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第2章 例外
18. 街へ
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三方を山に囲まれるエデルガスは、領土の一部にある特殊地域を除き、周辺諸国と比べてはっきりとした四季を有する。
中でも、春は再生と繁栄の季節とされている。冬の鋭利で張り詰めた空気が綻び、動物たちが長い眠りから覚め、みずみずしく清廉な花々が世界を彩る。豊穣と収穫を齎す黄金の秋と同じくらい、人々に愛される季節だ。
雪解け水が凍った川を流れ出すように、冬のあいだ停滞していた人や物が少しずつ流通しはじめると、旅人や商人が盛んに動き出し、各所では春を迎える祭りが開催される。春は気象が不安定な季節でもあるから、次の春までの一年の安泰を祈る意味合いもある。
それはユゥイが住む聖寂の森から最も近い、周辺地域の交易の要となっている街でも例外ではない。
「ユゥイ様、もしや体調が優れないのでは?」
そのあたりで一休みしましょうか。
馬に乗って酔ってしまったのではないかと心配そうにするロウェンに向かって、ぼうっとしていたユゥイはほとんど反射で「いえ」と返した。
「平気です。……人の多さに、少し驚いてしまって」
二人が歩く大通りは街の中心部にあたり、露店はもちろん、行き交う人々や荷馬車でごった返している。街の住人もいるだろうが、明らかに他所から来たという出で立ちの人間が多い。異国らしき風貌の人も混じっている。
ここはエデルガスの中で見れば決して大きな街ではない。この街の規模でこの人の多さなら、大都市では身動きが取れないくらい混雑しているだろう。
「これだけ人が多いと、盗難事件が多発しそうですね」
ロウェンの懸念は正しい。明るい日差しのもと、ゆらゆらと揺らめく人の姿は、まさに人波と表現するにふさわしかった。ここで何か盗まれたら、二度と手元に戻ってこないと思った方がいいだろう。
「認識阻害と追跡の魔法をかけてはいますが、注意していきましょう」
ロウェンが袋を抱え直す。魔法が使えると本当に便利だ。改めて、ロウェンに同行をお願いしてよかったと思う。だが、同時に申し訳なさもあった。
「なんというか、すみません、こんな歩きづらい中で荷物持ちをしていただいて。まさかこんなに人が多いとは思わず……」
「とんでもございません。ユゥイ様のご指名とあらばいくらでも」
雷に打たれる準備はできておりますので、と爽やかに続く。ユゥイはどう返したらいいものか悩んで、ひとまず苦笑いをした。
――二日後、ロウェンを半日ほど貸していただけませんか。
それが先日、ユゥイが男に願った報酬だった。
もう少し浄化の頻度を上げてもいい。ユゥイのその言葉は『時間があるなら七日を五日に』程度の意味合いだったのに、男は何をどう受け取ったのか、七日を五日に、五日を三日にしたかと思うと、最近では一日おきにユゥイのもとを訪うようになった。
あんたそんなに暇なのか。
思わず呆れてしまったが、そうでもないらしい。夜に来ても眠らず帰ってしまう日もあったし、ふらりと昼下がりに訪れ、浄化がてらお茶を一杯飲んで去ってしまう日もあった。ある日は朝を迎えてすぐ、男を探していたロウェンが家の戸を叩きにきたこともある。
忙しい人間が束の間の憩いを求めて飼い猫に構うような、そんな感覚なのだろう。
こうも頻度が上がると報酬を毎回もらうのも気が引けて、ここ数回分は後払いということにさせてもらっていた。つまり、望めばたいていの願いが叶うチケットがどんどんユゥイの手元に溜まっている状態である。
そして、これだ、と思える報酬を思いついたのが今朝。
「あいつに何の用だ?」
「商会に薬草や薬を売りにいくんですが、思ったより量が多くなってしまって。使用期限が短いものもあるので、早めに持っていきたいんです。なので移動の手伝いと、荷物持ちをお願いできたらと」
「わざわざ商会にものを売るより、俺から金をもらった方が早いだろう」
ユゥイの言葉を理解できない様子で男が言う。これだから金に困らない金持ちは、とユゥイはため息を吐いた。
この男との関係が切れた後もユゥイの人生は続いていくのだ。たとえいま大金を手に入れられたとして、それが十年後、二十年後まで同じように手元に残っているかというと、それは誰も確約してくれない。
(それに、契約が終わったらこの家を出ていくつもりだし)
契約が終わった後、エリオやロウェンが教会にユゥイの存在を申告するとは思わないが、この世に絶対はない。教会に捕まる可能性は少しでも潰しておくべきだ。
ユゥイが懇意にしている商会は大陸全土を股にかける大きな商会である。どこへ行っても自らお金を稼ぐ手段として、商会との繋がりは決して手放してはならない。
家を出るつもりであることは隠しつつ、そのようなことを伝えると、男はまだあまり納得できなさそうにしながらも「言い分はわかった」と頷く。
「どうしてロウェンなんだ」
「…………?」
質問の意図を掴みかねる。どういう意味だと首を傾げると、「俺は」と短い声。
相変わらずその表情は凪のように静かで涼やかだが、ある程度この男と関わってきたユゥイの目には、どこか拗ねているようにも見える。
俺は、と言われても。
「いや、だってあんた荷物持ちとか嫌でしょう」ユゥイは先手を打って言った。「魔法薬が変質する可能性があるので、魔法は使えませんよ」
「……ロウェンに運ばせる」
「だから最初からロウェンを貸してくださいって言ってるんです」
こっちは何も間違ったことは言っていないというのに、何か言いたげにじーっと見つめられると、こちらが悪いような気がしてくる。駄々をこねる子どもか。
もしかして、まだ寝ぼけているのだろうか。寝起きがすこぶる悪い人だとはいえ、ここまで意味のわからないことを言うことはなかったが。
「せっかくなら祝祭の露店も楽しみたいですし」
「俺と一緒では楽しめないと?」
「はい」
あ、即答しちゃった。
しーん、と部屋の中が静まり返る。
「…………なぜ」
心なしか目が据わっている。ユゥイの返答は彼の自尊心を大いに傷つけてしまったらしかった。そりゃそうだ、この見た目であれば、今まで誘いを断られたことなんてなかっただろう。
下手な返事をすると雷に打たれるかもしれない。
ユゥイは一瞬で死ぬほど頭を回転させた。そして、極力角が立たないように言葉を選ぶ。
「その……ほら、あなたはどうしたって目立つじゃないですか。僕は極力目立ちたくないですし……あなたも人の多いところは嫌でしょう? あっという間に囲まれて身動きが取れなくなりますよ」
「認識阻害をかける」
「それでまた余計な《ケガレ》を溜めて、僕に《浄化》させようっていうんですか?」
《ケガレ》はヒーラーにとって無害なわけじゃないんですよ、と続けると、意外にも男は黙った。
とにかくロウェンがいい、ロウェンでお願いします、ロウェンじゃなかったらもう浄化しません。そう伝えると、男はうんともすんとも言わずに去っていったが、二日後の今日、明らかにたったいま雷に打たれましたという外見でロウェンがユゥイの家にやってきたというわけである。
「あの人はどうしてそんなにこの街に行きたかったんでしょう」
この街に興味があったのかな、と独りごちる。
周辺では最も大きな街とはいえ、それでも大都市とは比べるまでもない。この土地特有の赤粘土で作られた煉瓦や石で造られた街並みは見事だが、転移魔法へ大陸中どこへでも行ける人間がわざわざ見にくるほどでもないと思うのだが……。
「この街に、というよりは……ユゥイ様と行きたかったんだと思いますが」
ロウェンが思い返すように、斜め上に視線を向けながら言った。ユゥイは曖昧に笑って、「それは違うと思いますよ」と否定する。しかしロウェンは断固とした姿勢で反論した。
「いえ、違いません。ユゥイ様さえよければぜひ、次回はエリオ様を誘ってさしあげてください」
私の命を助けると思って! と力強く言われる。
雷に打たれる準備はできていると言っていたが、実際は相当応えたらしい。ユゥイはロウェンが断言する理由がよくわからないながらも、「機会があれば」と頷いておくことにした。彼の精神の安寧のために。
「エリオ様が頻繁に訪問されるようになり、何か問題はありませんか?」
「身体的には、今のところ」
含みを持たせた言い方にロウェンが思わずといったように苦笑する。
「ユゥイ様にはご負担をおかけして申し訳なく思っておりますが、同時に、我々は本当に感謝しているんです」
ロウェンが堅苦しい口調で言った。
「私があの方の側仕えとなって七年、あの方は喜怒哀楽の怒りしか表に出すことがなかった。それ以外の感情をどこかへ置き去りにしてしまったかのようでした。ですが……最近は柔らかい表情をすることが増えた。見違えるようです」
ユゥイ様と出会われて、あの方は変わりはじめた。
それは心からの声だった。
ユゥイが思い出すのは、初めて会った日の夜。こちらを見下ろす、凍りついたような冷たい目。
磨かれた宝石のように美しく、だからこそ無機質だった瞳が、いつから人らしい温度を持ってユゥイを見つめるようになったのか、ユゥイは思い出せない。
あの人がいつから、ユゥイを『大切な人』と重ねて見ていたのかも。
「うわ、」
すれ違う人とぶつかりかけて、ユゥイは軽くよろめいた。咄嗟に身体を支えてくれたロウェンが、「大丈夫ですか?」と声をかけてくる。
「ありがとうございます。今日は本当に人が多いな……」
「例年より多いですか?」
そうですね、と言いかけて、ユゥイは思い直した。この時期はいつも夜に起きて日中はまどろんでおり、昼にまともに動けるようになる頃には祭りは終わっていた。よく考えると、春祭りの真っ只中に街を訪れるのは初めてかもしれない。
「いつも時期をずらして来ていたので、毎年こんな感じなのかもしれません」
ロウェンはさほど疑問に思うこともなかったのか、「王都もこの時期は凄まじい人で溢れますからね」と言う。
「王都の祝祭は、たしか五月の半ばですよね? もうこの時期から人が?」
「ええ、山越えができるようになると一気に人が流入してきます。王都の祝祭が五月に行われるのは、春の訪れが今よりもっと遅かった時代は五月が春の始まりとされていたので、その名残ですね」
エデルガスの大都市を巡る旅芸人や商人、周辺の友好国から訪れる使者たちの移動時間、彼らを迎えるための準備に期間が必要になることからも、王都の祝祭は五月が最適なのだという。
「人や物が動くということは、それだけ衝突が増え、揉め事が起こりやすくなるということでもあります」
春になると祝祭の準備だけでなく、各所で発生するさまざまな問題に対処しなければならない。この時期は毎年本当に大変で、という言葉を聞くかぎり、ロウェンは治安維持や折衝の役割も担うことがあるようだ。
「今年は六月に重要な催事が控えているので、とても忙しいんです。人や動物だけでなく、魔物も活発になりますし」
毎年六月はエデルガスの建国を祝う祭典がある。おそらく、そのことを言っているのだろう。
(今年って、周年記念とかだっけ? 今は王国暦359……いや、360年?)
森や農村部で暮らしていると、日常生活で王国暦を意識することはほとんどない。むしろ皆無に近い。それでも、さすがに王国暦の年数すら把握していないのは良くない気がしてきた。
そんなことを考えながら、ユゥイの脳裏を少し前に町のパブで聞いた話がよぎった。各地で不穏な事件が起こっており、地脈が乱れているのかもしれない、と。あれも単純に、春という不安定な季節のせいなのか。
森に変わった様子はない。冬のあいだ隠れていた動物たちが顔を見せはじめ、渡り鳥が飛来し、草木はその緑をいっそう濃く鮮やかにしている。聖寂の森は北方山脈に近いから、異変があればすぐに分かるはずだ。
「……あの人が魔法を酷使しているのも、魔物の討伐が関わっていたりするんでしょうか」
エリオは防御魔法を常時展開しているという話だった。つまり、彼は普段、それだけ危険な環境に身を置いているということだ。
「何もお聞きになっていないんですか?」
ロウェンが目を丸くして驚いている。ひと月半も経っていれば、エリオがどんな生活をしているか聞いていて当然と思っていたのだろう。
ユゥイはなんとなく気まずいような気分になりながら口を開いた。
「知る必要もないかと思って……ただ、体質の問題だけにしては、あの人が《ケガレ》る速さが尋常ではないので」
気になってしまって、という声が雑踏に紛れていく。
「あ、ここを右です」
細い路地を曲がり、大通りを外れる。
石造りの建物に挟まれた細い路地は日が遮られ、窓から窓へ橋渡しをするいくつかのロープに色とりどりの布が揺れている。街の特産品である染め物を乾かしているのだろう。
雑踏のにぎわいが少しずつ遠ざかる。
「先ほどの話ですが……エリオ様の魔力消費のうちの半分は、たしかに魔物の討伐に由来すると思います。あの方の責務は、エデルガスの脅威を排除し、エデルガスを守ることですので」
エデルガスの脅威の排除、そしてエデルガスを守ること。それはまたずいぶん大仰な話に聞こえる。
とはいえ、魔法使いの責務はおよそエデルガスの発展と守護に集約される。魔法使いたちからすれば、さほど大それた表現ではないのかもしれない。
「ただ、あの方の魔物討伐は趣味というか、憂さ晴らしというか……誤解を恐れずに言えば、ついでですね。各地を探索する傍ら、自分の進路を邪魔するものを取り除いているというのが近いでしょうか」
「探索?」
はい、とロウェンが頷いた。珍しく沈んだような横顔は、何かを憐んでいるようにも見えた。
ひゅう、と音を立てて強い砂風が路地を吹き抜けた。吊り下げられた布が激しく揺れて、ばさりばさりとはためく。祝祭に浮かれる人々の明るい笑い声は遠い。ここだけ別世界に迷い込んでしまったように。
「あの方は、探しものをしておられる。遠い昔になくしたものが、この世のどこかにまだあると信じている」
中でも、春は再生と繁栄の季節とされている。冬の鋭利で張り詰めた空気が綻び、動物たちが長い眠りから覚め、みずみずしく清廉な花々が世界を彩る。豊穣と収穫を齎す黄金の秋と同じくらい、人々に愛される季節だ。
雪解け水が凍った川を流れ出すように、冬のあいだ停滞していた人や物が少しずつ流通しはじめると、旅人や商人が盛んに動き出し、各所では春を迎える祭りが開催される。春は気象が不安定な季節でもあるから、次の春までの一年の安泰を祈る意味合いもある。
それはユゥイが住む聖寂の森から最も近い、周辺地域の交易の要となっている街でも例外ではない。
「ユゥイ様、もしや体調が優れないのでは?」
そのあたりで一休みしましょうか。
馬に乗って酔ってしまったのではないかと心配そうにするロウェンに向かって、ぼうっとしていたユゥイはほとんど反射で「いえ」と返した。
「平気です。……人の多さに、少し驚いてしまって」
二人が歩く大通りは街の中心部にあたり、露店はもちろん、行き交う人々や荷馬車でごった返している。街の住人もいるだろうが、明らかに他所から来たという出で立ちの人間が多い。異国らしき風貌の人も混じっている。
ここはエデルガスの中で見れば決して大きな街ではない。この街の規模でこの人の多さなら、大都市では身動きが取れないくらい混雑しているだろう。
「これだけ人が多いと、盗難事件が多発しそうですね」
ロウェンの懸念は正しい。明るい日差しのもと、ゆらゆらと揺らめく人の姿は、まさに人波と表現するにふさわしかった。ここで何か盗まれたら、二度と手元に戻ってこないと思った方がいいだろう。
「認識阻害と追跡の魔法をかけてはいますが、注意していきましょう」
ロウェンが袋を抱え直す。魔法が使えると本当に便利だ。改めて、ロウェンに同行をお願いしてよかったと思う。だが、同時に申し訳なさもあった。
「なんというか、すみません、こんな歩きづらい中で荷物持ちをしていただいて。まさかこんなに人が多いとは思わず……」
「とんでもございません。ユゥイ様のご指名とあらばいくらでも」
雷に打たれる準備はできておりますので、と爽やかに続く。ユゥイはどう返したらいいものか悩んで、ひとまず苦笑いをした。
――二日後、ロウェンを半日ほど貸していただけませんか。
それが先日、ユゥイが男に願った報酬だった。
もう少し浄化の頻度を上げてもいい。ユゥイのその言葉は『時間があるなら七日を五日に』程度の意味合いだったのに、男は何をどう受け取ったのか、七日を五日に、五日を三日にしたかと思うと、最近では一日おきにユゥイのもとを訪うようになった。
あんたそんなに暇なのか。
思わず呆れてしまったが、そうでもないらしい。夜に来ても眠らず帰ってしまう日もあったし、ふらりと昼下がりに訪れ、浄化がてらお茶を一杯飲んで去ってしまう日もあった。ある日は朝を迎えてすぐ、男を探していたロウェンが家の戸を叩きにきたこともある。
忙しい人間が束の間の憩いを求めて飼い猫に構うような、そんな感覚なのだろう。
こうも頻度が上がると報酬を毎回もらうのも気が引けて、ここ数回分は後払いということにさせてもらっていた。つまり、望めばたいていの願いが叶うチケットがどんどんユゥイの手元に溜まっている状態である。
そして、これだ、と思える報酬を思いついたのが今朝。
「あいつに何の用だ?」
「商会に薬草や薬を売りにいくんですが、思ったより量が多くなってしまって。使用期限が短いものもあるので、早めに持っていきたいんです。なので移動の手伝いと、荷物持ちをお願いできたらと」
「わざわざ商会にものを売るより、俺から金をもらった方が早いだろう」
ユゥイの言葉を理解できない様子で男が言う。これだから金に困らない金持ちは、とユゥイはため息を吐いた。
この男との関係が切れた後もユゥイの人生は続いていくのだ。たとえいま大金を手に入れられたとして、それが十年後、二十年後まで同じように手元に残っているかというと、それは誰も確約してくれない。
(それに、契約が終わったらこの家を出ていくつもりだし)
契約が終わった後、エリオやロウェンが教会にユゥイの存在を申告するとは思わないが、この世に絶対はない。教会に捕まる可能性は少しでも潰しておくべきだ。
ユゥイが懇意にしている商会は大陸全土を股にかける大きな商会である。どこへ行っても自らお金を稼ぐ手段として、商会との繋がりは決して手放してはならない。
家を出るつもりであることは隠しつつ、そのようなことを伝えると、男はまだあまり納得できなさそうにしながらも「言い分はわかった」と頷く。
「どうしてロウェンなんだ」
「…………?」
質問の意図を掴みかねる。どういう意味だと首を傾げると、「俺は」と短い声。
相変わらずその表情は凪のように静かで涼やかだが、ある程度この男と関わってきたユゥイの目には、どこか拗ねているようにも見える。
俺は、と言われても。
「いや、だってあんた荷物持ちとか嫌でしょう」ユゥイは先手を打って言った。「魔法薬が変質する可能性があるので、魔法は使えませんよ」
「……ロウェンに運ばせる」
「だから最初からロウェンを貸してくださいって言ってるんです」
こっちは何も間違ったことは言っていないというのに、何か言いたげにじーっと見つめられると、こちらが悪いような気がしてくる。駄々をこねる子どもか。
もしかして、まだ寝ぼけているのだろうか。寝起きがすこぶる悪い人だとはいえ、ここまで意味のわからないことを言うことはなかったが。
「せっかくなら祝祭の露店も楽しみたいですし」
「俺と一緒では楽しめないと?」
「はい」
あ、即答しちゃった。
しーん、と部屋の中が静まり返る。
「…………なぜ」
心なしか目が据わっている。ユゥイの返答は彼の自尊心を大いに傷つけてしまったらしかった。そりゃそうだ、この見た目であれば、今まで誘いを断られたことなんてなかっただろう。
下手な返事をすると雷に打たれるかもしれない。
ユゥイは一瞬で死ぬほど頭を回転させた。そして、極力角が立たないように言葉を選ぶ。
「その……ほら、あなたはどうしたって目立つじゃないですか。僕は極力目立ちたくないですし……あなたも人の多いところは嫌でしょう? あっという間に囲まれて身動きが取れなくなりますよ」
「認識阻害をかける」
「それでまた余計な《ケガレ》を溜めて、僕に《浄化》させようっていうんですか?」
《ケガレ》はヒーラーにとって無害なわけじゃないんですよ、と続けると、意外にも男は黙った。
とにかくロウェンがいい、ロウェンでお願いします、ロウェンじゃなかったらもう浄化しません。そう伝えると、男はうんともすんとも言わずに去っていったが、二日後の今日、明らかにたったいま雷に打たれましたという外見でロウェンがユゥイの家にやってきたというわけである。
「あの人はどうしてそんなにこの街に行きたかったんでしょう」
この街に興味があったのかな、と独りごちる。
周辺では最も大きな街とはいえ、それでも大都市とは比べるまでもない。この土地特有の赤粘土で作られた煉瓦や石で造られた街並みは見事だが、転移魔法へ大陸中どこへでも行ける人間がわざわざ見にくるほどでもないと思うのだが……。
「この街に、というよりは……ユゥイ様と行きたかったんだと思いますが」
ロウェンが思い返すように、斜め上に視線を向けながら言った。ユゥイは曖昧に笑って、「それは違うと思いますよ」と否定する。しかしロウェンは断固とした姿勢で反論した。
「いえ、違いません。ユゥイ様さえよければぜひ、次回はエリオ様を誘ってさしあげてください」
私の命を助けると思って! と力強く言われる。
雷に打たれる準備はできていると言っていたが、実際は相当応えたらしい。ユゥイはロウェンが断言する理由がよくわからないながらも、「機会があれば」と頷いておくことにした。彼の精神の安寧のために。
「エリオ様が頻繁に訪問されるようになり、何か問題はありませんか?」
「身体的には、今のところ」
含みを持たせた言い方にロウェンが思わずといったように苦笑する。
「ユゥイ様にはご負担をおかけして申し訳なく思っておりますが、同時に、我々は本当に感謝しているんです」
ロウェンが堅苦しい口調で言った。
「私があの方の側仕えとなって七年、あの方は喜怒哀楽の怒りしか表に出すことがなかった。それ以外の感情をどこかへ置き去りにしてしまったかのようでした。ですが……最近は柔らかい表情をすることが増えた。見違えるようです」
ユゥイ様と出会われて、あの方は変わりはじめた。
それは心からの声だった。
ユゥイが思い出すのは、初めて会った日の夜。こちらを見下ろす、凍りついたような冷たい目。
磨かれた宝石のように美しく、だからこそ無機質だった瞳が、いつから人らしい温度を持ってユゥイを見つめるようになったのか、ユゥイは思い出せない。
あの人がいつから、ユゥイを『大切な人』と重ねて見ていたのかも。
「うわ、」
すれ違う人とぶつかりかけて、ユゥイは軽くよろめいた。咄嗟に身体を支えてくれたロウェンが、「大丈夫ですか?」と声をかけてくる。
「ありがとうございます。今日は本当に人が多いな……」
「例年より多いですか?」
そうですね、と言いかけて、ユゥイは思い直した。この時期はいつも夜に起きて日中はまどろんでおり、昼にまともに動けるようになる頃には祭りは終わっていた。よく考えると、春祭りの真っ只中に街を訪れるのは初めてかもしれない。
「いつも時期をずらして来ていたので、毎年こんな感じなのかもしれません」
ロウェンはさほど疑問に思うこともなかったのか、「王都もこの時期は凄まじい人で溢れますからね」と言う。
「王都の祝祭は、たしか五月の半ばですよね? もうこの時期から人が?」
「ええ、山越えができるようになると一気に人が流入してきます。王都の祝祭が五月に行われるのは、春の訪れが今よりもっと遅かった時代は五月が春の始まりとされていたので、その名残ですね」
エデルガスの大都市を巡る旅芸人や商人、周辺の友好国から訪れる使者たちの移動時間、彼らを迎えるための準備に期間が必要になることからも、王都の祝祭は五月が最適なのだという。
「人や物が動くということは、それだけ衝突が増え、揉め事が起こりやすくなるということでもあります」
春になると祝祭の準備だけでなく、各所で発生するさまざまな問題に対処しなければならない。この時期は毎年本当に大変で、という言葉を聞くかぎり、ロウェンは治安維持や折衝の役割も担うことがあるようだ。
「今年は六月に重要な催事が控えているので、とても忙しいんです。人や動物だけでなく、魔物も活発になりますし」
毎年六月はエデルガスの建国を祝う祭典がある。おそらく、そのことを言っているのだろう。
(今年って、周年記念とかだっけ? 今は王国暦359……いや、360年?)
森や農村部で暮らしていると、日常生活で王国暦を意識することはほとんどない。むしろ皆無に近い。それでも、さすがに王国暦の年数すら把握していないのは良くない気がしてきた。
そんなことを考えながら、ユゥイの脳裏を少し前に町のパブで聞いた話がよぎった。各地で不穏な事件が起こっており、地脈が乱れているのかもしれない、と。あれも単純に、春という不安定な季節のせいなのか。
森に変わった様子はない。冬のあいだ隠れていた動物たちが顔を見せはじめ、渡り鳥が飛来し、草木はその緑をいっそう濃く鮮やかにしている。聖寂の森は北方山脈に近いから、異変があればすぐに分かるはずだ。
「……あの人が魔法を酷使しているのも、魔物の討伐が関わっていたりするんでしょうか」
エリオは防御魔法を常時展開しているという話だった。つまり、彼は普段、それだけ危険な環境に身を置いているということだ。
「何もお聞きになっていないんですか?」
ロウェンが目を丸くして驚いている。ひと月半も経っていれば、エリオがどんな生活をしているか聞いていて当然と思っていたのだろう。
ユゥイはなんとなく気まずいような気分になりながら口を開いた。
「知る必要もないかと思って……ただ、体質の問題だけにしては、あの人が《ケガレ》る速さが尋常ではないので」
気になってしまって、という声が雑踏に紛れていく。
「あ、ここを右です」
細い路地を曲がり、大通りを外れる。
石造りの建物に挟まれた細い路地は日が遮られ、窓から窓へ橋渡しをするいくつかのロープに色とりどりの布が揺れている。街の特産品である染め物を乾かしているのだろう。
雑踏のにぎわいが少しずつ遠ざかる。
「先ほどの話ですが……エリオ様の魔力消費のうちの半分は、たしかに魔物の討伐に由来すると思います。あの方の責務は、エデルガスの脅威を排除し、エデルガスを守ることですので」
エデルガスの脅威の排除、そしてエデルガスを守ること。それはまたずいぶん大仰な話に聞こえる。
とはいえ、魔法使いの責務はおよそエデルガスの発展と守護に集約される。魔法使いたちからすれば、さほど大それた表現ではないのかもしれない。
「ただ、あの方の魔物討伐は趣味というか、憂さ晴らしというか……誤解を恐れずに言えば、ついでですね。各地を探索する傍ら、自分の進路を邪魔するものを取り除いているというのが近いでしょうか」
「探索?」
はい、とロウェンが頷いた。珍しく沈んだような横顔は、何かを憐んでいるようにも見えた。
ひゅう、と音を立てて強い砂風が路地を吹き抜けた。吊り下げられた布が激しく揺れて、ばさりばさりとはためく。祝祭に浮かれる人々の明るい笑い声は遠い。ここだけ別世界に迷い込んでしまったように。
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