元気出せ、金太郎

ご隠居

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承前 夏の人事

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「されば松平まつだいら但馬たじま後任こうにん小普請こぶしんぐみ支配しはいでござるが…」

 江戸城中奥なかおく御座之間ござのまにおいて、御側おそば御用人ごようにん通称つうしょう側用人そばようにん本多ほんだ弾正だんじょう大弼だいひつ忠籌ただかずこえひびいた。

 中奥なかおくは将軍の居所きょしょであり、ここで将軍は起居ききょすると同時どうじに、政務せいむった。さしずめ「職住しょくじゅう一体いったい」といったところであろうか。

 その中奥なかおく仕切しきるのが側用人そばようにんであった。側用人そばようにんは将軍の最側近さいそっきんであり、中奥なかおくわば「最高さいこう長官ちょうかん」として配下はいか中奥なかおく役人やくにん差配さはいする。

 のみならず、将軍と表向おもてむき役人やくにんとの結節点けっせつてんとしての役目やくめをもたしる。

 その側用人そばようにんしょくにあるのが本多ほんだ忠籌ただかずであり、忠籌ただかずいままさに「結節点けっせつてん」としての役目やくめたしていた。

 すなわち、いま、ここ御座之間ござのま上段じょうだんにて将軍・家斉いえなり鎮座ちんざし、|一方、下段げだんにては将軍とかい格好かっこう老中ろうじゅう表向おもてむき役人やくにん、それも「幹部かんぶクラス」が居並いならなかで、忠籌ただかず老中ろうじゅうらが居並いならぶその下段げだんにて、それも将軍・家斉いえなり老中ろうじゅうらとのあいだまさに、

はさまれる格好かっこうにて…」

 その陣取じんどっては閣議かくぎ主宰しゅさいしていた。

 さて、忠籌ただかず主宰しゅさいしていた閣議かくぎだが、それは人事じんじ案件あんけんであり、忠籌ただかずくちにした「松平まつだいら但馬たじま」とは小普請こぶしんぐみ支配しはい松平まつだいら但馬守たじまのかみ乗季のりすえのことであり、松平まつだいら乗季のりすえは四日前、すなわち、寛政かんせい元(1789)年8月18日にしゅっしたために、その後任こうにん人事じんじについてであった。

 いや、じつえば昨日きのう段階だんかい後任こうにん小普請こぶしんぐみ支配しはいすで内定ないていしていた。

 それと言うのも昨日きのうの21日は評定所ひょうじょうしょ式日しきじつたり、その後任こうにん人事じんじはなわれたのであった。

 評定所ひょうじょうしょとは幕府ばくふ最高さいこう司法しほう機関きかんであり、「最高さいこう裁判所さいばんしょ」にたる。

 その評定所ひょうじょうしょの「判事はんじだん」を構成こうせいするのが寺社じしゃ江戸えど南北なんぼく両町りょうまち公事くじがたさん奉行ぶぎょうであり、「評定所ひょうじょうしょ一座いちざ」ともしょうされる。

 そして毎月まいつき、2日と11日と21日にはその評定所ひょうじょうしょ一座いちざ老中ろうじゅうくわわり、審理しんりたる式日しきじつであり、昨日きのうは21日、寛政かんせい|元(1789)年の8月21日なので、まさ式日しきじつであった。

 さて、評定所ひょうじょうしょあつか事件じけんだが、それは基本的きほんてきには公事くじ出入でいりしょうされる民事みんじかぎられ、まれ吟味ぎんみものしょうされる刑事けいじ、その中でもとく重大じゅうだい事件じけんである詮議せんぎものさばかれることもある。

 もっとも、そういつも、評定所ひょうじょうしょにてさばかれるべき民事みんじ事件じけんや、ましてや重大じゅうだい刑事けいじ事件じけんがあるわけではなく、事件じけんまったくないことのほうおおほどであり、昨日きのうもそうであった。

 その場合ばあいとく老中ろうじゅう出座しゅつざするような式日しきじつともなると、評定所ひょうじょうしょ司法しほう機関きかんではなく、立法りっぽう機関きかん行政ぎょうせい機関きかんす。

 それゆえ人事じんじ案件あんけん当然とうぜん評定所ひょうじょうしょ議題ぎだいとなり、昨日きのう21日の式日しきじつ利用りようして、評定所ひょうじょうしょにおいて松平まつだいら乗季のりすえ後任こうにん小普請こぶしんぐみ支配しはいにはだれってしててるか、それがはなわれ、すで候補者こうほしゃしぼられていた。

「されば中奥なかおく小姓こしょう浅野あさの佐渡守さどのかみ長富ながとみおなじく中奥なかおく小姓こしょう水野みずの石見守いわみのかみ貞利さだとし、そしておなじく中奥なかおく小姓こしょう大久保おおくぼ志摩守しまのかみ忠道ただみち三名さんめいしぼられましてござりまする…」

 将軍・家斉いえなりうやうやしくそうげたのは老中ろうじゅう首座しゅざ松平まつだいら越中守えっちゅうのかみ定信さだのぶであった。

 定信さだのぶつづけて、

おそおおくも上様うえさま御裁断ごさいだんあおぎたいと…」

 この3人の候補者こうほしゃなかからだれ小普請こぶしんぐみ支配しはいにんじるか、将軍・家斉いえなりにその判断はんだんもとめたのであった。

 小普請こぶしんぐみ支配しはいとは家禄かろくが3千石未満みまんにして無役むやく、つまりはなん御役目おやくめにもかず、あるいはけずにはたらいていない「ニート」の旗本はたもとおよ譜代ふだい御家人ごけにん支配しはいする役職やくしょくであった。

 小普請こぶしんぐみ支配しはい老中ろうじゅう支配しはいぞくする布衣ほい、つまりは従六位じゅろくい相当そうとうする役職やくしょくであった。

 従六位じゅろくい相当そうとうする布衣ほいやく小普請こぶしんぐみ支配しはいほかにも存在そんざいするが、そのなかでも小普請こぶしんぐみ支配しはい上位じょうい位置いちしていた。

 だが小普請こぶしんぐみ支配しはい職務しょくむそのものは、その格式かくしきとは裏腹うらはらにさして重要じゅうようではなく、それゆえその小普請こぶしんぐみ支配しはい人事じんじともなれば、本来ほんらい直属ちょくぞく上司じょうしたる老中ろうじゅうだけでめてしまい、将軍にはその追認ついにんもとめるだけで十分じゅうぶんであった。

 だが定信さだのぶがそれをゆるさなかった。

「されば上様うえさまかろんじたてまつることにもなり…」

 人事じんじ追認ついにんもとめるだけでは家斉いえなりのその将軍としての権威けんいきずけ、ひいては家斉いえなりかろんずることになる…、それが定信さだのぶゆるさなかった理由りゆうであったが、それだけではなかった。

上様うえさまいまだ、17歳と御若おわかく、そこで政務せいむれていただくべく…」

 本来ほんらい老中ろうじゅうだけで決裁けっさい可能かのうな、将軍はそれを追認ついにんするだけで十分じゅうぶん案件あんけんにも、家斉いえなり自身じしん判断はんだんさせることで、若年じゃくねん家斉いえなりに、

一日いちにちでもはや政務せいむれてしい…」

 定信さだのぶはその一念いちねんから、家斉いえなり小普請こぶしんぐみ支配しはい人事じんじという、わば瑣末さまつ案件あんけんにも家斉いえなり判断はんだんもとめたのであった。

 もっとも、まったくの白紙はくし状態じょうたいから判断はんだんさせるのはあまりにこくというものであろう。

 そこでまず定信さだのぶたち老中ろうじゅう候補者こうほしゃしぼったうえ家斉いえなりにはその候補者こうほしゃなかから判断はんだんしてもらうことにしたのであった。

 さて、その小普請こぶしんぐみ支配しはい候補者こうほしゃとして定信さだのぶたち老中ろうじゅうしぼった3人だが、みな中奥なかおく小姓こしょうであった。

 中奥なかおく小姓こしょうとは「中奥なかおく」という単語たんごこそかんせられてはいるものの、しかし、その職務しょくむ表向おもてむきにて儀式ぎしきつかさどり、中奥なかおくにて将軍に近侍きんじする小姓こしょうとは別物べつものであった。

 ただし、中奥なかおく小姓こしょう中奥なかおくにて将軍に近侍きんじする小姓こしょうおなじく従五位下じゅごいのげ諸大夫しょだいぶやくであり、それにして小普請こぶしんぐみ支配しはい従六位じゅろくい布衣ほい役であり、それゆえ官位かんい着目ちゃくもくすれば中奥なかおく小姓こしょうほうが、あるいは小姓こしょうほう小普請こぶしんぐみ支配しはいうえ位置いちするものの、しかし幕府ばくふない序列じょれつ、つまりはここ江戸城における席次せきじという観点かんてんにおいては小普請こぶしんぐみ支配しはいほう中奥なかおく小姓こしょうや、それに小姓こしょうよりもうえであった。

 そして中奥なかおく小姓こしょうから小普請こぶしんぐみ支配しはいへと昇進しょうしんたすのがこの時代じだい確立かくりつされた、わば「昇進しょうしんパターン」であり、実際じっさい、11人、いや10人そんする小普請こぶしんぐみ支配しはいのうち、過半かはんの7人が中奥なかおく小姓こしょうからの「昇進しょうしんぐみ」であった。

 無論むろん例外れいがいもあり、坪内つぼうち式部しきぶ定系さだつぐがそうであり、坪内つぼうち式部しきぶ定火消じょうびけしからの「昇進しょうしんぐみ」であった。

 また酒井さかい因幡守いなばのかみ忠敬ただたね遠国おんごく奉行ぶぎょうである日光にっこう奉行ぶぎょうからの「異動いどうぐみ」であった。

 いや、遠国おんごく奉行ぶぎょう小普請こぶしんぐみ支配しはいとでは、官位かんいにしろ幕府内ばくふない序列じょれつにしろ、遠国おんごく奉行ぶぎょうほううえであり、してみると酒井さかい忠敬ただたねにとってこの人事じんじ格下かくさげにほかならないとも言えるが、しかし、この小普請こぶしんぐみ支配しはいて、書院しょいん番頭ばんがしら小姓こしょうぐみ番頭ばんがしらといった番方ばんかた、つまりは武官ぶかん指揮官しきかんへと昇進しょうしんたすのがこれまた「昇進しょうしんパターン」であり、それゆえ酒井さかい忠敬ただたねもまた、

近々きんきん書院しょいん番頭ばんがしら小姓こしょうぐみ番頭ばんがしらへと昇進しょうしんたすのではあるまいか…」

 それがもっぱらの下馬評げばひょうであった。

 ともあれかる事情じじょうから、定信さだのぶたち老中ろうじゅう小普請こぶしんぐみ支配しはい候補者こうほしゃとして中奥なかおく小姓こしょうである、

浅野あさの佐渡守さどのかみ長富ながとみ

水野みずの石見守いわみのかみ貞利さだとし

大久保おおくぼ志摩守しまのかみ忠道ただみち

 以上の3人にしぼったのであった。
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