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承前 夏の人事 ~御三卿家老を巡る人事・岡部一徳の後任の清水家老として側用人の本多忠籌は北町奉行の初鹿野河内守信興を推挙す 10~
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こうして久周の仲裁により町奉行の信興と寺社奉行の輝和らの「大立回り」は回避されたので、ただ事態の成行を見守るしかなかった山村良旺やそれに大目付一党は皆、心底ホッとしたものである。
だがそれはあくまで一時凌ぎ、急場を凌いだだけに過ぎない。
加納久周が評定所をあとにすれば再び、初鹿野信興が、
「仲の悪い…」
目付の曲淵勝次郎を苛め倒し、そのことで寺社奉行らと諍いを起こし、最悪、今度こそ大立回りが演じられるやも知れなかった。
これを回避するためには今のように毎回、加納久周が評定所に出席するしかないが、しかし、将軍・家斉の側近である久周が毎回、評定所に出席するわけにはゆかない。そんなことをすれば家斉の側近としての勤めが、殊に政務の補佐が果たせなくなる。
それゆえ根本的に問題を解決する必要があり、久周はそこで将軍・家斉に対して町奉行の初鹿野信興と目付の曲淵勝次郎との「不仲ぶり」を言上し、その上でまずは勝次郎には評定番を免除することを提案したのであった。
評定番は10人の目付、所謂、十人目付が輪番制にて勤める。
信興はその評定番として曲淵勝次郎が監察官として評定所に出廷する度にこれからも勝次郎に欠座を命じることで、勝次郎を苛め倒すことが予想された。
そうであれば勝次郎には評定番を勤めさせなければこの問題は解決する。
それゆえ久周は将軍・家斉に対してまずはその「解決案」を提示したのだが、しかしそれに家斉が難色を示した。
「確かにそれで曲淵勝次郎は最早、初鹿野より苛められることはないであろうが…、勝次郎が評定番として出廷しなければ、初鹿野とて苛めようがないからの…、なれどそれでは勝次郎が初鹿野の理不尽なる苛めに屈したことにはなるまいか?ひいては勝次郎が主たる、この将軍たる余が初鹿野に屈したことにもなるのではあるまいか?」
家斉にそう反問された久周はと言うと、正しく家斉の言う通りであり、返答に詰まった。
するとそこで奥詰の津田山城守信久が助け舟を出した。
「畏れながら…」
信久は家斉と久周との間に割って入る格好にてそう切り出したので、それに対して家斉も「許す」と応じて信久に発言の許可を与えると、
「されば…、公事方勘定奉行をいま一人、増員致しましては如何でござりましょうや…」
信久はそう提案したのであった。
この時…、初鹿野信興が浦賀奉行から江戸北町奉行に異動、栄転を果たして間もない、それも2ヶ月が過ぎた天明8(1788)年11月の初旬の時点では公事方勘定奉行は根岸鎮衛唯一人であった。
勘定奉行は訴訟を担う公事方と財政を担う勝手方とに分かれており、そして公事方、勝手方共に奉行の定員は2人であった。
だがこの時、勝手方こそ、久世丹後守廣民と久保田佐渡守正邦、そして柳生主膳正久通の3人もの奉行が存し、翻って公事方はと言うと、根岸鎮衛唯一人であり、あと1人、欠員が生じていたのだ。
そこで初鹿野信興への牽制…、曲淵勝次郎を苛め倒そうとする信興への牽制役も兼ねて公事方勘定奉行をあと1人、増員してはと、それこそが信久の提案の趣旨であり、将軍・家斉もそうと察するや、信久のその提案に即座に飛びついた。無論、久周もそうであった。
「誰ぞ、相応しき仁があるか?」
家斉は提案者である信久に対してその「候補者」を問うた。
すると信久は一人の人物の名を挙げた。
「されば小普請組支配の曲淵甲斐守景漸がその任に相応しいものと心得まする…」
信久はそうして将軍・家斉に対して小普請組支配の曲淵景漸を公事方勘定奉行に推挙すると、深々と叩頭してみせた。
一方、家斉は「成程のう…」と呟いたかと思うとこれまた深々と頷いてみせた。如何にも適任だと思えたからだ。
曲淵景漸は嘗ては江戸北町奉行を勤めていた。景漸は北町奉行として名奉行の誉高かったものの、しかし先の天明の打ちこわしの際の「不手際」の責を問われる格好で完全に閑職である西之丸の留守居へと左遷させられ、その後、幕府内の序列においては西之丸留守居の格下ではあるものの、しかし実務的なポストである小普請組支配へと異動、復権を果たしていた。
それゆえ町奉行の経験を持つ景漸には訴訟を担う公事方勘定奉行は如何にも適任であると、家斉は頷いたのであった。
何より景漸は目付の曲淵勝次郎の実父であり、評定所一座を構成する公事方勘定奉行に新たに曲淵景漸が加われば、つまりは評定所に出廷するようになれば、さしもの初鹿野信興も父・曲淵景漸の手前、その息・勝次郎に対して、
「露骨に…」
苛め倒すような真似はすまい。その意味で、曲淵景漸を公事方勘定奉行に据えるのは正に一石二鳥の人事と言えた。
だがその人事に真っ向から異議を唱えた者があった。外ならぬ側用人の本多忠籌であった。
だがそれはあくまで一時凌ぎ、急場を凌いだだけに過ぎない。
加納久周が評定所をあとにすれば再び、初鹿野信興が、
「仲の悪い…」
目付の曲淵勝次郎を苛め倒し、そのことで寺社奉行らと諍いを起こし、最悪、今度こそ大立回りが演じられるやも知れなかった。
これを回避するためには今のように毎回、加納久周が評定所に出席するしかないが、しかし、将軍・家斉の側近である久周が毎回、評定所に出席するわけにはゆかない。そんなことをすれば家斉の側近としての勤めが、殊に政務の補佐が果たせなくなる。
それゆえ根本的に問題を解決する必要があり、久周はそこで将軍・家斉に対して町奉行の初鹿野信興と目付の曲淵勝次郎との「不仲ぶり」を言上し、その上でまずは勝次郎には評定番を免除することを提案したのであった。
評定番は10人の目付、所謂、十人目付が輪番制にて勤める。
信興はその評定番として曲淵勝次郎が監察官として評定所に出廷する度にこれからも勝次郎に欠座を命じることで、勝次郎を苛め倒すことが予想された。
そうであれば勝次郎には評定番を勤めさせなければこの問題は解決する。
それゆえ久周は将軍・家斉に対してまずはその「解決案」を提示したのだが、しかしそれに家斉が難色を示した。
「確かにそれで曲淵勝次郎は最早、初鹿野より苛められることはないであろうが…、勝次郎が評定番として出廷しなければ、初鹿野とて苛めようがないからの…、なれどそれでは勝次郎が初鹿野の理不尽なる苛めに屈したことにはなるまいか?ひいては勝次郎が主たる、この将軍たる余が初鹿野に屈したことにもなるのではあるまいか?」
家斉にそう反問された久周はと言うと、正しく家斉の言う通りであり、返答に詰まった。
するとそこで奥詰の津田山城守信久が助け舟を出した。
「畏れながら…」
信久は家斉と久周との間に割って入る格好にてそう切り出したので、それに対して家斉も「許す」と応じて信久に発言の許可を与えると、
「されば…、公事方勘定奉行をいま一人、増員致しましては如何でござりましょうや…」
信久はそう提案したのであった。
この時…、初鹿野信興が浦賀奉行から江戸北町奉行に異動、栄転を果たして間もない、それも2ヶ月が過ぎた天明8(1788)年11月の初旬の時点では公事方勘定奉行は根岸鎮衛唯一人であった。
勘定奉行は訴訟を担う公事方と財政を担う勝手方とに分かれており、そして公事方、勝手方共に奉行の定員は2人であった。
だがこの時、勝手方こそ、久世丹後守廣民と久保田佐渡守正邦、そして柳生主膳正久通の3人もの奉行が存し、翻って公事方はと言うと、根岸鎮衛唯一人であり、あと1人、欠員が生じていたのだ。
そこで初鹿野信興への牽制…、曲淵勝次郎を苛め倒そうとする信興への牽制役も兼ねて公事方勘定奉行をあと1人、増員してはと、それこそが信久の提案の趣旨であり、将軍・家斉もそうと察するや、信久のその提案に即座に飛びついた。無論、久周もそうであった。
「誰ぞ、相応しき仁があるか?」
家斉は提案者である信久に対してその「候補者」を問うた。
すると信久は一人の人物の名を挙げた。
「されば小普請組支配の曲淵甲斐守景漸がその任に相応しいものと心得まする…」
信久はそうして将軍・家斉に対して小普請組支配の曲淵景漸を公事方勘定奉行に推挙すると、深々と叩頭してみせた。
一方、家斉は「成程のう…」と呟いたかと思うとこれまた深々と頷いてみせた。如何にも適任だと思えたからだ。
曲淵景漸は嘗ては江戸北町奉行を勤めていた。景漸は北町奉行として名奉行の誉高かったものの、しかし先の天明の打ちこわしの際の「不手際」の責を問われる格好で完全に閑職である西之丸の留守居へと左遷させられ、その後、幕府内の序列においては西之丸留守居の格下ではあるものの、しかし実務的なポストである小普請組支配へと異動、復権を果たしていた。
それゆえ町奉行の経験を持つ景漸には訴訟を担う公事方勘定奉行は如何にも適任であると、家斉は頷いたのであった。
何より景漸は目付の曲淵勝次郎の実父であり、評定所一座を構成する公事方勘定奉行に新たに曲淵景漸が加われば、つまりは評定所に出廷するようになれば、さしもの初鹿野信興も父・曲淵景漸の手前、その息・勝次郎に対して、
「露骨に…」
苛め倒すような真似はすまい。その意味で、曲淵景漸を公事方勘定奉行に据えるのは正に一石二鳥の人事と言えた。
だがその人事に真っ向から異議を唱えた者があった。外ならぬ側用人の本多忠籌であった。
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