天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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大詰め ~一橋治済、逮捕さる。2~

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「なっ、何をいたすかっ、この慮外者りょがいものめがっ!」

 治済はるさだは己にやりを向けている者たちを一喝いっかつしてみせた。だがその声にはどこか力がなく、迫力はくりょくけていた。虚勢きょせいっているようにも見えた。

 それに対して治済はるさだやりを向けている者たちにもそれが感じられたのであろう、治済はるさだ一喝いっかつにもいささかもどうずる気配けはいがなかった。

やりを向けられるだけのことを仕出しでかしたからよ…」

 治済はるさだの目の前にて、床机しょうぎこしかけている家治がそう答えた。

「なっ…、何をおおせられまする…」

 治済はるさだの声はふるえていた。

「あくまでシラを切り通すつもりか?」

 家治は追いちをかけた。

「シラを切るも何も…、それがしには何のことやら…」

 治済はるさだはそう答えるのが精一杯せいいっぱいの様子であった。

左様さようか…、なればいたかたなし…」

 家治がそう答えるや、まるでそれが合図あいずのように、益五郎ますごろう乱入らんにゅうした。いや、益五郎ますごろう一人ではない。益五郎ますごろうなわしばり上げられた御膳ごぜん奉行の高尾たかお惣十郎そうじゅうろう信福のぶとみ山木やまき次郎八じろはち勝明かつあきらの二人をその怪力かいりきでもって連れて乱入らんにゅうするや、相変あいかわらずやりを向けられている治済はるさだの目の前に二人を放り投げたのであった。

「こいつら二人が何もかもいちまったぜ、治済はるさださんよ…」

 治済はるさだ益五郎ますごろうにそんな言葉、いや、暴言ぼうげんかれて、思わずカッとなった。

無礼ぶれいであるぞっ!御三卿ごさんきょうなるぞっ!」

「うるせぇっ!この人殺し野郎めがっ!」

 益五郎ますごろうがそう一喝いっかつするや、治済はるさだは思わず口をつぐんだ。他人からこのような罵声ばせいびせられるのは初めての経験であったので、治済はるさだはショックの余り、言葉が出て来なかった。

 するとそうと察した益五郎ますごろうがこれ幸いとばかり、一気にたたみかけてきた。

「こいつら二人がてめぇの命令で上様うえさまの食事に毒を仕込しこんだことを…、それも高尾たかおの野郎が何もかもウタっちまったんだよっ!」

 治済はるさだはそれでも頭を振るばかりであり、益五郎ますごろうはそんな治済はるさだ醜態しゅうたい尻目しりめさらに続けた。

「それだけじゃねぇ、小納戸こなんど岩本いわもと松下まつしただっけか?そいつらもいちまったぜ」

 治済はるさだは思わず顔をゆがめた。岩本いわもとの名が出たからだ。申すまでもなく、治済はるさだ愛妾あいしょうとみの実家である岩本いわもと家であり、しかも小納戸こなんどともなれば、それはとみ実弟じっていである岩本いわもと正五郎しょうごろう正倫まさとも以外には考えられなかった。つまりは豊千代とよちよ叔父おじである。

岩本いわもとにしろ松下まつしたにしろ、こいつら…、御膳ごぜん奉行の高尾たかお山木やまき…、それも高尾たかお上様うえさまが食うはずの食事にハンミョウだっけか?その毒を仕込しこんだことを知りながら、毒見どくみもせずに上様うえさまに食わそうとしたこと…、何もかもいちまったんだよ。評定所の取り調べでな」

 益五郎ますごろうとどめを刺すようにそう言った。

 実は治済はるさだがこの江戸城に到着する前に、小納戸こなんど岩本いわもと正五郎しょうごろう松下まつした左十郎さじゅうろうの二人は将軍・家治の命によりその身柄みがら拘束こうそくされたのであった。

 岩本いわもと正五郎しょうごろう松下まつした左十郎さじゅうろうの二人の身柄みがらを実際に拘束こうそくしたのは二人の直属ちょくぞくの上司である小納戸こなんど頭取とうどり稲葉いなば主計頭かずえのかみ正存まさよしさらにその上役うわやくに当たる御側御用取次おそばごようとりつぎ見習いの本郷ほんごう伊勢守いせのかみ泰行やすゆきの二人であり、岩本いわもと正五郎しょうごろう松下まつした左十郎さじゅうろう本郷ほんごう泰行やすゆき稲葉いなば正存まさよしの二人によってその身柄みがら拘束こうそくされる際、それこそ、

「目を白黒しろくろさせた…」

 とりわけ岩本いわもと正五郎しょうごろうがそうであり、それに対して松下まつした左十郎さじゅうろうの方はどこか諦念ていねんのようなものをその表情に浮かべたものである。

 それでも岩本いわもと正五郎しょうごろう勿論もちろんのこと、松下まつした左十郎さじゅうろう一応いちおう、何ゆえに己らが身柄みがら拘束こうそくされなければならぬのか、今の治済はるさだ同様どうよう、シラを切ったものである。

 それに対して本郷ほんごう泰行やすゆき稲葉いなば正存まさよし岩本いわもと正五郎しょうごろう松下まつした左十郎さじゅうろうの二人がとりあえずシラを切るであろうことは元より、

み…」

 であったので、そこでこの御小座敷之間おこざしきのま上段じょうだんへと、岩本いわもと正五郎しょうごろう松下まつした左十郎さじゅうろうの二人を引っ張って行き、そしてやはり今の治済はるさだに対するのと同じように、将軍・家治が健在けんざいであることを岩本いわもと正五郎しょうごろう松下まつした左十郎さじゅうろうの二人に見せ付けたのであった。

 それに対して岩本いわもと正五郎しょうごろう松下まつした左十郎さじゅうろうの二人が仰天ぎょうてんしたのは言うまでもなく、それも岩本いわもと正五郎しょうごろうの驚きぶりたるや、実際に腰を抜かしたものである。

 何ゆえに上様うえさまが生きているのか…、岩本いわもと正五郎しょうごろうは腰を抜かした状態で、今にもそうたずねようとしたほどであった。

 いや、その答えは分かりきっていた。それは申すまでもなく、家治が毒入りの…、斑猫はんみょうなる即効性そっこうせいの毒入りの食事を食べなかったからに他ならず、しかも、家治のすぐそばには金魚鉢が置かれてあり、そこには金魚がしっかりと浮いていたので、それで松下まつした左十郎さじゅうろうも、

「そういうことか…」

 合点がてんがいったものである。

 家治の給仕きゅうじになった小姓こしょう丸毛まるも政良まさかた平賀ひらが貞愛さだゑの二人が将軍・家治はかも料理を口にした途端とたんたおれたと、そう答えたことから岩本いわもと正五郎しょうごろう勿論もちろんのこと、松下まつした左十郎さじゅうろうでさえ、家治がその斑猫はんみょうなる即効性そっこうせいの毒入りの食事を食べたものと信じたのであった。

 それと言うのも斑猫はんみょうなる即効性そっこうせいの毒は御膳ごぜん奉行の高尾たかお惣十郎そうじゅうろうの手により、そして相役あいやく山木やまき次郎八じろはち黙認もくにんもとかも料理に仕込しこんだからであり、このことは岩本いわもと正五郎しょうごろうにしろ、松下まつした左十郎さじゅうろうにしろ、高尾たかお惣十郎そうじゅうろう山木やまき次郎八じろはちの二人から打ち明けられるまでは知らないことであり、まして将軍・家治は元より、給仕きゅうじになった丸毛まるも政良まさかた平賀ひらが貞愛さだゑの二人が知るよしもないことであった。

 それゆえその丸毛まるも政良まさかた平賀ひらが貞愛さだゑの二人から将軍・家治がかも料理を口にした途端とたんたおれられたと聞いて、てっきり家治は本当に斑猫はんみょうなる即効性そっこうせいの毒をふくんだものだと、早合点はやがてんしたのだ。

 だがどうやらそれは早合点はやがてんはやとちりであったらしいと、目の前の金魚鉢がそれを物語っていた。

 家治は丸毛まるも政良まさかた平賀ひらが貞愛さだゑの二人に命じて、岩本いわもと正五郎しょうごろう松下まつした左十郎さじゅうろうの二人が運んで来た夕膳ゆうぜん、その膳台ぜんだいならべられた料理を少しずつ、あらかじめ用意しておいた、それも家治の真後まうしろにかくしていた金魚鉢の中へととうじては中の金魚に食べさせ、そして様子を見るというかえしの結果、かも料理を少しだけ金魚鉢の中にとうじたところ、それからすぐに金魚が浮かんだのであった。

 そして岩本いわもと正五郎しょうごろうにしろ、松下まつした左十郎さじゅうろうにしろ、家治が健在けんざいなことにくわえて、目の前の金魚鉢からそうと察すると愕然がくぜんとし、そしてそれから二人は本郷ほんごう泰行やすゆき稲葉いなば正存まさよしの手により辰ノ口たつのぐちの評定所へと連行されるや、本郷ほんごう泰行やすゆき稲葉いなば正存まさよしの取り調べに対して何もかも自白じはくした次第しだいであった。

 将軍・家治はその間の経緯けいいについて、目の前の治済はるさだに対して簡潔かんけつに語って聞かせたものの、それでも治済はるさだなおもシラを切り通すという往生際おうじょうぎわの悪さを見せ付けたのであった。これには益五郎ますごろうも少しだけだが、感嘆したものである。良くぞここまで往生際おうじょうぎわが悪いものだと、益五郎ますごろう感嘆かんたんさえ覚えたほどであった。

左様さようか…」

 一方、家治はそうつぶやくや、「意知おきとも」と声をかけ、すると今度は意知おきともがここ御小座敷之間おこざしきのま上段じょうだんに姿を見せ、そして治済はるさだの目の前に近付いてきた。しかも意知おきともの両手には食器がかかげられていた。

 意知おきとも治済はるさだの目の前で立ち止まるや、両手で持っていたその食器を治済はるさだ鼻先はなさきに突きつけたのであった。

おそれながら一橋ひとつばし殿…、貴方あなた様がまこと無実むじつであられるならばこのかも料理、勿論もちろんし上がることができましょうな…」

 意知おきとも治済はるさだにそう告げると、治済はるさだに食べてみせるようすすめたのであった。

 だがそれに対して治済はるさだは目の前のかも料理に口をつけることができずについひざを折ったのであった。
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