元気出せ、金太郎

ご隠居

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承前 夏の人事 ~御三卿家老を巡る人事・岡部一徳の後任の清水家老として側用人の本多忠籌は北町奉行の初鹿野河内守信興を推挙す 16~

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 こうして忠籌ただかず思惑おもわくどおり、事件じけん三手掛さんてがかりにてさばかれることになったわけだが、その「裁判官さいばんかん」の人選じんせんにおいても忠籌ただかずおおいに影響力えいきょうりょく行使こうしした。

 三手掛さんてがかりとは寺社じしゃまち公事くじがた三奉行さんぶぎょう構成こうせいされる所謂いわゆる評定所ひょうじょうしょ一座いちざ大目付おおめつけ目付めつけくわえた五役ごやくのうち、三役さんやくから一人ひとりずつ「裁判官さいばんかん」がえらばれて、この三人さんにんさば裁判さいばんのことであり、忠籌ただかず町奉行まちぶぎょうからみなみのそれである山村やまむら良旺たかあきら唯一人ただひとり公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょう根岸ねぎし鎮衛やすもり、そして大目付おおめつけから松浦まつら越前守えちぜんのかみ信桯のぶきよえらんだのであった。

 この露骨ろこつ人選じんせん流石さすが評定所ひょうじょうしょ一座いちざにして、三手掛さんてがかりからはずされた寺社じしゃ奉行ぶぎょう目付めつけもとより、老中ろうじゅう若年寄わかどしより幕閣ばっかくからも疑問ぎもんこえがったほどである。

 露骨ろこつ人選じんせんとはほかでもない、この「人選じんせん」が露骨ろこつなまでに、

事件じけん揉消もみけしシフト」

 であったからだ。

 なにしろみなみ町奉行まちぶぎょう山村やまむら良旺たかあきら事件じけん主役しゅやくとも言うべき初鹿野はじかの信興のぶおき義兄ぎけいであり、公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょう根岸ねぎし鎮衛やすもり忠籌ただかず子分こぶんであり、そして大目付おおめつけ松浦まつら信桯のぶきよ忠籌ただかず縁者えんじゃであったのだ。

 すなわち、忠籌ただかず肥前ひぜん平戸ひらど藩主はんしゅ松浦まつら肥前守ひぜんのかみ誠信さねのぶ四女よんじょ富子とみこめとっていたのだが、忠籌ただかずにとってはしゅうとたる松浦まつら誠信さねのぶ叔父おじこそがだれあろう、大目付おおめつけ松浦まつら信桯のぶきよであったのだ。

 信桯のぶきよ誠信さねのぶ祖父そふにして平戸ひらどはんの六代藩主はんしゅであった肥前守ひぜんのかみ篤信あつのぶが十一男としてまれ、しかし嫡子ちゃくしではなかったために当然とうぜん御家おいえぐことは出来できず、そこで分家ぶんけすじたる旗本はたもと松浦まつら河内守かわちのかみ信正のぶまさ養嗣子ようししとしてされたのであった。

 そして平戸ひらど藩主はんしゅ松浦まつら篤信あつのぶからその嫡子ちゃくしにして誠信さねのぶあにである壱岐守いきのかみ有信ありのぶへとがれた。

 平戸ひらど藩主はんしゅとなった松浦まつら有信ありのぶはしかし、正室せいしつむかえぬまま、そのうえもなさぬままわずか19でしゅっしたために、そこでおとうとである誠信さねのぶあに有信ありのぶ養嗣子ようししとなり、藩主はんしゅいだのであった。

 それゆえ信桯のぶきよは実は誠信さねのぶおとうとであり、それがあに有信ありのぶ養嗣子ようししとなったために、信桯のぶきよ誠信さねのぶにとっておとうとから叔父おじへとわったのであった。

 もっとも、それはあくまで義理ぎり叔父おじぎず、それゆえ信桯のぶきよとその義理ぎりおいにして、実はあにである誠信さねのぶ婿むこである忠籌ただかずとは3歳しかちがわず、信桯のぶきよほう忠籌ただかずよりも3歳年上としうえぎず、二人ふたりはほぼ同年代どうねんだいと言えた。

 そして松浦まつら信桯のぶきよ大目付おおめつけという顕職けんしょくにある上級じょうきゅう旗本はたもとであるとは言え、大名だいみょうにして将軍・家斉いえなり御側おそばちかくにつかえる、

いまをときめく…」

 側用人そばようにん本多ほんだ忠籌ただかずにはそれこそ、

逆立さかだちしても…」

 かなわぬであろう。それゆえ信桯のぶきよはその忠籌ただかずめいとあらば、親類しんるいよしみ手伝てつだって、

唯々諾々いいだくだく…」

 したがうものとおもわれ、このような3人が「裁判官さいばんかん」をつとめれば結果けっかあきらかかとおもわれた。

 いや、忠籌ただかずさらに、

ねんにはねんを…」

 とばかりに、彼等かれら3人の「裁判官さいばんかん」をサポートすべき、さしずめ、

最高裁さいこうさい調査官ちょうさかん

 つまりは事実上じじつじょうの「裁判官さいばんかん」である評定所ひょうじょうしょ留役とめやくには子分こぶん根岸ねぎし鎮衛やすもりかいして羽田はねだ藤右衛門とうえもん保定やすさだにんじたのであった。

 勘定かんじょうしょよりの出向しゅっこうである評定所ひょうじょうしょ留役とめやくにはこの羽田はねだ藤右衛門とうえもんほかにも複数ふくすうそんしていたものの、忠籌ただかずがそのなかから羽田はねだ藤右衛門とうえもん指名しめいしたのはほかでもない、この羽田はねだ藤右衛門とうえもん根岸ねぎし鎮衛やすもり縁者えんじゃであったからだ。

 羽田はねだ藤右衛門とうえもん保定やすさだじつ新番士しんばんしつとめた旗本はたもと舘野たちの忠四郎ちゅうしろう勝就かつなり次男じなんとしてまれ、しかしやはり嫡子ちゃくしではなかったために御家おいえぐことは出来できず、そこで勘定かんじょうつとめた羽田はねだ藤右衛門とうえもん保久やすひさ養嗣子ようししとしてされたのであった。

 羽田はねだ藤右衛門とうえもん保久やすひさ生憎あいにく男児だんじめぐまれず、しかし二人ふたり女児じょじにはめぐまれたために、そこで藤右衛門とうえもん保定やすさだ養嗣子ようししむかえるにたり、末娘すえむすめめとらせたのであった。

 その末娘すえむすめははすなわち、羽田はねだ藤右衛門とうえもん保久やすひさ妻女さいじょ代官だいかんつとめた旗本はたもと安生あんじょう太左衛門たざえもん定洪さだひろ五女ごじょ末娘すえむすめであった。

 そして安生あんじょう太左衛門たざえもんには五人ごにんむすめほか三人さんにんもの男児だんじめぐまれ、そのすえである三男坊さんなんぼうこそが根岸ねぎし鎮衛やすもりであったのだ。

 鎮衛やすもりもまた嫡子ちゃくしではなかったために御家おいえげず、そこで旗本はたもと根岸ねぎし九十郎くじゅうろう衛規もりのり養嗣子ようししとしてむかえられたわけだが、羽田はねだ藤右衛門とうえもん保久やすひさもとへとした安生あんじょう太左衛門たざえもん末娘すえむすめ根岸ねぎし鎮衛やすもりにとってはじつあねたるのだ。

 それゆえその羽田はねだ藤右衛門とうえもん保久やすひさ養嗣子ようししとしてむかえられた藤右衛門とうえもん保定やすさだ根岸ねぎし鎮衛やすもりにとっては義理ぎりとは言え、おいたり、藤右衛門とうえもん保定やすさだにとっても義母ぎぼとは言え、ははにはわりなく、その実弟じっていである根岸ねぎし鎮衛やすもり叔父おじたる。

 それゆえ鎮衛やすもりはこのおいたる羽田はねだ藤右衛門とうえもん保定やすさだ可愛かわいがった。

 羽田はねだ藤右衛門とうえもん保定やすさだが安永5(1776)年12月に養父ようふ藤右衛門とうえもん保久やすひさつづいて勘定かんじょうれっすることが出来できたのも、本人ほんにん才覚さいかくもさることながら、その当時とうじ勘定かんじょう吟味ぎんみやくであった根岸ねぎし鎮衛やすもり口利くちききがあったればこそであった。

 そして羽田はねだ藤右衛門とうえもん保定やすさだ勘定かんじょうれっしてからわずか2年で勘定かんじょうしょにおける出世しゅっせコースとも言うべき評定所ひょうじょうしょ留役とめやくにんじられ、評定所ひょうじょうしょへと出向しゅっこうすることになったのだが、これもやはり勘定かんじょう吟味ぎんみやくであった鎮衛やすもり口利くちききの「賜物たまもの」と言えた。

 鎮衛やすもりもまた、評定所ひょうじょうしょ留役とめやく皮切かわきりに、勘定かんじょう組頭くみがしら勘定かんじょう吟味ぎんみやくつづき、そして遠国おんごく奉行ぶぎょうである佐渡さど奉行ぶぎょうのち顕職けんしょくである勘定かんじょう奉行ぶぎょうへと昇進しょうしんげたので、義理ぎりとは言え、可愛かわいおいである羽田はねだ藤右衛門とうえもん保定やすさだにもおのれおな昇進しょうしんコースをあゆませるべく、藤右衛門とうえもん保定やすさだ評定所ひょうじょうしょ留役とめやく取立とりたてたのであった。

 そのような経緯いきさつから、羽田はねだ藤右衛門とうえもん保定やすさだ根岸ねぎし鎮衛やすもりの「言いなり」であり、そしてこのことは鎮衛やすもり子分こぶんとしてしたがえる側用人そばようにん本多ほんだ忠籌ただかずにとってはじつ都合つごうかった。
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