南風に恋う

外鯨征市

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第12話

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 とうとうお別れ演奏会の本番当日。
 開演は夕方からだけども、午前中はリハーサルなどの最終調整が控えている。
 大ホールではこの日のためにずっと前から依頼していた放送関係の会社が機材を準備していることだろう。この宮崎市民文化ホールだけでは全国のロミオたちを収容することができない。それに交通費や他の予定の関係で来場できないロミオだっている。そんな仲間たちのために動画配信サイトでチャンネルを取得し、放送の専門家に依頼をしてリアルタイムで放送をすることになったのだ。
 十数分後のリハーサルを目前に鮫島が控室でピッコロを組み立てているとグロ中尉から声をかけられた。
「フカちゃん、お客さんが来ていたよ」
「お客さん?」
「川崎さんって言ってた」
 わざわざ演奏会の準備中に来るような人物がいただろうか。
 川崎、川崎……。
 川崎!?
 そんな名前の人なんて周囲にひとりしかいない。
「グロ中尉、その人ってどこ!?」
「池を眺めているから暇なときに会いたいって」
「ちょっと抜ける!」
 周囲を見回して楽器を置いておけそうな場所を探す。
 しかし確実に安全という場所はない。
 ピッコロを預けられるフルートパートの人間も近くにはいない。
 鮫島は楽器を持ったまま楽屋を飛び出した。小走りで廊下を駆け抜けてエントランスに出た。そこでは裏方のメンバーが受付の準備をしていた。
「楽団長、どうしたの?」
「ごめん、ちょっと外に行ってくる」
 来客の事は裏方メンバーも知っていたようだ。
 ホールの正面玄関を少しだけ開けてもらって鮫島は外にでた。
 目の前には鮮やかな芝生。開場までまだ数時間はあるというのに広場には観客たちで賑わっていた。開場が近づくとさらに人でごった返すのだろう。
 ホールを出た鮫島は広場を突っ切らず、建物の影に隠れるかのように隣の大坪池へと移動した。
 親子連れだろうか。
 池を眺めている人たちがいる。
 その中にひとりだけ見覚えのある後ろ姿があった。
「川崎社長!」
「あら鮫島くん。忙しいときに悪いねぇ」
 川崎社長で間違いなかった。
 彼は隣に中学生ぐらいの少女を連れている。ずいぶん前に言っていた店舗視察でボヤいていた口を聞いてくれない御令嬢なのだろう。しかしここに親子でいるという事はきっと仲直りしたに違いない。
 社長は胸にショルダーバックを掛けていた。そのバッグにはところどころに尾神樹里の缶バッジが装着されている。それどころかラバーキーホルダーまで吊るしていた。
「まさか本当に社長が来てくださるなんて」
「言ったじゃないか。私たちも聴きに行くって」
 確かに社長はそう言っていた。しかしまさか本当に下っ端アルバイトの、いや当時アルバイトの演奏会を聴きに来るだなんて誰が思うだろうか。
 しかしそれが本当の事だとすると他の役員たちも聴きに来ていることになる。
「「私たち」というと、まさか本社の経営陣まで来られているんですか?」
「それって役員の事じゃなくて家族の事だよ」
 プライベートまで役員と顔を合わせるなんて御免だよ。
 そう笑う社長だったが鮫島も同感だった。
 店舗視察の時でさえヒヤヒヤなのだ。今日のような趣味のイベントでは顔も見たくない。
「それより御令嬢と仲直りできたみたいで良かったです」
「これも鮫島くんのおかげだよ」
 何を言っているのか理解ができなかった。
 鮫島は社長とその御令嬢の間に割って入った事はない。
 それどころか御令嬢とは初対面だ。
「店舗視察に行ったときに鮫島くんがお土産を選んでくれたでしょう? それも樹里ちゃんだけの詰め合わせセットで。私は知らなかったんだけど、娘は熱烈なロミオだったんだよ」
 あの時の鮫島は無茶ぶりする社長に爆弾を持たせたつもりだった。
 もしくは尾神樹里というバーチャルアイドルの沼に引きずり込むつもりだった。
 まさかその下心丸出しのお土産がこのような結果になるだなんて。
「お土産もだけど、一番のきっかけはフカちゃんのSNSだったよ」
「いったいその名前をどこで……?」
「情報を組み合わせたら簡単だよ。ちょっと職権乱用で履歴書も見せてもらったけどね」
 そのアカウントは店長どころか同僚にすら知られるのも嫌なのに、まさかそれを遥かに飛び越えて社長の目に入るだなんて。さすがに履歴書を覗くのは反則だろう。
「鮫島くんはロミオウィンドオーケストラの結成を呼び掛けたでしょう。それを見ていた娘がこれに参加したいって私に言ってきたんだ。二年間も口を聞いてくれなかったこの娘がだよ?」
 ふと隣の御令嬢を見ると彼女は黒いケースを抱いていた。それはフルートのハードケースだった。合革でできたそのケースには尾神樹里のステッカーが貼られていた。
「でもうちの娘は中学生だし京都住みでしょう? 可愛い子には旅をさせよとは言うけども親としては京都と宮崎の一人旅は不安だから行かせられなかったんだ。でも何か違う形で協力したいって言いだしたから親としても手伝いたかったんだよ。だから私にできる事として下取りした打楽器を全国からかき集めてきたんだ。もちろん私のポケットマネーでね」
「あの時はありがとうございました。まさか社長から打楽器が送られてくるどころか、ピッコロまで買って頂いて」
「打楽器を買ったのは私だけど、そのピッコロを買ったのは娘なんだ」
 それは初耳だった。
 このピッコロはずっと社長が買ってくれたものだと思っていた。しかし本当は中学生が買ってくれたものだったなんて。中学生ではまだアルバイトもできない。きっとこれまでに貯め続けた小遣いやお年玉を使ったのだろう。
「御令嬢が購入されたのなら教えてくださいよ」
「それを知ったら遠慮してしまうでしょう。鮫島くんの事だから」
 図星だ。
 中学生が貯金をはたいて購入したピッコロだと知っていれば、楽器を手にすることすら辞退していたはずだ。
「楽団長、娘の代わりにそのピッコロを舞台に連れて行ってください」
 それは社長としてではなく父親としての依頼だった。
 鮫島はそれに楽団の代表者として応えた。
「もちろんです」
「まぁ娘とは会話が弾むようになったけど、今度は投げ銭のやりすぎで妻から小遣いを減らされてしまってね。はははっ」
 この社長、根本的にダメかもしれない。
 御令嬢と仲良くなったのは喜ばしいことだが、奥様との関係については何と言えばいいのだろうか。それとも奥様を憐れむべきだろうか。むしろこの社長に雇われている自分の将来を心配するべきなのかもしれない。

 演奏会終了後にこの場所で合流することを約束した鮫島は控室へと戻ってきていた。
 あたりを見回すと他の団員たちが楽器にリボンをつけていた。
 そのリボンはよく見ていたデザインだった。
鮫島が見間違えるはずがない。
「あ、フカちゃん、やっと見つけた。はい、これ」
 声を掛けてきたのはタシロンだった。
 差し出されたその手にはリボンが乗せられていた。
「これってもしかして……」
「樹里ちゃんが着けていた髪飾りを作ってみたの。そしたらこれを楽器につけてステージに出ようって話になったの」
 周囲の団員たちの楽器にはすべてその髪飾りが装着されていた。
 ここにいない団員もいるが、まさか一部の団員だけに配布というわけではないだろう。
「全部タシロンが作ったんですか?」
 この楽団は大所帯だ。
 まさか全員分の髪飾りをひとりで作ったのだろうか。
 隙間時間だけでは作れなかっただろうに。
 きっと夜更かしをしてチクチクと縫ったに違いない。
 それでもタシロンはいたずらっ子な笑みを浮かべていた。
「いいサプライズでしょ?」
「それはもちろん」
 鮫島は楽団長の役職に就いているが、そんな情報はちっとも聞いていなかった。
「言ってくれれば僕も手伝いましたよ」
「フカちゃんは楽団長の仕事で大変でしょう?」
「それでもやりますよ」
「フカちゃんは自分で何でも背負い込んで突っ走ってしまう癖があるからダメ」
「……僕ってそんな癖があるんですか?」
「そうよ。みんな楽団長を見ているから全員そう思っていると思うよ。良いとか悪いとかじゃないけどね」
 自分にそのような癖があるとは今まで気づかなかった。
 確かに振り返ると発案者ではないとはいえ、今回のお別れオフ会の呼びかけをしたのは鮫島だった。あのときは義務感のようなものに駆られて衝動的に動いていたが、タシロンが言っている癖とはこれの事を言っているのだろうか。
「それにしてもみんな気が早いんだから」
 タシロンは呆れていた。
 飾りなら本番の前に装着すればいい。
 しかし周囲の団員たちはすでに装着していた。
 リハーサルもまだだというのに、本当に気が早いものだ。
「そういうタシロンももう着けているじゃないですか」
「だって樹里ちゃんとお揃いだから」
「……そうですよね」
 本番がまだだとはいえこの飾りを着けたくなるのは鮫島も同じだ。
 数分後の彼のピッコロには尾神樹里とお揃いの飾りが装着されていた。

「もう少しだ」
 グロ中尉が呟いた。
 団員たちでざわめく楽屋の角。
 数名の団員がグロ中尉のノートパソコンにかじりついている。
 ホールはすでに開場され、客席は徐々にロミオたちで埋め尽くされていく。
 ロミオウィンドオーケストラの団員たちはステージに上がる時間まで楽屋でそわそわと待機している。
 初めての燕尾服に袖を通した鮫島は蝶ネクタイの位置を整えながらその集団の中に合流した。
 この日のために取得したロミオウィンドオーケストラの配信用チャンネル。
 定期演奏会の生配信の枠はすでに始まっている。現在は事前に撮影された各パートから尾神樹里へのメッセージが流れているところだ。グロ中尉のノートパソコンには低音パートを代表して彼女との思い出を語るタシロンが映っている。
 それは僕たちから尾神樹里へと贈る最後のメッセージだった。
「とうとう始まってしまったんだな」
 ハルトマン軍曹が呟いた。
 数分後の鮫島たちはステージの上だ。
 最初の合同練習の際に宗太郎に質問された。
 ロミオウィンドオーケストラの任務は何か、と。
 鮫島はそれに「樹里ちゃんにお別れをする」と即答した。楽団長が掲げたその任務達成のため、団員たちは一丸となって練習に励んできた。
すべては尾神樹里にお別れを告げるために。
愛しの尾神樹里に最後のメッセージを送るために。
 しかし今日の演奏会が終われば「樹里ちゃんにお別れをする」という任務は終わってしまう。それは尾神樹里との永遠のお別れをすることになる。
 たしかに僕たちは彼女にお別れをしたい一心でここまでやってきた。それと同時に覚悟も固まってきた。今日の演奏会できっぱりと尾神樹里とお別れをする、と。
 しかし本番を目の前にすると固まっていたはずの覚悟が揺らいでしまう。
 もう数分後には最後の演奏会が始まって、さらに一時間後にはそれが終わる。
 今日は『お別れオフ会』というコンセプトの演奏会だが、ここまで沈んだ空気になるとは思わなかった。元気だった尾神樹里のように、ロミオたちも最後ぐらいは元気にお別れがしたかった。
「もういっその事、普門館を目指そうぜ!」
 その空気を振り払うかのようにハルトマン軍曹が威勢よく目標を掲げた。
 普門館。
 別名、吹奏楽の甲子園。
 かつての吹奏楽部員が夢に見ていた舞台。
 吹奏楽コンクールの頂点、全日本吹奏楽コンクールが開催されていた会場だ。
 しかし彼から飛び出したその単語に違和感を覚えた。それに気づいたのは鮫島だけではなく宗太郎も同じだった。
「普門館ならとっくの昔に解体されたぞ」
「……マジっすか」
「そもそも一般部門が普門館で開催されたことはないし、それに吉野士長の時代にはすでに使われてなかったぞ」
 鮫島は楽器店のアルバイトという職業柄その名前を聞くことがよくある。しかし彼にとってそのホールは歴史上の遺物という感覚だった。
「もう普門館で演奏することはできないが、全日本に出場することはできる。もちろん一筋縄ではいかないけどな」
全日本吹奏楽コンクール。
 それは鮫島には無縁だった単語だ。それどころかハルトマン軍曹もタシロンもグロ中尉にも縁がなかった。彼らが夢にも思ったことがなかった舞台だ。
「全日本に出場してゴールド金賞を取って、ロミオウィンドオーケストラの名前を全国に広めるのよ」
「吹奏楽の関係者なら誰でも知っているような有名な楽団になるんだ。それこそ樹里ちゃんの耳にも入るようなさ。それで吹奏楽の専門雑誌に取材されてインタビューで「樹里ちゃんのためにここまでやってきた」って答えるんだ」
「そうそう。そしてそれを知った樹里ちゃんが「これは私のファンたちが結成したんだよ」って自慢するんだよ。樹里ちゃんは遠くにいってしまったけど、きっとどこかで私たちを見ているはずだから」
「俺たちは樹里ちゃんが自慢できる楽団になるんだ」
 彼女のためならば厳しい練習だって厭わない。
 宗太郎の言う通り、全日本吹奏楽コンクールの舞台は遥か遠くだ。
 しかし彼女のためならばいくらでも歩き続ける。
 ロミオウィンドオ―ケストラは今回の演奏会のためだけに結成された。それが終われば解散するつもりだった。
 しかし今回で終わりにはせずに次の目標を目指そう。
 これからも活躍する僕たちの事は、きっとどこかで樹里ちゃんの耳に入るだろう。
「いい目標だ。その前に今日の任務を完遂しなければな」
 宗太郎の言う通りだ。
 全日本吹奏楽コンクールの前に今回のお別れ演奏会。
 今日の演奏会できっちとお別れをして、彼女が活躍していた記録を残すために僕たちはさらに進んでいくんだ。
 その決意を表明するかのようにタシロンが代表して提案した。
「ねぇ、今更だけど今日の演奏会に何か名前を付けようよ」
「名前って『尾神樹里ちゃんお別れ演奏会』だろ?」
 彼の言う通りステージにはその看板が掲げられている。
 しかしタシロンが提案したものはそれではなかったようだ。
「そうじゃなくて、もっとかっこいいやつ。私たちだけに通じる作戦名みたいなものをさ。ほら、バーチャルミッションみたいな感じで」
「そう言われると俺たちってハンドルネームで呼び合っていますし、なんかコードネームっぽいですよね」
「そうそう。タシロン、グロ中尉、フカニートだしな」
 自身の呼び名についてはもう何も言うまい。
 彼に必要なのは状況の説明ではなく一発の銃弾なのかもしれない。都城駐屯地の中隊長あたりがこっそり分けてくれないだろうか。
「オペレーションベジタブル、なんてどうだ?」
 宗太郎は堂々とした表情で提案した。
 その感想は全一致していた。
「ダサッ!」
「それは無いですよ大尉」
「センスを鍛えましょうよ」
「ないわ~」
「……かっこいいと思うんだがなぁ」
 ロミオたちの一致団結によりマヌケな演奏会になることは阻止された。
もしも樹里ちゃんがそのコードネームを知ったら以前のようにキレ散らかすことだろう。キレている彼女の声が最後にもう一度聞けるのであれば嬉しいが、最後ぐらいは笑顔でお別れがしたい。
「それならば……オペレーションバタフライ、なんてどうだ?」
「……蝶々ですか?」
 確かに『野菜作戦』よりかはマシに聞こえる。
 しかしどこから『蝶々』が出てきたのだろう。
「バタフライ効果というものを知っているか? 小さな出来事が遠くで大きな出来事になる仮説のことだ」
 過去に宗太郎が楽器店で呟いていた。
 ブラジルの一匹の蝶の羽ばたきがテキサスで竜巻を起こすかのように、と。
 あの時の記憶が鮮明に思い起こされる。
「演奏会の最後に演奏する『南風のマーチ』は二〇一一年の課題曲だった。しかしここで十数年ぶりに日の目を浴びることになった。尾神樹里という一人の少女の存在が、遠く離れたここ宮崎県に南風を吹かせた。それと同じように俺たちの活動がきっかけで、回りまわって再び尾神樹里の元に南風を吹かせるかもしれない」
 俺たちの存在を彼女に知らせるんだ。
 彼女のために俺たちは集結したんだ。
 愛しの尾神樹里にそのメッセージを送りたいが一心に団員たちの士気は上がっていく。
 誰かがステージの配置に着く時刻であることに気付いた。
 団員たちは宗太郎や鮫島たちを置き去りに、われ先にと自分たちの座席へと向かっていった。
 楽屋に残ったのは客演指揮者と楽団長の二人だけ。
 これはいま話さなければならない。
 本番の前に彼へ伝えなければならない。
 鮫島は手にしていたスマートフォンの写真アプリを起動した。
「宗太郎さん、これを見てください」
 尾神樹里の画像によって埋められた画面の右下。そこの真っ白な画面をタッチして画像を表示させた。

辞令
貴殿を地域限定正社員に登用する。
基本給は月額16万円を支給する。

「そうか、良かったじゃないか」
「はい。おかげさまで」
 今回のロミオウィンドオーケストラを結成して演奏会までこぎつけたことが社長の目に留まったようだ。それとは別にぐいぐいと商品を販売していた事や商品知識で店長やエリアマネージャーからの推薦を受けていたらしい。
「俺も鮫島に見せたいものがあるんだ」
 そういうと宗太郎もロッカーから取り出したスマートフォンを操作すると、その画面に表示された画像を鮫島に見せた。

第43普通科連隊
1等陸尉 上岡宗太郎
3等陸佐に昇任させる

「3等陸佐って言うと……」
「いわゆる少佐だ」
 その階級ならば聞いたことがある。
 たしかかなりの権限を持っている階級だったはずだ。
 何でもないとでも言わんばかりに宗太郎はスマホをロッカーに戻していた。
「え、今おいくつなんですか?」
「今年の十二月に三十三歳になる。自慢じゃないが一応1選抜だ」
「1選抜?」
「同期の中で最初に昇進したって事だ」
「これまで聞きませんでしたけど、宗太郎さんって何者なんですか?」
「防大61期、幹候B課程98期」
「カンコウ?」
「陸上自衛隊幹部候補生学校。ちなみにB課程というのは防衛大出身者が行くところだ」
「防衛大って卒業して終わりじゃなかったんですね」
「入隊したら定年まで勉強の連続だ。それに防大に入学して卒業するまでに多くの同期が去って行った。部隊配属後に辞めたやつもいる。だけどそいつらは脱落したわけじゃない。活躍する場所がそこじゃなかっただけだ」
 辞めてしまった同期たちの現在が語られる。
 国立大学に入学して一流企業に就職した人。
 別の公務員となって家族を持っている人。
 防衛大学校に入学できるような人と一緒にしては彼らに失礼かもしれない。だけど地元の大学に入学してすぐに中退した鮫島も、彼が活躍する場所はそこではなかったのかもしれない。
 現に鮫島は大学を中退したことでアルバイトを始めて正社員に登用された。
 ロミオウィンドオーケストラという大所帯の吹奏楽団を率いる楽団長にもなった。
 以前の彼は大学をすぐに中退してニートをしていたことがコンプレックスだったが、もしかするとそれが正解の人生だったのかもしれない。今から別の人生と交換できるとしても、この人生を手放すつもりは微塵もない。
「もしも宗太郎さんに出会えなければ僕はあのままだったかもしれません」
 楽器店でのあの鮫島事件の時。
 彼がお別れ演奏会を提案してくれなければ別の未来を進んでいたかもしれない。
 彼が都城駐屯地に異動してこなければ、そもそも鮫島は彼と出会うことはなかっただろう。
 鮫島は神妙な表情で感謝の意を伝える。
 しかし宗太郎はそれを笑い飛ばした。
「ボーイミーツ宗太郎なんて聞いたことないぞ。世の中の物語はいつもボーイミーツガールだ。感謝しているのだとすれば、その相手を間違えているぞ」
「それでも宗太郎さんと出会わなければ今はありませんでした」
「俺はただの脇役だ」
「そうだとしても……」
「ただ俺は鮫島の背中を蹴っ飛ばしただけだ」
 いくら感謝しても彼はただの脇役だと謙遜する。
 鮫島の背中を押しただけと彼は言っているが、彼に押してもらえなければ鮫島は一歩を踏み出すことができなかったはずだ。
「鮫島、話は変わるが普門館で最後に開催された全日本吹奏楽コンクールの課題曲Ⅳを知っているか?」
「課題曲Ⅳ、ですか?」
 吹奏楽コンクールには複数の課題曲からひとつを必ず演奏することになっている。時代にもよるが、たしか普門館最後の時代では課題曲Ⅴまであったはずだ。
「普門館での最後のコンクールは二〇一一年」
 その西暦を聞いた鮫島の全身に波が立った。
 鮫肌ではない。
 鳥肌だ。
「課題曲Ⅳは『南風のマーチ』だった」
 吹奏楽の甲子園と呼ばれていた普門館。
 その普門館で最後に演奏された課題曲は、歴代の全日本吹奏楽コンクールでも特別な意味を持っているはずだ。
 今回の演奏会で終わらずにこれからも新しい目標に向かって歩き続けろ。それこそ全日本吹奏楽コンクールを目指して。宗太郎はそのような意味を込めてこの『南風のマーチ』を今回の課題曲に指定したのだろうか。
「もしかしてそういう意味でこれを課題曲にしたんですか?」
「さぁどうだろうな?」
 宗太郎ははぐらかしてしまったが鮫島の予想は合っているように思えた。
 吹奏楽コンクールの歴史でも一区切りとなる普門館時代の最後の課題曲。宗太郎が語る『南風のマーチ』の解釈はかなり熱が入っていて、さらに今の鮫島たちの状況に似ていた。
「ここまで偶然が揃うことなんて普通はありませんよ」
「世の中なんて偶然な事ばかりだ。『南風のマーチ』の作曲家もまさか十数年後にこのような状況で演奏されるなんて思わなかったはずだ」
「本当に世の中って不思議ですよね」
 今になって思うと鮫島はどこで尾神樹里と出会ったのだろう。
 動画サイトのおすすめで出てきたのか。
 別の検索ワードでヒットしたのか。
 それともSNSで流れてきたのか。
 今となっては彼女との出会いは思い出せない。
 だけど彼女と出会わなければここにいなかったはずだ。
「そろそろ作戦開始時刻だ。ステージに行こう」
 楽屋を出ていく宗太郎。
 鮫島も急いでスマホをロッカーに放り込み、客演指揮者のあとを追った。
 まもなくオペレーションバタフライが開始される。
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