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北町奉行の初鹿野信興の不祥事を揉消した側用人の本多忠籌が今になって信興を清水家老へと棚上げしようとすることに若年寄の京極高久は疑問を覚える。
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「成程…、町方の評判を基にしての人事は相成らぬと、左様に申すのだな?」
高久は信喜に確かめるようにそう尋ね、それに対して信喜が「如何にも」と首肯したのを見て取った後、逆手に取った。
「されば幕閣の評判なれば異存はあるまいの」
高久はピシャリとした口調でそう切り出したかと思うと、
「大目付の桑原伊豫や公事方勘定奉行の根岸肥前、この両名の評判は如何であろうかの…」
桑原盛員と根岸鎮衛の両名の名を挙げた上で、
「例えば寺社奉行からの評判たるや…」
寺社奉行に水を向けたのであった。
すると高久によって水を向けられた格好の寺社奉行はと言うと、
「高久の思惑通り…」
松平輝和らをはじめとして、全ての寺社奉行が桑原盛員と根岸鎮衛に対して不満を並べ立てたのであった。それは最早、悪口雑言に近いものであり、
「寺社奉行の中では…」
という条件付きながらも、世間を知っている筈の、つまりは海千山千である筈の牧野忠精までが高久の口車に乗せられる格好で、桑原盛員や根岸鎮衛両名に対する不満を口にしたのであった。
それでは寺社奉行は何故にこうも、
「揃いも揃って…」
桑原盛員や根岸鎮衛両名に対する不満を口にしたのかと言うと、三手掛から排除されたことへの恨みからであった。
件の、使番の高力修理とその足軽に対する「強盗傷害事件」を裁くべき、実際には揉消すのが目的であった三手掛による裁判において、寺社奉行は加われず、寺社奉行奉行一同、そのことを大いに不満に思い、その不満は恨みへと昇華し、そして恨みの矛先はその三手掛の裁判において「裁判官」として裁判に加わることのできた大目付の桑原盛員や南町奉行の山村良旺、そして公事方勘定奉行の根岸鎮衛へと向けられた。
成程、確かに三手掛による裁判においては、その裁判官は評定所一座に加えて大目付と目付の合わせて五役の中から三役が選ばれ、その三役から1人ずつ、裁判官が任じられて三手掛を構成する。
そうであれば三手掛における裁判官の構成だが、
「理論上…」
大目付とそれに町奉行と公事方勘定奉行という構成であっても問題はない筈であった・
だがそれはあくまで、
「理論上…」
それに過ぎず、実際には寺社奉行が必ずと言っても良い程に裁判官として選ばれる。
だが件の事件の裁判、三手掛による裁判においては寺社奉行は裁判官から漏れた。
そのため寺社奉行の不満、否、恨みの矛先は裁判官に選ばれた3人、それも閑職であるために本来ならば少なくとも、
「寺社奉行を差し置いて…」
裁判官に加わることはない桑原盛員や、それに町奉行よりも格下の公事方勘定奉行の根岸鎮衛へと向けられたのであった。
殊に桑原盛員はあくまで職務に忠実であろうとした、つまりは側用人の忠籌に阿らずに事件の揉消しに異を唱えたために更迭されてしまった松浦信桯の後任として裁判官に任じられ、そして信桯とは違って忠籌に阿り、良旺や鎮衛と謀って事件を揉消したので、そのような盛員に対して向けられる寺社奉行の「視線」たるや、鎮衛に対するそれよりも厳しいものがあった。
そして高久はそのような寺社奉行の「心理」を察していたために、寺社奉行に水を向けたわけである。
いや、高久としては別段、初鹿野信興に思い入れがあるわけではなかった。
それどころか高久の直属の部下である使番の高力修理とその足軽が理不尽にも初鹿野信興配下の北の与力や同心らから乱暴狼藉を受けたわけだから、いや、正確には疑いがあるに過ぎないが、ともあれ彼奴等与力や同心らを支配する北町奉行の初鹿野信興に対して高久は当然、良い印象を抱いてはおらず、それどころか本音ではその「管理責任」を問うて、忠籌が提案した通り、清水家老へと棚上げしてやりたい程であった。
だが高久はそれ以上に忠籌の「行動原理」が分からず、それゆえ忠籌の提案に乗る格好で初鹿野信興を棚上げすることに躊躇を覚えたのであった。
忠籌はいったんは信興を庇って事件を揉消そうとした。いや、目付による徹底的な探索が行われると悟るや、それを封じるべく、信興が義兄に当たる南町奉行の山村良旺が提出した不完全極まりない、と言うよりは義弟である信興を庇っての杜撰極まりない調書を元にしての三手掛による裁判を開かせ、そこで事件を確定的に揉消した。
そうであれば今になって信興の評判が悪いからと、信興を清水家老へと棚上げしようとする忠籌のその行動原理が高久には分からなかった。
何故なら、忠籌が信興を庇って事件を揉消してやろうと決意した時点で、謂わば、
「火中の栗を拾うことにした…」
その時点で、事件を揉消した場合の反応、即ち、信興に対する悪評は少なくとも側用人の忠籌であれば容易に予想出来た筈である。
そうであれば忠籌としては最後まで信興を庇ってやるべきであろう。高久が忠籌の立場であればそうする。
その上で事件を揉消させた大目付の桑原盛員か、或いは南町奉行の山村良旺、若しくは公事方勘定奉行の根岸鎮衛のうちの誰かを人身御供宜しく、清水家老へと棚上げするところであった。
だが忠籌はそうはせず、それどころか今になってそれこそ、
「手のひらを返したかのよう…」
今度はそれまで庇ってきた信興を突き放すかのように清水家老への棚上げを提案するものだから、高久としては例え信興に対して悪感情を抱いていたとしても、そして清水家老へと棚上げしてやりたいとの思いがあったとしても、忠籌の提案には軽々には乗れなかった。
そして案の定と言うべきか、高久の思惑通り、寺社奉行の間から桑原盛員や根岸鎮衛の悪評が聞かれるや、忠籌は慌ててこれを制した。
忠籌が慌てたのは外でもない、寺社奉行の間から聞かれた盛員や鎮衛に対する悪評が、
「初鹿野信興に替えて、桑原盛員か、或いは根岸鎮衛を清水家老へと棚上げすべし…」
そう転化する危険性を孕んでいたからだ。少なくとも高久はそう見ており、そこで高久は己の疑問を忠籌に対して、
「ストレートに…」
ぶつけることにした。
高久は信喜に確かめるようにそう尋ね、それに対して信喜が「如何にも」と首肯したのを見て取った後、逆手に取った。
「されば幕閣の評判なれば異存はあるまいの」
高久はピシャリとした口調でそう切り出したかと思うと、
「大目付の桑原伊豫や公事方勘定奉行の根岸肥前、この両名の評判は如何であろうかの…」
桑原盛員と根岸鎮衛の両名の名を挙げた上で、
「例えば寺社奉行からの評判たるや…」
寺社奉行に水を向けたのであった。
すると高久によって水を向けられた格好の寺社奉行はと言うと、
「高久の思惑通り…」
松平輝和らをはじめとして、全ての寺社奉行が桑原盛員と根岸鎮衛に対して不満を並べ立てたのであった。それは最早、悪口雑言に近いものであり、
「寺社奉行の中では…」
という条件付きながらも、世間を知っている筈の、つまりは海千山千である筈の牧野忠精までが高久の口車に乗せられる格好で、桑原盛員や根岸鎮衛両名に対する不満を口にしたのであった。
それでは寺社奉行は何故にこうも、
「揃いも揃って…」
桑原盛員や根岸鎮衛両名に対する不満を口にしたのかと言うと、三手掛から排除されたことへの恨みからであった。
件の、使番の高力修理とその足軽に対する「強盗傷害事件」を裁くべき、実際には揉消すのが目的であった三手掛による裁判において、寺社奉行は加われず、寺社奉行奉行一同、そのことを大いに不満に思い、その不満は恨みへと昇華し、そして恨みの矛先はその三手掛の裁判において「裁判官」として裁判に加わることのできた大目付の桑原盛員や南町奉行の山村良旺、そして公事方勘定奉行の根岸鎮衛へと向けられた。
成程、確かに三手掛による裁判においては、その裁判官は評定所一座に加えて大目付と目付の合わせて五役の中から三役が選ばれ、その三役から1人ずつ、裁判官が任じられて三手掛を構成する。
そうであれば三手掛における裁判官の構成だが、
「理論上…」
大目付とそれに町奉行と公事方勘定奉行という構成であっても問題はない筈であった・
だがそれはあくまで、
「理論上…」
それに過ぎず、実際には寺社奉行が必ずと言っても良い程に裁判官として選ばれる。
だが件の事件の裁判、三手掛による裁判においては寺社奉行は裁判官から漏れた。
そのため寺社奉行の不満、否、恨みの矛先は裁判官に選ばれた3人、それも閑職であるために本来ならば少なくとも、
「寺社奉行を差し置いて…」
裁判官に加わることはない桑原盛員や、それに町奉行よりも格下の公事方勘定奉行の根岸鎮衛へと向けられたのであった。
殊に桑原盛員はあくまで職務に忠実であろうとした、つまりは側用人の忠籌に阿らずに事件の揉消しに異を唱えたために更迭されてしまった松浦信桯の後任として裁判官に任じられ、そして信桯とは違って忠籌に阿り、良旺や鎮衛と謀って事件を揉消したので、そのような盛員に対して向けられる寺社奉行の「視線」たるや、鎮衛に対するそれよりも厳しいものがあった。
そして高久はそのような寺社奉行の「心理」を察していたために、寺社奉行に水を向けたわけである。
いや、高久としては別段、初鹿野信興に思い入れがあるわけではなかった。
それどころか高久の直属の部下である使番の高力修理とその足軽が理不尽にも初鹿野信興配下の北の与力や同心らから乱暴狼藉を受けたわけだから、いや、正確には疑いがあるに過ぎないが、ともあれ彼奴等与力や同心らを支配する北町奉行の初鹿野信興に対して高久は当然、良い印象を抱いてはおらず、それどころか本音ではその「管理責任」を問うて、忠籌が提案した通り、清水家老へと棚上げしてやりたい程であった。
だが高久はそれ以上に忠籌の「行動原理」が分からず、それゆえ忠籌の提案に乗る格好で初鹿野信興を棚上げすることに躊躇を覚えたのであった。
忠籌はいったんは信興を庇って事件を揉消そうとした。いや、目付による徹底的な探索が行われると悟るや、それを封じるべく、信興が義兄に当たる南町奉行の山村良旺が提出した不完全極まりない、と言うよりは義弟である信興を庇っての杜撰極まりない調書を元にしての三手掛による裁判を開かせ、そこで事件を確定的に揉消した。
そうであれば今になって信興の評判が悪いからと、信興を清水家老へと棚上げしようとする忠籌のその行動原理が高久には分からなかった。
何故なら、忠籌が信興を庇って事件を揉消してやろうと決意した時点で、謂わば、
「火中の栗を拾うことにした…」
その時点で、事件を揉消した場合の反応、即ち、信興に対する悪評は少なくとも側用人の忠籌であれば容易に予想出来た筈である。
そうであれば忠籌としては最後まで信興を庇ってやるべきであろう。高久が忠籌の立場であればそうする。
その上で事件を揉消させた大目付の桑原盛員か、或いは南町奉行の山村良旺、若しくは公事方勘定奉行の根岸鎮衛のうちの誰かを人身御供宜しく、清水家老へと棚上げするところであった。
だが忠籌はそうはせず、それどころか今になってそれこそ、
「手のひらを返したかのよう…」
今度はそれまで庇ってきた信興を突き放すかのように清水家老への棚上げを提案するものだから、高久としては例え信興に対して悪感情を抱いていたとしても、そして清水家老へと棚上げしてやりたいとの思いがあったとしても、忠籌の提案には軽々には乗れなかった。
そして案の定と言うべきか、高久の思惑通り、寺社奉行の間から桑原盛員や根岸鎮衛の悪評が聞かれるや、忠籌は慌ててこれを制した。
忠籌が慌てたのは外でもない、寺社奉行の間から聞かれた盛員や鎮衛に対する悪評が、
「初鹿野信興に替えて、桑原盛員か、或いは根岸鎮衛を清水家老へと棚上げすべし…」
そう転化する危険性を孕んでいたからだ。少なくとも高久はそう見ており、そこで高久は己の疑問を忠籌に対して、
「ストレートに…」
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