天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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大詰め ~留守居・依田政次の自白、千穂と種姫の毒殺未遂に加え、倫子と萬壽姫の毒殺にも手を貸したことをも自白する~

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土佐とさ…、何ゆえにそなたがここにおる…、今宵こよい宿直とのいではなかろうて…」

 政次まさつぐ土佐とさこと、相役あいやく…、同僚どうりょう高井たかい土佐守とさのかみ直熙なおひろ突然とつぜんの登場にうろたえつつも、何とか声を振り絞ってそう反論した。

 一方、直熙なおひろ政次まさつぐとは正反対に余裕よゆう綽綽しゃくしゃくといった態度で、

如何いかにもうぬが申す通り、ども今宵こよい宿直とのいではないわ」

 平然へいぜんとそううそぶくように答えたかと思うと、その上で、

「なれど今宵こよいおそれ多くも、お千穂ちほ方様かたさま種姫たねひめ様の暗殺計画を耳にしてのう…」

 直熙なおひろはそう付け加えると、廣敷ひろしきばんかしら竹村たけむら忠次郎ちゅうじろうによってせられているおく膳所ぜんしょだい所頭どころがしら重田しげた彦大夫ひこだゆうを見下ろした。

 すると重田しげた彦大夫ひこだゆう最早もはやこれまでと観念かんねんしたらしく、

「ええい…、こうなったら何もかもぶちまけてやる…」

 そう切り出したので、直熙なおひろ忠次郎ちゅうじろうに対して彦大夫ひこだゆうを自由にするよう目でうながし、それに対して忠次郎ちゅうじろうはと言うと、直熙なおひろのその示唆しさ勿論もちろんそうと察しつつも、若干じゃっかんの不安があった。

 重田しげた彦大夫ひこだゆうを今、自由にさせれば逃げ出すのではあるまいかと、その不安であったが、しかし、仮にその時には彦大夫ひこだゆうを斬り捨てれば良いと忠次郎ちゅうじろうはそう思い直して、彦大夫ひこだゆうを自由にした。

 果たして彦大夫ひこだゆう忠次郎ちゅうじろうが案じたように逃げ出すことはなく、どうやらその点、忠次郎ちゅうじろう杞憂きゆうであり、それどころか彦大夫ひこだゆう最前さいぜん宣言した通り、何もかもぶちまけ始めたのであった。

 自由になった彦太夫ひこだゆうはその場にて胡坐あぐらをかいたかと思うと、

すべてはこの依田よだの野郎が仕組しくんだことでさっ」

 彦大夫ひこだゆう依田よだの野郎こと、依田よだ政次まさつぐを指でさして…、まさしく名指なざししたのであった。

 それに対して名指なざしされた政次まさつぐはと言うと、顔面がんめん蒼白そうはくとなり、すると直熙なおひろ一瞬いっしゅんすきいて…、まさ間隙かんげきって政次まさつぐの腰から脇差わきざしを引き抜いたのであった。

 これには政次まさつぐも思わず、「あっ」と声を上げたものである。

 直熙なおひろはそんな政次まさつぐしりに、「くわしく申してみよ」と彦大夫ひこだゆううながしたのであった。

くわしくも何も…、この依田よだの野郎から命じられたんでさ」

 彦大夫ひこだゆうは今度は直熙なおひろの方を向いて答えた。

「何を命じられたと申すのだ?」

「毒キノコを…、お千穂ちほ方様かたさま種姫たねひめ様がおし上がりになられる膳に…、今宵こよい夕膳ゆうぜんに毒キノコを混ぜろって…」

「毒キノコのう…、さればそは如何いかなる毒キノコぞ?」

 恐らくはシロタマゴテングタケかあるいはドクツルタケ…、直熙なおひろはそうと察していたものの、それでもここは一応、素知そしらぬていよそおった。

 それに対して彦大夫ひこだゆうは「さぁ…」と首をかしげるばかりであり、どうやら彦大夫ひこだゆう如何いかなる毒キノコであるのか、その詳しいところまでは教えてはもらっていない様子であった。

左様さようか…、まぁ良い。して、彦大夫ひこだゆうよ、そなた、豊前ぶぜんよりかる姦計かんけいを持ちかけられて、それに唯々いい諾々だくだくと従ったのは何ゆえぞ?」

「そりゃ何といっても一橋ひとつばし様のご縁から…」

「なに?一橋ひとつばし様のご縁とな?」

「ええ…」

「何ゆえに一橋ひとつばし様の御名おながここで出て来るのだ?」

 直熙なおひろはやはり知っていながら素知そしらぬていよそおった。一方、政次まさつぐ彦大夫ひこだゆう一橋ひとつばしの名を出してしまったことから最早もはや立っていることも、

「ままならぬ…」

 そのような有様ありさまであり、ついにその場にへたり込んでしまった。どうやら政次まさつぐもすっかり観念かんねんしたらしい。

 すると彦大夫ひこだゆうはそんな政次まさつぐに対してあわれんだ視線を向けつつ、

「そりゃ…、一橋ひとつばし様が黒幕くろまくだからですよ…」

 ズバリそう答えたのであった。これには事情を知らぬ、彦大夫ひこだゆうはいにてひかえていた忠次郎ちゅうじろうも目をいたものである。

「されば…、こういうことか?一橋ひとつばし様より、お千穂ちほ方様かたさま種姫たねひめ様のお命をうばえ…、お二人がおし上がりになられし夕膳ゆうぜんに毒キノコを混ぜろと、一橋ひとつばし様より…、これな依田よだ豊前ぶぜんを通じて命じられたと申すか?」

 直熙なおひろは要領良くまとめてみせた。

「ええ、その通りですよ…」

「して、一橋ひとつばし様とのご縁とは如何いかに?」

「俺のせがれ一橋ひとつばし様ごちゅう平田ひらた重右衛門じゅうえもんの娘をめとっておりましてね…」

「いかさま…、それで一橋ひとつばし様の姦計かんけいに乗ったと申すか?」

 直熙なおひろがそういの手を入れると、「ええ」と彦大夫ひこだゆうが答え、するとそこで、「それだけではあるまい」との政次まさつぐの力ない声が割って入った。

「それだけではない、とな?」

 直熙なおひろはやはりその場にてへたり込んでいる政次まさつぐを見下ろしながら尋ねた。

左様さよう…、されば金も…、それも少なからぬ金子きんすも巻き上げたであろうが…」

 政次まさつぐもどうやら何もかも打ち明ける気になったらしい。

 それに対して直熙なおひろは「やはりな…」と思ったものである。

「それは…、百や二百の話かえ?」

 直熙なおひろ政次まさつぐにそう水を向けると、政次まさつぐは頭を振りつつ、「とんでもない」と答えた。

「されば…」

「五百両も巻き上げたのよ…」

「五百両…」

 直熙なおひろ流石さすがに息を飲む思いであり、胡坐あぐらをかいたままの彦大夫ひこだゆうを見た。すると彦大夫ひこだゆう如何いかにもバツが悪そうな表情をしていた。どうやら彦大夫ひこだゆうが五百両もの大金をせしめたのは本当らしい。

「そは…、勿論もちろん一橋ひとつばし様より、だの?」

 直熙なおひろが金の出処でどころについてたずねると政次まさつぐは力なくうなずき、それから何もかも打ち明け始めた。

「わしもまた…、一橋ひとつばし家とはあさからぬ因縁いんねんがあっての…」

 政次まさつぐはそう切り出すと、次男の次郎八じろはち勝明かつあきらがかつて一橋ひとつばし家老がろうであった山木やまき織部正おりべのかみ伴明ともあきら養嗣子ようししであることを打ち明けたのであった。

「それで…、うぬもまた一橋ひとつばし家と縁が出来た、と…」

左様さよう…、一橋ひとつばし様…、治済はるさだきょうはお千穂ちほ方様かたさま種姫たねひめ様がざわりであり、そこで…」

おそれ多くも、お千穂ちほ方様かたさま種姫たねひめ様のぜんうけたまわりし重田しげた彦大夫ひこだゆうに毒キノコ入りのぜんを…、夕膳ゆうぜんを調理させ、お二人のお命をうばわんと欲したのか?」

左様さよう…、されば最前さいぜん彦大夫ひこだゆうが申した通り、彦大夫ひこだゆうそく又兵衛またべえ信征のぶゆき一橋ひとつばし様がごちゅう平田ひらた重右衛門じゅうえもん正好まさよしが娘をめとっておるゆえに…」

「そのことは…、彦太夫ひこだゆうそくが、一橋ひとつばし様のごちゅうの娘をめとりしことは誰が存じていたのだ?そなたか?」

 直熙なおひろのその問いには、

千穂ちほ種姫たねひめの二人を毒殺という手法でもってその命を奪おうとしたその絵図えずえがいたのは治済はるさだか、それとも政次まさつぐか…」

 その意味がめられていた。

 それに対して政次まさつぐもそうと察してか、「治済はるさだ卿よ…」と答えた。

「されば…、治済はるさだ卿が此度こたび…、お千穂ちほ方様かたさま種姫たねひめ様の暗殺計画…、毒殺どくさつ計画の絵図えずえがいたというわけか?これな彦大夫ひこだゆう使そうして…」

 直熙なおひろがそう水を向けると、政次まさつぐは「左様さよう…」とあっさりと認めた上で、さらくわしい事情を打ち明け始めた。

治済はるさだ卿は我が子、とよ千代ちよぎみが将軍家養君ようくん…、ようは次期将軍として西之丸にしのまる入りを果たすに際して、お千穂ちほ方様かたさま種姫たねひめ様がざわりであると、左様さようおぼされての…」

「万が一にもないと思うが、仮にお千穂ちほ方様かたさまおそれ多くも上様との間に再び、世子せいしをおもうけあそばされれば、とよ千代ちよぎみ立場たちばが…、次期将軍としての立場たちばが危ういと思うたからであろうな?」

左様さよう…、それに種姫たねひめ様も今は亡き大納言だいなごん様の、言ってみれば土産みやげのような存在にて…、お千穂ちほ方様かたさまとは違い、とよ千代ちよぎみ立場たちばるがせるような存在ではないが、されどやはりざわりと、この際、お千穂ちほ方様かたさま諸共もろとも始末しまついたそうと思うと…」

治済はるさだ卿よりそう持ちかけられたわけだの?うぬは…」

左様さよう…、さりながらわしには…、留守居るすいたるわしにはそれはちと難しいのではござりますまいかと…」

治済はるさだ卿に難色なんしょくを示したところ、治済はるさだ卿より…、さしずめ案ずるなとでも…、左様さようなる返答があり、重田しげた彦大夫ひこだゆうの名が出て来たわけだの?」

 直熙なおひろがそう勘を働かせると、政次まさつぐうなずいた。

「なれど彦大夫ひこだゆう…、おく膳所台ぜんしょだい所頭どころがしら彦大夫ひこだゆうをそれな毒殺どくさつ計画に引き入れるだけでは不充分であろう?確かに、おそれ多くもお千穂ちほ方様かたさま種姫たねひめ様がおし上がりになられしぜんうけたまわりし彦大夫ひこだゆうなれば、調理の際に毒キノコを混入せしことは可能であろうが、なれどこの台所だいどころに立ち入るに際しては廣敷ひろしきばんかしらやその配下はいか添番そえばんによる厳重げんじゅうなるけんを受けるでの…」

 直熙なおひろの言う通りであった。廣敷ひろしき添番そえばんとは廣敷ひろしきばんかしら配下はいかであり、廣敷ひろしき通過つうかする人や物の検査けんさを行い、それは大奥の調理人とも言うべきおく膳所台ぜんしょだいどころにんも例外ではなかった。

 すなわち、ここおもて台所だいどころ廣敷ひろしきにある以上、ましてそのおもて台所だいどころにて、将軍・家治の愛妾あいしょうである千穂ちほや、さらにはその家治の養女ようじょである種姫たねひめのための食事が作られる以上、その食事当番である重田しげた彦大夫ひこだゆうとその配下はいか台所だいどころにん…、調理人たちは廣敷ひろしき添番そえばんによる厳重なる検査けんさを受けることになる。危険物…、例えば毒物を持ち込んではいないか、それをあらためるためである。

 すると忠次郎ちゅうじろうがすかさず、「重田しげた彦大夫ひこだゆうめは危険なる物は何一つ、所持しょじしてはおりませなんだ」と口をはさんだ。

 末端まったんとも言うべき組頭くみがしら台所だいどころにん検査けんさこそ、その廣敷ひろしき添番そえばんになうものの、台所頭だいどころがしらである彦大夫ひこだゆうへの検査けんさについては廣敷ひろしきばんかしらである竹村たけむら忠次郎ちゅうじろう直々じきじきになった。

 それと言うのも、彦大夫ひこだゆうが勤めるおく膳所台ぜんしょだい所頭どころがしらというポストは将軍への御目見得おめみえが許されている旗本のくポストであるのに対してその配下はいか組頭くみがしら台所だいどころにんは将軍への御目見得おめみえが許されぬ御家人がくポストであり、一方、廣敷ひろしきばんかしらがやはり旗本のくポストであるのに対してその配下はいか廣敷ひろしき添番そえばんは御家人がくポストであり、そこで、

「カウンターパート」

 その原則から、旗本は旗本同士、御家人は御家人同士というわけで、旗本であるおく膳所台ぜんしょだい所頭どころがしらである重田しげた彦大夫ひこだゆうへの検査けんさは同じく旗本である廣敷ひろしきばんかしらである竹村たけむら忠次郎ちゅうじろうになったというわけだ。

 ともあれ竹村たけむら忠次郎ちゅうじろうは己の検査けんさにはいちぶのすきもなかったとそうアピールするかのように口をはさんだのであった。

 それに対して直熙なおひろ忠次郎ちゅうじろうのそのような胸中きょうちゅうには勿論もちろん気付いており、それをおもんぱかって「さもあろう」と即答そくとうしてみせた。

「されば如何いかにして毒キノコを持ち込むか…、それはやはりまかないがしらの協力がなければ不可能であろう?」

 直熙なおひろ政次まさつぐにそう水を向けると、政次まさつぐはやはり力なくうなずいてみせた。

 ここ大奥のおもて台所だいどころへと配送はいそうされる食材についてはすで配送はいそう係であるまかないがた検査けんさを受けているということで、廣敷ひろしき添番そえばんによる検査けんさまぬがれていた。

「さればそなたが察している通り、まかないがしらにも…」

今宵こよい宿直とのいの…、夕膳ゆうぜんの食材を配送はいそうして参ったは…」

 直熙なおひろがそう言いかけると、忠次郎ちゅうじろうが答えた。

「されば森山もりやま忠三郎ちゅうざぶろう義立よしたつにて…」

左様さようか…、さればそれな森山もりやまなにがし一橋ひとつばし家と?」

 直熙なおひろ政次まさつぐを見下ろしてたずねた。

左様さよう…、されば森山もりやま忠三郎ちゅうざぶろうめもまた、一橋ひとつばし様がちゅう縁者えんじゃにて…、内藤ないとう友右衛門ゆうえもん助政すけまさそくにて…、いや、わしが台所頭だいどころがしらを味方につけしところで毒物を…、その前段ぜんだんとして毒キノコを台所だいどころに持ち込ませるのは台所頭だいどころがしらでは不可能と…」

「うぬが左様さよう治済はるさだ卿に反論せしところ、治済はるさだ卿よりは…、やはりさしずめまたしても案ずるなとでも申されて、毒キノコを台所へと持ち込ませるにうってつけの、一橋ひとつばし様と縁がある、まかないがしらであるそれな森山もりやまなにがしをも紹介しょうかいされたというわけだの?治済はるさだ卿より…」

左様さよう…」

「つまりうぬは治済はるさだ卿と彦大夫ひこだゆうとのなかちをつとめたのみならず、治済はるさだ卿とそれな森山もりやまなにがしとのなかちをもつとめたわけだの?さしずめ…、森山もりやまなにがしに対しては台所へと、食材の中に毒キノコをまぎませてそれを彦大夫ひこだゆうに渡してくれるよう…、一方、彦大夫ひこだゆうに対してはその食材の中から毒キノコを取り出して、調理してくれるよう、それぞれ頼んだわけだの?勿論もちろん治済はるさだ卿の御名おなを持ち出して…」

左様さよう…、勿論もちろん、今のように治済はるさだ卿が大番組おおばんぐみによる厳重げんじゅうなる監視かんしに置かれる前の話だがの…」

「さもあろう…、して、二人の反応は?」

流石さすがに二人とも最初は目を丸くしたわ…」

「さもあろう…」

 それが当然の反応と言うべきだろう。

「されどわしが書状を…」

「書状とな?」

左様さよう…」

「そは…、さしずめ治済はるさだ卿ご直筆じきひつそえじょうのようなものかえ?」

左様さよう…、留守居るすいとは言え、かる重大事を森山もりやま忠三郎ちゅうざぶろう重田しげた彦大夫ひこだゆうの二人にいきなり持ちかけても、果たしてまこと治済はるさだ卿よりの頼みなのかと、疑われるは必定ひつじょう…」

「そこで治済はるさだ卿ご直筆じきひつそえじょうを求めたわけか?うぬは…」

左様さよう…」

「それで治済はるさだ卿は素直すなおにしたためたのか?そえじょうを…」

「当初は流石さすが難色なんしょくを示されたわ…」

「さもあろうな…」

 そえじょうのような証拠を残すのは治済はるさだとしては何としてもけたいところであっただろう。

「だがそえじょういただけないのであれば、おそれ多くも一橋ひとつばし卿様より森山もりやま忠三郎ちゅうざぶろう重田しげた彦大夫ひこだゆうの二人に対してたのまれますよりほかにない、と…」

「うぬが左様さよう治済はるさだ卿に反論せしところ、それで治済はるさだ卿もようやくにそえじょうをしたためる気になったわけだの?」

左様さよう。まさかに天下の御三卿ごさんきょうともあろうかた一介いっかいまかないがしら台所頭だいどころがしらに会うわけにもゆかんでな…」

 政次まさつぐ森山もりやま忠三郎ちゅうざぶろう重田しげた彦大夫ひこだゆう侮蔑ぶべつするようにそう言い放ち、その場にいた彦大夫ひこだゆうをムッとさせた。

 確かに、従五位下じゅごいのげ諸大夫しょだいぶ役、それも旗本にとっては出世の終着点とも言うべき留守居るすい依田よだ政次まさつぐからすれば、森山もりやま忠三郎ちゅうざぶろう重田しげた彦大夫ひこだゆうなど侮蔑ぶべつの対象以外の何ものでもないのだろう。

 如何いかにも偏狭へんきょう政次まさつぐらしい態度と言えようか。もっともその政次まさつぐにしても間もなく、人々から侮蔑ぶべつの対象となるのは間違いないのだが…。

「して、二人にその、治済はるさだ卿ご直筆じきひつそえじょうを見せて頼んだわけだの?うぬは…」

左様さよう…」

「して、二人の反応は?」

最前さいぜん申した通り、まずは目を丸くしたわ…」

「ふむ…」

「なれど森山もりやま忠三郎ちゅうざぶろう流石さすが一橋ひとつばし家の家臣のせがれだけあって、すぐに飲み込んでくれたわ…」

「つまり…、うぬからの…、治済はるさだ卿からの頼みを四の五の言わずに引き受けたというわけだの?」

左様さよう…」

「それに対して彦大夫ひこだゆう森山もりやま忠三郎ちゅうざぶろうのように四の五の言わずに引き受けるどころか金子きんすを要求したというわけだの?」

左様さよう…、それも治済はるさだ卿ご直筆じきひつそえじょうぎゃくようするかのように…」

成程なるほど…、ぎゃくようと申すからにはおどしたわけだの?金子きんすを用意せねば治済はるさだ卿よりの頼みを引き受けるどころか、これをご公儀こうぎに持ち込むと…」

左様さよう…」

 治済はるさだが恐れていた事態に違いない。

「それでうぬは…」

治済はるさだ卿より直ちにこと次第しだいを…」

治済はるさだ卿よりは大分だいぶんなじられたのではあるまいか?」

 直熙なおひろは笑いをこらえつつ、そうたずねた。

 すると政次まさつぐもその時のことを思い出したらしく顔をしかめさせたものである。

「ああ、まったく…、なれどこのまま彦大夫ひこだゆう放置ほうちするわけにもゆくまいて、と…」

「それで彦大夫ひこだゆうには望みの通りの金子きんすを与えることといたしたわけだの?治済はるさだ卿は…」

左様さよう…、これでほかにも人が…、彦大夫ひこだゆうの代わりとなるような…、つまりはお千穂ちほ方様かたさま種姫たねひめ様のぜんつかさどる者が…、それも一橋ひとつばし家と縁がある者がおればその者に改めて依頼いらいを…、勿論もちろんその時にはまずは彦大夫ひこだゆうの口をふうじてから…」

 政次まさつぐの思わぬ告白に彦大夫ひこだゆうぶるいしてみせた。

「なれど生憎あいにく彦大夫ひこだゆうに代わるべき者がおらず、と…」

左様さよう…、彦大夫ひこだゆうにしてもそうと察して、かるぼうとも言うべき条件を出したのであろうが…」

「ともあれ、結局、彦大夫ひこだゆうに五百両もの金子きんすを渡したわけだの?」

左様さよう…、前金まえきんとして、の…」

「何と…、前金まえきんとな…」

「されば彦大夫ひこだゆうめ、千両要求したのだ…、いくら欲しいと…、改めてこのわしが彦大夫ひこだゆうの元へと参りてたずねしところ…」

 政次まさつぐ彦大夫ひこだゆうにらみつけながらそう答えた。それに対して彦大夫ひこだゆうはまるで悪戯いたずらがバレた子供のように首をすくめてみせた。いや、子供の悪戯いたずらでは済むまい。

「それで…、前金としてまず五百両、そしてあとの五百両はこと成就じょうじゅあかつきにと?」

 直熙なおひろが先回りして政次まさつぐにそうたずねるや、政次まさつぐうなずいた上で、

もっとも、あとの五百両は払うつもりはなかったがの…」

 そう付け加えた。

「そは…」

「そなたがお察しの通りよ…」

「されば彦大夫ひこだゆうの口をふうずるつもりであったと?」

如何いかにも…、されば森山もりやま忠三郎ちゅうざぶろうはこれからも治済はるさだ卿の忠実なるしもべとして大いに使い道があるというものだが、ひるがえって彦大夫ひこだゆうめは忠実なるしもべどころか危険きわまりない存在であるでな…」

成程なるほど…」

 どうやら彦大夫ひこだゆうはどのみち死ぬ運命であったようだ。千穂ちほ種姫たねひめの暗殺計画に乗った時点で…。

「ところでそれなそえじょう…、森山もりやまなにがし重田しげた彦大夫ひこだゆうの両名に対して手交しゅこうせし、治済はるさだ卿ご直筆じきひつによる、おそれ多くも、お千穂ちほ方様かたさま種姫たねひめ様のお二人のお命をうばたてまつりしことに力を貸して欲しいとの、そのそえじょう如何いかがいたした?」

「されば忠三郎ちゅうざぶろう流石さすざにその場にてしてくれたわ…」

「と申すと、彦大夫ひこだゆうはさしずめどこぞに隠して、あとの五百両を受けるまでは渡さぬとでも?」

左様さよう…、もっとも今も申した通り、いずれにしろ…、例え、彦大夫ひこだゆう手交しゅこうせしそえじょうを回収できずとも、彦大夫ひこだゆうの口さえふうじてしまえばどうとでもなる…」

 政次まさつぐは平然とそう答えた。

「ときに豊前ぶぜんよ…」

「何だ?」

「そのそえじょうだがの…、それが初めてではあるまい?」

「なに?」

「されば…、かつて廣敷ひろしきばんかしらつとめておった若林わかばやし平左衛門へいざえもんとその相役あいやく木室きむろ七左衛門しちざえもんの両名に対してもやはりそえじょうを…、治済はるさだ卿ご直筆じきひつそえじょう手交しゅうこうしたのではあるまいか?」

 直熙なおひろのこの問いに対しては忠次郎ちゅうじろうは元より、彦大夫ひこだゆうも首をかしげたものである。

 一方、それとは好対照な反応を示したのが他ならぬ政次まさつぐであり、まずは目を丸くし、いで諦念ていねんのような表情を浮かべた。

「そこまで存じておったか…」

 政次まさつぐはポツリとそうつぶやいた。

「されば認めるのだな?おそれ多くもだい様や萬壽ますひめ様がことを…、このお二人をも毒殺どくさつせしことを…」

 政次まさつぐがそう告げると、忠次郎ちゅうじろうは「何ですとっ!?」と頓狂とんきょうな声を張り上げ、一方、彦大夫ひこだゆうさらに目を丸くした。どうやら彦大夫ひこだゆうだい様こと正室せいしつ倫子ともことその娘の萬壽ますひめ毒殺どくさつには関わっていないことが見て取れた。

 だがそうとは気付かぬ忠次郎ちゅうじろうは、「やはりこれな重田しげた彦大夫ひこだゆうめが?」と直熙なおひろたずねたものだから、彦大夫ひこだゆうは何度も頭を振ったものである。

「いや、彦大夫ひこだゆうめはその件に関しては関わりあるまいて…、そうであろう?」

 直熙なおひろ政次まさつぎたずねると、政次まさつぐは「左様さよう…」と答えた上で、倫子ともこ萬壽ますひめ毒殺どくさつについてもはくし始めた。

 やはり将軍・家治や意知おきともらが推理した通りであった。すなわち、倫子ともこの食事、それも夕食のどくになった廣敷ひろしきばんかしら若林わかばやし平左衛門へいざえもん忠隆ただたかと、同じく萬壽ますひめの夕食のどくになった廣敷ひろしきばんかしら木室きむろ七左衛門しちざえもん朝濤ともなみは両名共に、どくになうどころかその夕食に毒キノコを混入こんにゅうし、それをそのままいでどくになうそれぞれの…、千穂ちほづき種姫たねひめづきそれぞれのちゅう年寄どしよりの元へと毒キノコを混入こんにゅうさせた夕食を運び、それに対してちゅう年寄どしよりにしても、

治済はるさだの手が回っており…」

 どくをせずにそのまま、己がつかえる千穂ちほ種姫たねひめの元へとその毒キノコ入りの夕食を運んだとのことである。

「されば若林わかばやし平左衛門へいざえもん木室きむろ七左衛門しちざえもんの両名もまた一橋ひとつばし家と縁が?」

 そうたずねる忠次郎ちゅうじろうに対して、政次まさつぐなおに答えた。

左様さよう…、されば若林わかばやし平左衛門へいざえもんは長女がやはり一橋ひとつばし家のちゅう伊東いとう半左衛門はんざえもん祐次すけつぐもとへとしており、一方、木室きむろ七左衛門しちざえもん実弟じってい藤右衛門とうえもん朝高ともたか治済はるさだ卿につかたてまつり…」

「その二人に対して…、若林わかばやし平左衛門へいざえもんにはだい様の毒殺どくさつを、木室きむろ七左衛門しちざえもんには萬壽ますひめ様の毒殺どくさつをそれぞれ持ちかけた際に…、やはりそなたから持ちかけた際にそえじょうを…、治済はるさだ卿ご直筆じきひつそえじょう手交しゅこうしたわけだの?」

 直熙なおひろたずねると政次まさつぐうなずいた。

「さればちゅう年寄どしよりには…、だい様に附属ふぞくせしちゅう年寄どしより岩田いわたと、萬壽ますひめ様に附属ふぞくせしちゅう年寄どしより高橋たかはし、この両名に対しては治済はるさだ卿より直々じきじきに協力を?だい様と萬壽ますひめ様の毒殺どくさつに力を貸してくれるよう、大奥へと上がりし折にでも…」

 直熙なおひろのその言葉に政次まさつぐはそこまで分かっているのかと、そう言わんばかりに大きく目を見開いたものである。

左様さよう…、もっとくわしいだんりの段階だんかいではわしが…、留守居るすいたるこのわしがやはりなかちをつとめたがの…」

左様さようであったな…、うぬが今の留守居るすいきしは明和6(1769)年…、おそれ多くもだい様がご薨去こうきょ、いや、毒殺されるよりも前であったからの…」

 つまり外出が許されぬ、この大奥にて一生奉公の身のちゅう年寄どしよりであった岩田いわた高橋たかはし、この両名との「コンタクト役」をつとめることが出来たというわけだ。

「ともあれ、そういうわけで、だい様と萬壽ますひめ様、ご両名の毒殺については彦大夫ひこだゆうの出る幕はなかったというわけよ…」

 直熙なおひろ忠次郎ちゅうじろうさとすようにそう言い、忠次郎ちゅうじろうもそれで倫子ともこ萬壽ますひめ毒殺どくさつについては彦大夫ひこだゆう関与かんよしていないことに納得するや、

「されば今すぐにも、岩田いわた高橋たかはしの両名を、いや、それに森山もりやま忠三郎ちゅうざぶろうめもらえねばなりますまいっ」

 そう勢いんだ。それに対して直熙なおひろはいなすように応じた。

高橋たかはし森山もりやまなにがしめに対してはそうであろうが、岩田いわたに対しては今すぐに、というわけにはゆくまいて…」

「何ゆえでござりまするか?」

 首をかしげる忠次郎ちゅうじろうに対して、政次まさつぐが答えた。

「されば岩田いわたとはおとみ方様かたさまなのだ…、とよ千代ちよぎみがご生母せいぼの…」

 忠次郎ちゅうじろうはこれまでにないほど目を丸くした。

「されば…、岩田いわたこと、おとみかた治済はるさだ卿より側妾そくしょうにしてやるとの条件にて、一方、高橋たかはしはこの大奥での出世とひきかえに…、両名の協力を取り付けたのであろう?岩田いわたこと、おとみかただい様の毒殺どくさつに手を貸すことに…、高橋たかはし萬壽ますひめ様の毒殺どくさつに手を貸すことに…、それぞれ仕向しむけたのであろう?治済はるさだ卿は…」

 直熙なおひろがそうかんを働かせるや、政次まさつぐはその後を引き取ってみせた。

「されば、岩田いわたは、おとみ方様かたさまと名を改められて治済はるさだ卿の愛妾あいしょうに…、のみならず、次期将軍のとよ千代ちよぎみのご生母せいぼとなり、一方、高橋たかはしおそれ多くも上様うえさまぞくせしきゃく会釈あしらいに取り立てられたわ…」

 つまりは治済はるさだは約束を守ったのだと、政次まさつぐはそう示唆しさした。
「最期に一つ、たずねる…」

 直熙なおひろ政次まさつぐにそう切り出した。政次まさつぐは果たして「最後」ではなく「最期」と正確に読み取れたであろうかと、直熙なおひろには何とも分からなかったが、ともあれ本題に入った。

「毒キノコのことだが…」

「それが如何いかがいたした?」

「さればそれはシロタマゴテングタケか?あるいはドクツルタケか?」

 直熙なおひろのその「最期」の問いかけに対してはしかし、政次まさつぐは首をかしげた。

「さて、そこまでは…」

 どうやら政次まさつぐも毒キノコのくわしいところまでは治済はるさだより教えてもらっていなかったと見える。

 だがそれからすぐに政次まさつぐは思い出したように、「ああ、なれど…」と声を上げた。

「なれど、何だ?」

 直熙なおひろうながすと、政次まさつぐは驚くべきことを口にした。

「その毒キノコだが、治済はるさだ卿がポツリと、兄に用意してもらったと…」

「何と…、兄とは…」

 直熙なおひろ絶句ぜっくした。治済はるさだの兄と言えば、越前えちぜん福井藩主の松平まつだいら重富しげとみをおいてほかにいなかったからだ。
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