184 / 197
大詰め ~依田政次は家基の毒殺にも関与していたことを自白する、そして家基の毒殺に手を貸した理由についても~
しおりを挟む
「兄…、と申すからには越前福井藩主の松平越前守重富様か…」
直熙は分かってはいたが一応、そう尋ねた。すると政次も「外にはおるまいて」と応じた。確かにその通りであった。
「その…、治済卿の兄に当たりし越前守様に毒キノコを用意してもらったと…」
直熙は確かめるように尋ねた。
「左様…、いや、わしも詳しくは知らなんだが、何でも越前守様が国許である越前にはその毒キノコが自生しているらしくての、それで参勤の折に…」
「この江戸へと…、参府せし折に毒キノコを?」
「治済卿の話では確かそうであったわ…」
何と、参勤交代を毒キノコの輸送に利用するとは、直熙は開いた口が塞がらない思いであった。
「ときに豊前よ…、うぬはそれな毒キノコ…、畏れ多くも御台様と萬壽姫様のお命を奪い奉り、そして今また、お千穂の方様や種姫様のお命をも奪い奉らんと欲してその兇器として使われしその毒キノコが実は、畏れ多くも大納言様のお命をも奪い奉りし兇器としても使われしこと、存じておろうな?」
直熙はそうカマをかけた。果たして、政次が家基までもが倫子や萬壽姫と同じく毒キノコでもって…、シロタマゴテングタケか或いはドクツルタケでもって毒殺あれたことを知っている可能性は、
「五分五分…」
直熙はそう睨んでいた。
果たして政次は知っているような素振りを示した。即ち、直熙より注がれていた視線を逸らすかのように思わず顔をそむけたのであった。
これは最早、知っていると自白したも同然であり、直熙は政次に追い討ちをかけるかのように、
「されば畏れ多くも大納言様の殺害にも手を貸したのか?」
更にそうカマをかけたのであった。
それに対して政次はと言うと、それが…、今の直熙の問いが「カマ」であることを承知しつつも、最早、惚ける気力もなければ、抵抗する気力も残ってはいない様子で、
「左様、如何にも手を貸したわ…」
実にあっさりとそう認めたので、これにはカマをかけた筈の直熙の方が些か面喰った程であった。
「いや、なれど…、今は亡き、畏れ多くも大納言様にあらせられては西之丸におわされた。されば留守居のうぬに何が出来たと申すのだ?」
西之丸にて、大納言様こと、かつての次期将軍であった家基に御側御用取次として仕えていた小笠原若狭守信喜が家基毒殺の主犯、いや、真の主犯は一橋治済に違いないので、してみると、小笠原信喜はさしずめ、
「実行犯の主犯…」
それであろうことは察しがついていたものの、しかし、依田政次がどう繋がるのか、直熙にはそこまでは分からなかった。カマをかけたは良いが…、である。
すると政次もそうと察したのか微笑を浮かべたかと思うと、
「されば土佐には最早、察しがついておろうが、畏れ多くも大納言様のお命を奪い奉りしは…、治済卿に唆される格好にて、大納言様のお命を奪い奉りし実行犯、その中でも主犯に当たりしは御側御用取次の小笠原若狭よ…」
小笠原若狭こと若狭守信喜こそが大納言様こと家基毒殺の実行犯の主犯…、政次もどうやら己と同じ認識であったのだと、直熙はまずはそう思い、
「やはり小笠原若狭めが実行犯の主犯であったか…」
続けてそう思ったものである。
「小笠原若狭には確か遠縁に一橋の縁者が…」
直熙は記憶を手繰り寄せるかのようにそう切り出した。
それに対して政次は「左様…」と応ずるや、
「確かに、小笠原若狭の縁者に今はまだ小普請の身ではあるが、小笠原熊蔵貞郷なる者があり、彼者、一橋家の家中の天野傳七郎富安が娘を娶っておるわ…」
サラリとそう答えたのであった。これで直熙にはいよいよもって、政次の繋がりが分からなかった。いや、突っ込んだ言い方をすれば、政次の出る幕がないように思われた。
すると政次もそうと察したのか、今度は苦笑を浮かべて、
「なれどただ、それだけのことよ」
そう付け加えた。
「それだけのこと?」
直熙は思わず聞き返した。
「左様…、されば確かに小笠原若狭めには今、わしが申した通り、その縁者に一橋家と縁がある者がおり、その存在もまた、小笠原若狭めに大納言様の殺害に手を貸すことを決意させた一つの要因にはなったであろうが、なれど小笠原若狭めに大納言様に殺害に手を貸すことを決意させた最大の要因はそれではないわさ…」
「さればその最大の要因とはこれ如何に?」
「わしの孫よ…」
「孫?」
「左様…、さればわしには平次郎なる孫がおってな…」
「その孫が如何致したと申すのだ?」
「されば孫…、平次郎を通じて、小笠原若狭めに決意させたのよ…」
「畏れ多くも大納言様の殺害に手を貸すことを、か?」
「左様…」
「何ゆえにうぬの孫にそのようなことが…」
「されば平次郎は西之丸にて大納言様に小納戸として仕えていたのよ…」
「何と…」
直熙は目を丸くした。流石にそこまでは把握していなかったからだ。
「さればうぬの孫は、小笠原若狭と面識があった、と?」
「左様…」
「されば…、つまりはこういうことか?治済卿より大納言様の殺害をも持ちかけられしうぬが…、恐らくは我が子、豊千代君を大納言様に代わる次期将軍に就けるために相違あるまいが…、その治済卿より大納言様の殺害をも持ちかけられしうぬは、それなれば大納言様のおわす西之丸にて仕える者を味方に…、否、共犯者として引き入れる必要がある旨、治済卿に進言し、それに対して治済卿も全く同意見であると…」
直熙がそこまで頭の中で思い描いた絵図をスラスラと口にするや、「流石だの」との政次の合いの手が入ったかと思うと、
「そこから先はわしが話そう…」
政次はそう引き取ってみせた。どうやら直熙の思い描いた絵図は「ビンゴ」のようであった。
「されば治済卿はそれなれば御側御用取次がうってつけであろう…、共犯者に誘うにはうってつけであろうと、それでわしもそれなればと、西之丸にて仕えし孫の平次郎がことを思い出し、そのことを治済卿に打ち明けた上で、平次郎と一度、相談申しますと、その場はとりあえずそれで引き取り…」
「その後、実際にその孫に相談を持ちかけたわけだの?さしずめ…、手を…、大納言様の殺害に手を貸してくれそうな御側御用取次はおらぬか、と…」
「如何にもその通りぞ。その結果…」
「小笠原若狭の名を即答したわけだの?孫は…」
「またまた、如何にもその通りぞ…、されば小笠原若狭は御側御用取次として大納言様に仕え奉りしも、大納言様よりのご寵愛はいまひとつにて…」
「それを孫は承知していたわけだの?」
「左様…、のみならず、平御側に過ぎぬ大久保志摩や大久保下野の方が大納言様の覚えが目出度い…、要は寵愛を受け、いや、恣にしていることがいよいよもって、小笠原若狭の気に入らぬところ、と…」
あの賢明な家基が特定の者を贔屓にするとは俄かには信じ難いが、しかし、政次は決して嘘をついているわけではなかった。
即ち、家基が特定の者を…、御側御用取次の小笠原信喜をさしおいて、平御側に過ぎぬ大久保志摩こと志摩守忠翰と大久保下野こと下野守忠恕の二人を寵愛していたのは事実であったのだ。
あの賢明な家基にしては似つかわしくない所業と言えたが、しかし、それも仕方のないところではあった。
何しろ大久保忠翰はその妻女が何と家基の乳母であり、その上、その間に生まれた嫡男の銕蔵忠道は家基の御伽、それも最期の御伽であったのだ。
それゆえ家基が平御側に過ぎぬ大久保忠翰に寵愛を寄せるのも致し方のないところであり、またその同族にして相役…、同僚でもある平御側の大久保忠恕にまで並々ならぬ寵愛を寄せたのもこれまた致し方のないところであったのだ。
そしてこのことは直熙も勿論把握しており、それゆえ、
「致し方あるまい…、大納言様とて人間であるからの…」
そう家基の態度を弁護するかのように応じたのであった。
「確かに…、なれど小笠原若狭めは左様に割り切ることはできなんだ…、否、頭では分かっていても感情が理解に追い付かなかったのであろう…」
理性と感情は別物…、そういうことらしい。
「つまり…、畏れ多くも大納言様のご寵愛を恣にせし大久保一党への嫉妬心や、或いは大納言様への憎悪が勝ってしまい、それでうぬの孫の誘いに…、畏れ多くも大納言様殺害のその姦計に乗ったというわけだの?小笠原若狭めは…」
「その通りぞ。それに晴れて大納言様を葬り奉り、その上、豊千代君を大納言様に代わりし将軍家御養君…、次期将軍として西之丸入りを果たせし暁には小笠原若狭めを豊千代に附属させると…、それも御側御用取次の上首に取り立ててつかわそうぞ、と…」
「治済卿は左様、小笠原若狭めに手形をきったわけだの?」
「左様…」
どうやら小笠原信喜はただ単に、己よりも平御側に過ぎぬ大久保一党にばかり寵愛を寄せる家基に対する憎悪や、或いはそんな大久保一党に対する嫉妬心といった感情だけから家基の暗殺計画、それも毒殺計画に乗ったわけではなく、
「立身出世…」
つまりは欲得という極めてご立派な「理性」も相俟って、家基の毒殺計画に乗ったようである。
「して、うぬの孫は小笠原若狭めを大納言様の殺害計画に引き入れしことに成功したわけだの?」
直熙は確かめるように尋ねた。
「如何にも…」
「されば小笠原若狭めを勿論、治済卿に引き合わせたわけだの?」
「左様…、されば小笠原若狭めの強い求めにより…」
それはそうだろうと、直熙は納得した。仮に、一橋治済が家基の毒殺を計画しているので、それに一枚噛まないかと、そのように誘われたところで果たして本当に治済がそのようなことを計画しているのか、確かめずにはいられないだろう。
「それで…、うぬは孫を通じて小笠原若狭めの意向を知らされるや、それを治済卿にそのまま伝えたわけだの?それな小笠原若狭めの意向を…」
「左様…、されば治済卿は大層喜ばれたわ…」
「大層喜ばれた、と?」
「左様…、さればわざわざ余に会いたいと、そう願うからには、大納言様の殺害計画に乗る腹積もりなのであろうと…」
成程、と直熙はそう思った。仮に小笠原信喜にその気が…、家基の毒殺計画に加わる気がないのならば、平次郎よりのそんな危険極まりない「勧誘なぞ言下に却下したに違いなかったからだ。
ところが信喜は平次郎からのその危険極まりない「勧誘」を断るどころか、治済に会いたいと…、治済に会って直にその意向を確かめたいとぬかしたのである。治済がこれは信喜が家基毒殺計画に乗ってくれる前兆とそう捉えて大喜びしたのも当然と言えた。
「して治済卿はやはり一橋御門内の御邸にて小笠原若狭めに会ったわけか?」
「左様…、一応、案内致いたはこのわしだが、なれど、小笠原若狭めがいざ、治済卿に会う段となるや、わしはその部屋より追い出されたわ…」
政次は投げ遣りな口調でそう答えた。
「追い出されたとは…、されば、うぬは治済卿と小笠原若狭めの詳しいやり取りについてまでは把握しておらぬと申すか?」
「左様…、のみならず、大納言様の殺害計画…、その詳しい段取りをつける段階にても、このわしの出る幕はなかったわ…」
政次はやれやれといった風情でそう答えた。
「と申すと、うぬは大納言様殺害計画には…、その具体策について話し合われし段階においては言葉は悪いがその…」
「爪弾じきにされていたのよ…」
直熙は政次が悪びれもせずにそう答えてみせたことから、これには直熙の方が困惑した。
ともあれ政次は家基の毒殺計画について、その詳しい事情は把握していないと、つまりは、
「家基の毒殺計画について、実際に関与したわけではない…」
精精、小笠原信喜を治済に会わせただけだと、政次はそう告げていた。
それに対して直熙は政次が嘘をついているようには思えなかった。今さら…、将軍・家治の正室であった倫子とその間に生まれた萬壽姫の毒殺、更には家治の愛妾の千穂や、種姫の毒殺未遂に関与したことが明らかとなった今、家基の毒殺には関与していないと、責任を逃れるかのような嘘をついたところで、
「最早、切腹は免れ得ないところであろう…」
直熙はそう考えると、
「政次は嘘をついていない…」
その結論に達したのであった。
「されば…、大納言様の毒殺の詳しい経緯につきては小笠原若狭より直に問い糺すより外に道はないわけだの…」
直熙は締め括るかのようにそう言ったかと思うと、
「それにわしの孫の平次郎も或いは詳しき事情を存じておるやも知れぬ…」
政次は信じられたい合いの手を入れた。政次にはどうやら、孫を守るという発想には大よそ欠けているものと思われる。
ともあれ孫の平次郎からも当然に事情を…、小笠原信喜に対して家基の毒殺計画に加担するよう勧誘したその時の状況などについて更に詳しい事情を問い糺す必要があったので、
「そうだの…」
直熙は孫を守る発想に欠ける政次に対して内心、疑問を抱きつつも、そう答えた。
「ときにいまひとつ、分からぬことがある…」
直熙は思い出した様にそう声を上げた。
「何だ?」
「されば豊前は何ゆえに左様な…、御台様や萬壽姫様の毒殺、その上、お千穂の方様と種姫様の毒殺未遂、更にはその間に行われし大納言様の毒殺にまで多少とは申せ、それら恐るべき姦計に与したのだ?」
それが直熙には分からなかった。
「されば…、上様に絶望したからよ…」
「絶望…、とな?」
政次のその告白は直熙にはすぐには理解できずに、思わずそう聞き返した。
「左様…、されば畏れ多くも上様にあらせられては田沼のようなどこぞの馬の骨とも知れぬ、盗賊も同然の下賤極まりない男をお取り立てあそばされ、のみならず、息の意知までもお取り立てあそばされ…」
「左様な上様に絶望したからと申して、何も大納言様らを手にかける必要はなかったのではあるまいか?少なくともうぬには…」
「いや、ある」
「と申すと?」
「さればそれな…、畏れ多くも上様の御気性…、下賤、卑賤なる者でも取り立てるとせしその上様の御気性は大納言様にも脈々と受け継がれているに相違あるまいて…」
確かに家基は意知に対してもまた寵愛を、それも父・意次以上に寵愛を寄せていたことから察するに、政次の今の告白もあながち間違いとも言い切れなかった。
つまり家基が晴れて征夷大将軍に就任した暁には意知もまた、幕閣に登用される可能性があり、政次はそれを恐れて家基の暗殺計画…、治済が描いた家基毒殺計画という絵図に乗ったということだ。
「それで…、うぬはそれら…、大納言様の殺害計画を始めとせし姦計に乗ったわけだの?」
直熙が改めてそう尋ねると、政次は頷いた。
「なれど…、上様がご健在であらば、いずれは意知も幕閣に登用されるであろうよ…」
直熙はあえて何も知らぬ体を装い、政次を挑発するようにそう告げた。
すると政次は直熙のその安っぽい挑発に乗せられることなく、それどころか薄笑いを浮かべる始末であった。
「その方は何も分かってはおらんようだの…」
政次は薄笑いを浮かべつつ、そう言い放った。
「何が分かっておらんと申すのだ?」
勿論、今、水面下で将軍・家治の毒殺計画が進行中…、そのことを言っているのは直熙にも分かっていたが、ここはあえて知らぬ体を装ったまま、政次にそう尋ねたのであった。
だが政次は直熙の問いに答えることはせず、相変わらず薄笑いを浮かべたままであった。
それで直熙は政次もまた、将軍・家治の毒殺計画の一味、と言っては言い過ぎなのであれば、少なくともその計画の存在を承知していることを確信したものである。
のみならず、将軍・家治さえ消えてしまえば、即ち、治済の実子の豊千代が11代将軍に就任すれば、今の自白も無効になると、政次はそう確信していればこそ、
「ベラベラと自白したに相違あるまいて…」
直熙はそうも確信したものであり、してみるとやはり政次も将軍・家治の毒殺計画の一味であると言っても差し支えなさそうだった。
直熙は分かってはいたが一応、そう尋ねた。すると政次も「外にはおるまいて」と応じた。確かにその通りであった。
「その…、治済卿の兄に当たりし越前守様に毒キノコを用意してもらったと…」
直熙は確かめるように尋ねた。
「左様…、いや、わしも詳しくは知らなんだが、何でも越前守様が国許である越前にはその毒キノコが自生しているらしくての、それで参勤の折に…」
「この江戸へと…、参府せし折に毒キノコを?」
「治済卿の話では確かそうであったわ…」
何と、参勤交代を毒キノコの輸送に利用するとは、直熙は開いた口が塞がらない思いであった。
「ときに豊前よ…、うぬはそれな毒キノコ…、畏れ多くも御台様と萬壽姫様のお命を奪い奉り、そして今また、お千穂の方様や種姫様のお命をも奪い奉らんと欲してその兇器として使われしその毒キノコが実は、畏れ多くも大納言様のお命をも奪い奉りし兇器としても使われしこと、存じておろうな?」
直熙はそうカマをかけた。果たして、政次が家基までもが倫子や萬壽姫と同じく毒キノコでもって…、シロタマゴテングタケか或いはドクツルタケでもって毒殺あれたことを知っている可能性は、
「五分五分…」
直熙はそう睨んでいた。
果たして政次は知っているような素振りを示した。即ち、直熙より注がれていた視線を逸らすかのように思わず顔をそむけたのであった。
これは最早、知っていると自白したも同然であり、直熙は政次に追い討ちをかけるかのように、
「されば畏れ多くも大納言様の殺害にも手を貸したのか?」
更にそうカマをかけたのであった。
それに対して政次はと言うと、それが…、今の直熙の問いが「カマ」であることを承知しつつも、最早、惚ける気力もなければ、抵抗する気力も残ってはいない様子で、
「左様、如何にも手を貸したわ…」
実にあっさりとそう認めたので、これにはカマをかけた筈の直熙の方が些か面喰った程であった。
「いや、なれど…、今は亡き、畏れ多くも大納言様にあらせられては西之丸におわされた。されば留守居のうぬに何が出来たと申すのだ?」
西之丸にて、大納言様こと、かつての次期将軍であった家基に御側御用取次として仕えていた小笠原若狭守信喜が家基毒殺の主犯、いや、真の主犯は一橋治済に違いないので、してみると、小笠原信喜はさしずめ、
「実行犯の主犯…」
それであろうことは察しがついていたものの、しかし、依田政次がどう繋がるのか、直熙にはそこまでは分からなかった。カマをかけたは良いが…、である。
すると政次もそうと察したのか微笑を浮かべたかと思うと、
「されば土佐には最早、察しがついておろうが、畏れ多くも大納言様のお命を奪い奉りしは…、治済卿に唆される格好にて、大納言様のお命を奪い奉りし実行犯、その中でも主犯に当たりしは御側御用取次の小笠原若狭よ…」
小笠原若狭こと若狭守信喜こそが大納言様こと家基毒殺の実行犯の主犯…、政次もどうやら己と同じ認識であったのだと、直熙はまずはそう思い、
「やはり小笠原若狭めが実行犯の主犯であったか…」
続けてそう思ったものである。
「小笠原若狭には確か遠縁に一橋の縁者が…」
直熙は記憶を手繰り寄せるかのようにそう切り出した。
それに対して政次は「左様…」と応ずるや、
「確かに、小笠原若狭の縁者に今はまだ小普請の身ではあるが、小笠原熊蔵貞郷なる者があり、彼者、一橋家の家中の天野傳七郎富安が娘を娶っておるわ…」
サラリとそう答えたのであった。これで直熙にはいよいよもって、政次の繋がりが分からなかった。いや、突っ込んだ言い方をすれば、政次の出る幕がないように思われた。
すると政次もそうと察したのか、今度は苦笑を浮かべて、
「なれどただ、それだけのことよ」
そう付け加えた。
「それだけのこと?」
直熙は思わず聞き返した。
「左様…、されば確かに小笠原若狭めには今、わしが申した通り、その縁者に一橋家と縁がある者がおり、その存在もまた、小笠原若狭めに大納言様の殺害に手を貸すことを決意させた一つの要因にはなったであろうが、なれど小笠原若狭めに大納言様に殺害に手を貸すことを決意させた最大の要因はそれではないわさ…」
「さればその最大の要因とはこれ如何に?」
「わしの孫よ…」
「孫?」
「左様…、さればわしには平次郎なる孫がおってな…」
「その孫が如何致したと申すのだ?」
「されば孫…、平次郎を通じて、小笠原若狭めに決意させたのよ…」
「畏れ多くも大納言様の殺害に手を貸すことを、か?」
「左様…」
「何ゆえにうぬの孫にそのようなことが…」
「されば平次郎は西之丸にて大納言様に小納戸として仕えていたのよ…」
「何と…」
直熙は目を丸くした。流石にそこまでは把握していなかったからだ。
「さればうぬの孫は、小笠原若狭と面識があった、と?」
「左様…」
「されば…、つまりはこういうことか?治済卿より大納言様の殺害をも持ちかけられしうぬが…、恐らくは我が子、豊千代君を大納言様に代わる次期将軍に就けるために相違あるまいが…、その治済卿より大納言様の殺害をも持ちかけられしうぬは、それなれば大納言様のおわす西之丸にて仕える者を味方に…、否、共犯者として引き入れる必要がある旨、治済卿に進言し、それに対して治済卿も全く同意見であると…」
直熙がそこまで頭の中で思い描いた絵図をスラスラと口にするや、「流石だの」との政次の合いの手が入ったかと思うと、
「そこから先はわしが話そう…」
政次はそう引き取ってみせた。どうやら直熙の思い描いた絵図は「ビンゴ」のようであった。
「されば治済卿はそれなれば御側御用取次がうってつけであろう…、共犯者に誘うにはうってつけであろうと、それでわしもそれなればと、西之丸にて仕えし孫の平次郎がことを思い出し、そのことを治済卿に打ち明けた上で、平次郎と一度、相談申しますと、その場はとりあえずそれで引き取り…」
「その後、実際にその孫に相談を持ちかけたわけだの?さしずめ…、手を…、大納言様の殺害に手を貸してくれそうな御側御用取次はおらぬか、と…」
「如何にもその通りぞ。その結果…」
「小笠原若狭の名を即答したわけだの?孫は…」
「またまた、如何にもその通りぞ…、されば小笠原若狭は御側御用取次として大納言様に仕え奉りしも、大納言様よりのご寵愛はいまひとつにて…」
「それを孫は承知していたわけだの?」
「左様…、のみならず、平御側に過ぎぬ大久保志摩や大久保下野の方が大納言様の覚えが目出度い…、要は寵愛を受け、いや、恣にしていることがいよいよもって、小笠原若狭の気に入らぬところ、と…」
あの賢明な家基が特定の者を贔屓にするとは俄かには信じ難いが、しかし、政次は決して嘘をついているわけではなかった。
即ち、家基が特定の者を…、御側御用取次の小笠原信喜をさしおいて、平御側に過ぎぬ大久保志摩こと志摩守忠翰と大久保下野こと下野守忠恕の二人を寵愛していたのは事実であったのだ。
あの賢明な家基にしては似つかわしくない所業と言えたが、しかし、それも仕方のないところではあった。
何しろ大久保忠翰はその妻女が何と家基の乳母であり、その上、その間に生まれた嫡男の銕蔵忠道は家基の御伽、それも最期の御伽であったのだ。
それゆえ家基が平御側に過ぎぬ大久保忠翰に寵愛を寄せるのも致し方のないところであり、またその同族にして相役…、同僚でもある平御側の大久保忠恕にまで並々ならぬ寵愛を寄せたのもこれまた致し方のないところであったのだ。
そしてこのことは直熙も勿論把握しており、それゆえ、
「致し方あるまい…、大納言様とて人間であるからの…」
そう家基の態度を弁護するかのように応じたのであった。
「確かに…、なれど小笠原若狭めは左様に割り切ることはできなんだ…、否、頭では分かっていても感情が理解に追い付かなかったのであろう…」
理性と感情は別物…、そういうことらしい。
「つまり…、畏れ多くも大納言様のご寵愛を恣にせし大久保一党への嫉妬心や、或いは大納言様への憎悪が勝ってしまい、それでうぬの孫の誘いに…、畏れ多くも大納言様殺害のその姦計に乗ったというわけだの?小笠原若狭めは…」
「その通りぞ。それに晴れて大納言様を葬り奉り、その上、豊千代君を大納言様に代わりし将軍家御養君…、次期将軍として西之丸入りを果たせし暁には小笠原若狭めを豊千代に附属させると…、それも御側御用取次の上首に取り立ててつかわそうぞ、と…」
「治済卿は左様、小笠原若狭めに手形をきったわけだの?」
「左様…」
どうやら小笠原信喜はただ単に、己よりも平御側に過ぎぬ大久保一党にばかり寵愛を寄せる家基に対する憎悪や、或いはそんな大久保一党に対する嫉妬心といった感情だけから家基の暗殺計画、それも毒殺計画に乗ったわけではなく、
「立身出世…」
つまりは欲得という極めてご立派な「理性」も相俟って、家基の毒殺計画に乗ったようである。
「して、うぬの孫は小笠原若狭めを大納言様の殺害計画に引き入れしことに成功したわけだの?」
直熙は確かめるように尋ねた。
「如何にも…」
「されば小笠原若狭めを勿論、治済卿に引き合わせたわけだの?」
「左様…、されば小笠原若狭めの強い求めにより…」
それはそうだろうと、直熙は納得した。仮に、一橋治済が家基の毒殺を計画しているので、それに一枚噛まないかと、そのように誘われたところで果たして本当に治済がそのようなことを計画しているのか、確かめずにはいられないだろう。
「それで…、うぬは孫を通じて小笠原若狭めの意向を知らされるや、それを治済卿にそのまま伝えたわけだの?それな小笠原若狭めの意向を…」
「左様…、されば治済卿は大層喜ばれたわ…」
「大層喜ばれた、と?」
「左様…、さればわざわざ余に会いたいと、そう願うからには、大納言様の殺害計画に乗る腹積もりなのであろうと…」
成程、と直熙はそう思った。仮に小笠原信喜にその気が…、家基の毒殺計画に加わる気がないのならば、平次郎よりのそんな危険極まりない「勧誘なぞ言下に却下したに違いなかったからだ。
ところが信喜は平次郎からのその危険極まりない「勧誘」を断るどころか、治済に会いたいと…、治済に会って直にその意向を確かめたいとぬかしたのである。治済がこれは信喜が家基毒殺計画に乗ってくれる前兆とそう捉えて大喜びしたのも当然と言えた。
「して治済卿はやはり一橋御門内の御邸にて小笠原若狭めに会ったわけか?」
「左様…、一応、案内致いたはこのわしだが、なれど、小笠原若狭めがいざ、治済卿に会う段となるや、わしはその部屋より追い出されたわ…」
政次は投げ遣りな口調でそう答えた。
「追い出されたとは…、されば、うぬは治済卿と小笠原若狭めの詳しいやり取りについてまでは把握しておらぬと申すか?」
「左様…、のみならず、大納言様の殺害計画…、その詳しい段取りをつける段階にても、このわしの出る幕はなかったわ…」
政次はやれやれといった風情でそう答えた。
「と申すと、うぬは大納言様殺害計画には…、その具体策について話し合われし段階においては言葉は悪いがその…」
「爪弾じきにされていたのよ…」
直熙は政次が悪びれもせずにそう答えてみせたことから、これには直熙の方が困惑した。
ともあれ政次は家基の毒殺計画について、その詳しい事情は把握していないと、つまりは、
「家基の毒殺計画について、実際に関与したわけではない…」
精精、小笠原信喜を治済に会わせただけだと、政次はそう告げていた。
それに対して直熙は政次が嘘をついているようには思えなかった。今さら…、将軍・家治の正室であった倫子とその間に生まれた萬壽姫の毒殺、更には家治の愛妾の千穂や、種姫の毒殺未遂に関与したことが明らかとなった今、家基の毒殺には関与していないと、責任を逃れるかのような嘘をついたところで、
「最早、切腹は免れ得ないところであろう…」
直熙はそう考えると、
「政次は嘘をついていない…」
その結論に達したのであった。
「されば…、大納言様の毒殺の詳しい経緯につきては小笠原若狭より直に問い糺すより外に道はないわけだの…」
直熙は締め括るかのようにそう言ったかと思うと、
「それにわしの孫の平次郎も或いは詳しき事情を存じておるやも知れぬ…」
政次は信じられたい合いの手を入れた。政次にはどうやら、孫を守るという発想には大よそ欠けているものと思われる。
ともあれ孫の平次郎からも当然に事情を…、小笠原信喜に対して家基の毒殺計画に加担するよう勧誘したその時の状況などについて更に詳しい事情を問い糺す必要があったので、
「そうだの…」
直熙は孫を守る発想に欠ける政次に対して内心、疑問を抱きつつも、そう答えた。
「ときにいまひとつ、分からぬことがある…」
直熙は思い出した様にそう声を上げた。
「何だ?」
「されば豊前は何ゆえに左様な…、御台様や萬壽姫様の毒殺、その上、お千穂の方様と種姫様の毒殺未遂、更にはその間に行われし大納言様の毒殺にまで多少とは申せ、それら恐るべき姦計に与したのだ?」
それが直熙には分からなかった。
「されば…、上様に絶望したからよ…」
「絶望…、とな?」
政次のその告白は直熙にはすぐには理解できずに、思わずそう聞き返した。
「左様…、されば畏れ多くも上様にあらせられては田沼のようなどこぞの馬の骨とも知れぬ、盗賊も同然の下賤極まりない男をお取り立てあそばされ、のみならず、息の意知までもお取り立てあそばされ…」
「左様な上様に絶望したからと申して、何も大納言様らを手にかける必要はなかったのではあるまいか?少なくともうぬには…」
「いや、ある」
「と申すと?」
「さればそれな…、畏れ多くも上様の御気性…、下賤、卑賤なる者でも取り立てるとせしその上様の御気性は大納言様にも脈々と受け継がれているに相違あるまいて…」
確かに家基は意知に対してもまた寵愛を、それも父・意次以上に寵愛を寄せていたことから察するに、政次の今の告白もあながち間違いとも言い切れなかった。
つまり家基が晴れて征夷大将軍に就任した暁には意知もまた、幕閣に登用される可能性があり、政次はそれを恐れて家基の暗殺計画…、治済が描いた家基毒殺計画という絵図に乗ったということだ。
「それで…、うぬはそれら…、大納言様の殺害計画を始めとせし姦計に乗ったわけだの?」
直熙が改めてそう尋ねると、政次は頷いた。
「なれど…、上様がご健在であらば、いずれは意知も幕閣に登用されるであろうよ…」
直熙はあえて何も知らぬ体を装い、政次を挑発するようにそう告げた。
すると政次は直熙のその安っぽい挑発に乗せられることなく、それどころか薄笑いを浮かべる始末であった。
「その方は何も分かってはおらんようだの…」
政次は薄笑いを浮かべつつ、そう言い放った。
「何が分かっておらんと申すのだ?」
勿論、今、水面下で将軍・家治の毒殺計画が進行中…、そのことを言っているのは直熙にも分かっていたが、ここはあえて知らぬ体を装ったまま、政次にそう尋ねたのであった。
だが政次は直熙の問いに答えることはせず、相変わらず薄笑いを浮かべたままであった。
それで直熙は政次もまた、将軍・家治の毒殺計画の一味、と言っては言い過ぎなのであれば、少なくともその計画の存在を承知していることを確信したものである。
のみならず、将軍・家治さえ消えてしまえば、即ち、治済の実子の豊千代が11代将軍に就任すれば、今の自白も無効になると、政次はそう確信していればこそ、
「ベラベラと自白したに相違あるまいて…」
直熙はそうも確信したものであり、してみるとやはり政次も将軍・家治の毒殺計画の一味であると言っても差し支えなさそうだった。
0
お気に入りに追加
13
あなたにおすすめの小説
「楊貴妃」を最初に妻にした皇太子 ~父である皇帝にNTRされ、モブ王子に転落!~
城 作也
歴史・時代
楊貴妃は、唐の玄宗皇帝の妻として中国史に登場するが、最初は別の人物の妻となった。
これは、その人物を中心にした、恋と友情と反逆の物語。
和ませ屋仇討ち始末
志波 連
歴史・時代
山名藩家老家次男の三沢新之助が学問所から戻ると、屋敷が異様な雰囲気に包まれていた。
門の近くにいた新之助をいち早く見つけ出した安藤久秀に手を引かれ、納戸の裏を通り台所から屋内へ入っる。
久秀に手を引かれ庭の見える納戸に入った新之助の目に飛び込んだのは、今まさに切腹しようとしている父長政の姿だった。
父が正座している筵の横には変わり果てた長兄の姿がある。
「目に焼き付けてください」
久秀の声に頷いた新之助だったが、介錯の刀が振り下ろされると同時に気を失ってしまった。
新之助が意識を取り戻したのは、城下から二番目の宿場町にある旅籠だった。
「江戸に向かいます」
同行するのは三沢家剣術指南役だった安藤久秀と、新之助付き侍女咲良のみ。
父と兄の死の真相を探り、その無念を晴らす旅が始まった。
他サイトでも掲載しています
表紙は写真ACより引用しています
R15は保険です
GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲
俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。
今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。
「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」
その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。
当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!?
姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。
共に
第8回歴史時代小説参加しました!
信濃の大空
ypaaaaaaa
歴史・時代
空母信濃、それは大和型3番艦として建造されたものの戦術の変化により空母に改装され、一度も戦わず沈んだ巨艦である。
そんな信濃がもし、マリアナ沖海戦に間に合っていたらその後はどうなっていただろう。
この小説はそんな妄想を書き綴ったものです!
前作同じく、こんなことがあったらいいなと思いながら読んでいただけると幸いです!
[恥辱]りみの強制おむつ生活
rei
大衆娯楽
中学三年生になる主人公倉持りみが集会中にお漏らしをしてしまい、おむつを当てられる。
保健室の先生におむつを当ててもらうようにお願い、クラスメイトの前でおむつ着用宣言、お漏らしで小学一年生へ落第など恥辱にあふれた作品です。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
皇国の栄光
ypaaaaaaa
歴史・時代
1929年に起こった世界恐慌。
日本はこの影響で不況に陥るが、大々的な植民地の開発や産業の重工業化によっていち早く不況から抜け出した。この功績を受け犬養毅首相は国民から熱烈に支持されていた。そして彼は社会改革と並行して秘密裏に軍備の拡張を開始していた。
激動の昭和時代。
皇国の行く末は旭日が輝く朝だろうか?
それとも47の星が照らす夜だろうか?
趣味の範囲で書いているので違うところもあると思います。
こんなことがあったらいいな程度で見ていただくと幸いです
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる