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大詰め ~将軍・家治、毒殺さる。2~
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御膳奉行の詰所は申すまでもなく、御膳奉行である高尾惣十郎信福と山木次郎八勝明にとっての詰所であるが、しかし、高尾惣十郎と山木次郎八の二人はまるで示し合わせたかのように、御膳奉行たる己らの後を勝手について来た小納戸の岩本正五郎正倫と松下左十郎正邑の二人に上座を譲ったのであった。
それに対して岩本正五郎と松下左十郎はと言うと、松下左十郎は流石に遠慮する素振りを見せたものの、しかし、それとは正反対に岩本正五郎が、
「さも当然…」
そのような態度で上座に着座してしまったことから、松下左十郎は結局、高尾惣十郎と山木次郎八の二人に押し切られる格好で上座に、岩本正五郎の隣に着座した。
一方、高尾惣十郎と山木次郎八はと言えばそんな好対照な二人の態度の差に、それも岩本正五郎の態度に内心、苦笑させられた。
それと言うのも、仮にこの詰所の主とも言うべき御膳奉行である高尾惣十郎と山木次郎八の二人から上座に座るようすすめられたからと言って、多少は遠慮する素振りを見せるというのが常識的な態度であり、松下左十郎の態度は正にそうであった。
翻って岩本正五郎はと言うと、松下左十郎のように遠慮する素振りを見せるどころか、上座をすすめられるのが当然といった態度で堂々と上座に着座したものである。
いや、岩本正五郎はそれ以前に、高尾惣十郎と山木次郎八の二人から上座をすすめられる前に、上座へと足を運んだものである。
「岩本正五郎はどうやら完全に天狗になってしまっておるわ…」
それが高尾惣十郎と山木次郎八の共通認識であった。
だが同時に、
「それも無理からぬこと…」
そのような共通認識も抱いていた。
何しろ岩本正五郎は次期将軍たる豊千代の生母の富の実弟なのである。つまり岩本正五郎は次期将軍の叔父に当たるわけだ。
尤も、叔父と言っても、岩本正五郎は25歳であるが、それでも次期将軍の叔父であることに変わりはなく、また、25歳という若さ、いや、未熟さも相俟って、岩本正五郎は今や完全に天狗になっていたのだ。
その点、松下左十郎は己の分というものを良く弁えていた。
いや、実を言えば松下左十郎は岩本正五郎の従兄に当たるのだ。
岩本正五郎の実父にして小普請奉行の岩本内膳正正利の実姉、即ち、岩本正五郎の伯母は今は御先手御弓頭の重職にある市岡左大夫正峰の許へと後妻として入り、夫・左大夫との間に生んだ子供こそ、左十郎正邑であったのだ。
岩本正五郎の伯母が後妻として市岡左大夫の許へと入った頃には既に、先妻の子である、今は岩本正五郎や松下左十郎と同じく、小納戸を勤める市岡但馬守房仲が市岡家の嫡男として将軍に御目見得済みであり、それゆえ左十郎正邑は他家に養子として出されることになり、そこで養子先に選ばれたのが松下家であり、左十郎正邑は今はやはり小納戸を勤める松下蔵人統筠の養嗣子として迎えられたのであった。つまり松下左十郎は、蔵人は養父とは言え、
「父子同職」
というわけだ。
ともあれ、松下左十郎は歴とした岩本正五郎の従兄である以上、松下左十郎もまた、岩本正五郎と同様、次期将軍たる豊千代の縁者というわけだ。正確には、松下左十郎は豊千代にとっては祖父・岩本正利の姉の子…、大伯母の子に当たるわけで、つまり松下左十郎は豊千代の従祖父というわけだ。
そうであれば松下左十郎も岩本正五郎のように次期将軍たる豊千代の縁者…、従祖父ということで、天狗になっても良さそうだが、しかし、生憎、いや、幸いにもと言うべきであろう、松下左十郎が天狗になることはなかった。
それはやはり松下左十郎は幼い時分より他家へと養子に出されたことで、それなりに、
「世間に揉まれた…」
そのために、松下左十郎は例え、次期将軍の縁者になろうとも天狗になるようなことはなく、そしてそれこそが岩本正五郎との最大の違いと言えた。
即ち、岩本正五郎の場合は岩本家の嫡男として、つまりは松下左十郎のように他家に養子として出されることもなく、それこそ、
「蝶よ花よ…」
正にそのように育てられ、その上、実姉の富が生んだ豊千代が次期将軍に内定したとあっては、これで天狗になるなと言う方が無理というものであろう。
ともあれ、高尾惣十郎と山木次郎八の二人は上座に岩本正五郎と松下左十郎の二人を座らせると、下座に着座して向かい合った。
「真、効くのであろうな?」
全員が座ったところでそう口火を切ったのは他でもない、岩本正五郎であり、己よりも遥かに年上の…、今年で45になる高尾惣十郎に向けて発せられたものである。
それに対して高尾惣十郎はと言うと、己から見れば若僧に過ぎぬ岩本正五郎のその口の利き方に最早、腹を立てることもなく、
「ご安心召されませ。必ずや効き申す…」
そう太鼓判を押したのであった。
二人は勿論、将軍・家治が食する夕膳に混入された毒物について会話をしており、しかし、この詰所のすぐ隣には石之間番所があり、そこの番人はロクに番人としての役目を果たしていないものの、それでも一応、「耳」はあるわけで、ゆえに暈したわけである。
「なれど…、何ゆえに鳥料理に?」
毒物は鳥料理に混入されていた。無論、混入したのは高尾惣十郎その人である。
「されば上様は汁からお召し上がりになられ、その後で飯を…」
高尾惣十郎は声を落とした。ここから先はどうしても暈すことができないからだ。
すると岩本正五郎もそれに合わせ、
「されば汁物か、或いは飯に…、飯桶に混入すれば良かったではあるまいか…、その方が…」
すぐに将軍・家治の命を奪うことが出来ると、小声でもってそう示唆したものである。
それに対して高尾惣十郎は苦笑した。
「何がおかしい」
岩本正五郎は笑われることが不快であるらしく、ムッとした表情でそう応じた。幼児性も抜け切れていないようであった。
「いきなり上様に斃れられては、我らの毒見に瑕疵でもあったのではあるまいかと疑われ申す…」
苦笑、いや、嘲笑する高尾惣十郎に代わって、山木次郎八がやはり小声でそう答えた。
「どのみち疑われるであろうが…」
岩本正五郎は不貞腐れた様子でそう答えた。
「いやいや、ここはなるべく時間的な余裕を置きましたる方が賢明かと…」
山木次郎八は岩本正五郎を宥めるようにそう言った。
「そういうものかの…」
「そういうものでござります」
「それで鳥料理に…、鴨料理に混ぜたわけか?」
岩本正五郎は気を取り直して、今度は山木次郎八の方を向いて尋ねた。
「左様、されば鳥料理は大抵、最後の方でお召し上がりになられるゆえ…、いや、これで二の膳まであれば、二の膳に…、吸い物や焼き魚、或いは鯛や平目、鰈や鰹に混入致しましょうが、生憎と夕膳では…」
二の膳はつかない…、山木次郎八はそう示唆した。
山木次郎八の言う通りで、将軍の食事で二の膳までつくのは朝食と昼食のみで、夕食には二の膳はつかず、代わりに大きな膳であった。
そして将軍はまず一の膳から食し、そして二の膳へと食を進める。この際、二の膳には朝食の場合には今、山木次郎八が口にした吸い物や焼き魚、昼食には同じく、鯛や平目、鰈や鰹などの魚料理が各々、二の膳に並ぶのであった。
ゆえに二の膳まである朝食や昼食ならば、二の膳に毒物を混入することで、そうすぐには将軍に…、家治に毒物を摂取させないで済むというわけだ。
だが一の膳だけの夕食では果たして、将軍は…、家治は何から食べるのか分からない。
それでも一応の見当ぐらいはつくというもので、それこそが鳥料理…、鴨料理というわけだ。
将軍の御前に供される大きな、一つだけの夕膳には雁や鶴、鴨などの鳥料理が並ぶことが多く、今夕は正にその鴨料理が膳に並べられており、そして、将軍は大抵、「メインディッシュ」とも言うべき鳥料理は最後に食するものなので、そこで高尾惣十郎は鴨料理に毒物を混入したというわけだ。
「いや、本来なれば朝食や昼食が理想的なのであるが…」
将軍・家治を毒殺するには理想的…、苦笑を止めた高尾惣十郎はそう口を挟んだかと思うと、「なれど、朝食や昼食の時分ではのう…」とも付け加えた。
つまりはこういうことである。
将軍・家治を毒殺するには、家治が食べるであろう順番の予想が立て易い朝食や昼食が望ましい。朝食や昼食なればほぼ間違いなく、将軍・家治はまず、飯や汁、刺身や酢の物などの向付、或いは平と称する煮物が載せられた一の膳から箸をつけ、その後で二の膳に載せられた料理へと箸を進めるに違いなく、それゆえ二の膳に載せられた料理に毒物を混入することで、すぐには将軍・家治の口には届かずに済むというわけだ。
ゆえに二の膳まである朝食や昼食の場合にはそれに加えて飯桶まであるので、二人の御膳奉行だけでは、小納戸が待つ御膳立之間へとそれらを一時に運ぶことができず、そこでその場合…、二の膳まである朝食や昼食の場合には御膳番の二人の小納戸の方から毒見を担う御膳奉行の詰所へと足を運び、そしてまず初めに二人の御膳奉行による毒見を済ませたその一の膳、二の膳を御膳番の二人の小納戸がそれぞれ両手で抱えて御膳建之間へと運び、一方、御膳奉行はと言うと、一人の御膳奉行がやはりまず初めに毒見を済ませたばかりの飯桶を御膳建之間へと運ぶこととなるのであった。
一方、一の膳だけの…、大きな膳だけの夕食の場合、二人だけで十分に持ち運びが可能というわけで、高尾惣十郎は大きな膳を、山木次郎八が飯桶をそれぞれ両手で抱えて岩本正五郎と松下左十郎が待つ御膳建之間へと足を運び、更に御膳建之間から御小座敷之間までは岩本正五郎が大きな膳を、一方、松下左十郎が飯桶をそれぞれやはり両手で抱えて運んだわけである。
さて、朝食や昼食ではもう一人の御膳奉行である坂部三十郎廣保が登場し、それが「ネック」であった。
即ち、今のここ本丸にて将軍・家治に仕える御膳奉行は高尾惣十郎と山木次郎八の他にもう一人、坂部三十郎廣保がおり、しかし、この坂部三十郎は今年で御齢71と高齢であり、ゆえに宿直は免除されていた。つまりは将軍の夕食の毒見は免除されていたというわけだ。
その代わり、坂部三十郎は日中、即ち、将軍の朝食と昼食の毒見を担っており、その際、高尾惣十郎と山木次郎八はどちらかが坂部三十郎と共に朝食の毒見を担い、そしてもう片方が昼食の毒見をやはり坂部三十郎と共に担うことになるわけで、今日の場合、朝食の毒見は山木次郎八が坂部三十郎と共に担い、昼食の毒見は高尾惣十郎が坂部三十郎と共に担った。
いや、これで坂部三十郎も高尾惣十郎や山木次郎八のように一橋家と何らかの縁があれば、その縁により将軍・家治の毒殺計画に引き入れることも可能であり、そうであれば夕食に限らず、朝食、或いは夕食の時分にでも…、それら毒見の折にでも将軍・家治が口にする筈のそれら朝食や昼食に毒物を混入することも可能であったが、しかし生憎と坂部三十郎は一橋家とは何ら縁で結ばれてはおらず、つまりは将軍・家治の命を預かるべき立場である御膳奉行としてのその職務に忠実であり、そうであればその坂部三十郎が加わる朝食や昼食、それらの毒見の機会を利用して、まともに毒見をするどころか、逆に、毒物を料理に混入させるなど、大よそ、不可能な芸当と言えた。
そこで必然的に夕食の機会を…、坂部三十郎が毒見を担わない夕食の機会を利用…、夕食の折に毒物を混入させるしか外に選択肢はないと言うわけだ。
「ともあれ、上様にあらせられては間もなく、鴨料理を口にされている頃に相違なく、されば中奥も必ずや大騒ぎになり申す…」
高尾惣十郎はそう断言してみせた。つまりはそれだけ、鴨料理に仕込んだ毒がすぐに効くと言っているわけだ。
すると岩本正五郎もそうと察して、
「それ程までに良く効くのかえ?それな、ハンミョウと申す毒物は…」
高尾惣十郎に対して確かめるように尋ねたのであった。
それに対して高尾惣十郎は「勿論」と胸を張ってそう即答したかと思うと、
「さればハンミョウを口にされれば、直ちに嘔吐の症状が、続いて、意識が混濁となり申す…」
岩本正五郎が口にした「ハンミョウ」の効能について解説したのであった。
そして実際、それから間もなくして、高尾惣十郎が予期した通り、中奥が騒がしくなり始めたのであった。
それに対して岩本正五郎と松下左十郎はと言うと、松下左十郎は流石に遠慮する素振りを見せたものの、しかし、それとは正反対に岩本正五郎が、
「さも当然…」
そのような態度で上座に着座してしまったことから、松下左十郎は結局、高尾惣十郎と山木次郎八の二人に押し切られる格好で上座に、岩本正五郎の隣に着座した。
一方、高尾惣十郎と山木次郎八はと言えばそんな好対照な二人の態度の差に、それも岩本正五郎の態度に内心、苦笑させられた。
それと言うのも、仮にこの詰所の主とも言うべき御膳奉行である高尾惣十郎と山木次郎八の二人から上座に座るようすすめられたからと言って、多少は遠慮する素振りを見せるというのが常識的な態度であり、松下左十郎の態度は正にそうであった。
翻って岩本正五郎はと言うと、松下左十郎のように遠慮する素振りを見せるどころか、上座をすすめられるのが当然といった態度で堂々と上座に着座したものである。
いや、岩本正五郎はそれ以前に、高尾惣十郎と山木次郎八の二人から上座をすすめられる前に、上座へと足を運んだものである。
「岩本正五郎はどうやら完全に天狗になってしまっておるわ…」
それが高尾惣十郎と山木次郎八の共通認識であった。
だが同時に、
「それも無理からぬこと…」
そのような共通認識も抱いていた。
何しろ岩本正五郎は次期将軍たる豊千代の生母の富の実弟なのである。つまり岩本正五郎は次期将軍の叔父に当たるわけだ。
尤も、叔父と言っても、岩本正五郎は25歳であるが、それでも次期将軍の叔父であることに変わりはなく、また、25歳という若さ、いや、未熟さも相俟って、岩本正五郎は今や完全に天狗になっていたのだ。
その点、松下左十郎は己の分というものを良く弁えていた。
いや、実を言えば松下左十郎は岩本正五郎の従兄に当たるのだ。
岩本正五郎の実父にして小普請奉行の岩本内膳正正利の実姉、即ち、岩本正五郎の伯母は今は御先手御弓頭の重職にある市岡左大夫正峰の許へと後妻として入り、夫・左大夫との間に生んだ子供こそ、左十郎正邑であったのだ。
岩本正五郎の伯母が後妻として市岡左大夫の許へと入った頃には既に、先妻の子である、今は岩本正五郎や松下左十郎と同じく、小納戸を勤める市岡但馬守房仲が市岡家の嫡男として将軍に御目見得済みであり、それゆえ左十郎正邑は他家に養子として出されることになり、そこで養子先に選ばれたのが松下家であり、左十郎正邑は今はやはり小納戸を勤める松下蔵人統筠の養嗣子として迎えられたのであった。つまり松下左十郎は、蔵人は養父とは言え、
「父子同職」
というわけだ。
ともあれ、松下左十郎は歴とした岩本正五郎の従兄である以上、松下左十郎もまた、岩本正五郎と同様、次期将軍たる豊千代の縁者というわけだ。正確には、松下左十郎は豊千代にとっては祖父・岩本正利の姉の子…、大伯母の子に当たるわけで、つまり松下左十郎は豊千代の従祖父というわけだ。
そうであれば松下左十郎も岩本正五郎のように次期将軍たる豊千代の縁者…、従祖父ということで、天狗になっても良さそうだが、しかし、生憎、いや、幸いにもと言うべきであろう、松下左十郎が天狗になることはなかった。
それはやはり松下左十郎は幼い時分より他家へと養子に出されたことで、それなりに、
「世間に揉まれた…」
そのために、松下左十郎は例え、次期将軍の縁者になろうとも天狗になるようなことはなく、そしてそれこそが岩本正五郎との最大の違いと言えた。
即ち、岩本正五郎の場合は岩本家の嫡男として、つまりは松下左十郎のように他家に養子として出されることもなく、それこそ、
「蝶よ花よ…」
正にそのように育てられ、その上、実姉の富が生んだ豊千代が次期将軍に内定したとあっては、これで天狗になるなと言う方が無理というものであろう。
ともあれ、高尾惣十郎と山木次郎八の二人は上座に岩本正五郎と松下左十郎の二人を座らせると、下座に着座して向かい合った。
「真、効くのであろうな?」
全員が座ったところでそう口火を切ったのは他でもない、岩本正五郎であり、己よりも遥かに年上の…、今年で45になる高尾惣十郎に向けて発せられたものである。
それに対して高尾惣十郎はと言うと、己から見れば若僧に過ぎぬ岩本正五郎のその口の利き方に最早、腹を立てることもなく、
「ご安心召されませ。必ずや効き申す…」
そう太鼓判を押したのであった。
二人は勿論、将軍・家治が食する夕膳に混入された毒物について会話をしており、しかし、この詰所のすぐ隣には石之間番所があり、そこの番人はロクに番人としての役目を果たしていないものの、それでも一応、「耳」はあるわけで、ゆえに暈したわけである。
「なれど…、何ゆえに鳥料理に?」
毒物は鳥料理に混入されていた。無論、混入したのは高尾惣十郎その人である。
「されば上様は汁からお召し上がりになられ、その後で飯を…」
高尾惣十郎は声を落とした。ここから先はどうしても暈すことができないからだ。
すると岩本正五郎もそれに合わせ、
「されば汁物か、或いは飯に…、飯桶に混入すれば良かったではあるまいか…、その方が…」
すぐに将軍・家治の命を奪うことが出来ると、小声でもってそう示唆したものである。
それに対して高尾惣十郎は苦笑した。
「何がおかしい」
岩本正五郎は笑われることが不快であるらしく、ムッとした表情でそう応じた。幼児性も抜け切れていないようであった。
「いきなり上様に斃れられては、我らの毒見に瑕疵でもあったのではあるまいかと疑われ申す…」
苦笑、いや、嘲笑する高尾惣十郎に代わって、山木次郎八がやはり小声でそう答えた。
「どのみち疑われるであろうが…」
岩本正五郎は不貞腐れた様子でそう答えた。
「いやいや、ここはなるべく時間的な余裕を置きましたる方が賢明かと…」
山木次郎八は岩本正五郎を宥めるようにそう言った。
「そういうものかの…」
「そういうものでござります」
「それで鳥料理に…、鴨料理に混ぜたわけか?」
岩本正五郎は気を取り直して、今度は山木次郎八の方を向いて尋ねた。
「左様、されば鳥料理は大抵、最後の方でお召し上がりになられるゆえ…、いや、これで二の膳まであれば、二の膳に…、吸い物や焼き魚、或いは鯛や平目、鰈や鰹に混入致しましょうが、生憎と夕膳では…」
二の膳はつかない…、山木次郎八はそう示唆した。
山木次郎八の言う通りで、将軍の食事で二の膳までつくのは朝食と昼食のみで、夕食には二の膳はつかず、代わりに大きな膳であった。
そして将軍はまず一の膳から食し、そして二の膳へと食を進める。この際、二の膳には朝食の場合には今、山木次郎八が口にした吸い物や焼き魚、昼食には同じく、鯛や平目、鰈や鰹などの魚料理が各々、二の膳に並ぶのであった。
ゆえに二の膳まである朝食や昼食ならば、二の膳に毒物を混入することで、そうすぐには将軍に…、家治に毒物を摂取させないで済むというわけだ。
だが一の膳だけの夕食では果たして、将軍は…、家治は何から食べるのか分からない。
それでも一応の見当ぐらいはつくというもので、それこそが鳥料理…、鴨料理というわけだ。
将軍の御前に供される大きな、一つだけの夕膳には雁や鶴、鴨などの鳥料理が並ぶことが多く、今夕は正にその鴨料理が膳に並べられており、そして、将軍は大抵、「メインディッシュ」とも言うべき鳥料理は最後に食するものなので、そこで高尾惣十郎は鴨料理に毒物を混入したというわけだ。
「いや、本来なれば朝食や昼食が理想的なのであるが…」
将軍・家治を毒殺するには理想的…、苦笑を止めた高尾惣十郎はそう口を挟んだかと思うと、「なれど、朝食や昼食の時分ではのう…」とも付け加えた。
つまりはこういうことである。
将軍・家治を毒殺するには、家治が食べるであろう順番の予想が立て易い朝食や昼食が望ましい。朝食や昼食なればほぼ間違いなく、将軍・家治はまず、飯や汁、刺身や酢の物などの向付、或いは平と称する煮物が載せられた一の膳から箸をつけ、その後で二の膳に載せられた料理へと箸を進めるに違いなく、それゆえ二の膳に載せられた料理に毒物を混入することで、すぐには将軍・家治の口には届かずに済むというわけだ。
ゆえに二の膳まである朝食や昼食の場合にはそれに加えて飯桶まであるので、二人の御膳奉行だけでは、小納戸が待つ御膳立之間へとそれらを一時に運ぶことができず、そこでその場合…、二の膳まである朝食や昼食の場合には御膳番の二人の小納戸の方から毒見を担う御膳奉行の詰所へと足を運び、そしてまず初めに二人の御膳奉行による毒見を済ませたその一の膳、二の膳を御膳番の二人の小納戸がそれぞれ両手で抱えて御膳建之間へと運び、一方、御膳奉行はと言うと、一人の御膳奉行がやはりまず初めに毒見を済ませたばかりの飯桶を御膳建之間へと運ぶこととなるのであった。
一方、一の膳だけの…、大きな膳だけの夕食の場合、二人だけで十分に持ち運びが可能というわけで、高尾惣十郎は大きな膳を、山木次郎八が飯桶をそれぞれ両手で抱えて岩本正五郎と松下左十郎が待つ御膳建之間へと足を運び、更に御膳建之間から御小座敷之間までは岩本正五郎が大きな膳を、一方、松下左十郎が飯桶をそれぞれやはり両手で抱えて運んだわけである。
さて、朝食や昼食ではもう一人の御膳奉行である坂部三十郎廣保が登場し、それが「ネック」であった。
即ち、今のここ本丸にて将軍・家治に仕える御膳奉行は高尾惣十郎と山木次郎八の他にもう一人、坂部三十郎廣保がおり、しかし、この坂部三十郎は今年で御齢71と高齢であり、ゆえに宿直は免除されていた。つまりは将軍の夕食の毒見は免除されていたというわけだ。
その代わり、坂部三十郎は日中、即ち、将軍の朝食と昼食の毒見を担っており、その際、高尾惣十郎と山木次郎八はどちらかが坂部三十郎と共に朝食の毒見を担い、そしてもう片方が昼食の毒見をやはり坂部三十郎と共に担うことになるわけで、今日の場合、朝食の毒見は山木次郎八が坂部三十郎と共に担い、昼食の毒見は高尾惣十郎が坂部三十郎と共に担った。
いや、これで坂部三十郎も高尾惣十郎や山木次郎八のように一橋家と何らかの縁があれば、その縁により将軍・家治の毒殺計画に引き入れることも可能であり、そうであれば夕食に限らず、朝食、或いは夕食の時分にでも…、それら毒見の折にでも将軍・家治が口にする筈のそれら朝食や昼食に毒物を混入することも可能であったが、しかし生憎と坂部三十郎は一橋家とは何ら縁で結ばれてはおらず、つまりは将軍・家治の命を預かるべき立場である御膳奉行としてのその職務に忠実であり、そうであればその坂部三十郎が加わる朝食や昼食、それらの毒見の機会を利用して、まともに毒見をするどころか、逆に、毒物を料理に混入させるなど、大よそ、不可能な芸当と言えた。
そこで必然的に夕食の機会を…、坂部三十郎が毒見を担わない夕食の機会を利用…、夕食の折に毒物を混入させるしか外に選択肢はないと言うわけだ。
「ともあれ、上様にあらせられては間もなく、鴨料理を口にされている頃に相違なく、されば中奥も必ずや大騒ぎになり申す…」
高尾惣十郎はそう断言してみせた。つまりはそれだけ、鴨料理に仕込んだ毒がすぐに効くと言っているわけだ。
すると岩本正五郎もそうと察して、
「それ程までに良く効くのかえ?それな、ハンミョウと申す毒物は…」
高尾惣十郎に対して確かめるように尋ねたのであった。
それに対して高尾惣十郎は「勿論」と胸を張ってそう即答したかと思うと、
「さればハンミョウを口にされれば、直ちに嘔吐の症状が、続いて、意識が混濁となり申す…」
岩本正五郎が口にした「ハンミョウ」の効能について解説したのであった。
そして実際、それから間もなくして、高尾惣十郎が予期した通り、中奥が騒がしくなり始めたのであった。
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