天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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大詰め ~将軍・家治、毒殺さる。4~

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 おもてむきにある檜之間ひのきのまつうしょう

医師いしだまり

 であり、その名の通り、医師いしめており、今のように夕方ともなると、宿直とのい医師いしめていた。

 その中にはおもてむきにて病人や怪我けが人が出た場合に診察しんさつ治療ちりょうに当たる、つまりはおもてむきの者を患者かんじゃとするばん医師いしことおもてばん医師いしは元より、中奥なかおくにて将軍や中奥なかおく役人の診察しんさつ治療ちりょうに当たるおく医師いしめていた。

 おく医師いし本来ほんらい膳番ぜんばん納戸こなんどによるはいを受ける、つまりは中奥なかおく役人の一人として数えられるので、その詰所つめしょ中奥なかおくに設けられても良さそうなところ、ことおく医師いしに限って言えば中奥なかおく役人の一人でありながら中奥なかおく詰所つめしょを与えられず、ここおもてむきにある檜之間ひのきのま通称つうしょう医師いしだまり詰所つめしょとして与えられていたのだ。

 松下まつした左十郎さじゅうろう中奥なかおくにて…、御小おこ納戸なんど西部屋のろうの前で岩本いわもと正五郎しょうごろうと別れると、時斗之間とけいのまを通り抜けて中奥なかおくからここおもてむきへと足を踏み入れるとその足で檜之間ひのきのま、通称、医師いしだまりへと向かった。

 その医師いしだまりには宿直とのい医師いしめており、その中には松下まつした左十郎さじゅうろうの知った顔もあった。松下まつした左十郎さじゅうろう膳番ぜんばん納戸なんどとしてはいしているおく医師いしであり、相手も…、おく医師いしの方も勿論もちろんあるじとも言うべき松下まつした左十郎さじゅうろうの顔を知っていたので、それまでおもてばん医師いしと何やら話し込んでいた彼らおく医師いし松下まつした左十郎さじゅうろう突然とつぜんの登場に驚くと同時に、おもてばん医師いしとの雑談ざつだんを打ち切るや、威儀いぎただして松下まつした左十郎さじゅうろうむかえ、おもてばん医師いしもそれにならった。おもてばん医師いしの方はおく医師いしとは異なり、膳番ぜんばん納戸なんどとは支配関係にはないものの、それでも相手が将軍にきんする納戸なんどともなればやはりここはおく医師いしならい、威儀いぎただしてむかえるというのが、

こう…」

 というものであり、無論むろんおもてばん医師いしにしても松下まつした左十郎さじゅうろうが将軍にきんする納戸なんどであることぐらいしょうしていた。

「これはこれは松下まつした様…、如何いかがなされましたので?」

 おく医師いし武田たけだ宗安そうあん信復のぶのりくちを切る格好かっこうたずねた。

 成程なるほど、今、この医師いしだまりめている宿直とのい医師いしの中ではこの武田たけだ宗安そうあんが一番、格上かくうえであり、くちを切ったのもうなずける。何しろ武田たけだ宗安そうあんおく医師いしであり、しかも法眼ほうげんの地位にあるからだ。

 武田たけだ宗安そうあん松下まつした左十郎さじゅうろうかしこまりながら来意らいいたずねつつ、その上、それまで己が座っていたかみから退がろうとしたので、

「そのおよばず…」

 松下まつした左十郎さじゅうろうはそう答えて、己のためにかみゆずろうとした武田たけだ宗安そうあんを制すると、出入り口にてったまま本題ほんだいに入った。今の松下まつした左十郎さじゅうろうはさしずめ、

「1分1秒がしい…」

 そのようなこころもちであったからだ。

「されば先ほど、御小おこ納戸なんど頭取とうどり稲葉いなば様が見えられなかったか?」

 松下まつした左十郎さじゅうろうあいわらずかしこまっている武田たけだ宗安そうあんに対してたずねた。すると武田たけだ宗安そうあんは、

「お見えになられましてござりまする…」

 そう即答そくとうしてみえ、とりあえず松下まつした左十郎さじゅうろうを満足させた。

 松下まつした左十郎さじゅうろうさらに質問をびせた。

「されば稲葉いなば様はおく医師いしとそれにばん医師いしを連れて行かなかったかえ?中奥なかおくへと…」

 そうたずねる松下まつした左十郎さじゅうろうに対して武田たけだ信復のぶのり流石さすがに何ゆえにそのようなことをたずねるのかと疑問に思ったらしく、顔を上げると、松下まつした左十郎さじゅうろうの顔をのぞき見た。

 そして武田たけだ宗安そうあん松下まつした左十郎さじゅうろうがやはり即答そくとうを求めていると、そうと察するや、一切いっさいの疑問を封印ふういんして、その問いに答えた。

「さればおく医師いしよりはもり法印ほういん様…、いえ、もりようしゅんいん…」

 法印ほういん法眼ほうげんより格上かくうえであり、ゆえに法眼ほうげん武田たけだ宗安そうあんはついいつものくせで、法印ほういんもりようしゅんいんこともり當定まささだに対して、

「様…」

 という最高敬称をつけてしまい、しかし、武田たけだ宗安そうあんはそれからすぐにその法印ほういんであるもりようしゅんいん當定まささだを始めとするおく医師いしはいする膳番ぜんばん納戸なんどである松下まつした左十郎さじゅうろうあいにしていることを思い出し、そこで、

もりようしゅんいん…」

 そう呼び捨てにしたのであった。

 それに対して松下まつした左十郎さじゅうろうはと言うと、「1分1秒がしい…」とは言え、武田たけだ宗安そうあんのそのしゅしょうなる態度に内心ないしんうなずいたものである。

 ともあれ松下まつした左十郎さじゅうろうは、「もりようしゅんいんの他には?」と武田たけだ宗安そうあんに先をうながした。

「されば同じくおく医師いし千賀せんがどうりゅうと、それに池原いけはら雲洞うんとう…」

 武田たけだ宗安そうあんがそこまで…、「池原いけはら雲洞うんとう」の名まで口にした途端とたん、「なにっ!?」と松下まつした左十郎さじゅうろうは声を上げた。

「あの…」

 武田たけだ宗安そうあんは己が何かごげんでもそこねるような発言でもしたのかと、そう言わんばかりに恐る恐る松下まつした左十郎さじゅうろうたずねたものである。

 それに対して松下まつした左十郎さじゅうろうはと言うと、今、武田たけだ宗安そうあんしゅくさせるのは得策とくさくではないと、咄嗟とっさにそう判断するや、

「いや、何でもない…」

 まずはそう答えてみせることで武田たけだ宗安そうあんを安心させた上で、

「されば池原いけはら雲洞うんとうもうさば、あの…、一昨日おとといの晩に斬殺ざんさつされし池原いけはらちょう仙院せんいんそくかえ?」

 確かめるようにそうたずねた。分かってはいたことだが、それでも確かめずにはおれなかったからだ。

左様さようでござりまする…」

 武田たけだ宗安そうあんうやうやしくそう答えた。

「何と…、父・ちょう仙院せんいんられてまだ二日しかっておらぬと申すに…、かるなまぐさき身でもってもう、出仕しゅっしおよんでおると申すか…」

 現代の感覚からすれば松下まつした左十郎さじゅうろうのこの発言は奇異きいに感じるやも知れぬが、しかし、この当時の感覚からすれば松下まつした左十郎さじゅうろうのこの発言も当然であった。

 それと言うのもこの当時は何よりも、「けがれ」をきら傾向けいこうがあり、わけても「血」は…、それも「出血」はけがれの象徴とも言えた。

 そしてそのけがれ…、「出血」であるが、例え、当人が血を流したわけではなくとも、近親者が血を流すような事態ともあいればやはりそれは、

けがれ…」

 それに該当がいとうし、それゆえ将軍の住まうここ江戸城への出仕しゅっし…、じょうなどそれこそ、

ごん道断どうだん…」

 というものであった。

「いや…、それなればまず、膳番ぜんばんたるこのわしに一言あってしかるべきではあるまいか…」

 松下まつした左十郎さじゅうろうは思い出したかのようにそう声を上げた。何しろ松下まつした左十郎さじゅうろうおく医師いしはいする膳番ぜんばん納戸なんどなのである。

 そうであれば、池原いけはら雲洞うんとうこと池原いけはら子明たねあきらがそのいまけがれた身でありながら、どうしても出仕しゅっし…、江戸城にじょうしたければその前にはい役である膳番ぜんばん納戸なんどである己か、しくはその相役あいやく…、どうりょうである岩本いわもと正五郎しょうごろう一言ひとことあってしかるべき、いや、ゆるしをうてしかるべきところ、生憎あいにく松下まつした左十郎さじゅうろう池原いけはら雲洞うんとうよりそのようなゆるしをわれた覚えはなかった。

 それとも岩本いわもと正五郎しょうごろうに対してゆるしをうたか…、松下まつした左十郎さじゅうろうがそんなことを思っていると、そうと察したらしい武田たけだ宗安そうあんが、

「さればおそれ多くも上様うえさまよりの直々じきじき恩命おんめいにて…」

 そう答えたことから、松下まつした左十郎さじゅうろうを驚かせた。

「何と…、おそれ多くも上様うえさま池原いけはら雲洞うんとう出仕しゅっしを命じたと申すか?」

 松下まつした左十郎さじゅうろうがそうたずねるや、武田たけだ宗安そうあんは「左様さようでござりまする…」とやはりうやうやしく首肯しゅこうした上で、その経緯いきさつについてくわしく語り出した。

 それによると、池原いけはら雲洞うんとうこと池原いけはら子明たねあきら自身は十分に、「けがれ」を意識しており、それゆえ愛宕あたごしたにあるしきにてその身をつつしんでいたところ、今日、すなわち4月3日になって、将軍・家治は納戸なんど頭取とうどりの一人である萩原はぎわら越前守えちぜんのかみ雅宴まさやす池原いけはら雲洞うんとうの元へと差し向け、今夜から出仕しゅっしするようにと、家治は萩原はぎわら雅宴まさやすを通じて命じたとのことであった。つまり、宿直とのいを命じたのであった。

上様うえさまは何ゆえに左様さようなことを…」

 松下まつした左十郎さじゅうろうは首をかしげた。

「されば池原いけはら雲洞うんとうが申すところによりますと、いつまでも身をつつしむよりもしろ出仕しゅっししてぎょうはげみしことこそ、亡き父の遺志いしぐこととあいろう…、何より亡き父もそれを望んでいるはずと…」

 武田たけだ宗安そうあんがそう答えたことから、「上様うえさま左様さようなことを?」と松下まつした左十郎さじゅうろうは信じられないおもちでそうたずねたものである。

左様さようで…、されば池原いけはら雲洞うんとうもりようしゅうんいん千賀せんが道隆どうりゅうらと共に、稲葉いなば様の案内あないにて中奥なかおくへと足を運びしその前にここで…」

 池原いけはら雲洞うんとうより直々じきじきに聞いた話だと、武田たけだ宗安そうあんはそう示唆しさした。

 それに対して松下まつした左十郎さじゅうろうはその示唆しさに気付くと、それが間違いのない事実だと確信したものである。如何いかけがれた身であるとは言え、将軍・家治より出仕しゅっしを…、宿直とのいを命じられたからにはいつまでもけがれた身であることを言い訳にしてしきにひきこもっているわけにもゆかないだろう。

 その上、松下まつした左十郎さじゅうろうは今日は岩本いわもと正五郎しょうごろう共々ともども、やはり宿直とのいということで、日中はこの江戸城にはいなかったので、それゆえ将軍・家治のそのようなはいがあったことも当然、知らないはずであった。

 だが分からないのは将軍・家治が何ゆえに今日になって…、それもまるで日中、己…、松下まつした左十郎さじゅうろう岩本いわもと正五郎しょうごろうがこの江戸城にいないのをはからったかのようにそのような命を下したか、である。

 それでも松下まつした左十郎さじゅうろうはとりあえずその疑問はわきに置いて、事実を確かめることを優先ゆうせんした。事実とは言うまでもなく、納戸なんど頭取とうどり稲葉いなば正存まさよしが誰を…、将軍・家治の治療ちりょうに当たらせるべく、どの医師を中奥なかおくへと連れて行ったか、である。

「さればおく医師いしよりはもり法印ほういんと、それに千賀せんが道隆どうりゅう池原いけはら雲洞うんとうの二人の法眼ほうげんを連れて行ったと申すのだな?稲葉いなば様は…、中奥なかおくへと…」

 千賀せんが道隆どうりゅうこと久頼ひさふゆ池原いけはら雲洞うんとうこと子明たねあきらは共に法眼ほうげんであり、松下まつした左十郎さじゅうろう勿論もちろん、そのことを膳番ぜんばん納戸なんどとしてあくしていればこそ、そのようにたずねたのであった。

 それに対して武田たけだ宗安そうあんは「左様さようでござりまする…」と答えたのであった。

稲葉いなば様はさらにばん医師いしをも連れて行ったとの話だが…」

 松下まつした左十郎さじゅうろう武田たけだ宗安そうあんさらにそう水を向けると、それにはばん医師いし…、おもてばん医師いし佐合さごう益庵えきあん宗甫むねなみが答えた。

「されば野間のま玄琢げんたくにて…、野間のま玄琢げんたく成因せいいんにて…」

 佐合さごう益庵えきあん松下まつした左十郎さじゅうろうのためにご丁寧ていねいにもフルネームで答えた。

 それに対して松下まつした左十郎さじゅうろうも、野間のま玄琢げんたくおく医師いしではないとは言え、その名前ぐらいは聞き覚えがあり、

野間のま玄琢げんたくただ一人ひとりかえ?」

 そう聞き返した。

左様さようで…」

「つまり…、稲葉いなば様はごう4人の医師を連れて行ったわけだの?中奥なかおくに…」

 松下まつした左十郎さじゅうろうひとごとのようにそうつぶやくと、佐合さごう益庵えきあんは「左様さようで…」とかえし、一方、武田たけだ宗安そうあんは将軍・家治の治療ちりょうをもうけたまわおく医師いしとして流石さすがたまらなくなったのであろう、

「あの…、やはり上様うえさま御身おみに何か…」

 武田たけだ宗安そうあん松下まつした左十郎さじゅうろうに対して、

おそおそる…」

 そのような調ちょうたずねた。

 それに対して松下まつした左十郎さじゅうろう流石さすがにこの問いを一蹴いっしゅうするわけにもゆかず、さりとて、つまびらかに明かすわけにもゆかず、そこで、

「いや、少しおげんが悪いだけよ…」

 そう当たり障りのない答え方をした。

 すると武田たけだ宗安そうあん松下まつした左十郎さじゅうろうのその答えに心底しんそこ、納得したわけではなかろうが、それでもここは一応いちおう相槌あいづちを打つに留めた。

 ともあれ松下まつした左十郎さじゅうろうとしては斬殺ざんさつされたばかりのおく医師いし池原いけはらちょう仙院せんいん良誠よしのぶそくにして、同じくおく医師いし雲洞うんとう子明たねあきらに対して将軍・家治が早くも出仕しゅっしを命じたことに疑問、いや、それを通り越して一抹いちまつの不安を覚えつつも、それでもこうして納戸なんど頭取とうどり稲葉いなば正存まさよしが医師連中を中奥なかおくへと連れて行ったことが確かめられたことで、

上様うえさまは間違いなく、はんみょうの毒をふくまれたのだ…」

 無理やり己をそう納得させることとした。言ってみれば主観的願望を現実ととらえることにしたわけだ。

 松下まつした左十郎さじゅうろうとしてはこの後、目付めつけしつ室である御目おめつけ部屋へと足を運んで、まことしょう丸毛まるも政美まさたか平賀ひらが貞愛さだゑの二人が宿直とのい目付めつけに対して、一橋ひとつばし邸と清水しみず邸、この両邸を取り囲んでいる大番組おおばんぐみに対して急ぎ江戸城へと引き上げるようにと、そう伝えて欲しいと、言わば「メッセンジャー」の役目を依頼いらいしたのかどうか、御目おめつけ部屋を守るつけはいかちつけに確かめたいところであった。

 つけしつ室である御目おめつけ部屋がじんの入室が厳しく制限されており、ちょくぞくの上司であるはずの若年寄は元より、老中やさらにはそばよう取次とりつぎの入室さえ禁じられており、おく右筆ゆうひつおもて右筆ゆうひつ、それにおもて坊主ぼうずの出入りが許されているていであり、それもやみに出入りすることは許されない。

 事程ことほど左様さようつけしつ室である御目おめつけ部屋はじんの入室が厳しく制限されており、それだけにつけはいかちつけ御目おめつけ部屋へと近付き、あまつさえ立ち入ろうとするらちなる者がいないかどうか、厳しく目を光らせていた。

 丸毛まるも政美まさたか平賀ひらが貞愛さだゑの場合、つけへの伝言を頼まれたがために、つまりはやはり「メッセンジャー」としての役目をになっていたために例外的に御目おめつけ部屋へと近付くことが許されたのであり、それとてかちつけを通じて御目おめつけ部屋の中にて宿直とのいつとめていたつけへとその伝言でんごんが伝えられたに過ぎず、丸毛まるも政美まさたか平賀ひらが貞愛さだゑの二人が自ら御目おめつけ部屋へと足を踏み入れ、じか宿直とのいつけに伝えたわけではなかろう。

 そうであれば、丸毛まるも政美まさたか平賀ひらが貞愛さだゑの二人のようにつけに対して正式な用件もない松下まつした左十郎さじゅうろう御目おめつけ部屋へと足を運んで、まこと丸毛まるも政美まさたか平賀ひらが貞愛さだゑの二人のしょうより宿直とのいつけへの言伝ことづてあずからなかったかと、かちつけにそのようなことを確かめてみようものなら、かえってかちつけ不審ふしんねんき立てさせるだけであろう。

 そこで松下まつした左十郎さじゅうろうしょう丸毛まるも政美まさたか平賀ひらが貞愛さだゑの二人より何か宿直とのいつけへの言伝ことづてあずからなかったかと、そのことをかちつけに確かめることはあきらめ、その代わり、今ここにいる医師連中に対してつけの姿を見かけなかったかと、それをたずねることにした。

 それと言うのもここ医師いしだまり御目おめつけ部屋と近い距離にあり、そうであれば…、仮に丸毛まるも政美まさたか平賀ひらが貞愛さだゑの話が本当ならば、宿直とのいつけはそれぞれ、一橋ひとつばし邸、清水しみず邸へと足を運ぶべく、御目おめつけ部屋を飛び出し、この医師いしだまりの前のろうを通ったはずだからである。

 するとやはり武田たけだ宗安そうあん松下まつした左十郎さじゅうろうのその疑問に答えた。

「されば御目おめつけ殿の末吉すえよし様とほり様の姿すがたを…」

 武田たけだ宗安そうあんが口にした「末吉すえよし様」とは末吉すえよし善左衛門ぜんざえもん利隆としたかのことであり、一方、「ほり様」とはほり帯刀たてわき秀隆ひでたかのことであり、松下まつした左十郎さじゅうろうもそのことはすぐに分かった。

 それにしても松下まつした左十郎さじゅうろうの前では己よりも格上かくうえ法印ほういんの地位にあるもりようしゅんいん當定まささだに対しては呼び捨てにすることもいとわなかった武田たけだ宗安そうあんであるが、こと相手がつけともなると、ちょくぞくの上司に当たる…、おく医師いしたばねる膳番ぜんばん納戸なんどである松下まつした左十郎さじゅうろうを前にしても、「様」という最高敬称を付けて呼ぶあたり、如何いかつけじんから恐れられた存在であるか分かろうというものである。

 それはそうと、松下まつした左十郎さじゅうろう今宵こよい末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんほり帯刀たてわき宿直とのいであったのかと、そう思うと同時に、

「これは…、幸先さいさきが良いわ…」

 そうも思ったものである。それと言うのも、末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんは昨日、一橋ひとつばし邸の、正確には一橋ひとつばし治済はるさだ監視かんし大番組おおばんぐみに引き継ぐまでの間、治済はるさだ監視かんししていたつけだからだ。のみならず、

「共犯者」

 であったからだ。松下まつした左十郎さじゅうろうはそれまでの疑問や不安をすべて忘れたかのように意気いき揚々ようよう医師いしだまりをあとにしたのであった。
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