元気出せ、金太郎

ご隠居

文字の大きさ
上 下
8 / 32

承前 夏の人事 ~御三卿家老を巡る人事・岡部一徳の後任の清水家老として側用人の本多忠籌は北町奉行の初鹿野河内守信興を推挙す 1~

しおりを挟む
 こうして御三卿ごさんきょう清水しみず家の家老かろうつとめる岡部おかべ一徳かずのり西之丸にしのまる留守居るすいへと左遷させんさせるころから、清水しみず家老かろう欠員けついんしょうじるため、これを補充ほじゅうしなければならなかった。

 御三卿ごさんきょう家老かろう西之丸にしのまる留守居るすいおなじく閑職かんしょくとは言え、厳密げんみつ意味いみでの定員ていいん存在そんざいし、そこが西之丸にしのまる留守居るすいとのちがい、あるいはおなじく閑職かんしょくはた奉行ぶぎょうやり奉行ぶぎょうとのちがいとも言えた。

 そして岡部おかべ一徳かずのり後任こうにん清水しみず家老かろうには前例ぜんれいならえば、小納戸こなんど頭取とうどりってしてこれにてるべきであろう。あるいは柘植つげ正寔まさざねのように公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょうてることも選択肢せんたくしひとつであった。

 いや、勘定かんじょう奉行ぶぎょう現在げんざい松平まつだいら定信さだのぶ肝煎きもいりの政策せいさくともぶべき、蔵宿くらやど、つまりは札差ふださしからの借金しゃっきんくるしむ旗本はたもと御家人ごけにん救済策きゅうさいさくである棄捐令きえんれい作成さくせいたずさわり、大詰おおづめの段階だんかいむかえているので、公事くじ勝手かってともはなせない状況じょうきょうかれており、閑職かんしょくである御三卿ごさんきょう家老かろうへの転出てんしゅつなどとてもではないがめる人事じんじではなかった。とりわけ定信さだのぶはそうであろう。

 だとするならばやはり小納戸こなんど頭取とうどりしぼられることになるか。

 将軍・家斉いえなり御前ごぜんにて列座れつざするみなもそうとさっしてか、そのなか一人ひとりである奥詰おくづめ津田つだ信久のぶひさ家斉いえなりに対して、

「されば小納戸こなんど頭取とうどりしゅう一人ひとり森川もりかわ甲斐かいてましては如何いかが御座ござりましょうや…」

 ひかながらもそう提案ていあんした。

 信久のぶひさくちにした「森川もりかわ甲斐かい」とは森川もりかわ甲斐守かいのかみ俊顕としあきであり、家斉いえなりがまだ、家治いえはる将軍家しょうぐんけ御養君ごようくん、つまりは養子ようしとして、それも次期じき将軍として西之丸にしのまるらしていたころより小納戸こなんど頭取とうどりとして次期じき将軍であった家斉いえなり近侍きんじしていた。

 いや、森川もりかわ俊顕としあき家斉いえなり次期じき将軍として西之丸にしのまるにてらすよりまえ家治いえはる実子じっしであった家基いえもと次期じき将軍として西之丸にしのまるにてらしていた安永6(1777)年6月に小納戸こなんど頭取とうどり取立とりたてられ、小納戸こなんど頭取とうどりとして家基いえもと近侍きんじしていた。

 つまりは俊顕としあき西之丸にしのまる小納戸こなんどとして家基いえもと家斉いえなり二代にだいわたってつかえたわけだ。

 その…、それからわずか2年後の安永8(1779)年に家基いえもと薨去こうきょしたために、あらたに御三卿ごさんきょうひとつ、一橋ひとつばし家よりその当主とうしゅである治済はるさだそく豊千代とよちよ家基いえもとわる次期じき将軍として西之丸にしのまるむかえられ、そこで森川もりかわ俊顕としあきつづ西之丸にしのまるにてあらたな次期じき将軍となった豊千代とよちよこと家斉いえなり小納戸こなんど頭取とうどりとしてつかえたのであった。

 そして天明6(1786)年、将軍・家治いえはる薨去こうきょともない、家斉いえなりは新将軍として西之丸にしのまるからここ本丸ほんまるへとうつり、俊顕としあきもそれにしたがい、そして今では将軍となった家斉いえなり今度こんど本丸ほんまる小納戸こなんど頭取とうどりとしてつかえていた。

 その森川もりかわ俊顕としあき西之丸にしのまる小納戸こなんど頭取とうどり時代じだいいま本丸ほんまるのそれとを合算がっさんすれば一番いちばん古株ふるかぶであり、それゆえ信久のぶひさ俊顕としあきげたのであった。

 それに対してほかもの唯一人ただひとり側用人そばようにん本多ほんだ忠籌ただかずのぞいては信久のぶひさ提案ていあん至当しとうみとめてうなずいた。

 そんななか忠籌ただかずだけが、「しばらく」と異議いぎこえげたかと思うと、

「されば森川もりかわ甲斐かいよわい65なれば、家老かろうしょくつとまるであろうかの…」

 忠籌ただかず年齢ねんれいめんから森川もりかわ俊顕としあき起用きよう難色なんしょくしめしたのであった。

 たしかに、そのてん信久のぶひさになるところではあった。御三卿ごさんきょう家老かろう如何いか閑職かんしょくとはもうせ、はた奉行ぶぎょうやり奉行ぶぎょうなどのように完全かんぜん閑職かんしょくとは言いれず、ましてや清水しみず家はこれから長年ながねんうみさねばならぬおりであり、閑職かんしょくどころか実務的じつむてき色彩しきさいいポストと言えなくもなかった。

 そのような御三卿ごさんきょう家老かろうである清水しみず家老かろうに65の森川もりかわ俊顕としあきえるのは成程なるほどいささ不安ふあんであり、そのことは言い出しっぺの信久のぶひさかんじていたところであった。


 そこで信久のぶひさは「次善じぜんさく」として小野おの飛騨守ひだのかみ則武のりたけげた。

 小野おの則武のりたけは8年前の天明元(1781)年6月に小姓こしょうから小納戸こなんど頭取とうどり取立とりたてられ、本丸ほんまる小納戸こなんど頭取とうどりとしては一番いちばん古株ふるかぶである。

 それゆえ信久のぶひさは「次善じぜんさく」もとい、年功ねんこう序列じょれつ観点かんてんから、小野おの則武のりたけげ、それに対してほかものたちもうなずいたのであった。

 だがこの信久のぶひさ提案ていあんに対しても、やはり忠籌ただかず唯一人ただひとり、「しばらくと異議いぎとなえたのであった。

僭越せんえつながら…」

 忠籌ただかずはそうすと、

小野おの飛騨ひだことほかおそおおくも上様うえさまがご寵愛ちょうあいあつく…」

 そう異議いぎとなえた理由わけくちにした。

 たしかに忠籌ただかずの言うとおりであった。

 小野おの則武のりたけ家治いえはる御世みよ小納戸こなんど頭取とうどり取立とりたてられたが、つづ家斉いえなりにも小納戸こなんど頭取とうどりとしてつかえ、2年前の天明7(1787)年4月におこなわれた家斉いえなりの将軍宣下せんげというもっと大事だいじな「イベント」において、家斉いえなり装束しょうぞくととのえたのがほかならぬ則武のりたけであり、則武のりたけのそのじつとどいた差配さはい家斉いえなりはいたくかんり、爾来じらい則武のりたけ寵愛ちょうあいしていた。その寵愛ちょうあいぶりたるや、家斉いえなりがまだ次期じき将軍として西之丸にしのまるにてらしていたころよりその家斉いえなりつかえていた森川もりかわ俊顕としあきに対するそれ以上いじょうのものがあった。

 そしてそのことは周知しゅうち事実じじつであり、家斉いえなりいま忠籌ただかず言葉ことば裏付うらづけるかのように自然しぜんうなずいてみせたことからもそうとさっせられる。

 則武のりたけ御三卿ごさんきょう家老かろう清水しみず家老かろう推挙すいきょした信久のぶひさにしても勿論もちろんそのことは把握はあくしており、それゆえ信久のぶひさ則武のりたけ推挙すいきょしながらも、家斉いえなり寵愛ちょうあい異動いどうの「ネック」になるやもれぬことにづいていた。

 そこで信久のぶひさは「三善さんぜんさく」とばかり、平塚ひらつか伊賀守いがのかみ爲善ためよしげた。

 平塚ひらつか爲善ためよしもまた、小野おの則武のりたけおなじく家治いえはる御世みよである天明5(1785)年11月に小納戸こなんどからその頭取とうどりへと取立とりたてられ、則武のりたけいで古株ふるかぶであった。

 その上、爲善ためよし則武のりたけほどには家斉いえなり寵愛ちょうあいけてはいなかったので、

「されば平塚ひらつか伊賀いがなれば小野おの飛騨ひだくらべ…」

 おそおおくも上様うえさまのご寵愛ちょうあいけてはおりもうさず…、と信久のぶひさおもわずそう言いそうになってあわててくちつぐんだ。如何いか事実じじつとはもうせ、このような老中ろうじゅう若年寄わかどしより列座れつざする満座まんざにてそれをくちにしては爲善ためよし面子めんつつぶすことになるからだ。

 一方いっぽう忠籌ただかずもそうとさっして底意地そこいじわるいことに、

平塚ひらつか伊賀いが小野おの飛騨ひだくらべ、なんもうすのだ?」

 忠籌ただかず口元くちもとゆがめて信久のぶひさにそのさきうながした。

 これにはさしもの信久のぶひさ一瞬いっしゅん言葉ことばまった様子ようすのぞかせたが、それもつか

平塚ひらつか伊賀いが小野おの飛騨ひだくら年嵩としかさなれば、より御三卿ごさんきょう殿どの家老かろう相応ふさわしいかと…」

 信久のぶひさ忠籌ただかずのその底意地そこいじわる追及ついきゅうをサラリとかわしてみせた。

 たしかに信久のぶひさの言うとおり、爲善ためよし御齢おんとし55と、51の則武のりたけよりも4歳年上としうえであった。

うまくかわしたの…」

 忠籌ただかずはそう思いつつ、しらけた表情ひょうじょうかべた。

 すると今度こんど御側御用取次おそばごようとりつぎ小笠原おがさわら信喜のぶよし忠籌ただかずわって「異議いぎ申立もうしたて」をおこなった。

「あっいや、しばらく…」

 信喜のぶよしもまたそうしたかとおもうと、

「されば平塚ひらつか伊賀守いがのかみ娘御むすめごおそおおくも上様うえさま御側室ごそくしつ殿どのにあらせらる御萬おまん方殿かたどのなれば…」

 将軍・家斉いえなり側室そくしつ実父じっぷたる小納戸こなんど頭取とうどり爲善ためよし如何いか慣例かんれいとはもうせ、御三卿ごさんきょう家老かろう棚上たなあげするなど、

もってのほか…」

 というわけで、信久のぶひさ勿論もちろんそれにづいており、そのことがまた異動いどうへの「ネック」になるであろうこともさっしがついていた。

 家斉いえなりはまだ17歳、まだあどけなさののこる、うらかえせばいささたよりない将軍ではあるものの、それでも一人前いちにんまえおんなっていた。

 ともあれ平塚ひらつか爲善ためよし小野おの則武のりたけ古株ふるかぶ小納戸こなんど頭取とうどりであり、その小納戸こなんど頭取とうどりから御三卿ごさんきょう家老かろうへと異動いどうたすのがこの時代じだい確立かくりつされた、

人事じんじのパターン」

 である以上いじょう信久のぶひさとしては則武のりたけいで爲善ためよしげないわけにはゆかなかった。

 こうして信久のぶひさ三度みたび忠籌ただかずおのれ提案ていあん否定ひていされたことから、最後さいご亀井かめい駿河守するがのかみ清容きよかたげた。

 亀井かめい清容きよかたもまた、森川もりかわ俊顕としあきおなじく、西之丸にしのまるにて家基いえもと家斉いえなり二代にだいわたってつかえたくちであった。

 ただし、清容きよかた俊顕としあきとはちがい、西之丸にしのまる小納戸こなんど頭取とうどりとして家基いえもと家斉いえなりつかえたわけではなく、あくまで一介いっかい小納戸こなんどとしてつかえたのだ。

 それが去年きょねんの天明8(1788)年4月に将軍となった家斉いえなりにその小納戸こなんどとしてのこれまでのはたらきぶりがみとめられ、れて小納戸こなんど頭取とうどりへと昇進しょうしんたしたのであり、そこが俊顕としあきとのちがい、それも最大さいだいちがいと断言だんげん出来できた。

 それと言うのも俊顕としあき場合ばあい家斉いえなり家治いえはる家基いえもと父子ふしへの義理立ぎりだて、つまりは遠慮えんりょから家基いえもとの「土産みやげ」とも言うべき森川もりかわ俊顕としあきつづ小納戸こなんど頭取とうどりとして起用きようしたのに対して、亀井かめい清容きよかた場合ばあい家斉いえなりみずから、清容きよかた小納戸こなんど頭取とうどり取立とりたてたからであった。

 これで年齢とし問題もんだいがなければ家斉いえなりとしても俊顕としあき御三卿ごさんきょう家老かろうである清水しみず家老かろうへと異動いどうさせることに即座そくざに、それも諸手もろてげて賛成さんせいしたにちがいない。家斉いえなりとしてももう十分じゅうぶん家治いえはる家基いえもと父子ふしに対して、

義理ぎりたした…」

 そのおもいがつよく、そろそろ「前世紀ぜんせいき遺物いぶつ」とも言うべき俊顕としあき存在そんざい家斉いえなりには目障めざわりにかんじられたからだ。

 そしてこの亀井かめい清容きよかた清水しみず家老かろうへの起用きようについてもやはりと言うべきか、忠籌ただかずによって否定ひていされた。将軍・家斉いえなりからの寵愛ちょうあいたてにして否定ひていしたのであった。

 こうしてのこ小納戸こなんど頭取とうどり大久保おおくぼ日向守ひゅうがのかみ忠得ただのり岩本いわもと石見守いわみのかみ正倫まさとも二人ふたりであるが、しかしこの二人ふたり頭取とうどりかくであり、つまりは家斉いえなりから将来しょうらい嘱望しょくぼうされていたので、それを御三卿ごさんきょう家老かろういやるなどもってのほかであった。

 するとそれまでだまっていた御側御用取次おそばごようとりつぎ加納かのう久周ひさのりが、「弾正だんじょう大弼だいひつ」とってはいった。将軍・家斉いえなり御前ごぜんであるので、久周ひさのり直属ちょくぞく上司じょうしたる忠籌ただかずに対して、その官職かんしょくめいでもっててにした。

 その久周ひさのり信久のぶひさ提案ていあんに対してかえ否定ひていする忠籌ただかずたまりかねた様子ようすであり、

先程さきほどより津田つだ山城やましろ提案ていあん否定ひていかえされるが、さればそこもとには意中いちゅう人物じんぶつでも?」

 久周ひさのり実際じっさい否定ひていかえ忠籌ただかずに対してそう詰問きつもんした。

 一方いっぽう忠籌ただかず久周ひさのり詰問きつもんに対しても平然へいぜんとしたもので、それどころか久周ひさのりのその詰問きつもんっていたかの様子ようすのぞかせ、

「さればきた町奉行まちぶぎょう初鹿野はじかの河内かわちてては…」

 実際じっさい忠籌ただかずはそう即答そくとうしてみせた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

風呂屋旗本・勘太郎

ご隠居
歴史・時代
風呂屋の新入り、勘太郎(かんたろう)、後の巨勢(こせ)六左衛門(ろくざえもん)が八代将軍吉宗の縁者という事で、江戸城に召し出され、旗本に取り立てられるまでの物語。 《主な登場人物》 勘太郎…本作の主人公 十左衛門…勘太郎の叔父、養父。 善之助…十左衛門の倅、勘太郎の従兄。病弱。 徳川吉宗…八代将軍。十左衛門(じゅうざえもん)の甥。 加納遠江守久通…御用懸御側衆。 有馬兵庫頭恒治…御用懸御側衆、後の氏倫。 本目権左衛門親良…奥右筆組頭。 河内山宗久…時斗之間肝煎坊主、恒治付。 一部、差別的な表現がありますが、この時代の風俗上、どうしてもやむを得ぬもので、ご諒承下さい。

天明奇聞 ~たとえば意知が死ななかったら~

ご隠居
歴史・時代
タイトル通りです。意知が暗殺されなかったら(助かったら)という架空小説です。

猿の内政官の息子

橋本洋一
歴史・時代
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~ の後日談です。雲之介が死んで葬儀を執り行う雨竜秀晴が主人公です。全三話です

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

江戸の夕映え

大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。 「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三) そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。 同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。 しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。

【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原

糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。 慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。 しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。 目指すは徳川家康の首級ただ一つ。 しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。 その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。

不屈の葵

ヌマサン
歴史・時代
戦国乱世、不屈の魂が未来を掴む! これは三河の弱小国主から天下人へ、不屈の精神で戦国を駆け抜けた男の壮大な物語。 幾多の戦乱を生き抜き、不屈の精神で三河の弱小国衆から天下統一を成し遂げた男、徳川家康。 本作は家康の幼少期から晩年までを壮大なスケールで描き、戦国時代の激動と一人の男の成長物語を鮮やかに描く。 家康の苦悩、決断、そして成功と失敗。様々な人間ドラマを通して、人生とは何かを問いかける。 今川義元、織田信長、羽柴秀吉、武田信玄――家康の波乱万丈な人生を彩る個性豊かな名将たちも続々と登場。 家康との関わりを通して、彼らの生き様も鮮やかに描かれる。 笑いあり、涙ありの壮大なスケールで描く、単なる英雄譚ではなく、一人の人間として苦悩し、成長していく家康の姿を描いた壮大な歴史小説。 戦国時代の風雲児たちの活躍、人間ドラマ、そして家康の不屈の精神が、読者を戦国時代に誘う。 愛、友情、そして裏切り…戦国時代に渦巻く人間ドラマにも要注目! 歴史ファン必読の感動と興奮が止まらない歴史小説『不屈の葵』 ぜひ、手に取って、戦国時代の熱き息吹を感じてください!

処理中です...