28 / 42
第2章 例外
28. 特別
しおりを挟む
公演が終わる頃には、空はすっかり日暮れの色に染まっていた。ぽつりぽつりとランタンの明かりが灯り出し、街全体をゆるやかに夜の汀へ誘おうとしている。
「……帰りましょうか」
その誘いを断るように、ユゥイは席を立った。
舞台の幕が閉じたあともぼんやりと空の舞台を見つめていた男は、ユゥイの胸元あたりを見上げ、「……ああ」と承諾する。立ちあがった男に手を差し出されて、ユゥイはもうあまり躊躇うこともなくその手を握った。
次の瞬間、身に覚えのある感覚に襲われる。転移魔法だ。
あまりに唐突だった。たしかに帰ろうとは言ったが、まさか街を出る間もなく、こんないきなり。
しかも、この転移魔法はいつもと様子が違っていた。突然横から頭を殴られたような衝撃があり、ぐわんぐわんと左右に揺さぶられるような感覚があった。加えて、大きな浮遊感。まるで混沌と渦を巻く大きな嵐の中にでも放り込まれたようだ。
そして、それは夢から覚めるように一瞬で収束する。
次に目を開けると、森の中にいた。
「……っ」
強い目眩に耐える。ふらついたユゥイの身体を、男の腕が咄嗟に支えた。転移魔法の余波だ。珍しい。これまで何度かこの男の転移魔法を経験しているが、ここまで不安定に揺らぐことなどなかったのに。
大丈夫かと問われ、平気だと返す。
支えてくれていた男の腕から手を離して、周囲を見回す。すぐ、違和感を覚えた。
耳朶を打つのは風に揺れる木々の葉擦れで、祝祭のにぎわいは余韻すらない。人の営みが生み出す騒々しさと断絶された、深い森の穏やかな静けさ。西に暮れていく黄金の光がせせらぎの水面に反射し、立ち並ぶ木々の陰影を濃く浮かび上がらせている。
聖寂の森であることはたしかだった。肌を撫でる空気で分かる。
しかし、ユゥイの家がどこにも見当たらない。
「……ここ、どこですか?」
困惑を隠せず、隣を見上げる。
襟足が跳ねた癖っ毛が、光を受けてまばゆく銀色に輝いている。男はすでに偽装の魔法を解いていた。周囲を見回すと、嘘なのか本当なのか分からない声の調子で、「座標がずれた」と言う。
「失敗したってことですか? あなたが?」
「……俺だって失敗することくらいある」
男がおかしげに言って、小さく笑った。
それから空気の流れを読むように目線を上向け、「大気の魔力が乱れているな……」と独り言のように言う。ユゥイには分からないが、この男が言うのであればそうなのだろう。
落ちていく太陽の見え方や山の近さから、ここが北方山脈に近い森の北側だと分かる。北方山脈は地脈が混沌と入り乱れる土地で、上空から地下まで魔力が過剰に渦巻く特異な地だ。その麓に位置する聖寂の森も、他の土地に比べれば魔力の流れは複雑だろう。基本的に魔法は術者の能力や精神状態に依存するが、転移魔法のように空間の魔力の流れに大きく影響を受けるものもあるので、座標がずれたのはそのせいかもしれない。
「行こう」
「え、歩くんですか?」
もう一度転移するのではだめなのか、という思いを込めて尋ねる。男は首を横に振った。
「次に転移したら、おまえをどこへ連れていくかわからないから」
言うや否や、男がゆっくりと歩き出す。ユゥイは遅れて後を追いかけた。もう手を差し出されることはなくて、それを少しだけ寂しいと思った。
こんなにも生態系が異なるものなんだな。
男の二歩後ろを黙々と歩いていたユゥイは、足元に生える植物を観察しながらそう思った。森の南側では見かけたことのない低木や果実が多い。昔、北側にはなるべく近づくなと言われたが、今度こちら側も探索してみようか。
巣に帰っていく鳥たちの声が木々の合間にこだます。何か小さな生き物が草むらを揺らして去っていく。足元に向けていた目を上向けると、太陽は刻々と山向こうへ落ちて、東から夜が忍び寄ってきていた。気の早い星が、遥か彼方で輝きはじめている。
「森には、いつから住んでいるんだ?」
黙っていた男が、不意に話しかけてきた。
感情の起伏の少ない、澄んだ水のように聞き心地の良い、低い声。何か様子がおかしいような気がしていたが、声音を聞く分にはすでにいつも通りだった。
過去について明確に尋ねられるのは初めてだ。男はこれまで、ユゥイ自身について知りたがることはなかった。
どういう心境の変化だろうと思いながら、口を開く。
「正確には覚えてないですけど、五年くらい前です」
ざっざっと二人分の足音がまばらに響く。
「……五年」男が噛みしめるように繰り返した。
「誰と住んでいた?」
これには少し驚いた。
「どうして、僕が誰かと暮らしていたと思うんですか?」
「椅子もカップも皿も、きちんと二人分ずつあった。魔法薬のレシピも、おまえとは別の筆跡のものが多くあっただろう」
そんなものまで見ていたのかと、その観察力に感心した。それほど長い時間をあの家で過ごしたわけでもないのに。
ローブを揺らす男の影を踏むように歩きながら、ユゥイは思い出す。
「森に迷い込んだ僕を拾ってくれた人と、一緒に住んでいました」
正確には、森に逃げ込んだ、だ。出口も入り口も見失ってしまい、あてどなく歩いて、野草を噛んで空腹をしのぎ、川の水を飲んで、かろうじて生きながらえていた。だがそれも長くは続かず、最後には発熱して倒れ、一歩も動けなくなった。
魔物に襲われて死ぬのが先か、動物に蹴られて致命傷を負うのが先か、あるいはこのまま衰弱して、餓死するのか。
仰向けに転がって見えたのは、ただ美しく晴れた空。手の届かない遥かな群青を背に白い蝶がひらひらと舞い、ときどき黒い点のような鳥が横切っていく。そよ風が花々を揺らし、木々をさざめかせ、葉擦れに光が細かく散乱する。世界はちっぽけな人間の不幸な死になど目もくれない。
これが、人生最後に見る景色なのか。
そう思いながら目を閉じた。
……だが、次に目を開けたとき、ユゥイがいたのは死者の国ではなかった。
木の天井と小さな黒猫。黒猫はユゥイの頬を舐めると、視界からすぐに消えていなくなる。少しすると、恐ろしい顔をした老人に顔を覗き込まれた。彼の口周りは髭で覆われていて、落ち窪んだ目は鋭く、目覚めたユゥイを見ても微笑みひとつ浮かべなかった。
だから、ユゥイは思ったのだ。
ああ、また終われなかった。
また、新しい地獄が始まるんだ、と。
恐怖より、後悔より、ただ茫漠とした諦観を抱いた。そうならざるをえないほど、もう何度も希望と絶望を繰り返した後だった。
しかし、新たな地獄は、いつまで経っても始まらなかった。
「暇つぶしみたいに、いつも薬を作っている人でした。無愛想なおじいさんで、口より先に手が出るんです」
それでも、理不尽に殴られたことなど一度もなかった。彼が怒るのはいつも、ユゥイが不用意に危険な薬草に触ったときや、指示されていないことをやろうとしたときだけだった。
彼の生活は、ユゥイの今の生活とさほど変わらなかったように思う。森からの恵みに感謝しながら生活を営み、ときどき村や街へ足を伸ばす。夜になると長いこと星を眺め、ときおり物語を綴るように本に何かを書きつけ、眠り、また朝を始める。
街の商会にユゥイを紹介してくれたのも彼だった。彼がどのような権威を持っていたのかは分からないが、彼の紹介であれば、と商会の長はユゥイを軽んじることなく正当に取引してくれた。でなければ、子どもが薬を持ち込んでもまともに相手をしてもらえなかっただろう。
「三年前にいなくなってしまいましたが」
「いなくなった?」
「ある日急にアルタナに向かうと言って出ていったきり、今日まで帰ってきていません」
彼が無事アルタナに辿りつけたのか、それとも道半ばで死んでしまったのか、アルタナ行きは単なる方便で当時の生活に嫌気がさしたのか、ユゥイには分からない。
――ルナを置いていく。おまえはここで、時が満ちるまで待て。
彼が最後にユゥイに告げたのは、それだけだった。
「魔法使いだったのか」
男はほとんど確信を持ったように言った。
「そう、だったのかもしれません」
しかし、ユゥイは確証を持って答えることができない。
幻想都市アルタナは、フロスト山地の頂上付近にある魔法使いによる魔法使いのための都市だ。すべてが魔法によって管理、運営され、それは美しく不思議な街だと聞くが、魔法使いでない人間は特別な許可証がなければ立ち入ることも許されない。だから、エリオが老人を魔法使いだと思うのは自然な発想だ。
けれど、あの人がユゥイの前で魔法を使ったことはなかった。少なくともユゥイは魔法使いだと気づかなかった。この瞳をもってしても魔力回路が見えなかったのだ。だから、俗世との関わりを捨て、隠遁の道を選んだ老齢の薬師としか思っていなかった。
(……何か理由があって、魔法使いだったことを隠してたのかな)
あるいは、ユゥイが魔法使いを嫌っていた――否、魔法使いを恐れていたことを、知っていたのだろうか。
少なくとも季節をふた巡りしたはずなのに、何も知らない。ユゥイはずっと警戒していた。いつまた捨てられるか、裏切られるかと怯えて、いつでも離れられるように心を開かずにいた。実際、最後には別れたのだから、これでよかったのかもしれない。
そこまで考えたところで、ふと眩しさを感じる。
顔を上げると、乱立していた森の木立の間隔がまばらになり、視界が急にひらけていた。
「あ……」
そこまで辿りついて、思わず足を止めた。それに気づいた男もまた足を止める。
目の前には大きな湖があった。対岸が霞むほど大きな湖だ。燃えるような夕暮れの空を映し出す湖面は橙や桃、紫、青が混じったような不思議な色合いをしていて、鏡のように静まりかえっている。中央には離れ小島のようなものが浮かんでおり、そのさらに向こうには、黒々とした雄大な山並みが見えた。
「この場所に、何か?」
この男、何も覚えていないのか。ユゥイは少し呆れた。
「何か、も何も、あなたを見つけた場所ですよ」
たしかあのあたり、と指をさす。脳裏に、まだそう遠くない過去が過ぎった。
少しだけ怖くて、少しだけわくわくするような、不思議な夜。青白い満月が幻想のように浮かんでいた。見つけたのは精霊と見紛うほど美しいひと。思わず手を伸ばしていた。そしてすぐに、己の選択を心から後悔した。魔法使いなど拾わなければよかった、と。
魔法使いとは、極力関わらないように。森で暮らしていたこの五年、それだけを誓って生きてきたのに、どうしてその誓いをあんなにも簡単に破ってしまったんだろう。
あのときの後悔は本物だった。
なのにどうしてだろう、今はもう、その後悔をうまく思い出せない。
しばらくのあいだ黙って美しい景色を眺めていたユゥイは、あるときおもむろに男の方を向いた。男はまだ湖を眺めている。いま、何を考えているのだろう。精巧な横顔に影が落ちて、あの夜とはまた別の儚さが漂っている。
「こんな辺境の森まで来たのは、探しもののためですか?」
男がゆっくりこちらに視線を向ける。なぜだかずいぶん久しぶりに、目が合ったような気がした。
知っていたのか、と。水面に似て凪いだ表情に、微かな驚きが混じっていた。ユゥイが何か言う前に、「ロウェンだな」と合点したように男が言った。余計なことを……と続いて、ユゥイはそっと目を伏せる。
余計なこと。
ああそうだ、忘れるな。
自分たちを繋ぐものは契約でしかなく、自分たちの関係を表す言葉は雇い主と雇われ者しかない。あとひと月と少し経てば、また他人になる。別れたが最後、きっと二度と出会わない。
深入りするな、心を開くな、何も信じるな。
これ以上、知りたいと思うな。
……それでも、ユゥイが思い出すのは、中央広場での公演のさなかに盗み見た男の表情だった。
感情の色が抜け落ちた、つめたく、きびしい表情。冬の朝陽のように静謐で、透徹に澄んでいた。その両目はたしかに舞台を映しているのに、すぐ目の前にある地獄を眺めるようでもあった。
舞台で演じられていたのは、愛しあっていた恋人たちが引き裂かれ、数奇な運命に巻き込まれていく物語だ。テーマとしてはごくありふれたものなのだろうが、脚本と演出は凝っていた。
何より、あれにはところどころ、《アルヴァスの大火災》を想起させる要素が含まれていた。
《アルヴァスの大火災》から、ちょうど十年が経つ。ある種の節目とも言える年だ。いつの時代も悲劇は戒めとなり、娯楽の一部となって後世に語られる。
あの災禍で失われたものは、数えきれないほど多い。
男の言葉が、ロウェンの言葉が、目にしたものが、次々と心を通り過ぎていく。
祭事にいい思い出がない、遠い昔になくした、探しもの。
あの、透きとおった絶望の影。
見るも痛ましい背中の大火傷。
とても大切なひと。
……あなたも、同じなのだろうか。
「――――エリオ」
もし、同じ痛みを抱えているなら。
暮れなずむ空を背に、男がわずかに目を見開く。ささやかないたずらが成功したみたいで、ユゥイは少しうれしくなった。
ポケットから、小さな陶器でできた猫の置物をひとつ取り出す。割れていなくてよかったと思いながら、だらりと下がっていた男の手を取り、その手のひらの上にそっと乗せてやる。
おばあさんの魔道具屋で、唯一買ったもの。
「今日のお礼です」
「……お礼?」
「はい」
助けてもらったから。
あなたは知らないと思うけれど、この先言うつもりもないけれど、あなたが僕を見つけてくれたあのとき、本当はとても安心したんだ。凍えた手をためらいなく握って、静かでさみしい場所から、ひとりぼっちの僕を明るい場所へ連れ出してくれた。
「これを枕元に置いて眠ると、一度だけ、夢の中で会いたい人に会えると」
怖いことを思い出して、悲しいことを思い出して、どうしても眠れない夜があったら。
その夜に、ユゥイはきっと寄り添うことができないから。
「あなたが、あなたの大切な人に会えるように」
男が数度瞬いて、ふっと目を眇めた。眩しいものを見るように、痛みをこらえるように。
エリオは手の中の猫をじっと見つめていた。それからようやくユゥイに目を戻して、「大切にする」と胸元にしまう。
ユゥイはそっと息を吸った。やわらかな夕風が吹いて、頬を撫でるように去っていく。どこかで鳥たちが羽ばたいた。湖の上で幻想的に空が燃えている。夢とうつつのような、夜と昼のあわい。
どうしてか今、伝えておかなければと思ったのだ。
絶望的に美しい黄昏の中で、ユゥイは小さく微笑んだ。
「魔法使いは嫌いだけど、あなたのことは嫌いじゃないですよ」
見つめた赤い瞳の奥に、なにかが揺らめいた。それは突如として燃え上がった炎のような、激しい情動のように見えた。光の錯覚だろうか。男の唇が小さく開いて、震える。
彼は何を言おうとしたのだろう。
ユゥイは知ることができない。
突如として風向きが変わる。ざわり、遠くの木々が大きくさざめいた、直後。
――――ドン、と重く巨大な地響きと共に、世界がひび割れるように空気が震撼した。
「……っ!?」
ぞわ、と全身の毛が逆立って、背筋に悪寒が走る。ユゥイは本能的に両腕で自分を抱きしめていた。それとほぼ同時に男がユゥイの肩を抱いて、守るように自分の方へ引き寄せる。
その腕のたしかさに安堵して、無意識に詰めていた呼気を声とともに吐き出した。
「今のは……」
これから進んでいこうとしていた方角に顔を向けた男の表情は常と変わらず落ち着いていたけれど、先ほどとは打って変わってその眼光は鋭さを帯び、木立を越えた先を冷たく見据えている。
地下から何かが噴き出したような地響きは、一度で終わった。揺れの余韻でさざめいていた湖が静寂していく。水面に映る空の色も、輝く星も、先ほどまでと何も変わらないように見える。
しかし何かが決定的に変化していた。
森の気配が違う。風の匂いが違う。空気の圧が違う。森を包んでいた動物や虫たちの息遣いが、いつの間にかどこかへ吸い込まれたように消えている。遠くの空へ鳥たちが一斉に飛び立っていくのが見えた。何かに怯え、逃げるように。
風が沈黙する。耳鳴りすら覚えるような圧倒的で不自然な静寂が森に立ち込める。森全体が、突如として異世界に放り込まれてしまったかのようだ。
どれほど目を凝らしてみても、木立の向こうにはこれといって何も見えない。
それでも、分かる。
そう遠く離れていない場所に、異質な《ナニカ》がいる。
重く暗く、森を支配しようとしている。
その答えを教えるように、
「――なぜ、こんなところに《エルダールード》が」
男が不可解そうに呟く。その赤い目は微かな燐光を帯びていた。遠視魔法を使っているのだと分かる。
エルダールード、エルダールード……聞き覚えのある単語だ。記憶を呼び起こす。家にある本で読んだことがある。たしか、樹木に寄生する魔物だ。魔力を得て強くなるほどに周囲の植物を取り込んで変質させ、領域に侵入した動物や人間を捕食し、その養分を吸い尽くす。森に生息する魔物として違和感はない。
けれど、ここは神聖なる森だ。ユゥイを拾ったあの老人もそう言っていた。この数年、一度だって魔物らしい魔物に遭遇したことはない。
なにより、この恐ろしく不気味な気配。少なくとも姿かたちが見えないほど距離があるのに、従人であるユゥイにも分かるほどに悍ましい存在感を放っている。エルダールードの危険度はそんなにも高かったか。
「本当にエルダールードなんですか?」
「間違いない」
男の表情が険しさを増した。といっても、わずかに眉をひそめた程度だが。
「成体か」
事実を確認しただけの、あまりに端的な言葉だった。だが本に書かれていた内容を思い出し、ユゥイはぞっとする。
エルダールードは、幼体のうちに討伐すればさほど害はない。だが成体となると話は別だ。成体は自己修復能力が高い上、菌が増殖するがごとく指数関数的に領域を広げ、やがては地脈にすら根を張り、汚染させ、森に住まう精霊たちをも殺し尽くす。森そのものが魔物となると、葉擦れの音だけで精神を狂わせ、一度足を踏み入れた者が二度と出てこられない魔境と化すらしい。そうなったが最後、汚染された一帯を森ごと焼き払う他、討伐する手立てがなくなると書いてあった。
幼体から成体になるには相応の時間が必要になるはずだ。まさかそんなにも長い間、森に巣食う魔物の存在に気づかなかった? ……いいや、ありえない。魔物は魔物を呼ぶ。エルダールードがいたなら、他の魔物だって森に現れていたはず。
それに、いましがたの地響きは……。
そのとき、不気味な静寂を切り裂くような狼の遠吠えが続けて二度、空高く響き渡った。まるで森全体へ異変を知らせる警笛のようなそれに、さっと血の気が引く。
「フェンリル……!」
ようやくまともな思考を取り戻す。何をぼうっとしているんだ。エルダールードがいるらしい方角にはユゥイの家がある。家にはルナもいるかもしれない。とにかく、一刻も早く、家に帰らなければ。
「家に、ルナとフェンリルが」
焦燥と恐怖と不安が入り混じり、舌が思うように動かない。それでも何を言いたいかは伝わったらしい、頷いたエリオが宥めるようにユゥイの肩を撫でた。
「俺が行く。おまえは近くの街へ転送するから、」
――――いい子で待っているのよ。
「っ、いやだ!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。その必死さを前に、エリオが口をつぐむ。
気づけば男の胸元にしがみついていた。勝手に震え出す手の、うまく動かない指先で男の衣服を力任せに掴む。ローブにぐしゃりと皺が寄った。
「足手纏いなのは分かってます。でも……でも、一緒に行かせてください」
呼吸が浅くなる。喉から絞り出した声がみっともなく掠れる。
「お願いします、なんでもするから……」
置いていかないで。
頭を下げるように俯いて、ユゥイは懇願した。
今この瞬間にも魔物は異常な速度で成長し、森を飲み込もうとしている。事態が事態だ、男の逡巡はわずかだったらしい。小さくため息を吐く音が聞こえた。力が入りすぎて白くなった手に、男の手が重なる。
「なんでもするなんて言葉、軽々しく口にするものじゃない」
悪い大人につけ込まれるぞ。
続いた声は、思うよりずっとやさしかった。
はっと顔を上げると、目を細めた男がユゥイを見下ろしている。こんな異常事態の中だというのに、思いがけない幸福を得たように微笑んでさえいた。
「怖かったら、そうやっていつでも俺にしがみついておいで」
幼い子どもをあやすような、どこかからかうような声に、身体中を満たしていた恐怖が不思議なほどに薄まっていく。
ユゥイはようやく深く呼吸ができた。指先から力が抜けていく。
「……遠慮します」
「残念」
本当に残念そうに言う。場に似つかわしくない軽口は、きっとユゥイの不安を和らげるための彼の思いやりだった。
重ねられていた男の手を両手でしっかりと握る。それだけで準備は終わった。ユゥイを抱き寄せる男の腕の力が強くなる。
きつく目を閉じた先、真っ黒で暗い闇が広がった。その先にどんな未来が待ち受けているのか、ユゥイはまだ何も分からなかった。
「……帰りましょうか」
その誘いを断るように、ユゥイは席を立った。
舞台の幕が閉じたあともぼんやりと空の舞台を見つめていた男は、ユゥイの胸元あたりを見上げ、「……ああ」と承諾する。立ちあがった男に手を差し出されて、ユゥイはもうあまり躊躇うこともなくその手を握った。
次の瞬間、身に覚えのある感覚に襲われる。転移魔法だ。
あまりに唐突だった。たしかに帰ろうとは言ったが、まさか街を出る間もなく、こんないきなり。
しかも、この転移魔法はいつもと様子が違っていた。突然横から頭を殴られたような衝撃があり、ぐわんぐわんと左右に揺さぶられるような感覚があった。加えて、大きな浮遊感。まるで混沌と渦を巻く大きな嵐の中にでも放り込まれたようだ。
そして、それは夢から覚めるように一瞬で収束する。
次に目を開けると、森の中にいた。
「……っ」
強い目眩に耐える。ふらついたユゥイの身体を、男の腕が咄嗟に支えた。転移魔法の余波だ。珍しい。これまで何度かこの男の転移魔法を経験しているが、ここまで不安定に揺らぐことなどなかったのに。
大丈夫かと問われ、平気だと返す。
支えてくれていた男の腕から手を離して、周囲を見回す。すぐ、違和感を覚えた。
耳朶を打つのは風に揺れる木々の葉擦れで、祝祭のにぎわいは余韻すらない。人の営みが生み出す騒々しさと断絶された、深い森の穏やかな静けさ。西に暮れていく黄金の光がせせらぎの水面に反射し、立ち並ぶ木々の陰影を濃く浮かび上がらせている。
聖寂の森であることはたしかだった。肌を撫でる空気で分かる。
しかし、ユゥイの家がどこにも見当たらない。
「……ここ、どこですか?」
困惑を隠せず、隣を見上げる。
襟足が跳ねた癖っ毛が、光を受けてまばゆく銀色に輝いている。男はすでに偽装の魔法を解いていた。周囲を見回すと、嘘なのか本当なのか分からない声の調子で、「座標がずれた」と言う。
「失敗したってことですか? あなたが?」
「……俺だって失敗することくらいある」
男がおかしげに言って、小さく笑った。
それから空気の流れを読むように目線を上向け、「大気の魔力が乱れているな……」と独り言のように言う。ユゥイには分からないが、この男が言うのであればそうなのだろう。
落ちていく太陽の見え方や山の近さから、ここが北方山脈に近い森の北側だと分かる。北方山脈は地脈が混沌と入り乱れる土地で、上空から地下まで魔力が過剰に渦巻く特異な地だ。その麓に位置する聖寂の森も、他の土地に比べれば魔力の流れは複雑だろう。基本的に魔法は術者の能力や精神状態に依存するが、転移魔法のように空間の魔力の流れに大きく影響を受けるものもあるので、座標がずれたのはそのせいかもしれない。
「行こう」
「え、歩くんですか?」
もう一度転移するのではだめなのか、という思いを込めて尋ねる。男は首を横に振った。
「次に転移したら、おまえをどこへ連れていくかわからないから」
言うや否や、男がゆっくりと歩き出す。ユゥイは遅れて後を追いかけた。もう手を差し出されることはなくて、それを少しだけ寂しいと思った。
こんなにも生態系が異なるものなんだな。
男の二歩後ろを黙々と歩いていたユゥイは、足元に生える植物を観察しながらそう思った。森の南側では見かけたことのない低木や果実が多い。昔、北側にはなるべく近づくなと言われたが、今度こちら側も探索してみようか。
巣に帰っていく鳥たちの声が木々の合間にこだます。何か小さな生き物が草むらを揺らして去っていく。足元に向けていた目を上向けると、太陽は刻々と山向こうへ落ちて、東から夜が忍び寄ってきていた。気の早い星が、遥か彼方で輝きはじめている。
「森には、いつから住んでいるんだ?」
黙っていた男が、不意に話しかけてきた。
感情の起伏の少ない、澄んだ水のように聞き心地の良い、低い声。何か様子がおかしいような気がしていたが、声音を聞く分にはすでにいつも通りだった。
過去について明確に尋ねられるのは初めてだ。男はこれまで、ユゥイ自身について知りたがることはなかった。
どういう心境の変化だろうと思いながら、口を開く。
「正確には覚えてないですけど、五年くらい前です」
ざっざっと二人分の足音がまばらに響く。
「……五年」男が噛みしめるように繰り返した。
「誰と住んでいた?」
これには少し驚いた。
「どうして、僕が誰かと暮らしていたと思うんですか?」
「椅子もカップも皿も、きちんと二人分ずつあった。魔法薬のレシピも、おまえとは別の筆跡のものが多くあっただろう」
そんなものまで見ていたのかと、その観察力に感心した。それほど長い時間をあの家で過ごしたわけでもないのに。
ローブを揺らす男の影を踏むように歩きながら、ユゥイは思い出す。
「森に迷い込んだ僕を拾ってくれた人と、一緒に住んでいました」
正確には、森に逃げ込んだ、だ。出口も入り口も見失ってしまい、あてどなく歩いて、野草を噛んで空腹をしのぎ、川の水を飲んで、かろうじて生きながらえていた。だがそれも長くは続かず、最後には発熱して倒れ、一歩も動けなくなった。
魔物に襲われて死ぬのが先か、動物に蹴られて致命傷を負うのが先か、あるいはこのまま衰弱して、餓死するのか。
仰向けに転がって見えたのは、ただ美しく晴れた空。手の届かない遥かな群青を背に白い蝶がひらひらと舞い、ときどき黒い点のような鳥が横切っていく。そよ風が花々を揺らし、木々をさざめかせ、葉擦れに光が細かく散乱する。世界はちっぽけな人間の不幸な死になど目もくれない。
これが、人生最後に見る景色なのか。
そう思いながら目を閉じた。
……だが、次に目を開けたとき、ユゥイがいたのは死者の国ではなかった。
木の天井と小さな黒猫。黒猫はユゥイの頬を舐めると、視界からすぐに消えていなくなる。少しすると、恐ろしい顔をした老人に顔を覗き込まれた。彼の口周りは髭で覆われていて、落ち窪んだ目は鋭く、目覚めたユゥイを見ても微笑みひとつ浮かべなかった。
だから、ユゥイは思ったのだ。
ああ、また終われなかった。
また、新しい地獄が始まるんだ、と。
恐怖より、後悔より、ただ茫漠とした諦観を抱いた。そうならざるをえないほど、もう何度も希望と絶望を繰り返した後だった。
しかし、新たな地獄は、いつまで経っても始まらなかった。
「暇つぶしみたいに、いつも薬を作っている人でした。無愛想なおじいさんで、口より先に手が出るんです」
それでも、理不尽に殴られたことなど一度もなかった。彼が怒るのはいつも、ユゥイが不用意に危険な薬草に触ったときや、指示されていないことをやろうとしたときだけだった。
彼の生活は、ユゥイの今の生活とさほど変わらなかったように思う。森からの恵みに感謝しながら生活を営み、ときどき村や街へ足を伸ばす。夜になると長いこと星を眺め、ときおり物語を綴るように本に何かを書きつけ、眠り、また朝を始める。
街の商会にユゥイを紹介してくれたのも彼だった。彼がどのような権威を持っていたのかは分からないが、彼の紹介であれば、と商会の長はユゥイを軽んじることなく正当に取引してくれた。でなければ、子どもが薬を持ち込んでもまともに相手をしてもらえなかっただろう。
「三年前にいなくなってしまいましたが」
「いなくなった?」
「ある日急にアルタナに向かうと言って出ていったきり、今日まで帰ってきていません」
彼が無事アルタナに辿りつけたのか、それとも道半ばで死んでしまったのか、アルタナ行きは単なる方便で当時の生活に嫌気がさしたのか、ユゥイには分からない。
――ルナを置いていく。おまえはここで、時が満ちるまで待て。
彼が最後にユゥイに告げたのは、それだけだった。
「魔法使いだったのか」
男はほとんど確信を持ったように言った。
「そう、だったのかもしれません」
しかし、ユゥイは確証を持って答えることができない。
幻想都市アルタナは、フロスト山地の頂上付近にある魔法使いによる魔法使いのための都市だ。すべてが魔法によって管理、運営され、それは美しく不思議な街だと聞くが、魔法使いでない人間は特別な許可証がなければ立ち入ることも許されない。だから、エリオが老人を魔法使いだと思うのは自然な発想だ。
けれど、あの人がユゥイの前で魔法を使ったことはなかった。少なくともユゥイは魔法使いだと気づかなかった。この瞳をもってしても魔力回路が見えなかったのだ。だから、俗世との関わりを捨て、隠遁の道を選んだ老齢の薬師としか思っていなかった。
(……何か理由があって、魔法使いだったことを隠してたのかな)
あるいは、ユゥイが魔法使いを嫌っていた――否、魔法使いを恐れていたことを、知っていたのだろうか。
少なくとも季節をふた巡りしたはずなのに、何も知らない。ユゥイはずっと警戒していた。いつまた捨てられるか、裏切られるかと怯えて、いつでも離れられるように心を開かずにいた。実際、最後には別れたのだから、これでよかったのかもしれない。
そこまで考えたところで、ふと眩しさを感じる。
顔を上げると、乱立していた森の木立の間隔がまばらになり、視界が急にひらけていた。
「あ……」
そこまで辿りついて、思わず足を止めた。それに気づいた男もまた足を止める。
目の前には大きな湖があった。対岸が霞むほど大きな湖だ。燃えるような夕暮れの空を映し出す湖面は橙や桃、紫、青が混じったような不思議な色合いをしていて、鏡のように静まりかえっている。中央には離れ小島のようなものが浮かんでおり、そのさらに向こうには、黒々とした雄大な山並みが見えた。
「この場所に、何か?」
この男、何も覚えていないのか。ユゥイは少し呆れた。
「何か、も何も、あなたを見つけた場所ですよ」
たしかあのあたり、と指をさす。脳裏に、まだそう遠くない過去が過ぎった。
少しだけ怖くて、少しだけわくわくするような、不思議な夜。青白い満月が幻想のように浮かんでいた。見つけたのは精霊と見紛うほど美しいひと。思わず手を伸ばしていた。そしてすぐに、己の選択を心から後悔した。魔法使いなど拾わなければよかった、と。
魔法使いとは、極力関わらないように。森で暮らしていたこの五年、それだけを誓って生きてきたのに、どうしてその誓いをあんなにも簡単に破ってしまったんだろう。
あのときの後悔は本物だった。
なのにどうしてだろう、今はもう、その後悔をうまく思い出せない。
しばらくのあいだ黙って美しい景色を眺めていたユゥイは、あるときおもむろに男の方を向いた。男はまだ湖を眺めている。いま、何を考えているのだろう。精巧な横顔に影が落ちて、あの夜とはまた別の儚さが漂っている。
「こんな辺境の森まで来たのは、探しもののためですか?」
男がゆっくりこちらに視線を向ける。なぜだかずいぶん久しぶりに、目が合ったような気がした。
知っていたのか、と。水面に似て凪いだ表情に、微かな驚きが混じっていた。ユゥイが何か言う前に、「ロウェンだな」と合点したように男が言った。余計なことを……と続いて、ユゥイはそっと目を伏せる。
余計なこと。
ああそうだ、忘れるな。
自分たちを繋ぐものは契約でしかなく、自分たちの関係を表す言葉は雇い主と雇われ者しかない。あとひと月と少し経てば、また他人になる。別れたが最後、きっと二度と出会わない。
深入りするな、心を開くな、何も信じるな。
これ以上、知りたいと思うな。
……それでも、ユゥイが思い出すのは、中央広場での公演のさなかに盗み見た男の表情だった。
感情の色が抜け落ちた、つめたく、きびしい表情。冬の朝陽のように静謐で、透徹に澄んでいた。その両目はたしかに舞台を映しているのに、すぐ目の前にある地獄を眺めるようでもあった。
舞台で演じられていたのは、愛しあっていた恋人たちが引き裂かれ、数奇な運命に巻き込まれていく物語だ。テーマとしてはごくありふれたものなのだろうが、脚本と演出は凝っていた。
何より、あれにはところどころ、《アルヴァスの大火災》を想起させる要素が含まれていた。
《アルヴァスの大火災》から、ちょうど十年が経つ。ある種の節目とも言える年だ。いつの時代も悲劇は戒めとなり、娯楽の一部となって後世に語られる。
あの災禍で失われたものは、数えきれないほど多い。
男の言葉が、ロウェンの言葉が、目にしたものが、次々と心を通り過ぎていく。
祭事にいい思い出がない、遠い昔になくした、探しもの。
あの、透きとおった絶望の影。
見るも痛ましい背中の大火傷。
とても大切なひと。
……あなたも、同じなのだろうか。
「――――エリオ」
もし、同じ痛みを抱えているなら。
暮れなずむ空を背に、男がわずかに目を見開く。ささやかないたずらが成功したみたいで、ユゥイは少しうれしくなった。
ポケットから、小さな陶器でできた猫の置物をひとつ取り出す。割れていなくてよかったと思いながら、だらりと下がっていた男の手を取り、その手のひらの上にそっと乗せてやる。
おばあさんの魔道具屋で、唯一買ったもの。
「今日のお礼です」
「……お礼?」
「はい」
助けてもらったから。
あなたは知らないと思うけれど、この先言うつもりもないけれど、あなたが僕を見つけてくれたあのとき、本当はとても安心したんだ。凍えた手をためらいなく握って、静かでさみしい場所から、ひとりぼっちの僕を明るい場所へ連れ出してくれた。
「これを枕元に置いて眠ると、一度だけ、夢の中で会いたい人に会えると」
怖いことを思い出して、悲しいことを思い出して、どうしても眠れない夜があったら。
その夜に、ユゥイはきっと寄り添うことができないから。
「あなたが、あなたの大切な人に会えるように」
男が数度瞬いて、ふっと目を眇めた。眩しいものを見るように、痛みをこらえるように。
エリオは手の中の猫をじっと見つめていた。それからようやくユゥイに目を戻して、「大切にする」と胸元にしまう。
ユゥイはそっと息を吸った。やわらかな夕風が吹いて、頬を撫でるように去っていく。どこかで鳥たちが羽ばたいた。湖の上で幻想的に空が燃えている。夢とうつつのような、夜と昼のあわい。
どうしてか今、伝えておかなければと思ったのだ。
絶望的に美しい黄昏の中で、ユゥイは小さく微笑んだ。
「魔法使いは嫌いだけど、あなたのことは嫌いじゃないですよ」
見つめた赤い瞳の奥に、なにかが揺らめいた。それは突如として燃え上がった炎のような、激しい情動のように見えた。光の錯覚だろうか。男の唇が小さく開いて、震える。
彼は何を言おうとしたのだろう。
ユゥイは知ることができない。
突如として風向きが変わる。ざわり、遠くの木々が大きくさざめいた、直後。
――――ドン、と重く巨大な地響きと共に、世界がひび割れるように空気が震撼した。
「……っ!?」
ぞわ、と全身の毛が逆立って、背筋に悪寒が走る。ユゥイは本能的に両腕で自分を抱きしめていた。それとほぼ同時に男がユゥイの肩を抱いて、守るように自分の方へ引き寄せる。
その腕のたしかさに安堵して、無意識に詰めていた呼気を声とともに吐き出した。
「今のは……」
これから進んでいこうとしていた方角に顔を向けた男の表情は常と変わらず落ち着いていたけれど、先ほどとは打って変わってその眼光は鋭さを帯び、木立を越えた先を冷たく見据えている。
地下から何かが噴き出したような地響きは、一度で終わった。揺れの余韻でさざめいていた湖が静寂していく。水面に映る空の色も、輝く星も、先ほどまでと何も変わらないように見える。
しかし何かが決定的に変化していた。
森の気配が違う。風の匂いが違う。空気の圧が違う。森を包んでいた動物や虫たちの息遣いが、いつの間にかどこかへ吸い込まれたように消えている。遠くの空へ鳥たちが一斉に飛び立っていくのが見えた。何かに怯え、逃げるように。
風が沈黙する。耳鳴りすら覚えるような圧倒的で不自然な静寂が森に立ち込める。森全体が、突如として異世界に放り込まれてしまったかのようだ。
どれほど目を凝らしてみても、木立の向こうにはこれといって何も見えない。
それでも、分かる。
そう遠く離れていない場所に、異質な《ナニカ》がいる。
重く暗く、森を支配しようとしている。
その答えを教えるように、
「――なぜ、こんなところに《エルダールード》が」
男が不可解そうに呟く。その赤い目は微かな燐光を帯びていた。遠視魔法を使っているのだと分かる。
エルダールード、エルダールード……聞き覚えのある単語だ。記憶を呼び起こす。家にある本で読んだことがある。たしか、樹木に寄生する魔物だ。魔力を得て強くなるほどに周囲の植物を取り込んで変質させ、領域に侵入した動物や人間を捕食し、その養分を吸い尽くす。森に生息する魔物として違和感はない。
けれど、ここは神聖なる森だ。ユゥイを拾ったあの老人もそう言っていた。この数年、一度だって魔物らしい魔物に遭遇したことはない。
なにより、この恐ろしく不気味な気配。少なくとも姿かたちが見えないほど距離があるのに、従人であるユゥイにも分かるほどに悍ましい存在感を放っている。エルダールードの危険度はそんなにも高かったか。
「本当にエルダールードなんですか?」
「間違いない」
男の表情が険しさを増した。といっても、わずかに眉をひそめた程度だが。
「成体か」
事実を確認しただけの、あまりに端的な言葉だった。だが本に書かれていた内容を思い出し、ユゥイはぞっとする。
エルダールードは、幼体のうちに討伐すればさほど害はない。だが成体となると話は別だ。成体は自己修復能力が高い上、菌が増殖するがごとく指数関数的に領域を広げ、やがては地脈にすら根を張り、汚染させ、森に住まう精霊たちをも殺し尽くす。森そのものが魔物となると、葉擦れの音だけで精神を狂わせ、一度足を踏み入れた者が二度と出てこられない魔境と化すらしい。そうなったが最後、汚染された一帯を森ごと焼き払う他、討伐する手立てがなくなると書いてあった。
幼体から成体になるには相応の時間が必要になるはずだ。まさかそんなにも長い間、森に巣食う魔物の存在に気づかなかった? ……いいや、ありえない。魔物は魔物を呼ぶ。エルダールードがいたなら、他の魔物だって森に現れていたはず。
それに、いましがたの地響きは……。
そのとき、不気味な静寂を切り裂くような狼の遠吠えが続けて二度、空高く響き渡った。まるで森全体へ異変を知らせる警笛のようなそれに、さっと血の気が引く。
「フェンリル……!」
ようやくまともな思考を取り戻す。何をぼうっとしているんだ。エルダールードがいるらしい方角にはユゥイの家がある。家にはルナもいるかもしれない。とにかく、一刻も早く、家に帰らなければ。
「家に、ルナとフェンリルが」
焦燥と恐怖と不安が入り混じり、舌が思うように動かない。それでも何を言いたいかは伝わったらしい、頷いたエリオが宥めるようにユゥイの肩を撫でた。
「俺が行く。おまえは近くの街へ転送するから、」
――――いい子で待っているのよ。
「っ、いやだ!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。その必死さを前に、エリオが口をつぐむ。
気づけば男の胸元にしがみついていた。勝手に震え出す手の、うまく動かない指先で男の衣服を力任せに掴む。ローブにぐしゃりと皺が寄った。
「足手纏いなのは分かってます。でも……でも、一緒に行かせてください」
呼吸が浅くなる。喉から絞り出した声がみっともなく掠れる。
「お願いします、なんでもするから……」
置いていかないで。
頭を下げるように俯いて、ユゥイは懇願した。
今この瞬間にも魔物は異常な速度で成長し、森を飲み込もうとしている。事態が事態だ、男の逡巡はわずかだったらしい。小さくため息を吐く音が聞こえた。力が入りすぎて白くなった手に、男の手が重なる。
「なんでもするなんて言葉、軽々しく口にするものじゃない」
悪い大人につけ込まれるぞ。
続いた声は、思うよりずっとやさしかった。
はっと顔を上げると、目を細めた男がユゥイを見下ろしている。こんな異常事態の中だというのに、思いがけない幸福を得たように微笑んでさえいた。
「怖かったら、そうやっていつでも俺にしがみついておいで」
幼い子どもをあやすような、どこかからかうような声に、身体中を満たしていた恐怖が不思議なほどに薄まっていく。
ユゥイはようやく深く呼吸ができた。指先から力が抜けていく。
「……遠慮します」
「残念」
本当に残念そうに言う。場に似つかわしくない軽口は、きっとユゥイの不安を和らげるための彼の思いやりだった。
重ねられていた男の手を両手でしっかりと握る。それだけで準備は終わった。ユゥイを抱き寄せる男の腕の力が強くなる。
きつく目を閉じた先、真っ黒で暗い闇が広がった。その先にどんな未来が待ち受けているのか、ユゥイはまだ何も分からなかった。
180
お気に入りに追加
231
あなたにおすすめの小説
【短編】旦那様、2年後に消えますので、その日まで恩返しをさせてください
あさぎかな@電子書籍二作目発売中
恋愛
「二年後には消えますので、ベネディック様。どうかその日まで、いつかの恩返しをさせてください」
「恩? 私と君は初対面だったはず」
「そうかもしれませんが、そうではないのかもしれません」
「意味がわからない──が、これでアルフの、弟の奇病も治るのならいいだろう」
奇病を癒すため魔法都市、最後の薬師フェリーネはベネディック・バルテルスと契約結婚を持ちかける。
彼女の目的は遺産目当てや、玉の輿ではなく──?
生まれ変わりは嫌われ者
青ムギ
BL
無数の矢が俺の体に突き刺さる。
「ケイラ…っ!!」
王子(グレン)の悲痛な声に胸が痛む。口から大量の血が噴きその場に倒れ込む。意識が朦朧とする中、王子に最後の別れを告げる。
「グレン……。愛してる。」
「あぁ。俺も愛してるケイラ。」
壊れ物を大切に包み込むような動作のキス。
━━━━━━━━━━━━━━━
あの時のグレン王子はとても優しく、名前を持たなかった俺にかっこいい名前をつけてくれた。いっぱい話しをしてくれた。一緒に寝たりもした。
なのにー、
運命というのは時に残酷なものだ。
俺は王子を……グレンを愛しているのに、貴方は俺を嫌い他の人を見ている。
一途に慕い続けてきたこの気持ちは諦めきれない。
★表紙のイラストは、Picrew様の[見上げる男子]ぐんま様からお借りしました。ありがとうございます!
執着攻めと平凡受けの短編集
松本いさ
BL
執着攻めが平凡受けに執着し溺愛する、似たり寄ったりな話ばかり。
疲れたときに、さくっと読める安心安全のハッピーエンド設計です。
基本的に一話完結で、しばらくは毎週金曜の夜または土曜の朝に更新を予定しています(全20作)
囚われ王子の幸福な再婚
高菜あやめ
BL
【理知的美形宰相x不遇な異能持ち王子】ヒースダイン国の王子カシュアは、触れた人の痛みを感じられるが、自分の痛みは感じられない不思議な体質のせいで、幼いころから周囲に忌み嫌われてきた。それは側室として嫁いだウェストリン国でも変わらず虐げられる日々。しかしある日クーデターが起こり、結婚相手の国王が排除され、新国王の弟殿下・第二王子バージルと再婚すると状況が一変する……不幸な生い立ちの王子が、再婚によって少しずつ己を取り戻し、幸せになる話です

アルファな俺が最推しを救う話〜どうして俺が受けなんだ?!〜
車不
BL
5歳の誕生日に階段から落ちて頭を打った主人公は、自身がオメガバースの世界を舞台にしたBLゲームに転生したことに気づく。「よりにもよってレオンハルトに転生なんて…悪役じゃねぇか!!待てよ、もしかしたらゲームで死んだ最推しの異母兄を助けられるかもしれない…」これは第二の性により人々の人生や生活が左右される世界に疑問を持った主人公が、最推しの死を阻止するために奮闘する物語である。

〈完結〉八年間、音沙汰のなかった貴方はどちら様ですか?
詩海猫
恋愛
私の家は子爵家だった。
高位貴族ではなかったけれど、ちゃんと裕福な貴族としての暮らしは約束されていた。
泣き虫だった私に「リーアを守りたいんだ」と婚約してくれた侯爵家の彼は、私に黙って戦争に言ってしまい、いなくなった。
私も泣き虫の子爵令嬢をやめた。
八年後帰国した彼は、もういない私を探してるらしい。
*文字数的に「短編か?」という量になりましたが10万文字以下なので短編です。この後各自のアフターストーリーとか書けたら書きます。そしたら10万文字超えちゃうかもしれないけど短編です。こんなにかかると思わず、「転生王子〜」が大幅に滞ってしまいましたが、次はあちらに集中予定(あくまで予定)です、あちらもよろしくお願いします*
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる