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Case9【風間孝太郎】追いかける背中

前編

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 昨晩はロクに眠れなかった。あまりにも久しぶりに遠くの街へ来たものだから、地方のローカル線特有の間隔のありすぎるダイヤのことをすっかり忘れていて、最後の乗り換えで駅のホームで四十分待つ羽目になった。

 結局、家に着いたのは左腕の腕時計の短針が一番上を指す直前。しかも疲労感にまみれた身体を押して早々と眠りにつこうと布団を敷き、瞳を閉じたときに思い出さなければいいものの、結さんに抱きつかれた事を思い出してしまった。

 あの時は頭の中が最上級者向けの知恵の輪のようにこんがらがっていたし、その直後に言われた彼女のとんでもない発言の事もあって、それほどまで意識はしていなかったが、一拍置いてみると冷静に考える必要もなく、年頃の青少年に対してアレは幾らなんでも刺激が強すぎた。一度自覚してしまったら最後、大脳の内側にある辺縁系から若々しい情熱が暴風雨のように暴れ回ってくる。

 ただの性衝動の爆発であれば、流石に無知という訳でもないのでどうにか対処することは出来ただろう。だがそれを頭の中の存在であろうと相棒のギター、エースを軽やかに操り愛を振りまき続けていた結さんにぶつけるのは間違いな気がするというか、俺自身がそれを認めることが出来なかった。彼女の言葉を代用するならばそれはきっと、それは愛じゃないってことだろう。

 悶々とした気持ちを隠すかのように掛け布団に使っていた薄いタオルケットを頭にかぶり、とにかくこの頭の中で吹き荒れる嵐が過ぎ去るのをじっと待ち続けた。

 そのうちに睡魔はいつしかやって来て俺の意識を遠い宇宙の果てまで蹴り飛ばしていく。時間が時間だったもので気付かぬうちに開いていた遮光カーテンの隙間から夏の早い朝の始まりを告げる太陽の光線が俺の顔面にぶち当たり無理やり意識を覚醒させるまで、そうは時間はかからなかった。

「……んァ」


 ほぼ無意識で充電コードに接続していたスマートフォンのスリープを解除し時間を確認すると、まだ午前六時になるところだった。今日の日付は、八月七日。全てが終わるのが、十一日だと言われている。本当に地球があと四日で終わるのか。俺の命が、あと四日で尽きるのか。やはりまるで実感が湧かない。

 最後の最後にすることがよく知らない同級生の疑問に答えることになることを、ちょうど一年前に世界が終わることを知った時の俺が知ったら一体どういう顔をしただろうか。俺らしいなと苦笑いをするのか、それとも心底げんなりした顔を見せつけるのだろうか。

「その答えを決めるのは、自分自身、か」
 
 小さく深呼吸。靄がかかっていた思考が若干晴れてきた気がした。まだまだ朝は早いが、ここで二度寝を決行してしまう気は無かった。残り少ない時間、やり残しなど無いままに終わりを迎えたい。ただその一心で、重たい瞼を強引に開きながら、雨戸に手をかけ、一気に開く。

 空は太陽を隠すように薄雲が覆っていたが、輪郭がぼやけている太陽はそれでも自己主張を弱めることなく日光を大地に届けていた。まだ先程地平線の彼方から顔を出したばかりであるが、目を細めるほどの光が燦々と照りつけていく。庭の木や草花に付いていた朝露に光が反射し、きらきらと輝いていた。その幻想的ともとれる光景の中に、明らかに場違いな存在がいた。確かにジャージズボンを身に付けてはいるが、筋骨隆々な上半身を見せ付けるかのように見せつけながら無言でひたすらに腕立て伏せを続けている大柄な男。

 そう、見間違えるはずもない。こんなことをするのは父しかいない。日々是鍛錬と口癖のように言っていたのは覚えていたが、まさかこんな朝早くからこんなことをやっていたとは知らなかった。

 驚きながらそれを暫くの間眺めていたが、ペースを変えることなく父はひたすらに腕立て伏せを続けていく。上半身の開かれた汗腺から流れ落ちる汗が、朝露と同じく太陽の光を反射し、日焼けした浅黒い肌が鈍く光っていた。

 あまりにも壊れた機械のようにひたすらに続けるものだったので、先程からカウントをとってみているが、今の回数は二百五十七回。二百五十八回。二百五十九回。二百六十回を突破。気になって数えはじめてからこのカウント。一体どれぐらいから、どれぐらいの数をこなしていたのか。というかこのままひたすら続けていくつもりなのか。
 
 反復運動を繰り返している父に向けて、ふと沸きあがった邪魔をしてやりたくなるような意地の悪い悪戯心を抑えることが出来ずに昨日ディスカウントストアで買っていたゴム製の苦無を一本だけ静かに袋から取り出し、右手に持ちゆっくりと構える。狙うは、ひたすらに上下を繰り返す彼の脳天だ。

 あまり人に言えるようなものではないが、実は俺には特技がある。まず日常生活を送るにあたって全くもって無駄な技術。殆どの人が、フィクションの中でしか見たことがないと思うし、フィクションの中でしか見ることのないもの。

 それは、投擲術。よく漫画の中で忍者が投げるソレだ。物心ついた時に「やっぱり忍びの家系といえばコレだろ」と父親から教えられた技術で、最初は嫌々やっていた訓練も数年が経った現在ではすっかり慣れてしまった。自分で言うのもアレだがほぼ百発百中を誇り、その腕はセガールやステイサムよりも上手く投げられる自信がある。大きく出るが投擲術に関しては世界で二番目の腕だと自負している。まぁ残りの一番目は当然、俺にそれを教えた張本人であるが。

 大きく踏み込み、肩から指先までを一本の棒にするようなイメージで腕をしならせる。力を抜いて手首を返し、人差し指と中指で挟んだ苦無を一気に投擲した。俺の腕から父までの距離はおよそ十五メートル。野球のマウンドからホームベースまでの距離はおよそ十八・四四メートル。それよりも若干近い距離を一直線に進んでいく。苦無が届くまで、一秒もかからない。

 狙いはドンピシャ。弓のように放たれたゴム製の刃は空気を切り裂きながら一気に父の頭頂部に向かって飛んでいく。イメージのまま突き進めば、父の額にこのまま直撃する。頭の中で痛みにのたうち回る父を想像し、心の中でほくそ笑む。

 しかし、実際に見えたのはそのような光景ではなく、額への激しい衝撃。どんな魔法を使ったかはわからないが、とにかく頭に衝撃を受けたのは父ではなく俺自身ということだ。完全に意識の外からやってきた予期せぬ激しい痛みに受身も取れずにそのまま七転八倒する。転げ回る視界の隅には先程投げたはずのゴム製の苦無。

「修行が足りんな、もっと精進しろよー」

 間延びした声が微かに耳に届く。痛む頭を必死に動かして視界を苦無を投げた方向に向ける。何事もなかったかのように上半身裸の父は腕立て伏せを続けていた。だんだん強くなっていく朝の日差しを浴びて汗ばむ身体が一層強く鈍く光を増していく。

「よし、千五百……! さぁて、朝の日課、終わりっとぉ」

 父はゆっくりと立ち上がると、両方の肩をぐるぐると回しながらこちらに向かって歩いてきた。自分と同じ遺伝子が半分含まれているとは思えない、逆三角形の肉体美を見せ付けているかのように歩みを進めていく姿は力強いが、どこか抜けているように見える。

「で、だ。昨日は遅かったみたいじゃないか、えぇ? それにしても勿体なかったなぁ。美味かったのに、シューマイ」

 縁側に畳んでおいてあったハンドタオルで汗だくの身体を拭きながら、こちらを見ることなく父は俺に向かって話しかける。焼売はホントに心残りなんだから放っておいてくれ。

「ちょっと、いろいろやることがあって。父さんこそ、早いじゃないか」

 話を切り替える。恐らくひたすらに弄られるだけなので、この話題は出来るだけ、変えた方がいい。

「ンぁ、お前は朝に弱いから知らなかったと思うけどな。毎日やってるぞ? 頭首たるもの、鍛錬は欠かさずってヤツだ。鍛錬を続けてるからこそ、あーいう不測の事態に備えることが出来るンだよ」

 縁側に畳んで置いてあった真っ黒なTシャツを着つつ、父はふてぶてしく笑う。世界がもうすぐ終わるというのに、遮二無二に鍛錬を続けているのか。地球滅亡という最大の不測の事態に、父や俺はどう対処し鍛錬を続ければいいのだろうか。ついさっき苦無を投擲した右手をじっと見つめる。その手には何も握られてはいない。空気を掴むように、何度も握り返した。

「そンなの決まってる。後悔しないためだ」

 その言葉にハッとしながら顔を上げると、いつの間にか俺の真ん前に父が片膝を立て、ゆったりとした姿勢で座っていた。のんびりとしたその姿であったが、そこには一分の隙もない。

「そりゃあもうすぐ皆死んじまうさ。でも皆が一斉に即死するわけじゃあないだろ? ならよ、最後の最後まで足掻いて、出来ることを全部やって。後腐れなくあっちに行けたほうがよくないか? やり残したことがあるままに死んじまうのは、御免だ」
「それは、風間家の頭首としての話?」
「馬鹿なことを言うなヨ。他の誰でもない、俺自身の話だ」

 父は首の後ろに手を当てながら真っ直ぐに俺を見据えていた。その視線がなんだかこそばゆくて、逃げるように顔を横に逸らす。

「そうか、そうだよな。後悔なんて残してたら、それこそ馬鹿みたいだもんな」

 俺自身の呟きは、父にどう聞こえたのだろうか。

「すまんな、孝太郎。悔しいだろうなぁ。でもな。だからこそ、残りを平穏に暮らせとは言わん。出来ることを、お前のやりたいことを、気持ちを、我慢するなよ」
「……おう」

 それは、父のものとは思えない声だった。アスカが死んでしまって、俺自身の感情を制御出来ずに泣き叫んでいた時も「忍びの末裔たるもの、心も強くなくてどうする!」といつもの表情を崩さなくて。それに逆上した俺が力の限りのストレートを頬にぶち当てても、表情を変えることの無かったあの父が細く悲しげな声を出していた。

「孝太郎、最後にやりたいことは、見つかってるのか?」

 父の小さな声に合わせるかのように、俺も小さく頷く。

「なら、俺も、最後にやりたかった事でもするかな。――俺、隠居するわ。風間孝太郎――たった今からお前が、風間家の現当主だ。名に恥じぬように、日々を過ごせ」

 全く予想すらできなかった父の言葉に、目を丸くする。思わず顔を上げると、いつもの調子に戻っていた父が悪戯っぽい笑みを浮かべていた。あまりにも唐突な言葉に、慌てて声を荒げてしまう。

「はぁ⁉ いくらなんでも唐突過ぎンだろ! もっとこういうのは俺の部屋とかでなくてだな――」

 父は俺の大きな声など何処吹く風といった感じで飄々とした顔をしているが、いつもより若干嬉しそうというか、晴れやかな気がするのは、気のせいだろうか。

「あぁ~、ずっとやりたかったんだよコレ。それこそ、産まれたばっかりのお前の顔を見た瞬間からな。やっと言えたよ。ここ最近お前、夜は出掛けてるからな、この話がなかなか出来なくてなァ。こんなタイミングですまんすまん」

 顎を軽く摩りながら俺を見ている父は未だ困惑の抜けない俺の反応を楽しむかのような笑みを浮かべていたが、一瞬だけ少しだけ鋭い眼をする。子供の俺を鍛錬している時によく似ていた瞳をしていて意図せず身構えをしてしまうが、次に父の口から放たれた言葉は意外にも優しさに満ちていた。

「夜更かしはいかんぞ……と言いたいところだけどな。最近出かけてるのは、やり残したことを終わらせるためなんだろ。ならば止めん。為すべきことを為せってヤツだ。とにかく、出来るだけ後悔のないように、な」

 父は小さく息を吐く。そして肩の荷が降りたのかどこか軽やかに立ち上がり、背を向け部屋を出て行く。

「さぁて、最後の憂いもなくなった事だし、優香さんと夫婦水要らずどっか旅行でも行ってこようかなぁ。ここ数年イチャコラしていなかったし、な」

 何を言ってるんだこの人は。息子の近くでそういう事を言うのはやめてくれ。反応に困る。というか、まだまだ朝だぞ。
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