大嫌いな魔法使いと最初で最後の恋をする

再世

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第1章 契約

5. 消えてくれ

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 明くる朝、小鳥の囀りで目が覚めた。
 四角い木窓からは明るい朝の陽射しが清々しく差し込んでいる。耳を澄ますと、風に吹かれる木々の葉擦れが聞こえてきた。
 いつも通りの、平穏すぎる朝だった。
「……いない」
 男の姿は煙のように消えていた。拘束魔法も解けている。手首に微かな違和感があるのを除いて、身体のどこにも痛みはなかった。
 足音を立てぬよう慎重にベッドから降り、隣の部屋に繋がる扉をそうっと開けて中を窺う。……無人だ。
「なにやってんだろ」
 自分の家なのに、泥棒にでもなったような気分だった。
 もしかしたら、全部夢だったのかもしれない。
 というより、全部夢だったことにしたい。
 そう思いながら、くたびれた寝巻きから、洗いざらしにしていたシャツとズボンに着替える。ペンダントを首に下げ、台所で口をゆすぎ、顔を洗う。髪をゆるく三つ編みに結い、薄黄色の粉末の入った試験管に水を加え一息に飲み干す。鏡を覗き込み、澄んだ青と橙が入り混じった不思議な色合いの両目が、薄い金色に変化しているのを確認して台所を離れる。
 あとはフェンリルとルナに朝の挨拶をし、近くの沢で水を汲んでくればいつものモーニングルーティンが完成する。
 が。
「…………」
 果たして、理想のモーニングルーティンは儚く崩れ去った。
 見覚えのある薄汚れたローブを纏った端正な男が、庭にしゃがみこんでルナと戯れている。思わず目を擦って二度見した。
 ユゥイが立っているのに気づくと、男が振り返った。ひょいと慣れた手つきでルナを抱いて立ち上がる。
 やはり背が高い。すらりと長い手足に小さな頭、目も鼻も口も、まさにそこに置くしかないという完璧な配置で、無駄な余白がいっさい存在しない。昨夜より幾らか顔色はよく、やや切れ長の瞳はやはり血のように赤くて、朝陽にうたれる銀色の髪は風にそよがれるとところどころが透けて見えた。
 佇まいだけ見れば、まるで物語の王子様のようだ。光も風も、すべてのものが彼を美しく際立たせるために存在するかのよう。
 そんな幻想を打ち砕くように、男は相変わらずの無表情で「遅い」と言い放った。しかしルナを腕に抱いているせいか、昨夜よりだいぶ威圧感は薄れている。だから、ユゥイも普通に話すことができた。
「どうしてまだここにいるんです」
「いたらいけなかったか?」
「あんた、いてほしいと思われるようなことを自分がしたと思ってるのか」
 しまった。思ったことがついそのまま口から飛び出してしまった。これはユゥイの悪い癖だった。
 殺されませんように……と縮こまっていると、男はまさかそんな風に言い返されるとは思ってもみなかったらしい、意表を突かれたように一瞬黙り込んでから、「たしかに」と言った。
 そして、
「悪かったな」
 今度はユゥイが黙ってしまう番だった。素直に謝られるとは思ってもいなかった。どうにも調子が狂う。
「……動けるようになったなら、早く出ていってください」
 男が器用に片眉を上げ、心外そうな顔をする。表情がないと思っていたが、笑わないだけで、それ以外の表情はできるらしい。
 男は少し考えるように間を置いてから、
「昨日の礼がしたくて待ってたんだ」
 俺はこう見えても優秀な魔法使いだから、大抵の願いごとは叶えてやれる。
 その言葉はどこまでが本当でどこからが嘘なのか分からない。すべて本当で、すべて嘘かもしれない。
 だが、そんなのはどちらでも構わなかった。
 ユゥイは男に微笑む。「何も要りません」
 
「魔法使いなんか大嫌いだ。早く僕の前から消えてくれ」

 これ以上関わりたくない。魔法使いという存在は、ただそこにいるだけでユゥイの心をかき乱す。
「願いというならまさにこれがそうです。あなたが優秀な魔法使いだというなら、転移魔法でどうぞ一刻も早くお帰りいただきたい」
 ここまで言えば。この男があえてこの場に残る理由もなくなるだろう。ユゥイはそう思って、裏手にいるであろうフェンリルのもとへ行こうと男に背を向けた。
 だのに、
「嫌だ」
 と、子どものような声がユゥイの足を止めさせる。
 振り返ると、赤い双眸と視線がかち合った。どきりとするくらい、男はいつも真っ直ぐにこちらを見つめてくる。
「……なんて?」
「嫌だ、と言ったんだ。俺に命令する権利はおまえにはない」
「な、」
「そもそも、先に俺に関わってきたのはそちらだ」
 魔法使いが嫌いなら放っておけばよかったのに。
 男の言い分はまったく正しかった。厄介ごとに先に首を突っ込んでしまったのはユゥイの方だ。
 動揺しているユゥイを放って、男はさらに畳み掛けてくる。

「おまえ、今日から俺専属のヒーラーにならないか」

 言葉尻だけは提案の形をしているが、ほとんど命令だった。人に命令するのに慣れている人間特有の口調。
「俺たちは相性がいい。報酬はおまえの欲しいものをくれてやる。金でも宝石でも、何でも望めばいい」
 ユゥイは唖然とした。この男は何を言っている? 相性ってなんだ? 分かるのは、望まない方向へ話がどんどん転がろうとしていることだけだ。頭が痛くなってきた。頼むからもう勘弁してくれ。
「い、嫌です」
 混乱しながら、なんとか言えたのはそれだった。
「無理です、やりませんよ絶対」
「拾ったものの面倒は最後まで見ないと」
「知りませんよ。小さな動物でもあるまいし」
「動物が好きか? なら、猫にでもなるか」
 それくらい造作もないことだ。
 男はどうやら、ユゥイに《浄化》してもらえるならなんでもいいみたいだった。なぜそんなにもこだわるのか。相性と言っていたけれど、ユゥイにはわからない。
「そうだな、期間は──三ヶ月でいい」
 ルナを地面に下ろして、男がゆっくり近づいてくる。思わず後ずさりして逃げかけたユゥイの腰に腕を回して、男がぐっと顔を近づけた。端正な顔立ちで視界がいっぱいになり、息をのむ。

「おまえの嫌がることはしないよ」

 驚くほどにやさしい声だった。
 ユゥイにはわかった。この男は、これまでにもこうして自分の望みを相手に受け入れさせてきたに違いない。この美貌と、甘く優しい声を使って。
「今回の分だ」
「え」
 男がユゥイの胸元に何かを差し出す。ぱっと離され、ユゥイは思わず落とされた何かをキャッチしてしまった。それは膨らんだ革製の巾着で、中から金貨が覗いている。
「………………」
 ユゥイは迷った。ほんの少し、心が揺らいでいる。三ヶ月。本当にその期間だけ我慢して、正しく《浄化》をするだけで望むものをなんでも得られるのなら、これ以上ない破格の待遇だ。今の生活は決して楽ではないし、金はあるに越したことはない。
 だが、この男の言葉を信じていいのか、騙されているのではないか。そもそも、この男は何者なんだ。
 逡巡して黙り込んでいると、「そういえば」と白々しく男が言った。
「エデルガス王国民はヒーラーとしてその能力が開花した場合、ただちに聖教会に赴き、エデルガスの大いなる発展と魔法学の進展のためにその身を捧げなければならない」
 ぎく、と身体が強ばる。
「教会法第三条。知らないかもしれないと思ったが、その反応だと知っているようだな」
「……」
「森に野良の優秀なヒーラーがいると、俺が教会に申告してもいいんだが」
「……脅しですか」
「まさか、善良な民のささやかな善行だよ」
 ユゥイは思いきり顔を顰めた。男はそこで初めて笑った。
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