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大詰め ~大奥・御客会釈の砂野と高橋の抵抗~
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その頃、将軍・家治は裃に二本差し…、太刀と脇差を帯びて大奥へと、そしてその大奥の御仏間へと足を運び、そこに安置されている歴代の将軍の位牌を拝んだ。それが将軍としての欠かせぬ日課であり、裃に二本差し…、太刀と脇差を帯るのも、将軍が、
「武門の棟梁」
それであり、今は黄泉にいる歴代の将軍に対して…、位牌に対して己もまた、武門の棟梁たる将軍であると、それをアピールするためであり、そこで武門の棟梁に相応しく、将軍は裃に太刀と脇差を帯びていたのだ。
こうして御仏間にて歴代の将軍の位牌を拝んだ家治はそれから御小座敷之間へと足を運んだ。そこで側室や御年寄、中年寄らの挨拶を受けるためであり、これもまた将軍の日課であった。
愛妻の倫子が健在であった頃は倫子が御年寄たちを御小座敷之間へと引き連れて、将軍たる家治に挨拶したものであるが、それが倫子が亡くなってからというもの…、正確には毒殺されてからというもの、側室の千穂がその役目を担っていた。
家治は型通りの挨拶を受けるや、種姫附の御年寄の向坂を見やった。向坂もまた、種姫と共に将軍・家治の御前に侍っていた。
すると向坂も家治の視線を感じてか、心得ておりますと、そう言わんばかりに家治に会釈してみせた。どうやら昨日のうちに御伽坊主の眞更より向坂へと「話」が通じたものと見える。
案の定、「畏れながら…」と向坂は叩頭しつつ、上段に鎮座する将軍・家治に声をかけた。家治は勿論、即座に「許す」と応じ、向坂を促した。
「されば上様に言上仕りたき儀がござりますれば…」
「ほう…、余に申したきことがあるとな?」
「御意…」
「それは…」
「ここでは…」
差し障りがある…、向坂はそう示唆した。
それに対して家治はと言うと、無論、向坂がこれから己に打ち明けることは大いに差し障りがあるであろうことは承知していたので、
「さればどこか、落ち着いた場所が良いのう…」
そう応ずるや、これまた心得ていた御伽坊主の眞更が、「畏れながら…」と割って入り、家治はやはり即座に「許す」と眞更を促した。眞更もまた、大奥に勤める一人として、将軍への挨拶の場にこうして控えていた。
「されば蔦之間が宜しいかと…」
眞更が口にした蔦之間とは、将軍が御台所や側室と歓談する場所であり、大奥の中でも一番西側、それも端っこにあった。歓談、いや、密談する場所としてはうってつけであろう。
「千穂、良いか?」
御台所であった倫子亡き今、蔦之間はそれゆえ側室の千穂が将軍・家治と歓談する場と化していたので、そこで家治は一応、千穂に許しを求めたのであった。
いや、そもそも許しなど求める必要もなかったが、それでも家治は今や大奥の頂点に君臨する千穂の顔を立てる意味から許しを求めたのであり、千穂もそれぐらいは心得ており、まずは「勿体なきお言葉…」と、千穂は深々と叩頭しつつそう応じたのち、
「上様のお気のままに…」
そう答えたのであった。
「左様か…、かたじけないのう…」
家治はそう応じてから、少し考えた後、
「千穂、お前も参れ」
そう命じたのであった。これから向坂より聞く話は家基の毒殺の一件と深く関わりがあり、しかも今また、千穂やそれに種姫までが…、それどころか将軍たる己自身までが暗殺、それも家基の時と同様、毒殺の危機に瀕していたのだ。
そうであれば向坂より話を聞く場には千穂も陪席させた方が良かろうと、家治はそう思えばこそ、千穂に参れと命じたのであった。
いや、千穂だけではない、種姫に対しても家治は「おことも参れ」と命じたのであった。種姫もまた「当事者」と言えるからだ。
するとその段になって、かつての種姫附の中年寄で今は将軍・家治附の御客会釈の砂野が如何にも、
「堪らず…」
といった様子で、それも隠そうともせずに、「畏れながら」と声を上げた。
「何だ?」
家治は砂野に悟られぬよう、「何だ?」と愛想良く応じた。
「されば畏れ多くも上様に申し上げたき儀とは…」
砂野は向坂の方を向いて尋ねた。同じく御客会釈の高橋も気になるものと見え、砂野とそれに向坂を交互に見比べた。
それに対して向坂はと言うと、当然、その問いに答える筈もなく、代わりに家治に助けを求めるかのような眼差しを向けてきた。
そこで家治はそれまでの「菩薩」から、「夜叉」へと表情を一変させた。
「何ゆえに、おことに一々、知らせねばならぬのだ?」
家治のその重々しい声は砂野を震え上らせるに充分過ぎた。
それでも砂野は勇気を振り絞り、それでも小声であったが、「前例が…」と反論したものである。
成程、将軍と御台所や側室との歓談の部屋である蔦之間において、年寄が将軍に何か話をするなど前例がないというわけだ。
「さればこそ、千穂を陪席させるのだ。それで何の問題がある?」
蔦之間の住人とも言うべき千穂を同席させるのだから例え、前例がなくとも一向に差し支えあるまい…、家治は砂野にそう示唆するや、流石に砂野も黙り込んだ。
すると今度は何と、高橋へと「バトンタッチ」、高橋が難癖をつけてきた。
「畏れながら…、何ゆえに種姫様までが…」
同席が許されるのか、それが分からないと高橋は難癖をつけてきたのであった。
するとこれには意外にも向坂が毅然とした様子で答えた。
「されば種姫様にかかわることゆえ…、身は種姫様に仕えし年寄なれば…」
本当は千穂にもかかわることだが、千穂の名まで出してしまえば、高橋や砂野を…、かつて家治の愛娘の萬壽姫の毒殺に手を貸した高橋や、それに家基の毒殺に手を貸した砂野を警戒させてしまうやも知れなかったからだ。
さらに言うなら今度は将軍・家治の毒殺にまで手を貸そうと…、黙認しようとしている高橋や砂野を警戒させてしまう…、いよいよ将軍・家治の命までをも奪う件については砂野にしろ高橋にしろ、留守居の依田政次より聞いている可能性が高かったからだ。
ともあれ、家治は「これ以上は穿鑿無用」とやはり重々しい声でもって高橋を黙らせると、眞更の案内にて、千穂と種姫、そして向坂を引き連れて蔦之間へと足を運んだ。
「武門の棟梁」
それであり、今は黄泉にいる歴代の将軍に対して…、位牌に対して己もまた、武門の棟梁たる将軍であると、それをアピールするためであり、そこで武門の棟梁に相応しく、将軍は裃に太刀と脇差を帯びていたのだ。
こうして御仏間にて歴代の将軍の位牌を拝んだ家治はそれから御小座敷之間へと足を運んだ。そこで側室や御年寄、中年寄らの挨拶を受けるためであり、これもまた将軍の日課であった。
愛妻の倫子が健在であった頃は倫子が御年寄たちを御小座敷之間へと引き連れて、将軍たる家治に挨拶したものであるが、それが倫子が亡くなってからというもの…、正確には毒殺されてからというもの、側室の千穂がその役目を担っていた。
家治は型通りの挨拶を受けるや、種姫附の御年寄の向坂を見やった。向坂もまた、種姫と共に将軍・家治の御前に侍っていた。
すると向坂も家治の視線を感じてか、心得ておりますと、そう言わんばかりに家治に会釈してみせた。どうやら昨日のうちに御伽坊主の眞更より向坂へと「話」が通じたものと見える。
案の定、「畏れながら…」と向坂は叩頭しつつ、上段に鎮座する将軍・家治に声をかけた。家治は勿論、即座に「許す」と応じ、向坂を促した。
「されば上様に言上仕りたき儀がござりますれば…」
「ほう…、余に申したきことがあるとな?」
「御意…」
「それは…」
「ここでは…」
差し障りがある…、向坂はそう示唆した。
それに対して家治はと言うと、無論、向坂がこれから己に打ち明けることは大いに差し障りがあるであろうことは承知していたので、
「さればどこか、落ち着いた場所が良いのう…」
そう応ずるや、これまた心得ていた御伽坊主の眞更が、「畏れながら…」と割って入り、家治はやはり即座に「許す」と眞更を促した。眞更もまた、大奥に勤める一人として、将軍への挨拶の場にこうして控えていた。
「されば蔦之間が宜しいかと…」
眞更が口にした蔦之間とは、将軍が御台所や側室と歓談する場所であり、大奥の中でも一番西側、それも端っこにあった。歓談、いや、密談する場所としてはうってつけであろう。
「千穂、良いか?」
御台所であった倫子亡き今、蔦之間はそれゆえ側室の千穂が将軍・家治と歓談する場と化していたので、そこで家治は一応、千穂に許しを求めたのであった。
いや、そもそも許しなど求める必要もなかったが、それでも家治は今や大奥の頂点に君臨する千穂の顔を立てる意味から許しを求めたのであり、千穂もそれぐらいは心得ており、まずは「勿体なきお言葉…」と、千穂は深々と叩頭しつつそう応じたのち、
「上様のお気のままに…」
そう答えたのであった。
「左様か…、かたじけないのう…」
家治はそう応じてから、少し考えた後、
「千穂、お前も参れ」
そう命じたのであった。これから向坂より聞く話は家基の毒殺の一件と深く関わりがあり、しかも今また、千穂やそれに種姫までが…、それどころか将軍たる己自身までが暗殺、それも家基の時と同様、毒殺の危機に瀕していたのだ。
そうであれば向坂より話を聞く場には千穂も陪席させた方が良かろうと、家治はそう思えばこそ、千穂に参れと命じたのであった。
いや、千穂だけではない、種姫に対しても家治は「おことも参れ」と命じたのであった。種姫もまた「当事者」と言えるからだ。
するとその段になって、かつての種姫附の中年寄で今は将軍・家治附の御客会釈の砂野が如何にも、
「堪らず…」
といった様子で、それも隠そうともせずに、「畏れながら」と声を上げた。
「何だ?」
家治は砂野に悟られぬよう、「何だ?」と愛想良く応じた。
「されば畏れ多くも上様に申し上げたき儀とは…」
砂野は向坂の方を向いて尋ねた。同じく御客会釈の高橋も気になるものと見え、砂野とそれに向坂を交互に見比べた。
それに対して向坂はと言うと、当然、その問いに答える筈もなく、代わりに家治に助けを求めるかのような眼差しを向けてきた。
そこで家治はそれまでの「菩薩」から、「夜叉」へと表情を一変させた。
「何ゆえに、おことに一々、知らせねばならぬのだ?」
家治のその重々しい声は砂野を震え上らせるに充分過ぎた。
それでも砂野は勇気を振り絞り、それでも小声であったが、「前例が…」と反論したものである。
成程、将軍と御台所や側室との歓談の部屋である蔦之間において、年寄が将軍に何か話をするなど前例がないというわけだ。
「さればこそ、千穂を陪席させるのだ。それで何の問題がある?」
蔦之間の住人とも言うべき千穂を同席させるのだから例え、前例がなくとも一向に差し支えあるまい…、家治は砂野にそう示唆するや、流石に砂野も黙り込んだ。
すると今度は何と、高橋へと「バトンタッチ」、高橋が難癖をつけてきた。
「畏れながら…、何ゆえに種姫様までが…」
同席が許されるのか、それが分からないと高橋は難癖をつけてきたのであった。
するとこれには意外にも向坂が毅然とした様子で答えた。
「されば種姫様にかかわることゆえ…、身は種姫様に仕えし年寄なれば…」
本当は千穂にもかかわることだが、千穂の名まで出してしまえば、高橋や砂野を…、かつて家治の愛娘の萬壽姫の毒殺に手を貸した高橋や、それに家基の毒殺に手を貸した砂野を警戒させてしまうやも知れなかったからだ。
さらに言うなら今度は将軍・家治の毒殺にまで手を貸そうと…、黙認しようとしている高橋や砂野を警戒させてしまう…、いよいよ将軍・家治の命までをも奪う件については砂野にしろ高橋にしろ、留守居の依田政次より聞いている可能性が高かったからだ。
ともあれ、家治は「これ以上は穿鑿無用」とやはり重々しい声でもって高橋を黙らせると、眞更の案内にて、千穂と種姫、そして向坂を引き連れて蔦之間へと足を運んだ。
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