13 / 32
承前 夏の人事 ~御三卿家老を巡る人事・岡部一徳の後任の清水家老として側用人の本多忠籌は北町奉行の初鹿野河内守信興を推挙す 6~
しおりを挟む
さて、月日は流れ、それから1年後の天明8(1788)年9月に入ると、浦賀奉行であった初鹿野信興は江戸町奉行、それも北の町奉行として「凱旋帰国」を果たしたのであった。
その時もまだ、曲淵勝次郎は目付の職にあり、ここで初鹿野信興と曲淵勝次郎の立場は完全に逆転した。
いや、初鹿野信興が曲淵勝次郎よりも先に遠国奉行である浦賀奉行へと栄転を果たした時点で二人の立場は逆転した。
だがそれでも初鹿野信興は浦賀奉行として現地に赴任したので、江戸城から姿を消し、それゆえ曲淵勝次郎はそれ程、「立場の逆転」を意識せずに済んだ。
しかしその初鹿野信興は今度は江戸町奉行として「凱旋帰国」を果たしたので、そうなると当然、「本社」である江戸城に登城することになり、
「嫌でも…」
曲淵勝次郎の視界に入るというものである。
いや、曲淵勝次郎としては初鹿野信興の出世など元より眼中になく、完全無視、関わりたくもなかったのだが、しかし、初鹿野信興の方がそれを許さなかったのだ。
即ち、初鹿野信興は目付時代には何かと「先輩風」を吹かすことの多かった曲淵勝次郎に対して、
「今は町奉行たる俺の方が未だ目付に過ぎぬお前より立場が上なのだぞ…」
そのような「立場の違い」というものを分からせてやろうと、勝次郎を苛め倒したのであった。
その一例として欠座が挙げられよう。
目付には評定番という仕事があった。これは評定所での審理に監察官として出廷することであり、当番制であった。
評定所では毎月、老中が出座する2日、11日、21日の式日には大目付と目付が、寺社・江戸町・公事方勘定の三奉行のみで審理を行う4日、13日、25日の立合には目付がそれぞれ、審理の内容をチェックする監察官として出廷し、目付においてはこれを「評定番」という。
そのうち目付にとって大事なのは立合における出廷、評定番であった。
老中も出座する式日においては目付と共に大目付も監察官として出廷するのに対して、三奉行のみで審理が行われる立合においては目付のみが監察官として出廷することになるので、いきおい、その責任は重大であった。
殊に、評定番の目付のその三奉行のみで審理が行われる立合における出廷には、審理が適正に行われているかどうかのチェックという目的と同時に、その審理の内容を老中へと報告するという目的があった。
無論、三奉行からも老中へと、立合における審理の内容が伝えられるのだが、それが果たして真正なものか否か、老中はそれを確かめるべく、目付からも報告をさせるのだ。両者の報告に食い違いがあれば、何れかの報告が偽りということになる。
その点、式日は老中も審理に加わるので、態々目付が老中に報告するまでもなかった。
いや、老中が出座するのは式日のうちでも11日か21日の何れか一日だけで、あとの二日は出廷しないのが通例であり、そうであれば式日でも老中が出廷しない二日に限ってはやはり、老中への報告が必要となるが、それでも目付と共に大目付も監察官として出廷するので、目付にしてみれば立合における評定番よりはその式日における評定番の方が責任が軽いと言えた。
そして初鹿野信興はこの、式日や立合における評定所での審理を利用して曲淵勝次郎をそれも、
「事ある毎…」
苛め倒したのであった。
即ち、曲淵勝次郎もまた目付の一人である以上、評定番を勤めることがあるのだが、その際、初鹿野信興は決まって、勝次郎に欠座を命じるのであった。欠座とは読んで字の如く、
「席を外せ」
つまりは出て行けということであった。
例えば、三奉行のみで審理が行われる立合においては、
「三奉行のみの評議があるゆえに…」
初鹿野信興はそれを「決まり文句」として、曲淵勝次郎に対して欠座を命じるのであった。
無論、曲淵勝次郎とてそれで、「畏まりました」と素直に座を外すことはなく、当然、拒絶した。三奉行のみで評議をやられては老中への報告が出来なくなるからだ。
すると初鹿野信興は冷笑を浮かべたかと思うと、
「未だ部屋住のひよっこにまともな報告が出来るとも思えぬがの…」
そう曲淵勝次郎を冷罵するのを常とした。
いや、初鹿野信興とて本気で曲淵勝次郎に欠座を求めたわけではなく、ただ勝次郎をそのように冷罵、嘲笑したくて欠座を求めたに違いなく、それが証に信興が勝次郎に欠座を求めてそのように冷罵、嘲笑し終えると、
「まぁまぁ…」
南町奉行にして義兄の山村良旺が苦笑まじりに割って入り、それで信興も義兄の言葉に素直に従い、引いてみせるのが常であり、勝次郎にしてみれば、いや、勝次郎のみならず、その場に居合わせた寺社奉行や公事方勘定奉行ら一党は下手な三文芝居を見せられるような感覚に襲われたものである。
そして大目付も監察官として出廷する式日ともなると、信興の「苛め」は更に執拗であった。
即ち、
「大目付殿も監察官として陪席しておられるゆえ、部屋住のひよっこのそなたが態々出る幕もなかろう…」
信興はその理論でもって、勝次郎に欠座を求めるのであった。
成程、大目付も監察官として出廷していれば、目付の出番はないであろう。
仮に式日であっても老中が出座しない2日と11日、或いは2日と21日の何れかにおいてはやはり三奉行による評議の内容を老中へと報告する必要があるが、その場合にも式日であるので、目付に加えて大目付も監察官として出廷することになり、それゆえ三奉行による評議において目付が欠座、座を外しても大目付が残っていれば、大目付が三奉行による評議の内容を把握することが出来るので、老中への報告には支障はない。
それゆえ老中が出座しない式日ともなると、初鹿野信興の「苛め」、つまりは勝次郎に対する欠座の要求たるや、立合におけるそれよりも執拗となる。
その時もまだ、曲淵勝次郎は目付の職にあり、ここで初鹿野信興と曲淵勝次郎の立場は完全に逆転した。
いや、初鹿野信興が曲淵勝次郎よりも先に遠国奉行である浦賀奉行へと栄転を果たした時点で二人の立場は逆転した。
だがそれでも初鹿野信興は浦賀奉行として現地に赴任したので、江戸城から姿を消し、それゆえ曲淵勝次郎はそれ程、「立場の逆転」を意識せずに済んだ。
しかしその初鹿野信興は今度は江戸町奉行として「凱旋帰国」を果たしたので、そうなると当然、「本社」である江戸城に登城することになり、
「嫌でも…」
曲淵勝次郎の視界に入るというものである。
いや、曲淵勝次郎としては初鹿野信興の出世など元より眼中になく、完全無視、関わりたくもなかったのだが、しかし、初鹿野信興の方がそれを許さなかったのだ。
即ち、初鹿野信興は目付時代には何かと「先輩風」を吹かすことの多かった曲淵勝次郎に対して、
「今は町奉行たる俺の方が未だ目付に過ぎぬお前より立場が上なのだぞ…」
そのような「立場の違い」というものを分からせてやろうと、勝次郎を苛め倒したのであった。
その一例として欠座が挙げられよう。
目付には評定番という仕事があった。これは評定所での審理に監察官として出廷することであり、当番制であった。
評定所では毎月、老中が出座する2日、11日、21日の式日には大目付と目付が、寺社・江戸町・公事方勘定の三奉行のみで審理を行う4日、13日、25日の立合には目付がそれぞれ、審理の内容をチェックする監察官として出廷し、目付においてはこれを「評定番」という。
そのうち目付にとって大事なのは立合における出廷、評定番であった。
老中も出座する式日においては目付と共に大目付も監察官として出廷するのに対して、三奉行のみで審理が行われる立合においては目付のみが監察官として出廷することになるので、いきおい、その責任は重大であった。
殊に、評定番の目付のその三奉行のみで審理が行われる立合における出廷には、審理が適正に行われているかどうかのチェックという目的と同時に、その審理の内容を老中へと報告するという目的があった。
無論、三奉行からも老中へと、立合における審理の内容が伝えられるのだが、それが果たして真正なものか否か、老中はそれを確かめるべく、目付からも報告をさせるのだ。両者の報告に食い違いがあれば、何れかの報告が偽りということになる。
その点、式日は老中も審理に加わるので、態々目付が老中に報告するまでもなかった。
いや、老中が出座するのは式日のうちでも11日か21日の何れか一日だけで、あとの二日は出廷しないのが通例であり、そうであれば式日でも老中が出廷しない二日に限ってはやはり、老中への報告が必要となるが、それでも目付と共に大目付も監察官として出廷するので、目付にしてみれば立合における評定番よりはその式日における評定番の方が責任が軽いと言えた。
そして初鹿野信興はこの、式日や立合における評定所での審理を利用して曲淵勝次郎をそれも、
「事ある毎…」
苛め倒したのであった。
即ち、曲淵勝次郎もまた目付の一人である以上、評定番を勤めることがあるのだが、その際、初鹿野信興は決まって、勝次郎に欠座を命じるのであった。欠座とは読んで字の如く、
「席を外せ」
つまりは出て行けということであった。
例えば、三奉行のみで審理が行われる立合においては、
「三奉行のみの評議があるゆえに…」
初鹿野信興はそれを「決まり文句」として、曲淵勝次郎に対して欠座を命じるのであった。
無論、曲淵勝次郎とてそれで、「畏まりました」と素直に座を外すことはなく、当然、拒絶した。三奉行のみで評議をやられては老中への報告が出来なくなるからだ。
すると初鹿野信興は冷笑を浮かべたかと思うと、
「未だ部屋住のひよっこにまともな報告が出来るとも思えぬがの…」
そう曲淵勝次郎を冷罵するのを常とした。
いや、初鹿野信興とて本気で曲淵勝次郎に欠座を求めたわけではなく、ただ勝次郎をそのように冷罵、嘲笑したくて欠座を求めたに違いなく、それが証に信興が勝次郎に欠座を求めてそのように冷罵、嘲笑し終えると、
「まぁまぁ…」
南町奉行にして義兄の山村良旺が苦笑まじりに割って入り、それで信興も義兄の言葉に素直に従い、引いてみせるのが常であり、勝次郎にしてみれば、いや、勝次郎のみならず、その場に居合わせた寺社奉行や公事方勘定奉行ら一党は下手な三文芝居を見せられるような感覚に襲われたものである。
そして大目付も監察官として出廷する式日ともなると、信興の「苛め」は更に執拗であった。
即ち、
「大目付殿も監察官として陪席しておられるゆえ、部屋住のひよっこのそなたが態々出る幕もなかろう…」
信興はその理論でもって、勝次郎に欠座を求めるのであった。
成程、大目付も監察官として出廷していれば、目付の出番はないであろう。
仮に式日であっても老中が出座しない2日と11日、或いは2日と21日の何れかにおいてはやはり三奉行による評議の内容を老中へと報告する必要があるが、その場合にも式日であるので、目付に加えて大目付も監察官として出廷することになり、それゆえ三奉行による評議において目付が欠座、座を外しても大目付が残っていれば、大目付が三奉行による評議の内容を把握することが出来るので、老中への報告には支障はない。
それゆえ老中が出座しない式日ともなると、初鹿野信興の「苛め」、つまりは勝次郎に対する欠座の要求たるや、立合におけるそれよりも執拗となる。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
石榴(ざくろ)の月~愛され求められ奪われて~
めぐみ
歴史・時代
お民は江戸は町外れ徳平店(とくべいだな)に夫源治と二人暮らし。
源治はお民より年下で、お民は再婚である。前の亭主との間には一人息子がいたが、川に落ちて夭折してしまった。その後、どれだけ望んでも、子どもは授からなかった。
長屋暮らしは慎ましいものだが、お民は夫に愛されて、女としても満ち足りた日々を過ごしている。
そんなある日、徳平店が近々、取り壊されるという話が持ちあがる。徳平店の土地をもっているのは大身旗本の石澤嘉門(いしざわかもん)だ。その嘉門、実はお民をふとしたことから見初め、お民を期間限定の側室として差し出すなら、長屋取り壊しの話も考え直しても良いという。
明らかにお民を手に入れんがための策略、しかし、お民は長屋に住む皆のことを考えて、殿様の取引に応じるのだった。
〝行くな!〟と懸命に止める夫に哀しく微笑み、〝約束の1年が過ぎたから、きっとお前さんの元に帰ってくるよ〟と残して―。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜
旅する書斎(☆ほしい)
歴史・時代
【第11回歴史・時代小説大賞 読者賞(読者投票1位)受賞】
文化文政の江戸・深川。
人知れず佇む一軒の飯屋――『やわらぎ亭』。
暖簾を掲げるのは、元武家の娘・おし乃。
家も家族も失い、父の形見の包丁一つで町に飛び込んだ彼女は、
「旨い飯で人の心をほどく」を信条に、今日も竈に火を入れる。
常連は、職人、火消し、子どもたち、そして──町奉行・遠山金四郎!?
変装してまで通い詰めるその理由は、一膳に込められた想いと味。
鯛茶漬け、芋がらの煮物、あんこう鍋……
その料理の奥に、江戸の暮らしと誇りが宿る。
涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。
これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる