天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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益五郎は新番士・佐野善左衛門政言から聴取した内容を田沼意知と長谷川平蔵の二人に伝える

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 翌朝…、4月3日の朝五つ(午前8時頃)、江戸城本丸ほんまる中奥なかおくにあるさんきょうろう詰所つめしょにて一泊いっぱくした意知おきともと平蔵の元に、鷲巣わしのすますろうがそれこそ、

「朝イチで…」

 姿を見せたのであった。

 おく医師いし池原いけはら良誠よしのぶ斬殺ざんさつ事件、そして家基いえもと謀殺ぼうさつ事件の真相を暴く、さしずめ、

「チームの一員いちいん…」

 あるいは「相棒あいぼう」とも呼ぶべき、鷲巣わしのすますろうとは昨日、きゅうそくで別れたきりであった。

 意知おきともは、そして平蔵も特にますろうに対して何か指示しじしたわけではなかったものの、しかし、ますろうは己の判断で適確てきかくに動いたのであった。

 すなわち、新番しんばん小栗おぐり武右衛門ぶえもん正遊まさおきの聞き込みを行ったのであった。

 小栗おぐり武右衛門ぶえもんとは他でもない、例の、池原いけはら良誠よしのぶ斬殺ざんさつしたしゅにんが、比丘尼びくにばしまで追跡ついせきしてきたますろうを前にして、意次が一橋ひとつばし治済はるさだおくったむらさき袱紗ふくさ、そいつを無断で持ち出し、姿をくらませた、一橋ひとつばし家にて納戸なんどがしら…、贈答品ぞうとうひんを管理する納戸なんどがしらのお役にある高橋たかはし又四郎またしろう正美まさよし実兄じっけいである。

 本来ならばこれでしゅにん…、家基いえもと謀殺ぼうさつし、さらにそのえんちょうせんじょうにあると思われる池原いけはら良誠よしのぶ斬殺ざんさつ事件、これらすべて事件の黒幕くろまく一橋ひとつばし治済はるさだしているように思われるが、しかし、小栗おぐり武右衛門ぶえもん高橋たかはし又四郎またしろう兄弟の間にはさらに、小栗おぐり太郎左衛門たろうざえもん正長まさなが山下やました吉左衛門きちざえもん正幸まさとよという兄弟がいるのだが、この兄弟は何と清水しみず重好しげよしつかえているのであった。

 そうであれば、清水しみず重好しげよし一橋ひとつばし治済はるさだおとしいれるべく、治済はるさだつかえる、それも贈答品ぞうとうひん管理かんりする納戸なんどがしらとしてつかえる高橋たかはし又四郎またしろうを仲間に引き入れ、そのむらさき袱紗ふくさを持ち出させてと、その可能性も考えられた。

 そこで益五郎ますごろう新番しんばんにしてちょうけいである小栗おぐり武右衛門ぶえもんについて、その人となりについて知れば、何か分かるのではないかと、そこで小栗おぐり武右衛門ぶえもん所属しょぞくする三番組に聞き込みを行ったそうな。

「それにしても、小栗おぐり武右衛門ぶえもんが三番組にぞくしておりしこと、よう分かったものだの…」

 平蔵は感心したようでそう言った。

 すると益五郎ますごろうは、「んなこと、わけもねぇよ」とべらんめぇ調で応じた。

「と申すと?」

 平蔵は首をかしげた。意知おきともも分からずにそうした。

「決まってんだろ?ちょくいたんだよ」

いた、とは?」

本所ほんじょてつにしちゃ、にぶいね…、新番しんばんくみがしらちょくいたんだよ…」

 益五郎ますごろうはそれから、小栗おぐり武右衛門ぶえもん新番しんばんとして三番組に所属しょぞくしていることを知った経緯いきさつについて説明した。

 昨日の昼八つ(午後2時頃)、いや昼の八つ半(午後3時頃)になろうか、そのぶん休息きゅうそくをあとにした益五郎ますごろうはその足で中奥なかおくから時斗之間とけいのまを抜けておもてむきへと出ると、すぐの所にある新番しんばんしょまえ廊下ろうか通称つうしょう

つちけいつぎ

 あるいは時斗之間とけいのまつぎへと足を踏み入れた。そこが新番しんばん詰所つめしょ、それも平日へいじつにおける勤務場所だからだ。

 新番しんばん勤務きんむ場所はその新番しんばんしょまえ廊下ろうかとなりにある新番しんばんしょ、というのが建前たてまえであった。

 実際には新番しんばんは160人、存在そんざいする。すなわち、新番しんばん1組につき20人ものヒラのばん…、新番しんばん存在そんざいし、それが6組あり120人というわけだ。

 いや、そこに6人の新番しんばんがしらと、そのちょくぞくの部下とも言うべき組頭くみがしらの6人をもふくめれば132人になろうか。

 いや、実際には朝番ととまりばん、つまりは宿直とのいの交代制であり、あけ六つ(午前6時頃)、くれ六つ(午後6時頃)の二交代制であり、朝番はあけ六つ(午前6時頃)からくれ六つ(午後6時頃)まで、そしてとまりばん…、宿直とのいくれ六つ(午後6時頃)からあけ六つ(午前6時頃)まで、というのが新番組しんばんぐみの「ルーティン」であった。

 それゆえ、実際には1日にかけて新番所しんばんしょめる新番しんばんと言えば、そのちょうど半数はんすうに当たる66人というわけだが、しかし、66人という数字も多いだろう。少なくとも、新番所しんばんしょには到底とうてい収容しゅうようしきれない人数である。

 そこで、実際には勤務場所である新番所しんばんしょよこにある廊下ろうかけいつぎあるいは時斗之間とけいのまつぎともしょうされる、

新番所しんばんしょまえ廊下ろうか

 そこにめることとなる。

 もっとも、新番所しんばんしょまえ廊下ろうかめるのはヒラのばんのみであり、新番しんばんがしらは本来の勤務場所とも言うべき新番所しんばんしょめており、またそのちょくぞくの部下であるくみがしらはやはり新番所しんばんしょよこにある桔梗之間ききょうのまめることになっていた。

 ちなみに、新番所しんばんしょまえ廊下ろうかは平日の昼には毎日、おこなわれる老中の「まわり」のコース上にあり、その折、新番所しんばんしょまえ廊下ろうかにおいては同朋どうほうがしら数奇屋すきやがしらひかえて、彼らが「まわり》」に訪れた老中をむかえることになっていたので、それゆえ、昼前になると、新番所しんばんしょまえ廊下ろうかめているヒラの新番しんばんはいったん、彼ら同朋どうほうがしら数奇屋すきやがしらと入れわるようにして、部屋をあとにし、くみがしらめている桔梗之間ききょうのまへと向かう。桔梗之間ききょうのま新番所しんばんしょまえ廊下ろうかよりも広く、それゆえヒラの新番しんばんゆうしゅうようできるからだ。

 そして昼過ぎ、老中の「まわり」を終えて、同朋どうほうがしら数奇屋すきやがしら新番所しんばんしょまえ廊下ろうかより退たいしゅつしただろうと、ヒラの新番しんばんはそうはからうと、ふたたび、新番所しんばんしょまえ廊下ろうかへともどることになる。

 ともあれ益五郎ますごろうはもう昼過ぎであったので、つまりは昼の老中の「まわり」はとうの昔に終わっていたので、それゆえ新番所しんばんしょまえ廊下ろうかへと足を向けたというわけだ。

「それにしても、新番しんばん新番所しんばんしょまえ廊下ろうかにてめておるよし、よう分かったな…」

 平蔵は目を丸くしてそう告げた。どうやら益五郎ますごろう無知むち蒙昧もうまい看做みなしている様子がありありとうかがえ、これには益五郎ますごろう流石さすが不快ふかいきんなかった。

「俺だって、そんぐれえ知ってら」

 益五郎ますごろう不快ふかいな様子でそう応じたので、平蔵も流石さすが失言しつげんと気付き、「あっ、いや、済まなんだ」と素直すなおびた。

「して、聞き込みの成果せいかは?」

 意知おきとも益五郎ますごろうに先をうながした。

 すると益五郎ますごろうもいつまでも怒りを引きずるような男ではない。気を取り直して、先を続けた。

結論けつろんから言っちまうと、小栗おぐり武右衛門ぶえもんって野郎は一橋ひとつばしと仲が良さそうだぜ。清水よりもな」

 益五郎ますごろうのその答えを耳にした意知おきともと平蔵は思わず、たがいの顔を見合みあった。

「そはまことか?」

 意知おきともとしては益五郎ますごろうが嘘をついているとも思えなかったが、それでも一応いちおうたしかめずにはいられなかった。

「ああ、マジだぜ」

 それから益五郎ますごろうくわしい聞き込みの内容を意知おきともと平蔵に語り始めた。

 すなわち、新番所しんばんしょまえ廊下ろうかへと足を向けた益五郎ますごろうはそこで大胆だいたんてきにも、

小栗おぐり武右衛門ぶえもんって野郎はいるかぁ?」

 そう60人ものヒラの新番しんばんに対して声をかけたそうな。益五郎ますごろうのそのあまりにしつけな物言いに、

「何だ、さま…」

 そうつかかろうとする新番しんばんもいたそうな。元より、益五郎ますごろう喧嘩けんかは嫌いではない、どころか大好物だいこうぶつであり、ゆえに嬉々ききとしてこぶしかまえたそうな。

 するとそれを佐野さの善左衛門ぜんざえもん政言まさことなる新番しんばんせいしたそうな。

佐野さの善左衛門ぜんざえもん政言まさこと、とな…」

 意知おきともがその名を反芻はんすうした。

「ああ。で、そいつが言うには、小栗おぐり武右衛門ぶえもんって野郎は一橋ひとつばし派らしいんだな…」

 新番しんばんは次男坊以下が附切つけきりとしてさんきょうつかえるケースが多く、畢竟ひっきょう新番組しんばんぐみ内においては今、益五郎ますごろうが口にしたように、

一橋ひとつばし派」

 あるいは田安たやす派、清水派といった派閥はばつグループにいろけされ、小栗おぐり武右衛門ぶえもん一橋ひとつばし派にぞくするそうな。

 そしてその、新番組しんばんぐみ内における一橋ひとつばし派のばんちょうこそが今でも一橋ひとつばし家の陪臣ばいしんとしてのぶんをも持ち合わせる猪飼いかい五郎兵衛ごろべえ正胤まさたねであった。

 佐野さの善左衛門ぜんざえもんの話によると、小栗おぐり武右衛門ぶえもんはその猪飼いかい五郎兵衛ごろべえの、言葉は悪いが、

金魚きんぎょふん…」

 そのような存在そんざいであるらしい。

金魚きんぎょふん、とは…」

 意知おきともはそのぐるしきさまを想像して思わずあきれた様子でそう言った。

 平蔵も意知おきとも同様どうようあきれた様子をかべた。

「にしても…、小栗おぐり武右衛門ぶえもんはその、一橋ひとつばし家につかえし弟の高橋たかはし又四郎またしろうの他にも、清水家につかえし弟が…、それも小栗おぐり太郎左衛門たろうざえもん山下やました吉左衛門きちざえもんといった、清水家につかえしその弟が二人もおるゆえに、清水派にぞくしても良さそうなものを…」

 意知おきともはふと、そんな疑問を口にした。やはり平蔵も同様の疑問を思い浮かべていたらしく、平蔵は益五郎ますごろうの方を見た。

「いや、実は小栗おぐり武右衛門ぶえもん当初とうしょは…、家基いえもと様がご存命ぞんめいの頃には清水派だったらしい…」

 意知おきともも、そして平蔵にしてもそれはうなずける話であった。

 それと言うのも、次期将軍として将軍・家治の嫡男ちゃくなんである家基いえもと厳然げんぜん存在そんざいしている限りにおいてはさんきょうばんはない。

 それでも将軍・家治は実弟じっていにして、清水家の当主である重好しげよしとは仲が良く、そうであれば清水派にぞくするのはごく、当然の判断と言えた。

「だがそれが…、おそれ多くも大納言だいなごん様がご薨去こうきょあそばされ、しかも、次期将軍が…、おそれ多くも大納言だいなごん様にわりし次期将軍が一橋ひとつばし家よりはいしゅつされるとなるや、一橋ひとつばし派にくらえしたということか?」

 意知おきともが先回りして益五郎ますごろうにそう尋ねるや、益五郎ますごろう小栗おぐり武右衛門ぶえもんのその節操せっそうのなさには心底しんそこあきれているらしく、

「ああ」

 あきれた調ちょうしゅこうした。

「それにしても、今になってよくもまぁ、一橋ひとつばし派にくらえできたものよの…、いや、それな猪飼いかい五郎兵衛ごろべえにしてみれば、何を今さらと思うであろうに…」

 平蔵はそんな感想をらした。

「いや、たしかに平蔵さんの言う通りだ。何しろ、次期将軍が一橋ひとつばしの野郎…、治済はるさだの野郎のせがれとよ千代ちよって餓鬼がきんちょに決まったたん、それこそてのひらをかえしたかのように一橋ひとつばし派にくらえしようとするもんがあとたないらしいかんな…」

「と申すからには…、いや、それな佐野さの善左衛門ぜんざえもんなる者のげんであれば、佐野さの善左衛門ぜんざえもんももしかしてその中の一人ではあるまいか?実は元は清水派、あるいは田安たやす派であったのが、小栗おぐり武右衛門ぶえもん同様どうよう一橋ひとつばし派へとくらえしようとしておると…」

 意知おきともがそうかんはたらかせると、益五郎ますごろうは目を丸くした。
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