の存在は忘れられていたのだろうか。影が薄いとは良く言われるが。
「カツアゲの被害者の方ね。何でもないわ」
「怪我はない? こんな時間だし、もう帰っ 」
「何か知ってるのか?」
ハルカの言葉を遮り、黒田が真剣な眼差しで僕の方を見て尋ねる。期待と怒りがない交ぜになったような不思議な声だった。
「あ、いや関係あるかどうか分からないんですが」
僕は破壊者という単語について尋ねたことを少し後悔しながらも、黒田に助けられたという恩にも近い感情も相まって、もうあのメールを見せるしかないと思った。ポケットからスマートフォンを取り出す。会社メールは外部の端末からでも見れるようにしているので、今朝のメールを開き、再度あの気味の悪い文面を確認する。
壊すことは楽しいよ。
君はいつも我慢してばかりで、苦しいだろう。辛いだろう。
彼のように全てを開放して奪ってみようよ。壊してみようよ。
きっと新しい世界が開けるよ。
新しい世界は本当の君を輝かせてくれるよ。救ってくれるよ。
だから君も壊してみようよ。
Breaker
「こんなメールが届いて」
スマートフォンでメールを二人に見せると、二人とも一瞬固まった。
「これは・・・」
黒田がまじまじと画面を見つめながら、顔をこわばらせた。獲物を狩る狩人のような、犯人を追い詰める刑事のような目つきに変わっていく。
「この文面。奴のものだと思われるわね。このメールが届いたのはいつ?」
「今朝です。たしか九時過ぎぐらいだったと思います」
「危ないな」
「ええ、危ないわね」
危ない?
「あんた、名前は?」
突然黒田に尋ねられた。
「白野といいます」
「白野君。君は今非常に危険な状況に陥っている」
「ビールがなきゃ、俺生きていけないよ。買ってきてよ」
「自分で買ってきてくださいよ」
溜息をつき、冷蔵庫のドアをパタリと閉じる黒田はまるで駄々をこねる子供のようだ。
「ボディガードに対してそんな扱いしていいのかな?」
イタズラ少年のようににやりと笑う黒田に僕は少しイラっとした。
「別に頼んだ覚えはないんですけどね」
カツアゲにあったところを助けられたあの夜、黒田達に不気味なメールを見せた所、僕は破壊者という人間に狙われている可能性が高く、僕の身を案じて黒田がボディガードをすることになった。だが、これは本当にボディガードになっているのだろうか。ただ僕の家に寄生しているだけなのではないか。
「そんなこと言っていいのかなぁ? 俺は君の命の恩人だよ」
以前は君を助けたわけじゃないと言っていたにも関わらず、黒田は恩着せがましく言葉を放つ。そもそもあのカツアゲ男は僕の命ではなく、僕の所持金を狙っていただけなのだから、命の恩人というのはおおげさではないか。もちろん助けてもらったことには感謝しているが。
「お、オーウェルの「一九八四年」持ってるのか? 読んでいいか?」
「別にかまいませんよ」
僕は本棚から「一九八四年」の文庫本を取り出し、黒田へと手渡す。黒田は本を手に取ると、即座にページをめくり始めた。
「破壊者って何者なんです?」
少年のような顔していた黒田の顔が破壊者という単語を聞いたとたんにこわばる。
「・・・分からない。年齢も性別もどんな顔なのかも。奴は表には出てこず、人を駒のように使って犯罪を起こさせるだけだからな」
長い沈黙の後、黒田が答える。
「でも俺は何年も奴を探してる」
黒田の口調は僕に情報を隠しているわけではなさそうに思えた。でも、それだけの情報でどうやって破壊者を探すのだろう。そもそも僕は破壊者という存在について半信半疑、いやほとんど信じていなかった。僕に危険が迫っているということも。
「ハルカも先日お前に届いたメールから破壊者を辿っているところだ」
長い黒髪のミステリアスな女性。彼女も何者なのだろう。黒田の協力者のように思えるが。
「ハルカさんってどんな人なんですか?」
「あいつは情報屋だ。表の社会にも裏の社会にも通じていて、俺はあいつに雇われてる」
「裏の社会にも通じているって・・・。物騒ですね」
とても綺麗な人だったが黒田の言葉を聞き、お近づきになるのはよしたほうがいいと僕の心は警告を出した。
「それよりも今はビール。ビール買ってきてくれ」
黒田に命じられるがまま、僕は自宅を出て近所のコンビニまでの道を辿る。徒歩三分程のため、上着はピーコートを着てきたが、思ったりも寒く体の芯が冷え込む。暗い夜に見えるコンビニまでの道には小さな個人店の本屋があり、僕はその本屋のチェーン店にはない雰囲気を少し気に入っている。今は深夜十時で、もうすでに少し錆びついたシャッターがかかっている。この辺りは本屋の他にも個人店の飲食店等が並んでいるが、同様にシャッターがかかっていた。ハァっと吐き出す息が白く、僕は冬という季節を実感する。
僕のボディガードとして家に住み着いているのだったら、黒田が買い出しにいくのが筋じゃないかと思ったが、しぶしぶ了承した。だいたい僕が命を狙われているというのが、信じがたい。こんな価値のない人間を狙って何になるのだろう。
「いらっしゃいませー」
深夜のコンビニ。やる気のなさそうな声の形だけのあいさつ。レジの前には幼稚園児ぐらいの小さな女の子を連れた厳つい男が立っており、深夜十時過ぎというこの時間に子供を連れてコンビニを訪れる神経に疑問を抱く。男は手ぶらで、タバコの銘柄だけを店員に告げ、とてもぶっきらぼうなでふてぶてしい態度だった。タバコの番号を言った方が店員も分かりやすいだろうが、この男にそんな気配りは似つかない。
買い物かごを取って、足早に酒類のコーナーに向かう。黒田はエビスじゃないと駄目だというぜいたく指向だったので、ビールが並んでいる冷蔵庫からエビスを探す。
「白野君?」
呼ばれて振り返ると買い物かごを持ったスラっとした女性が立っていた。ハルカだった。
「こ、こんばんは」
まさかこんな所で会うとは思わなかったのもあり、少しどもってしまった。
「もしかして、黒田のおつかい?」
「ええ、ビールを買いに」
ハルカの買い物かごの中をちらりと見ると、チャオチュールが何本か入っていた。おそらくケプリルのご飯だろう。
「あんな奴の言うこと聞かなくてもいいのよ。本来あなたの家に住み着いているあいつが買いにいくべきなんだから」
あんな奴という呼び方に親しみを感じさせる。ハルカと黒田は長い付き合いなのだろうか。
冷蔵庫の中にエビスを見つけ、僕は扉に手をかける。
「良かったらウチの店に来ない? 喫茶店なんだけど」
突然のハルカの誘いに僕はぎょっとして固まった。この人も黒田同様謎めいていて危うさを感じさせ、僕は警戒心を抱く。同時にこんな美人からの誘いに心躍る自分もいた。
「いいんですか?」
僕は条件反射で答えてしまい、ハルカが営んでいるという喫茶店に行くことになった。会計を終えると大通りの照明がいつもよりぼんやりしているような気がした。大通りといっても片側一車線だが。
喫茶店は大通りを僕の自宅とは反対側に徒歩で五分程歩いたあとの小さな路地を入ってすぐにあった。三鷹には長いこと住んでいるが、近所のこんな場所に喫茶店があることを僕は今まで知らなかった。看板にはシンプルなデザインで「シャーロック」と書かれている。喫茶シャーロックか。僕は有名な探偵を思い浮かべた。
「今日は定休日なんだけど、さあ入って」
促されるままにドアを引いて店内に入ると薄めの茶を基調としたテーブルやカウンターが目についた。壁には古い映画のポスター等が貼ってあり、新しくはなかったが、昔ながらの本格的な喫茶店を思わせるような内装は僕は嫌いではなかった。
「すいません、お邪魔しちゃって」
ハルカは全然いいのよ、と言うとカウンターの椅子を引いた。僕は椅子に腰かけるとハルカから渡されたメニュー表に目を通す。
ブレンドコーヒー三百円。カフェオレ三百三十円。ずいぶん良心的な価格だ。僕はコーヒーは好きだが、この時間帯に飲むと眠れなくなることを心配した。今日は金曜日なので、明日は仕事は休みではあるが。
「ホットココアお願いしてもいいですか?」
ハルカは了承し、カウンターの中に入る。
「ハルカさんは喫茶店のオーナーだったんですね。びっくりしました」
「オーナーといっても私一人でやってる店だからね。それに半分は道楽だし」
半分はという言葉が引っ掛かった。ここも情報屋としての仕事場でもあるということか。
二階に続く階段からニャーという鳴き声と共にケプリルが降りてきた。カウンターの椅子に腰掛けている僕の足元までトコトコと歩いてくると、顔をすりすりと寄せてきた。どうやら甘えているようだ。
「さっきまで寝てたのに。起きたのね、ケプ」
ケプリルの頭を撫でながらハルカの話を聞くと、ケプリルは喫茶店の営業時間にも一階に降りてくることがしばしばあり、お客さんにとても可愛がられるそうだ。
「看板猫ですね。ケプリル君は」
そんな大層なものじゃないけれど、とハルカはカップを持ちながらクスリと笑った。美味しそうな甘いココアの匂いが漂ってくる。
「お待たせしました。ホットココアよ」
コトンと僕の目の前にカップが置かれる。一口飲むと、甘さ加減がちょうどよく、飲みやすかった。
「美味しいです。とても」
「お口に合ったならなにより」
「ハルカさんは黒田さんとは長いんですか?」
僕は唐突に疑問に思っていたことを訪ねた。ケプリルが椅子を経由してカウンターの上に飛び乗る。
「ケプ。カウンターの上は駄目よ。黒田? そうね、あいつと知り合ってから五年ぐらいになるかしら」
ケプリルに注意している時のハルカの声は普段の声とは異なり、少し甘い声だった。
「あいつ、迷惑掛けてない?」
「あ、いえ、大丈夫です。さっそくビールの買い出しを催促されましたが」
僕は笑いながら答え、黒田の事を思い返す。カツアゲ男と戦っているときの黒田。僕の家でヘラヘラと笑っている黒田。
「不思議な人ですよね。黒田さんって」
「そうね。そして頭のねじが何本も外れてる。いや外してるというべきか」
外してる?
でも、とハルカが続ける。
「きっとあなたのことを守ってくれると思うわ」
信頼という言葉が頭をよぎる。二人の関係はまだよく分からない部分も多いが、僕は少し羨ましかった。
「白野君。例のメールは職場のパソコンに送られてきたのよね?」
「ええ、そうです」
「白野君はどんな仕事してるの?」
例のメールについての掘り下げた質問がくるかと思ったので、僕は少し拍子抜けした。
「電気設備の設計してます。技術コンサルタントってやつですね」
「技術職なのね。コンサルタント会社って忙しいんでしょう?」
「繁忙期になるとけっこう残業多くて忙しいですね。でも、この業界ではマシな方だと思います」
残業が多くて嫌になることもあるが、福利厚生はしっかりしているし、ブラック企業というわけではない。世間一般的に見たら、残業は多い方になるのかもしれないが、僕の会社よりも忙しい会社なんて山のようにある。
「まあでも理不尽なお客さんがたまにいて、ちょっとキツイなって時もありますね」
理不尽。
僕は自分が放った言葉で、松林にパワハラを受けている新入社員の倉木のやつれた顔を思い起こす。
「あと、後輩がちょっと社内の人間に理不尽な扱いを受けてて」
するりと言葉が口からこぼれ落ちた。数少ない友人にも相談などしたことがないが、ハルカの前だと自然と言葉出てくる。
「理不尽?」
ハルカに尋ねられ、僕は松林が倉木を説教部屋と呼ばれる会議室へ連れていき、何時間にもわたり叱責すること、皆のいるデスクの上でも倉木の仕事のミスについて頻繁に怒鳴りつけること等を事細かに話した。これほどすんなり人に相談をする自分がいることに少し驚いている。
「なるほど。それはひどいわね」
ハルカが少し顔をしかめる。
「その松林っていう上司が部下に怒鳴りつける内容はきっと仕事上は正論なんでしょう。だからこそタチが悪いわね」
正論。ハルカの口から出たその言葉は的を得ていた。
「仕事上は正論だから部下の子も反論できない。周囲の人もその行為について止めることができないのだと思うわ」
「その通りです。僕を含めて周りは見て見ぬふりで、僕は本当に情けない人間だなって思ってしまいます」
暖かいココアを一口すする。後輩を助けてやれない自分が甘い物を口にするのがとても悪いことのように思えた。
白野君に責任があるわけじゃないと思うわ、とハルカが言い、しばらく沈黙が続いた。カウンターの奥にはたくさんの種類のコーヒー豆があり、ケプリルがその匂いを嗅いでいる。少し薄暗い店内は何だかとても落ち着いた。
「ねえ、白野君」
ハルカが口を開く。
「ハラスメントっていう言葉について否定的な意見があるじゃない? 最近はちょっとしたことですぐに《ハラスメント》だって騒ぐ、昔ならそんなの考えられないって」
テレビやネットニュースである程度聞いたことがある意見だ。
「確かに業務の適正な範囲での叱ること等についてすぐパワハラだって騒ぐ人はいると思うの。でもその意見って本当に理不尽な扱いを受けている人達が声を上げにくくなってしまうことを全く想定していない軽薄な意見だって思ってしまう。虐待を受けている子供が助けを呼ぶ声を上げにくくなるような」
ハルカの言葉は僕がずっともやもやと抱えていた疑問を言語化してくれたかのようで、僕の頭の中にあった靄が少し消えていくような感じがした。それと同時に過去に僕に起きた出来事をどうしても思い出してしまった。
お前みたいな出来損ないには罰が必要だ。
「生きづらい世の中ですね。本当に」
「ええ。立場の弱い人にとっては特にそうね」
弱者ではなく、立場の弱い人という言葉を選んだハルカはとても優しい人なんだなと思えた。時計の針の音が聞こえ、時刻は午後十一時三十分を少し回った。ココアが入ったカップも空になった。
「ごちそうさまでした。こんな遅くにありがとうございました」
「全然いいのよ、私が言い出したんだし。それとお金はいいからね」
「え? それはさすがに悪いですよ」
申し訳ない気持ちで財布を出す仕草をするが、同時にラッキーという気持ちもあった。
「本当にいいからね」
「すみません、ありがとうございます」
「喫茶店の収入よりも、色々な人に売る情報料の方が多いから。気にしなくていいのよ」
黒田がハルカは情報屋だと言っていたことを思い出した。
「ああ、それと」
ハルカが何かを思い出したように声を出す。
「この間あなたに届いた例のメール、解析してみたけど海外のサーバーをいくつも経由しているみたいで、送信者は突き止められなかった」
破壊者。本当に存在しているか分からない謎の存在。
「白野君、気を付けてね。奴は何をしでかすか分からないから」
お礼を重ね重ね言い、喫茶店を後にした。帰ったら黒田からビールの買い出しに時間が掛かりすぎだと文句を言われるだろう。空を見上げると、小雨がパラパラと降ってきていたので、僕は手をかざして雨の感触を確かめた。
* * *
五人分の机をくっつけた状態で、私の隣に慧君が座っている。この席は修学旅行の班で構成されており、私の目の前に佐倉さん、佐倉さんの隣に神城君、お誕生日席には加藤君がいる。
慧君が梅沢君にカッターナイフを突き付けてから一週間後、慧君は教室に戻ってきた。梅沢君はよほどあの出来事が怖かったからなのか、あれから大人しくしているようだ。私は慧君が戻ってきてくれたことにすごくホッとしていた。
「自由行動どうしようか?」
この班で皆のまとめ役を買って出てくれている神城君が皆に声を投げかける。神城君の中性的な声には何とも言えない安心感がある。
三か月後の修学旅行で、私達は沖縄に行くことになっている。修学旅行は家から離れられる私にとって少しいいイベント程度の認識だったが、同じ班に慧君がいることでそれはもっと特別なものに変わった。現在行われている話し合いで慧君はまだ一度も発言していないが。
「私は国際通りに行きたいな。映画とかでも出てくる所でしょ」
佐倉さんが我先にと意見を述べる。
修学旅行の班決めは、自由に好きな物同士で五人のグループを作るように担任の佐々木先生が指示を出した。私は最初佐倉さんに誘われ、二つ返事で了承した。転校生の神城君は一人でおろおろと周囲をうかがっていた加藤君に声を掛け、続いて一人で机に肘をついて悠然としていた慧君の方へ近づいていった。神城君達が男子三人のグループを作ると、クラスであぶれていた私達女子二人に、よかったら一緒の班にならない? と神城君に誘われたおかげで無事に修学旅行の班が決まった。神城君に誘われた時の佐倉さんはいつも細い目を少し大きくして驚き、頬が少し紅潮しているように見え、その佐倉さんの反応がとても新鮮だった。佐倉さんは神城君の隣にいた慧君には対しては、神城君とは対照的に訝し気な視線を送っていた。
教室を見渡すとクラスの皆が修学旅行というイベントに浮かれているような、とても楽しみにしているような雰囲気で、ワイワイと話をしている。私達の班は他の班と比べるとかなり静かだ。
「国際通りは色々とお土産も買えそうだしいいかもね。皆は他に行きたい所ある?」
私達の班は神城君がリーダーシップを発揮してくれるおかげで、かろうじて話し合いが進行している。私と加藤君は物怖じしてしまうタイプなので、自分の意見を主張することがなかなかできない。
「沖縄って」
慧君が初めて口を開いた。皆が少し驚き、慧君の方を見る。
「歴史資料館とかはあるのかな?」
慧君からそんな言葉が出てくるのにびっくりして、皆が一瞬固まる。が、意外にも加藤君が食いついた。
「た、確か那覇にあったはずだと思う。沖縄の琉球文化は興味深いよ」
えー何か地味、と佐倉さんは難色を示したが、慧君と加藤君は意気投合したようで沖縄の歴史について語り合い始めた。修学旅行の自由行動の行き先を決めるにあたっては進行が遅れてしまうのかもしれないが、慧君と加藤君が仲良くなったような気がして、私は少し嬉しかった。
「今日は塾だー。行きたくないなぁ」
帰りのホームルームが終わると、佐倉さんは憂鬱そうな表情を見せ、足早に帰っていった。
塾か。私も塾に行ければ家に帰る時間を遅らせる正当な理由ができるのかな、と考えたがそもそも私の母は塾のお金など出さないだろうし、文字が頭に入ってこず、壊滅的に勉強ができない私が塾に通った所で学力が上がる気はしない。
「谷村さん」
塾について考えを巡らせていると、後ろから神城君の声がしたので振り返る。
「良かったら四人でどこかに行かない? 本当は五人で行ければ良かったんだけど、佐倉さんは今日塾があるみたいで」
神城君の口から発せられる心地の良い声が私の耳に入る。そして、神城君の隣には慧君と加藤君が立っていた。
「うん、いいよ」
断る理由がないので、即答する。家に帰る時間を遅らせたいのもあるが、慧君と一緒にいられる。
「アイスコーヒー四つでお願いします」
学校から徒歩で十分程の小さな商店街の中にある喫茶店に私達は入った。照明が明るく、おしゃれな北欧雑貨が飾ってある開放的な店内とは対照的に、面倒くさそうな声で「いらっしゃいませ」と声を出す店員さんはとても無愛想だった。
「神城は東京からこっちに来たんだよな?」
「うん、両親の仕事の都合でね。これまでもあちこち転校してるよ」
「転勤族なんだな」
梅沢君の一件で慧君のことを心配していたが、こうして神城君と言葉を交わす姿を見て、私は少しホッとした。
「アイスコーヒー四つです」
注文したアイスコーヒーが四人の前にそれぞれ置かれる。店員さんのグラスの置き方はお世辞にも丁寧とは言えなかった。
アイスコーヒーを何も入れずにそのまま一口飲むと、口の中で苦みが広がっていく。私にはブラックコーヒーはまだ早いようだと思い、ガムシロップを入れてストローでかき混ぜる。
「田中君たちはずっと仙台?」
慧君と加藤君が無言でうなずく。私は返事をする。
「うん。私と田中君は小学校が別だけどね」
私と加藤君は同じ小学校出身で五、六年生は同じクラスだった。私も加藤君もお互い大人しい性格で人見知りのため、会話はしたことはなかった。慧君とは小学校が別で中学一
年生の時に初めて同じクラスになり、三年生になった今年、再び同じクラスになった。慧君とも会話を交わしたことはないが、私は一年生の時から慧君の存在が気になっていて、休み時間に窓際の席で肘をつきながら、一人で校庭をぼんやり眺めている慧君の後ろ姿をずっと見ていた記憶がある。
「地元があるのって何だか羨ましいな」
神城君は少し寂しそうな目をしているように見えた。コーヒーを飲む姿も何だか絵になるようなルックスとオーラを神城君は持っていた。芸能人にいてもおかしくないような。そういえば、神城君も慧君もガムシロップとミルクを全くいれずに平然とコーヒーを飲んでいて、何だかとても大人なように感じた。加藤君はガムシロップを二つ入れていて、私はちょっと安心した。
「でも、こうして友達ができて安心したよ。皆と仲良くなれるか不安だったから」
友達。私にはその言葉がとてつもなく眩しかった。真っ暗闇な部屋から雲一つなく輝く太陽が出ている外に出た時のように。私は慧君達と友達になれたのだろうか。
「友達か」
私の隣に座っている加藤君の顔がほころぶ。少し前までずっといじめを受けていた加藤君にとって、神城君の言葉はきっと嬉しかったのだろう。
「田中君、この間は助けてくれてありがとう。ずっとお礼を言おうと思ってたんだけど、なかなか言い出せなくて」
慧君が珍しく少し驚いたような表情を見せる。
「あ、あれは」
慧君が口ごもる。
「別に加藤を助けたわけじゃなくて、俺がやりたいことをやっただけだ」
慧君はとても照れくさそうで、何だかとても可愛かった。慧君のこんな表情を見るのは初めてだ。
神城君は転校してくる前の出来事だったので、事情は分からないようだが二人の表情を見て、微笑んでいる。
「そうだ、谷村さん」
何かを思い出したように神城君が話を切り出す。少し言いにくそうな遠慮を含んだ口調だ。
「授業中に谷村さんの書いているノートが見えちゃったんだけど、もしかして、字が見えてない?」
一瞬心臓が止まったかのような感覚に襲われた。
「神城」
慧君が神城君を牽制するような声を出す。私の体は硬直したままだ。
「いや、僕も言おうかどうか迷ったんだけど」
神城君の声に悪意がないのが分かり、私は少し落ち着きを取り戻す。
「学習障害っていうのがあってね。LDとも呼ばれてるんだけど、もしかしたらと思って」
学習障害。
「今までずっと苦しんでたんじゃないのかなと思って」
慧君が楠瀬先生に言い放った言葉が頭をよぎる。
先生は車椅子の人に階段登れって言いますか?
俺は車椅子の人に階段登れって言う人や、足のない人に歩けっていうような人の授業なんて受けたくない。
昔から私は極端に読み書きが苦手だった。母からは努力が足りないと言われてきたから私のせいなのだと思ってきた。
「正式には医者に判断してもらわないと分からないけど、先天的なものだから、生まれ持った特性だから、谷村は何も悪くないってことだ」
慧君がまっすぐに私を見て丁寧に言葉を届けてくれる。
「気を悪くしたらごめんね」
神城君が謝る。
私は二人の言葉で肩の荷が、心の荷がふっと軽くなった気がした。謝られることなんて何もない。むしろ私は何かから解放されるような気がして、感謝の気持ちしか湧かなかった。
「今度病院行ったら、先生に相談してみよう」
「うん、それがいいと思うよ」
二人の声が私の心に響く。響きわたる。
「慧君、神城君」
自然と慧君と呼べた。苗字ではなく。
「ありがとう」
喫茶店から出て解散してから、私はいつもの公園でブランコを揺すっていた。頭の中で言葉をぐるりぐるりと回していく。
学習障害とは先天的な脳の特徴だと神城君は言った。障害という言葉がついているが、個性なのだと。慧君は足が速い遅いとかそういう個性と同じだと言ってくれた。決して私の努力不足なのではないと。
あんたは努力が足りないのよ。もっと努力しなさいよ。
幼い頃から勉強ができない私に対して母に浴びせられ続けた言葉。その忌まわしい言葉を吹き飛ばすような、払いのけるような二人の暖かな言葉が私の体の中に染み渡っていく。加藤君も谷村さんは何も悪くないと言ってくれた。
友達、仲間というものとは私は縁がなかった。でも、そうじゃないと初めて思えた。
立ち上がってブランコを勢いよく漕ぐ。ギーコギーコと錆び付いた金具が擦れる音が聞こえる。体に吹き付ける風が気持ちいい。私はもっと自分を信じてもいいのかもしれないと思えた。
ブランコの揺れが収まるのを待って、ヒョイと飛び降りて着地する。土の上に置いていた通学カバンを肩に掛けて、私は家へと向かう。いつもは何とも思わない街灯の明かりが、私の進む道を照らしてくれているような、そんな感覚を覚えた。
玄関の扉を開こうとすると、鍵がかかっていた。誰もいないのだろう。私はカバンから家の鍵を取り出すと鍵穴に差し込み、開錠する。
ガチャリという音と共に違う世界に来たような空気を感じる。私の居場所ではない私の家。真っ暗なリビングに寒気がした。気温は外に比べると高いはずなのに。
電気をつけるとリビングのテーブルに菅原の吸っているタバコの箱が置かれていた。箱の下に何枚か写真が置いてある。私はテーブルに近づいてタバコの箱を持ち上げる。時間が止まる。
なんで。
写真にはプールで遊ぶ幼い私が映っていた。何も服を着ていない全裸の私が。
五枚あった写真は全て小さい頃の私の写真で、どれも私は裸だった。冷汗が首筋からにじみ出てくる。何かが壊れていくような音が私の心の中で響き渡った。
* * *
榊原(さかきばら)はネクタイがいつも曲がっている。いつもと同じ薄いブルーのネクタイ。僕の直属の上司が不在のため、課長の榊原に作成した書類のチェックを受けていた。
「ここの定格容量間違えてるぞ。あとここはMCCB(配線用遮断器)が必要だな」
図面に大量の赤が入る。僕は仕事ができない方なので、直属の上司の鈴木(すずき)にチェックしてもらっても、修正事項がそれなりに出てくるが、榊原のチェックはそれよりも細かく精度が高かった。
「これ、この間の品質点検でも指摘があった所だぞ」
社内全体で行われた品質点検という技術勉強会の場で出た情報が僕の頭にきちんと入っておらず、榊原に注意を受ける。
「すみません」
「まあ、修正事項はこんな所か。修正したらコンサルに送っていいぞ」
少し溜息をつきながら、榊原から書類を手渡される。大量の付箋と朱書きが入った書類。
「ありがとうございました」
忙しい中チェックの時間を割いてくれた榊原に礼を言い、僕は自分の席に戻る。何だか少し疲れた。コーヒーでも淹れに行こうか。
席を立ってインスタントコーヒーを淹れに行く途中、行き先を表示するホワイトボードが目に入る。松林と倉木は今日と明日の丸二日出張で、行き先は北海道となっている。
きっと出張先でも説教されてるんだろうな。
「北海道か。俺も行ってジンギスカンでも食いたいよ」
同期の坂本が大量の書類を抱えていた。
「ま、でも松林さんと一緒に行くのは勘弁だな。飲みの席でも説教や武勇伝の繰り返しだ。倉木がかわいそうだ」
かわいそうという言葉が坂本の口から出たが、あまり倉木に同情しているようには見えなかった。むしろ楽しんでいるような。
松林は飲み会等の場で、下の世代に説教を繰り返すことが社内に知れ渡っていた。また、俺達の若い頃は徹夜が当たり前だった等の自慢話も多い。実際僕も残業規制が緩かった時代の残業自慢を耳にしている。
「坂本は遠方出張の予定はないのか?」
坂本に聞くと、今の所予定は入っていないとの返事が返ってきた。泊まりの出張を楽しみたいらしい。
「忙しそうだな」
「まあね、でも年度末の忙しさに比べたら、まだいい方だよ。坂本も忙しいんじゃない?」
「今大きい仕事が始まってこれから打合せだよ。忙しくなりそうだ」
坂本は技術力が高くて非常に仕事ができ、同期のエースのような存在で、周囲からの期待も大きい。僕とはまるで違う。
インスタントコーヒーを紙コップに注いで、リフレッシュコーナーでぼんやりとしていた。ブラックコーヒーの何とも言えない苦みが僕は好きだ。僕は考える。自分の今後のことを。
この先この仕事を続けていけるか。松林にパワハラを受けている倉木。優秀な坂本。破壊者。僕の身に迫っている危険。
一人で考え続けても同じ思考がぐるぐると回るだけで、何も変わらない。そんなことは分かっていても僕の頭の中の動きは止められなかった。
席に戻るとメールが届いている知らせがポップアップに表示されている。僕はメール画面を開くと、件名のないメールが一通あった。
君は壊したい? それとも壊されたい?
この世界がひどく理不尽なのは知っているだろう。
壊すか壊されるか。
どうせなら壊す側に回ってみるのはどうだろう。
退屈してるかもしれないから、面白いショーを見せてあげるよ。
Breaker
マウスを握る手が止まり、脳も停止した。
会社を出てすぐに、破壊者からのメールについて黒田に連絡すると、黒田は今からこちらに向かうと返事をした。いつも飄々としている黒田だが、破壊者がからむと真剣で前のめりになる。
・・・。
僕は会社のある五反田まで来られるのは嫌だったので、新宿駅で黒田と落ち合うことにした。
JR五反田駅から新宿駅まではすぐに着く。僕はいつも乗っている山手線に揺られながら少しウトウトする。立っているのに少し眠気が襲う。
「次は代々木、代々木」
アナウンスが次の駅を知らせる声が響いてくる。代々木の次が新宿駅だ。僕は目を覚ますように左の太ももをつねる。周囲の人達はスマートフォンが世界の全てであるかのようにのぞき込んでいる。
僕もスマートフォンを取り出して、時刻を確認すると午後九時を少し回った所だった。
新宿駅で降りて、ごった返す人の波について行き、東口の改札を出る。黒田との待ち合わせはアルタ前なので、東口駅前のロータリーを経由して、目的地を目指す。十二月だからか、通ってきた駅の中はクリスマス用の装飾が多く見られた。僕には縁のないイベントだ。同棲していた彼女とは半年前に別れた。別れた後もその家に住み続けていたため、皮肉なことに黒田の住むスペースも問題なく確保できた。
私達って傷の舐め合いしているだけだよね。
彼女が別れ際に放った一言が僕の頭の中を駆け巡る。僕と似た境遇で育った元カノ。精神が安定せず、よくオーバードーズ(薬の過剰摂取)をしていた。元カノの浮気に始まり、僕達は別れることになった。
十二月の新宿アルタ前は鮮やかな青のイルミネーションで彩られ、その綺麗な光景に僕は目を奪われた。が、いちゃついているカップルや恋人と待ち合わせをしているだろうと想定されるワクワクした表情の人間を見るとげんなりした。つくづく僕は人間が小さいなと認識させられた。
アルタ前で黒田を待ちながら周囲の人間を観察していると、見覚えのある女性が楽しそうな表情で一人立っていた。待ち合わせをしているように見える。
紗(さ)良(ら)。
半年前に別れた彼女に間違いなかった。濃い赤リップや派手な化粧は僕と付き合っていた頃には見られなかったものだ。いつも着ていた黒のダウンジャケットではなく可愛らしい白のボアコートを羽織っており、ゆるふわパーマをかけていた。見違えるように可愛くなっていた。
待ち合わせの相手はあの時の浮気相手だろうか。気まずくなった僕は彼女の視界に入らないように注意して新宿駅まで引き返す。ロータリーまで戻ると、僕はアルタ方面に背を向けて待ち合わせ場所について少し考える。その後、黒田に電話をかける。
「すみません黒田さん。待ち合わせ場所を変えたいんですが」
「ああ? もう着く所だよ」
黒田はどうやら既に新宿駅東口改札を出て、もう僕の近くまで来ているようだった。
ごった返す新宿駅前で黒田が僕を見つけたようで、右手を大きく挙げた。その直後だった。
「うわぁーーーーーーー」
けたたましい声が聞こえた。アルタ方面からだ。僕はアルタの方へ向き直ると女が男にのしかかり、何らかのもので顔面を何度も叩きつけているようだった。
嘘だろ。
アルタまで近づくと、男の顔面を殴打している女性の姿がはっきり見えた。白のボアコートを着ている女性。紗良に間違いなかった。
紗良は先程見た様子とは打って変わって、死んだような目をしながら、ハンマーのようなもので男の顔を何度も何度も叩きつけている。周囲の人間は止める様子はなく、茫然と立ち尽くしているようだった。僕も同じだった。
壊してやる。
紗良が繰り返し何かを呟いているのが聞こえてきた。壊す?
僕の頭の中に先程届いたメールの文面がよぎる。
退屈してるかもしれないから、面白いショーを見せてあげるよ。
殴られた男の顔は腫れ上がり、出血もしている。紗良の真っ白なボアコートには返り血が付着していた。
「何を、やってるんだ!」
黒田が叫びながら男を殴り続ける紗良の元へ駆ける。十二月だというのに、僕の頬から汗が滴り落ちた。
真っ暗な中で青白く光るイルミネーションが不気味に思えた。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
近所のサンタさん
しらすしらず
大衆娯楽
しらすしらずです!クリスマス短編小説を書きました!働く社会人にとってクリスマスは特別感が少ない!というところを題材にしたほっこりする話です。社会人とサンタさんというあまり絡みそうにない人間が出会う3日間の物語となっています。登場人物は、主人公の隆也(たかや)と後輩の篠川(しのかわ)君、そして近所のサンタさんと呼ばれる人物です。隆也は忙しい日々を送る会社員で、クリスマスの季節になると特別な雰囲気を感じつつも、少し孤独を感じていました。そんな隆也の通勤路には、「近所のサンタさん」と呼ばれるボランティアで子供たちにプレゼントを配る男性がいます。ある日、偶然電車内で「近所のサンタさん」と出会い近所のクリスマスイベントのチケットをもらいます。しかし、隆也は仕事が忙しくなって行くことができませんでした。そんな隆也がゆっくりとほっこりするハッピーエンドに向かっていきます。
本当はクリスマス前に書き上げたかったんですけどねー、間に合わなかった!
恥ずかしながらこれが初めて最後まで書き上げることができた作品なので、ところどころおかしなところがあるかもしれません。
この作品で皆さんが少しでもほっこりしていただけたら嬉しいです。
初心者オメガは執着アルファの腕のなか
深嶋
BL
自分がベータであることを信じて疑わずに生きてきた圭人は、見知らぬアルファに声をかけられたことがきっかけとなり、二次性の再検査をすることに。その結果、自身が本当はオメガであったと知り、愕然とする。
オメガだと判明したことで否応なく変化していく日常に圭人は戸惑い、悩み、葛藤する日々。そんな圭人の前に、「運命の番」を自称するアルファの男が再び現れて……。
オメガとして未成熟な大学生の圭人と、圭人を番にしたい社会人アルファの男が、ゆっくりと愛を深めていきます。
穏やかさに滲む執着愛。望まぬ幸運に恵まれた主人公が、悩みながらも運命の出会いに向き合っていくお話です。本編、攻め編ともに完結済。
実力を隠し「例え長男でも無能に家は継がせん。他家に養子に出す」と親父殿に言われたところまでは計算通りだったが、まさかハーレム生活になるとは
竹井ゴールド
ライト文芸
日本国内トップ5に入る異能力者の名家、東条院。
その宗家本流の嫡子に生まれた東条院青夜は子供の頃に実母に「16歳までに東条院の家を出ないと命を落とす事になる」と予言され、無能を演じ続け、父親や後妻、異母弟や異母妹、親族や許嫁に馬鹿にされながらも、念願適って中学卒業の春休みに東条院家から田中家に養子に出された。
青夜は4月が誕生日なのでギリギリ16歳までに家を出た訳だが。
その後がよろしくない。
青夜を引き取った田中家の義父、一狼は53歳ながら若い妻を持ち、4人の娘の父親でもあったからだ。
妻、21歳、一狼の8人目の妻、愛。
長女、25歳、皇宮警察の異能力部隊所属、弥生。
次女、22歳、田中流空手道場の師範代、葉月。
三女、19歳、離婚したフランス系アメリカ人の3人目の妻が産んだハーフ、アンジェリカ。
四女、17歳、死別した4人目の妻が産んだ中国系ハーフ、シャンリー。
この5人とも青夜は家族となり、
・・・何これ? 少し想定外なんだけど。
【2023/3/23、24hポイント26万4600pt突破】
【2023/7/11、累計ポイント550万pt突破】
【2023/6/5、お気に入り数2130突破】
【アルファポリスのみの投稿です】
【第6回ライト文芸大賞、22万7046pt、2位】
【2023/6/30、メールが来て出版申請、8/1、慰めメール】
【未完】
日陰者の暮らし
阪上克利
大衆娯楽
初めて介護の話に挑戦してみました。
基礎疾患は特にないのに、意欲が少ない辺見初子は、介護保険を受けて、自宅で一人息子と同居している。
在宅介護にかかわるケアマネジャーと介護士たちの奮闘を描いた物語です。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ヤクザに医官はおりません
ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
彼は私の知らない組織の人間でした
会社の飲み会の隣の席のグループが怪しい。
シャバだの、残弾なしだの、会話が物騒すぎる。刈り上げ、角刈り、丸刈り、眉毛シャキーン。
無駄にムキムキした体に、堅い言葉遣い。
反社会組織の集まりか!
ヤ◯ザに見初められたら逃げられない?
勘違いから始まる異文化交流のお話です。
※もちろんフィクションです。
小説家になろう、カクヨムに投稿しています。
【完結】ツインクロス
龍野ゆうき
青春
冬樹と夏樹はそっくりな双子の兄妹。入れ替わって遊ぶのも日常茶飯事。だが、ある日…入れ替わったまま両親と兄が事故に遭い行方不明に。夏樹は兄に代わり男として生きていくことになってしまう。家族を失い傷付き、己を責める日々の中、心を閉ざしていた『少年』の周囲が高校入学を機に動き出す。幼馴染みとの再会に友情と恋愛の狭間で揺れ動く心。そして陰ではある陰謀が渦を巻いていて?友情、恋愛、サスペンスありのお話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる