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第1章 契約
11. ご褒美
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男はほとんど気絶するように意識を飛ばしたらしかった。ベッド横に立ち尽くし、ユゥイはそのつくりもののような美しい寝顔を眺めることしかできない。
(……疲れてるのかな)
白皙の相貌、長い睫毛が影を落とす目元には、よく見れば濃い隈がある。エリオは《ケガレ》による慢性的な頭痛と寝不足に悩まされている、とロウェンが言っていた。
《ケガレ》は時間経過でも少しずつ回復する。苦しむことが分かっているなら、魔法を使うのをやめればいい。魔法使いにとって魔法を使わずにいるということはそんなにも難しいことなのか、ユゥイには分からない。
ユゥイは仕方なく男の体にそうっとブランケットをかけて、音を立てぬよう注意して寝室を出た。隣の部屋の長椅子に、すとんと腰を下ろす。
「……あつい」
ぱたぱたと手で風を送る。身体がやけに温まっていた。長くお湯に浸かったみたいに、内側から火照っている。熱源のない春の夜の空気は、普段なら肌寒く感じるだろうに、今はひんやりして気持ちよかった。
(相性が良すぎるのも、良くない気がするなあ……)
今の状態に既視感を覚えて、昔、無理やり酒を飲まされたときと似ているんだと気づいた。あの酩酊感。頭の芯が溶けたようになり、足元がふわふわして、何も考えられなくなってしまう感覚。
少し経つと身体の火照りは落ち着いた。暖炉の近くに置いてあったくたびれた膝掛けを取りにいき、再び長椅子の上で膝を抱える。なんとなしに部屋の中を眺めて、ユゥイは目を丸くした。
台所の窓辺、細いガラス瓶の中で水中に根を伸ばした清月草が、月明かりを受けて小さな白い花を無数に咲かせている。
清月草は稀少な植物で、清浄な土地でしか育たず、市場にも滅多に出回らない。ユゥイは偶然、森を散策しているときに群生地を見つけた。あまりたくさん採取してもいけないと、必要な分だけ取ってきている。
清月草の根はそのまま食べれば疲労回復や自然治癒力の向上の効果をもたらし、他の薬草と組み合わせれば万病に効く薬を作れる。一方、清らかな水と十分な月の光を受けなければ咲かず、朝陽をわずかでも受けるとたちまち蕾になってしまう花は、美しいが一般には特に価値がないとされている。
(でも、実は魔力増幅薬を作れる)
魔力増幅系の薬は違法薬物にあたるため表には出回らないが、裏では古くから流通している。ユゥイにとってそんな薬には何の価値もないから、作ろうとは思わないけれど。
視線の先、小さな花々はまるでそれ自体が発光しているかのように仄かに輝いている。いつもこの時間は眠ってしまっているから、咲いているのを知らなかった。
(……綺麗だ)
見ることができてよかった。こんなに綺麗に咲いているのに、咲いていることを誰にも知られないまま枯れてしまうのは花がかわいそうだ。
清月草の左右には、他にもいくつかガラス瓶で水栽培される薬草が並ぶ。視線をずらすと、普段ユゥイが使っている食器や、じゃがいもや玉ねぎなどの野菜、黒い窯や使い古した鍋が見える。
つめたい月明かりの差し込む台所はよそよそしく、それでいてなんだか神聖な空気を放っているように見えた。
(……自分以外の人がいるせいなのかな)
自分の家なのに、いつもと違う場所みたいだ。
思っていると、視界の端で黒い影が動いた。棚の上で丸まっていたルナが身軽に飛び降りてきて、ユゥイの近くへ寄ってくる。
「一緒に寝たいのか?」
小さく笑って、いいよ、久しぶりに一緒に寝ようと呼びかける。身体を丸めて横になり、懐にルナを呼び込んだ。大人しくユゥイの元で丸まった生き物の柔らかな毛並みを撫でる。生き物特有の熱がじんわりとユゥイをあたためてくれる。
ソファというよりはベンチに近い材質なので、ひどく硬い。不満を覚えるというよりはむしろ懐かさしさを感じる。三年前までは、ユゥイはここで毎晩眠っていた。違うのは、ユゥイの背が伸びたせいで、少し窮屈になってしまったくらいだろうか。
目を閉じて、男の声を反芻する。
報酬、ご褒美。何にしようかな。金でも物でもなんでもいいと言っていた。すごい魔法使いだから、たいていの願いは叶えてやれると。
なんでもいいと言われると、選択肢が多すぎてこんなにも迷うものなんだ。
ユゥイは初めて知った。これまでの人生で、自分の意思で何かを自由に選び取れることなど、ほとんどなかったから。
*
あたためた葡萄のパン、じゃがいもが入った薄味のスープ、あざやかな濃い橙色の宝柑。カモミールを中心にブレンドして作ったハーブティーを注げば、ユゥイの質素な朝ごはんが完成する。
ユゥイが大きな口を開けてパンを齧っていたところ、寝室から男がふらりと現れた。
数秒、お互い無言で見つめあう。
「……おはよう、ございます?」
「…………おはよう」
そのまま瞼を下ろしてしまうんじゃないかと不安になるくらい緩慢な瞬きをしながら、男が返事をする。のろのろとした足取りでテーブルに近づいてきたかと思うと、ユゥイの向かいにゆっくりと腰を下ろした。……この男、さては寝起きが悪いな。
男の目が、ちらりとユゥイのティーカップに向けられた。無言でじいっと見つめている。
無視するのもいたたまれず、ユゥイは「飲みますか?」と控えめに声をかけた。男はこくりと頷く。まだ半分眠っているみたいだった。
(まあ、これも仕事のうちと思えば)
お茶を淹れるくらい大した手間ではない。これくらいは、《浄化》という仕事の一環ということで納得しよう。
ティーカップを用意し、暖炉の熱でポットと一緒に温める。お湯を注ぎなおし、小さな砂時計をひっくり返す。最後の一粒まで落ちるのを見届けてから、ユゥイはポットからお茶を注いだ。白く湯気がたちのぼり、深みのある香りが漂う。
「どうぞ」
カップを男の前に差し出し、自分の席に座りなおしたところで、ユゥイは不意にロウェンの言葉を思い出した。お茶がぬるくて半殺しにされた部下がいる、と。
(軽率に飲みますかなんて聞くんじゃなかった……!)
後悔してももう遅かった。ぱっと目の前を見ると、男はすでにカップに口をつけ、こくりとその喉を上下させたところだった。
男がわずかに眉を上げる。どきどきと心臓の音が大きくなる。
一瞬の静寂があり、
「……――うまい」
それを聞いた瞬間、全身の力が抜けた。はー、と胸を撫で下ろす。なんというか、死地から戻ったような気分だった。
男はもう一口飲むと、
「今まで飲んだ中で一番だ」
と衒いなく言った。
そこまで言われると、ユゥイはさすがに口元を手で隠した。勝手に口角が上がってしまいそうだったのだ。接した時間はごくわずかでも、世辞で褒め言葉を言うような人ではないことくらい分かる。
男は本当にユゥイのお茶を気に入ったらしく、再びティーカップを口元に寄せる。
眠たげでもその仕草はひどく優雅で、一つの絵画のようにさえ見えた。意識せずとも骨身に染みついているのだろう、きちんと礼儀作法の教育を受けてきた人だと一目でわかる品のよさがある。男が纏うシンプルなブラウスも、その上品さに拍車をかけていた。
ユゥイがこの男について知ることはわずかだ。魔力消費の激しい仕事をしていて、《ケガレ》を溜めやすい体質をもつ魔法使い。専属の従者がつき、金貨の詰まった袋をぽんと渡せてしまうほど金に困らない上等な身分。
《浄化》を行う上で、これ以上の情報は必要ない。そのはずなのに、この人が今までどんな風に生きてきたのか、普段は何をしているのか、少し気になってしまう。
ティーカップに視線を注いでいた男が、ふとこちらを見た。ばちり、と音が聞こえるほど視線がぶつかってしまい、つい反射で目を背ける。そこでようやく、自分が男の仕草に見入っていたことに気づいた。
自分も食事を再開しようといつものように口でパンを齧ろうとして、ユゥイは動きを止めた。少し考え、指でパンを小さくちぎって口に運ぶ。なんだか急に、自分の振る舞いの粗雑さが男の目にどう映るか気になってしまったのだ。
ちまちまパンを食べていると、男がふ、と笑った気配がした。顔を上げれば、無表情ながらも棘のない顔つきで男がユゥイを見ている。
「フェレルみたいだな」
ユゥイはパンをちぎる手を止めた。
フェレルはふわふわした毛並みに小さな耳がついた小動物で、愛玩動物として貴族の間で人気がある。餌を小さくちぎって食べる習性があり、その姿が可愛らしいという話だった。
褒められているのか貶されているのか判断がつかないでいると、
「そんなに少しずつ食べていたら、食べた気がしないだろ」
パーティーの場でもないんだ、俺の前でマナーなんて気にしなくていい、と続く。
ユゥイは驚いた。気にしていることを、見透かされていたのか。自分があからさますぎるのか男の察しがいいのか、どうあれ恥ずかしさを覚えずにいられない。
「……別に、いつもこうやって食べてますし」
「さっきは大口開けてかぶりつこうとしてた気がするが?」
「寝ぼけてたんじゃないですか?」
言い返すと、くっくっと男が喉を鳴らして笑った。何笑ってるんだと睨むが、余裕そうな微笑みでいなされる。その笑い方が存外に柔らかくて、少し心臓に悪かった。
「……そんなに見ないでください」
緊張するから、とは言わずに視線を落とす。男は「見てない」と平然と嘘をついた。結局ユゥイは、頬杖をついた男に終始眺められながら朝食を食べることになった。
「これ」
男がティーカップを二回空にする時間をかけて居心地の悪い食事を終えた後、ユゥイは最初にもらった革製の巾着を取り出した。
「中身が全部金貨だったんですけど、銀貨や銅貨に替えていただくことはできませんか?」
町や村では金貨など滅多にお目にかかれない。ユゥイのような存在が急に金貨を使いはじめたら驚かれるし、偽物ではないかと疑われるだろう。墓荒らしでもしたのではと思われる可能性もあるし、大金を持っていると知られたら悪い人間が盗みにくるかもしれない。
ローブを羽織って出立の準備をする男にその旨を伝えると、納得したように「わかった」と返事があった。明日にでもロウェンに持ってこさせるという。
「それで、今回の望みは?」
振り返った男が問いかけてくる。
ユゥイは一度口を開き、何も言わず閉じて、また開いてから、「今回はいりません」と答えた。男がわずかに目を丸くする。
「その、前回貰いすぎたので、今回は報酬なしで結構です」
今朝改めて確認したら、皮袋の中に詰まっていた金貨は、大人ひとりが十年は遊んで暮らせるほどだった。ユゥイは前回大したことはしていない。《浄化》も大量の《ケガレ》を引き受けたわけではなかったし、無体を強いられかけたとはいえ未遂に終わった。その報酬としては過分すぎる。
「――……真面目なんだか変わってるんだか」
そんな生き方じゃ人生損するぞ、と続く。
男はユゥイを上から下まで眺め、顎に指を当てて少し考えこむようにしたあと、おもむろに手のひらを上に向けた。小さく何かを唱えたかと思うと微かな光が生まれる。
次の瞬間には、その手の上に控えめに輝くバングルがひとつあった。円環はシンプルな細身の銀で、中央に楕円形の赤い石が埋め込まれている。
まさかとは思うが……。
「いりませんからね?」
「そう冷たいことを言うな。これは報酬じゃない」
うまいお茶をご馳走してくれたご褒美だよ、と男が嘯く。あっさりと手を取られ、引っ込める間もなくするりと手首に嵌められてしまう。バングルはユゥイの手首にぴたりとおさまった。
「肌身離さず持っておくと、いいことがあるかもしれない」
「……たとえば?」
「それは秘密」
揶揄うように言って男が唇に指を立てる。こちらを見つめる透きとおるような目は、ユゥイの手首に通されたバングルの宝石と同じ色をしている。けれど、宝石ほど冷たくはなかった。
窓が開いていない部屋であるにも関わらず、前触れなく微かな風と光を感じた。かと思うと、男の姿は夢のように掻き消える。
また七日後に、と声だけを残して。
(……疲れてるのかな)
白皙の相貌、長い睫毛が影を落とす目元には、よく見れば濃い隈がある。エリオは《ケガレ》による慢性的な頭痛と寝不足に悩まされている、とロウェンが言っていた。
《ケガレ》は時間経過でも少しずつ回復する。苦しむことが分かっているなら、魔法を使うのをやめればいい。魔法使いにとって魔法を使わずにいるということはそんなにも難しいことなのか、ユゥイには分からない。
ユゥイは仕方なく男の体にそうっとブランケットをかけて、音を立てぬよう注意して寝室を出た。隣の部屋の長椅子に、すとんと腰を下ろす。
「……あつい」
ぱたぱたと手で風を送る。身体がやけに温まっていた。長くお湯に浸かったみたいに、内側から火照っている。熱源のない春の夜の空気は、普段なら肌寒く感じるだろうに、今はひんやりして気持ちよかった。
(相性が良すぎるのも、良くない気がするなあ……)
今の状態に既視感を覚えて、昔、無理やり酒を飲まされたときと似ているんだと気づいた。あの酩酊感。頭の芯が溶けたようになり、足元がふわふわして、何も考えられなくなってしまう感覚。
少し経つと身体の火照りは落ち着いた。暖炉の近くに置いてあったくたびれた膝掛けを取りにいき、再び長椅子の上で膝を抱える。なんとなしに部屋の中を眺めて、ユゥイは目を丸くした。
台所の窓辺、細いガラス瓶の中で水中に根を伸ばした清月草が、月明かりを受けて小さな白い花を無数に咲かせている。
清月草は稀少な植物で、清浄な土地でしか育たず、市場にも滅多に出回らない。ユゥイは偶然、森を散策しているときに群生地を見つけた。あまりたくさん採取してもいけないと、必要な分だけ取ってきている。
清月草の根はそのまま食べれば疲労回復や自然治癒力の向上の効果をもたらし、他の薬草と組み合わせれば万病に効く薬を作れる。一方、清らかな水と十分な月の光を受けなければ咲かず、朝陽をわずかでも受けるとたちまち蕾になってしまう花は、美しいが一般には特に価値がないとされている。
(でも、実は魔力増幅薬を作れる)
魔力増幅系の薬は違法薬物にあたるため表には出回らないが、裏では古くから流通している。ユゥイにとってそんな薬には何の価値もないから、作ろうとは思わないけれど。
視線の先、小さな花々はまるでそれ自体が発光しているかのように仄かに輝いている。いつもこの時間は眠ってしまっているから、咲いているのを知らなかった。
(……綺麗だ)
見ることができてよかった。こんなに綺麗に咲いているのに、咲いていることを誰にも知られないまま枯れてしまうのは花がかわいそうだ。
清月草の左右には、他にもいくつかガラス瓶で水栽培される薬草が並ぶ。視線をずらすと、普段ユゥイが使っている食器や、じゃがいもや玉ねぎなどの野菜、黒い窯や使い古した鍋が見える。
つめたい月明かりの差し込む台所はよそよそしく、それでいてなんだか神聖な空気を放っているように見えた。
(……自分以外の人がいるせいなのかな)
自分の家なのに、いつもと違う場所みたいだ。
思っていると、視界の端で黒い影が動いた。棚の上で丸まっていたルナが身軽に飛び降りてきて、ユゥイの近くへ寄ってくる。
「一緒に寝たいのか?」
小さく笑って、いいよ、久しぶりに一緒に寝ようと呼びかける。身体を丸めて横になり、懐にルナを呼び込んだ。大人しくユゥイの元で丸まった生き物の柔らかな毛並みを撫でる。生き物特有の熱がじんわりとユゥイをあたためてくれる。
ソファというよりはベンチに近い材質なので、ひどく硬い。不満を覚えるというよりはむしろ懐かさしさを感じる。三年前までは、ユゥイはここで毎晩眠っていた。違うのは、ユゥイの背が伸びたせいで、少し窮屈になってしまったくらいだろうか。
目を閉じて、男の声を反芻する。
報酬、ご褒美。何にしようかな。金でも物でもなんでもいいと言っていた。すごい魔法使いだから、たいていの願いは叶えてやれると。
なんでもいいと言われると、選択肢が多すぎてこんなにも迷うものなんだ。
ユゥイは初めて知った。これまでの人生で、自分の意思で何かを自由に選び取れることなど、ほとんどなかったから。
*
あたためた葡萄のパン、じゃがいもが入った薄味のスープ、あざやかな濃い橙色の宝柑。カモミールを中心にブレンドして作ったハーブティーを注げば、ユゥイの質素な朝ごはんが完成する。
ユゥイが大きな口を開けてパンを齧っていたところ、寝室から男がふらりと現れた。
数秒、お互い無言で見つめあう。
「……おはよう、ございます?」
「…………おはよう」
そのまま瞼を下ろしてしまうんじゃないかと不安になるくらい緩慢な瞬きをしながら、男が返事をする。のろのろとした足取りでテーブルに近づいてきたかと思うと、ユゥイの向かいにゆっくりと腰を下ろした。……この男、さては寝起きが悪いな。
男の目が、ちらりとユゥイのティーカップに向けられた。無言でじいっと見つめている。
無視するのもいたたまれず、ユゥイは「飲みますか?」と控えめに声をかけた。男はこくりと頷く。まだ半分眠っているみたいだった。
(まあ、これも仕事のうちと思えば)
お茶を淹れるくらい大した手間ではない。これくらいは、《浄化》という仕事の一環ということで納得しよう。
ティーカップを用意し、暖炉の熱でポットと一緒に温める。お湯を注ぎなおし、小さな砂時計をひっくり返す。最後の一粒まで落ちるのを見届けてから、ユゥイはポットからお茶を注いだ。白く湯気がたちのぼり、深みのある香りが漂う。
「どうぞ」
カップを男の前に差し出し、自分の席に座りなおしたところで、ユゥイは不意にロウェンの言葉を思い出した。お茶がぬるくて半殺しにされた部下がいる、と。
(軽率に飲みますかなんて聞くんじゃなかった……!)
後悔してももう遅かった。ぱっと目の前を見ると、男はすでにカップに口をつけ、こくりとその喉を上下させたところだった。
男がわずかに眉を上げる。どきどきと心臓の音が大きくなる。
一瞬の静寂があり、
「……――うまい」
それを聞いた瞬間、全身の力が抜けた。はー、と胸を撫で下ろす。なんというか、死地から戻ったような気分だった。
男はもう一口飲むと、
「今まで飲んだ中で一番だ」
と衒いなく言った。
そこまで言われると、ユゥイはさすがに口元を手で隠した。勝手に口角が上がってしまいそうだったのだ。接した時間はごくわずかでも、世辞で褒め言葉を言うような人ではないことくらい分かる。
男は本当にユゥイのお茶を気に入ったらしく、再びティーカップを口元に寄せる。
眠たげでもその仕草はひどく優雅で、一つの絵画のようにさえ見えた。意識せずとも骨身に染みついているのだろう、きちんと礼儀作法の教育を受けてきた人だと一目でわかる品のよさがある。男が纏うシンプルなブラウスも、その上品さに拍車をかけていた。
ユゥイがこの男について知ることはわずかだ。魔力消費の激しい仕事をしていて、《ケガレ》を溜めやすい体質をもつ魔法使い。専属の従者がつき、金貨の詰まった袋をぽんと渡せてしまうほど金に困らない上等な身分。
《浄化》を行う上で、これ以上の情報は必要ない。そのはずなのに、この人が今までどんな風に生きてきたのか、普段は何をしているのか、少し気になってしまう。
ティーカップに視線を注いでいた男が、ふとこちらを見た。ばちり、と音が聞こえるほど視線がぶつかってしまい、つい反射で目を背ける。そこでようやく、自分が男の仕草に見入っていたことに気づいた。
自分も食事を再開しようといつものように口でパンを齧ろうとして、ユゥイは動きを止めた。少し考え、指でパンを小さくちぎって口に運ぶ。なんだか急に、自分の振る舞いの粗雑さが男の目にどう映るか気になってしまったのだ。
ちまちまパンを食べていると、男がふ、と笑った気配がした。顔を上げれば、無表情ながらも棘のない顔つきで男がユゥイを見ている。
「フェレルみたいだな」
ユゥイはパンをちぎる手を止めた。
フェレルはふわふわした毛並みに小さな耳がついた小動物で、愛玩動物として貴族の間で人気がある。餌を小さくちぎって食べる習性があり、その姿が可愛らしいという話だった。
褒められているのか貶されているのか判断がつかないでいると、
「そんなに少しずつ食べていたら、食べた気がしないだろ」
パーティーの場でもないんだ、俺の前でマナーなんて気にしなくていい、と続く。
ユゥイは驚いた。気にしていることを、見透かされていたのか。自分があからさますぎるのか男の察しがいいのか、どうあれ恥ずかしさを覚えずにいられない。
「……別に、いつもこうやって食べてますし」
「さっきは大口開けてかぶりつこうとしてた気がするが?」
「寝ぼけてたんじゃないですか?」
言い返すと、くっくっと男が喉を鳴らして笑った。何笑ってるんだと睨むが、余裕そうな微笑みでいなされる。その笑い方が存外に柔らかくて、少し心臓に悪かった。
「……そんなに見ないでください」
緊張するから、とは言わずに視線を落とす。男は「見てない」と平然と嘘をついた。結局ユゥイは、頬杖をついた男に終始眺められながら朝食を食べることになった。
「これ」
男がティーカップを二回空にする時間をかけて居心地の悪い食事を終えた後、ユゥイは最初にもらった革製の巾着を取り出した。
「中身が全部金貨だったんですけど、銀貨や銅貨に替えていただくことはできませんか?」
町や村では金貨など滅多にお目にかかれない。ユゥイのような存在が急に金貨を使いはじめたら驚かれるし、偽物ではないかと疑われるだろう。墓荒らしでもしたのではと思われる可能性もあるし、大金を持っていると知られたら悪い人間が盗みにくるかもしれない。
ローブを羽織って出立の準備をする男にその旨を伝えると、納得したように「わかった」と返事があった。明日にでもロウェンに持ってこさせるという。
「それで、今回の望みは?」
振り返った男が問いかけてくる。
ユゥイは一度口を開き、何も言わず閉じて、また開いてから、「今回はいりません」と答えた。男がわずかに目を丸くする。
「その、前回貰いすぎたので、今回は報酬なしで結構です」
今朝改めて確認したら、皮袋の中に詰まっていた金貨は、大人ひとりが十年は遊んで暮らせるほどだった。ユゥイは前回大したことはしていない。《浄化》も大量の《ケガレ》を引き受けたわけではなかったし、無体を強いられかけたとはいえ未遂に終わった。その報酬としては過分すぎる。
「――……真面目なんだか変わってるんだか」
そんな生き方じゃ人生損するぞ、と続く。
男はユゥイを上から下まで眺め、顎に指を当てて少し考えこむようにしたあと、おもむろに手のひらを上に向けた。小さく何かを唱えたかと思うと微かな光が生まれる。
次の瞬間には、その手の上に控えめに輝くバングルがひとつあった。円環はシンプルな細身の銀で、中央に楕円形の赤い石が埋め込まれている。
まさかとは思うが……。
「いりませんからね?」
「そう冷たいことを言うな。これは報酬じゃない」
うまいお茶をご馳走してくれたご褒美だよ、と男が嘯く。あっさりと手を取られ、引っ込める間もなくするりと手首に嵌められてしまう。バングルはユゥイの手首にぴたりとおさまった。
「肌身離さず持っておくと、いいことがあるかもしれない」
「……たとえば?」
「それは秘密」
揶揄うように言って男が唇に指を立てる。こちらを見つめる透きとおるような目は、ユゥイの手首に通されたバングルの宝石と同じ色をしている。けれど、宝石ほど冷たくはなかった。
窓が開いていない部屋であるにも関わらず、前触れなく微かな風と光を感じた。かと思うと、男の姿は夢のように掻き消える。
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