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第1章 契約
6. 「エリオ」
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「エリオ」
初めて見た微笑みにユゥイが気を取られていると、唐突に男が言った。すでに男の表情は無に戻っている。まるで、雪が陽の光にあっという間に溶けてしまったかのようだった。
「俺のことはそう呼ぶように」
「はあ……」
「おまえの名前は?」
ユゥイは少し黙ってから、「ルナ」と返した。それを聞いた途端、男がすっと瞳の温度を下げる。
「俺の前で再三嘘をつくとは、いい度胸をしてる」
なあ、ルナ。男がそう言って黒猫の方を見た。ユゥイの足元に擦り寄っていたルナが、みゃあん、と甘えた鳴き声をあげる。
ユゥイは驚いた。
「もしかして、ルナと話したんですか?」
「少し。動物語は疲れる」
男は平然と言ったが、動物語は動物の数だけ魔法式が存在し、同じ種類の動物でも対象ごとに微調整が必要になる高度魔法の一種だ。初対面でいきなり波長を合わせて会話ができる魔法使いはそう多くないと聞いている。優秀な、というのは嘘ではないらしい。
「で、名前は? 二度目はないぞ」
「ルナからもう聞いたでしょう」
「聞いていないし、聞いていたとしても、俺はおまえの口から聞きたい」
一瞬、返答に窮する。なんというか、変なところで素直な人だった。こうも真正面からぶつかってこられると調子が狂う。
「……ユゥイ」
名乗ると、男が「ユゥイ?」と確かめるように繰り返した。
「……ラストネームは?」
「忘れました」
男が疑わしげな目を向けてくる。ユゥイはただ曖昧に微笑んで返した。森の奥から深い風が吹いてくる。風はユゥイの目元に影を落とす前髪をふわりと浮かせて、また森の向こうへ去っていく。
「――どうして僕なんですか?」
理由が欲しい。ユゥイにとって男が未知の存在であるように、男にとってもユゥイは素性の分からない信用ならない相手のはずだ。男が金に困っていないなら、ヒーラーなどいくらでも聖教会から呼びつけることができる。むしろ、金を払ってでもこの男の相手をしたい人間はごまんといるだろう。
なぜ、こんな見ず知らずの不審な相手に《浄化》を頼もうというのか。
「相性がいいから」
男の答えは簡潔だった。相性。先ほども聞いた言葉だ。
「さっきも言ってましたけど、相性って?」
「知らないのか」
呆れたように言ってからすぐ、こんな森の奥に住んでいるようなら知らなくても仕方ないか、と男は首を振った。
「魔法使いとヒーラーにも相性がある。魔法使いと……というよりは、《ケガレ》とヒーラーの、と言い換えた方がいいか。相性がいい方がヒーラーの身体的負担が少なく、《浄化》の効率もいい」
《ケガレ》とは魔法を使った後に残る澱みのようなもの、つまり、元々は魔力だったものだ。炎魔法が得意な者、水魔法が得意な者、と魔法使いにも個性があるように、魔力は個々人によって微妙に性質が異なっているため、《ケガレ》の性質もまた千差万別ということになる。
ヒーラーはケガレを引き寄せる磁石のようなもので、引き寄せる力はヒーラー自身の能力に依存する。だが、《ケガレ》とヒーラーの相性が悪いと、その吸着率に差が出てくる。加えて、相性が悪い《ケガレ》は少量でヒーラーに悪影響を及ぼすということだろう。
「おまえが今まで何人の魔法使いを相手にしてきたかは知らないが、浄化した《ケガレ》の量によらず体調に不調が出たことはなかったか」
ユゥイは黙り込んだ。過去は思い出したくもないし、鮮明に覚えてもいない。覚えていたとしても、いずれも最悪だったため比較ができない。
だが、ユゥイにはひとつ思い当たることがあった。
まさに昨日。この男のケガレを浄化したとき、今までにない感覚があった。
不調というよりは、むしろ――。
なんとなく言わない方がいいだろうと思い、ユゥイは「まあ、なくはないですけど」と濁して返す。
「今の話だと、相性の良さを認識できるのはヒーラーだけってことになりますよね? あなたはどうして僕と相性がいいと分かったんですか?」
男を見ると、透きとおった赤がこちらを見つめ返してきた。
「直感」
まるで、運命、と言うかのようだった。
ユゥイがあからさまに胡乱げな目を向けると、男は少しつまらなそうな顔をして「体質だ」と言い直した。
「《ケガレ》が溜まりやすい分、変化にも敏感なんだ」
その体質のせいでこれまで苦労してきたらしい、と分かる声音だった。《ケガレ》にも体質があるのか、とユゥイは驚く。確かに、普通の風邪だって罹る人と罹らない人がいるし、罹ってもすぐ治る人と、拗らせて長引く人がいる。身体の弱い人の方が己の体調には敏感だ。《ケガレ》も一種の風邪だと考えれば、なぜ今まで思い至らなかったのか不思議になるほど当然の話でもあった。
男は不意に何かに気づいたように上方に目をやると、「もう行く」と言う。
「あの、まだ聞きたいことがあるんですけど」
「人を寄越すから、知りたいことがあればそいつに聞け。七日後にまた来る」
逃げるなよ。
釘を刺すように最後にそれだけ言うと、風も吹いていないのに男のローブがふわりと大きく膨らんだ。驚く間もなく、瞬きのうちに男の姿が消える。
さあ、と風の流れる音がする。男の立っていた場所には、ただ静かに光が降り注ぐだけだった。
初めて見た微笑みにユゥイが気を取られていると、唐突に男が言った。すでに男の表情は無に戻っている。まるで、雪が陽の光にあっという間に溶けてしまったかのようだった。
「俺のことはそう呼ぶように」
「はあ……」
「おまえの名前は?」
ユゥイは少し黙ってから、「ルナ」と返した。それを聞いた途端、男がすっと瞳の温度を下げる。
「俺の前で再三嘘をつくとは、いい度胸をしてる」
なあ、ルナ。男がそう言って黒猫の方を見た。ユゥイの足元に擦り寄っていたルナが、みゃあん、と甘えた鳴き声をあげる。
ユゥイは驚いた。
「もしかして、ルナと話したんですか?」
「少し。動物語は疲れる」
男は平然と言ったが、動物語は動物の数だけ魔法式が存在し、同じ種類の動物でも対象ごとに微調整が必要になる高度魔法の一種だ。初対面でいきなり波長を合わせて会話ができる魔法使いはそう多くないと聞いている。優秀な、というのは嘘ではないらしい。
「で、名前は? 二度目はないぞ」
「ルナからもう聞いたでしょう」
「聞いていないし、聞いていたとしても、俺はおまえの口から聞きたい」
一瞬、返答に窮する。なんというか、変なところで素直な人だった。こうも真正面からぶつかってこられると調子が狂う。
「……ユゥイ」
名乗ると、男が「ユゥイ?」と確かめるように繰り返した。
「……ラストネームは?」
「忘れました」
男が疑わしげな目を向けてくる。ユゥイはただ曖昧に微笑んで返した。森の奥から深い風が吹いてくる。風はユゥイの目元に影を落とす前髪をふわりと浮かせて、また森の向こうへ去っていく。
「――どうして僕なんですか?」
理由が欲しい。ユゥイにとって男が未知の存在であるように、男にとってもユゥイは素性の分からない信用ならない相手のはずだ。男が金に困っていないなら、ヒーラーなどいくらでも聖教会から呼びつけることができる。むしろ、金を払ってでもこの男の相手をしたい人間はごまんといるだろう。
なぜ、こんな見ず知らずの不審な相手に《浄化》を頼もうというのか。
「相性がいいから」
男の答えは簡潔だった。相性。先ほども聞いた言葉だ。
「さっきも言ってましたけど、相性って?」
「知らないのか」
呆れたように言ってからすぐ、こんな森の奥に住んでいるようなら知らなくても仕方ないか、と男は首を振った。
「魔法使いとヒーラーにも相性がある。魔法使いと……というよりは、《ケガレ》とヒーラーの、と言い換えた方がいいか。相性がいい方がヒーラーの身体的負担が少なく、《浄化》の効率もいい」
《ケガレ》とは魔法を使った後に残る澱みのようなもの、つまり、元々は魔力だったものだ。炎魔法が得意な者、水魔法が得意な者、と魔法使いにも個性があるように、魔力は個々人によって微妙に性質が異なっているため、《ケガレ》の性質もまた千差万別ということになる。
ヒーラーはケガレを引き寄せる磁石のようなもので、引き寄せる力はヒーラー自身の能力に依存する。だが、《ケガレ》とヒーラーの相性が悪いと、その吸着率に差が出てくる。加えて、相性が悪い《ケガレ》は少量でヒーラーに悪影響を及ぼすということだろう。
「おまえが今まで何人の魔法使いを相手にしてきたかは知らないが、浄化した《ケガレ》の量によらず体調に不調が出たことはなかったか」
ユゥイは黙り込んだ。過去は思い出したくもないし、鮮明に覚えてもいない。覚えていたとしても、いずれも最悪だったため比較ができない。
だが、ユゥイにはひとつ思い当たることがあった。
まさに昨日。この男のケガレを浄化したとき、今までにない感覚があった。
不調というよりは、むしろ――。
なんとなく言わない方がいいだろうと思い、ユゥイは「まあ、なくはないですけど」と濁して返す。
「今の話だと、相性の良さを認識できるのはヒーラーだけってことになりますよね? あなたはどうして僕と相性がいいと分かったんですか?」
男を見ると、透きとおった赤がこちらを見つめ返してきた。
「直感」
まるで、運命、と言うかのようだった。
ユゥイがあからさまに胡乱げな目を向けると、男は少しつまらなそうな顔をして「体質だ」と言い直した。
「《ケガレ》が溜まりやすい分、変化にも敏感なんだ」
その体質のせいでこれまで苦労してきたらしい、と分かる声音だった。《ケガレ》にも体質があるのか、とユゥイは驚く。確かに、普通の風邪だって罹る人と罹らない人がいるし、罹ってもすぐ治る人と、拗らせて長引く人がいる。身体の弱い人の方が己の体調には敏感だ。《ケガレ》も一種の風邪だと考えれば、なぜ今まで思い至らなかったのか不思議になるほど当然の話でもあった。
男は不意に何かに気づいたように上方に目をやると、「もう行く」と言う。
「あの、まだ聞きたいことがあるんですけど」
「人を寄越すから、知りたいことがあればそいつに聞け。七日後にまた来る」
逃げるなよ。
釘を刺すように最後にそれだけ言うと、風も吹いていないのに男のローブがふわりと大きく膨らんだ。驚く間もなく、瞬きのうちに男の姿が消える。
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