天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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益五郎は新番士・佐野善左衛門政言から聴取した内容を田沼意知と長谷川平蔵の二人に伝える 2

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 意知おきともの言う通り、佐野さの善左衛門ぜんざえもんもまた、一橋ひとつばし派にくらえしようとほっしていた新番しんばんであった。

 佐野さの善左衛門ぜんざえもん元来がんらい、いずれのばつ…、さんきょうばつグループにもぞくしてはいなかった。

 それと言うのも、佐野さの善左衛門ぜんざえもん自身は田安たやす家と縁があったからだ。

 佐野さの善左衛門ぜんざえもんほんすじに当たる佐野さの藤之丞ふじのじょう政利まさとしという人物がいるのだが、その佐野さの藤之丞ふじのじょうの次女のとつさきこそが、田安たやす家にて用人ようにん重職じゅうしょくにある杉浦すぎうら猪兵衛いへえ良昭よしあきちゃくなん仙之丞せんのじょう美啓おさひろであった。

 のみならず、三女はその杉浦すぎうら猪兵衛いへえ養女ようじょとしてむかえられ、また、なん杉浦すぎうら猪兵衛いへえ実弟じっていにして、やはり田安たやす家にてきんじゅうとしてつかえる杉浦すぎうら兵左衛門へいざえもん洪嘉ひろよしよう嗣子ししとしてむかえられたのであった。

 いや、何より同じく、善左衛門ぜんざえもんほんすじにして、今は遠国おんごく奉行ぶぎょうであるさかい奉行ぶぎょうようしょくにある佐野さの備後守びんごのかみ政親まさちか叔父おじ與五郎よごろう政峰まさみねもまた、近習きんじゅうとして田安たやす家にてつかえていた。

 事程ことほどように、佐野さの善左衛門ぜんざえもん田安たやす家と縁があり、善左衛門ぜんざえもん当人とうにん田安たやす派のしきが強かった。

 それが安永あんえい8年に家基いえもとくなり、いや、殺され、そして家基いえもとわる次期将軍として一橋ひとつばし家より、当主とうしゅ治済はるさだ実子じっしとよ千代ちよ内定ないていするや、

「この際、一橋ひとつばし派にくらえしては…」

 善左衛門ぜんざえもんにそうささやく者があったそうな。他でもない、善左衛門ぜんざえもん実姉じっしが弟の善左衛門ぜんざえもんにそうささやいたそうな。

 それと言うのも、善左衛門ぜんざえもん実姉じっし一橋ひとつばし家にてばんがしらようしょくにある小宮山こみやま利助りすけ昌則まさのりちゃくなん義藤次ぎとうじ長則ながのりもとしていたからだ。

 善左衛門ぜんざえもんの実の姉として、弟・善左衛門ぜんざえもんの身の振り方については、他家たけへととついだ今でも気になるらしい。

 いや、その婚家こんか一橋ひとつばし家と縁がある…、それもしゅうと一橋ひとつばし家にてばんがしらようしょくにあるとなれば、尚更なおさら、実の弟に…、新番しんばんとして今は田安たやす派にぞくする実の弟に対して、次期将軍をはいしゅつすることが内定ないていしている一橋ひとつばし派へとくらえすることをすすめたくなるというものであろう。

佐野さの善左衛門ぜんざえもんなる者はそこまでおことに打ち明けたのか?」

 意知おきともは首をかしげつつ、益五郎ますごろうに尋ねた。そのようなうちばなし外者がいしゃである益五郎ますごろうにわざわざ打ち明ける佐野さの善左衛門ぜんざえもんという男のその思考しこう回路かいろ意知おきともにはどうにも理解できなかったからだ。

「いや、その佐野さの善左衛門ぜんざえもんって野郎、どうやら一橋ひとつばし派へのくらえを後悔こうかいしている様子ようすで…」

「それは…、益五郎ますごろうの印象か?」

 平蔵が口をはさんだ。

「ああ。何しろ、おく池原いけはら斬殺ざんさつ、のみならず、家基いえもと様殺害の有力なしゅにんとして、清水重好しげよし共々ともども一橋ひとつばし治済はるさだまでがじょうしてるってのはもう、もっぱらのうわさだっけか?それだから、田安たやす派から一橋ひとつばし派へとくらえしたのを後悔こうかいしてんじゃねぇか、って…」

一橋ひとつばし派へとくらえなどせずに、田安たやす派にとどまっていれば良かった、と?」

 意知おきともが確かめるようにそうたずねると、益五郎ますごろううなずいた上で、

「まぁ、俺の印象、ってやつだがな…」

 そう付け加えることを忘れなかった。

「いや、存外ぞんがい、当たっているやも知れぬぞ?益五郎ますごろうかんは…」

 平蔵がそう応じた。

「マジか?」

 益五郎ますごろういぶかしげなせんを平蔵にそそいだ。適当てきとうに話を合わせているのではないか…、そう疑っているせんであり、すると平蔵もそうと気付いて、

「決して、適当てきとうに話を合わせているわけではないぞ…」

 苦笑まじりにそう答えた。

「なら、どうしてそう思う?」

 益五郎ますごろうめずらしく食い下がった。平蔵のことが気になるあかしであろう。

「お前が…、益五郎ますごろう意知おきともさん…、いや、田沼様を筆頭ひっとうに、俺やそれに益五郎ますごろうおそれ多くも大納言だいなごん様をがいたてまつりし黒幕くろまく探索たんさくせしことも勿論もちろん、その佐野さの善左衛門ぜんざえもんなる者、しょうしているであろうぞ…」

 平蔵は大納言だいなごん、こと家基いえもとの名を口にすることから、えて堅苦かたくるしい調ちょうになった。

 それに対して益五郎ますごろうはと言うと、そんなことはおかまいなしとばかり、

「ああ。その佐野さの善左衛門ぜんざえもんからも確か、そんなこと、かれたっけかな…、家基いえもと様殺しと、そこからせいしているおく池原いけはら殺しを探索たんさくしてんのか、って…、確かめるように…」

 その時のようを思い出しつつ、そう応じた。

「そうであれば、佐野さの善左衛門ぜんざえもんとしても、仮にその…、おそれ多くも大納言だいなごん様をがいたてまつりし黒幕くろまく一橋ひとつばし治済はるさだであった時のことに思いをめぐらしているのであろうぞ…」

「ああ、それで…、俺のかんばたらきってヤツに…、佐野さの善左衛門ぜんざえもん田安たやす派から一橋ひとつばし派にくらえしたことを後悔こうかいしてんじゃねぇか、って俺のそのかんにつながるわけか…」

 益五郎ますごろう合点がてんがいったようでそう応じた。

よう…、いや、のみならず、そなたを通じて、田沼様に…、意知おきとも様によしみを通じようとほっしているのやも知れぬぞ…」

佐野さの善左衛門ぜんざえもんが、か?」

 益五郎ますごろうがそう確かめるように尋ねると、平蔵はうなずき、その理由について益五郎ますごろうに語って聞かせた。

「されば…、仮におそれ多くも大納言だいなごん様をがいたてまつりし黒幕くろまく一橋ひとつばし治済はるさだであったとして、その場合には新番組しんばんぐみ内にて一橋ひとつばし派にぞくせし者たち…、新番しんばんは将来を失ったも同然どうぜんと申しては言い過ぎやも知れぬが、少なくとも、田安たやす派や清水派にぞくせし新番しんばんくらぶれば、大幅おおはばに出世の速さという点においておくれを取るはひつじょう…」

 平蔵にそこまで示唆しさされた益五郎ますごろうは話が見えて来た。

「なぁる…、佐野さの善左衛門ぜんざえもんもその一人…、出世の速さとやらで遅れを取る一人だから、それを…、その遅れを取り戻すべく、ってことで、俺を通じて田沼様を頼ろうと…、そんで、色んなことを…、聞いちゃいねぇのに、わざわざてめぇのうちばなしまで打ち明けてくれたってことか?この俺に…」

 益五郎ますごろうが平蔵の言葉を引き取ってみせると、平蔵はその通りだとばかり、うなずいた。

 まったそくな野郎が…、益五郎ますごろう佐野さの善左衛門ぜんざえもんに対してけんかんいたものの、しかし、そんな佐野さの善左衛門ぜんざえもん生き方…、あくまで出世にこだわる生き方そのものまで否定する気にはなれなかった。益五郎ますごろうがあくまで出世をものともせずにバサラをつらぬくのと同じように、佐野さの善左衛門ぜんざえもんのようにあくまで出世をつらぬく生き方もまた、当然、認められるべきだからだ。

「ところで、益五郎ますごろう新番所しんばんしょまえ廊下ろうかにて聞き込みを…、佐野さの善左衛門ぜんざえもんより話をいていた折、小栗おぐり武右衛門ぶえもんはおらなんだか?」

 平蔵はその疑問を口にした。益五郎ますごろう新番所しんばんしょまえ廊下ろうかにて佐野さの善左衛門ぜんざえもんより小栗おぐり武右衛門ぶえもんについて話をいていたのは日中、少なくとも宿直とのいが始まる前のくれ六つ(午後6時頃)よりも前であり、それゆえ平蔵のその疑問は小栗おぐり武右衛門ぶえもん宿直とのいであったか否かを問うものでもあった。

 たして益五郎ますごろうの答えは、平蔵が思いえがいた通り、

「いや、小栗おぐりは昨日から…、昨日のくれ六つ(午後6時頃)から翌日…、今日のあけ六つ(午前6時頃)まで宿直とのいとかで、いなかったぜ」

 小栗おぐり武右衛門ぶえもん宿直とのいであったために、新番所しんばんしょまえ廊下ろうかにはざいとのことであった。

左様さようか…、小栗おぐり武右衛門ぶえもんざいであったか…」

 平蔵はそう反芻はんすうした。

「ああ。ってか、小栗おぐり武右衛門ぶえもんだけじゃねぇけどな…」

宿直とのいが、か?」

「ああ」

 益五郎ますごろうがそう答えたのをの当たりにして、平蔵はわざわざ当たり前のことを…、とそう思いつつも、それは言葉にはせずに、

「まぁ、それはその通りであろうな…」

 そう応ずるにとどめた。新番組しんばんぐみは1組につき1人のばんがしらとその直属の部下ぶかである1人のくみがしら、そしてさらにその下に20人ものヒラのばんという構成こうせいであった。

 そして新番組しんばんぐみ1組につき、その半数が朝番あさばん、残る半数が宿直とのいというルーティンであり、その中にはばんがしらくみがしらふくまれていた。

 すなわち、くみがしらとヒラのばん20人のうち半数の10人が朝番あさばんつとめ、ばんがしらとそれに別の10人のヒラばん宿直とのいつとめるというルーティンであり、ちなみに1組のばんがしらくみがしらが同時に朝番あさばんあるいは宿直とのいつとめるということはあまりなく、昨日から今日にかけてもそうであった。

「いや、俺が言いたいのは…、って佐野さの善左衛門ぜんざえもんから聞いた話なんだけど、そんな当たり前のことじゃなくって、猪飼いかいの野郎も宿直とのいってことなんだよ」

猪飼いかい…、新番組しんばんぐみ内におけし一橋ひとつばし派の頭目とうもくの?」

「ああ…、それと言うのもだ、猪飼いかいって野郎も、佐野さの善左衛門ぜんざえもんも、小栗おぐり武右衛門ぶえもんも皆、三番組なんだが、その三番組内で猪飼いかいを始めとする一橋ひとつばし派の連中、それもおもだった面々めんめんは皆、宿直とのいつとめてる…、いや、佐野さの善左衛門ぜんざえもんの口振りだとつとめられるってんで、実にくちしい、っつかうらやましいって、そんな感じだったぜ…」

 益五郎ますごろうの思わぬ告白に、意知おきともと平蔵は二人共、内心ないしんはげしく動揺どうようした。

 平蔵は、そして意知おきとももそれを…、内心ないしん動揺どうよう益五郎ますごろうさとられまいと、極力きょくりょく平静へいせいさをよそおいつつ、平蔵が問いをかさねた。

一橋ひとつばし派のおもだった面々めんめんと申したが、たい的には?」

 たして益五郎ますごろうに答えられるか…、おぼえているか、平蔵にははなはだ、自信がなかった。意知おきとももそれは同様どうようであるらしく、それでもたいする平蔵とは対照的に、たいして期待していない様子であった。

 すると益五郎ますごろうかいちゅうより何やら書付かきつけを取り出したかと思うと、それを平蔵にわたした。その書付かきつけにはれいな字でもって人の名前が書きつらねてあった。

 明らかに益五郎ますごろうの字ではない…、平蔵にしろ意知おきともにしろそう思った。するとそんな二人の胸のうちが益五郎ますごろうにも聞こえたものか、

勿論もちろん、俺の字じゃねぇぜ?」

 そう答えた。

「と申すと…、さしずめ佐野さの善左衛門ぜんざえもんの字か?」

 平蔵がそう尋ねたので、益五郎ますごろううなずいた。

「だとするならば…、益五郎ますごろうが頼んだのか?一体、誰が猪飼いかい五郎兵衛ごろべえ宿直とのいつとめるのか、と…」

 平蔵がそうかんはたらかせた。いや、わざわざかんはたらかせるまでもなく、当然、みちびき出される疑問と言えようか。

 ともあれ、益五郎ますごろうは、「ああ、その通りだ」と実にあっさりと認めたかと思うと、

「ちょっと気になっただけなんだがな…、いや、佐野さの善左衛門ぜんざえもんがあんましうらやましそうな口振りだったから…、たかが、宿直とのいつとめられるだけなのに…」

 その理由をも付け加えた。これぞまさしくかんばたらきと言えよう。

 ともあれ善左衛門ぜんざえもんの手によるその書付かきつけには、

萬年まんねん六三郎ろくさぶろう頼豊よりとよ

田澤たざわ傳左衛門でんざえもん正斯まさこれ

白井しらい主税ちから利庸としつね

細田ほそだ三右衛門さんえもん時賢ときかた

鈴木すずき清右衛門せいえもん友光ともみつ

根本ねもと大八郎だいはちろう成員なりただ

小池こいけ甚兵衛じんべえ充方みちかた

本間ほんま主税ちから高郡たかくに

 以上の8人の名が…、新番しんばんしの名がしたためられていた。

「この者たちは皆、一橋ひとつばし家とえにしがある、と…」

 平蔵よりその書付かきつけ…、佐野さの善左衛門ぜんざえもんの手による書付かきつけを受け取り、斜め読みした意知おきともはそうつぶやいた。

「ああ」

 益五郎ますごろうがそうしゅこうするや、意知おきともは「話を聞いてみたいのう…」とさらに続けた。

佐野さの善左衛門ぜんざえもんより話を…、この者たちについてさらくわしく…、ことに一橋ひとつばし家との関係について、でござりまするな?」

 平蔵がさきまわりしてそう尋ねたので、意知おきともうなずき、すると今度は平蔵が佐野さの善左衛門ぜんざえもんを呼びに行くべく、新番所しんばんしょまえ廊下ろうかへと足を運んだ。すでに今はあけ六つ(午前6時頃)を一刻(約2時間)以上も経過した朝五つ(午前8時頃)過ぎであり、そうであればあけ六つ(午前6時頃)より勤務が始まる朝番の佐野さの善左衛門ぜんざえもんは必ずや、その勤務場所とも言うべき新番所しんばんしょまえ廊下ろうかめているはずであったからだ。
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