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田沼意致の回想 4
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かくして谷口新十郎の「クーデター」は未遂に終わった。
この「クーデター」で一番、激怒したのは言うまでもなく、嫡子の座を脅かされそうになった治済である。
この時…、宝暦10(1760)年の時点では、治済はまだ9歳に過ぎなかったが、それでもこの間の事情や、或いは動きといったものを具に観察していた。
いや、ただ観察していたのみならず、己の味方をしてくれた用人の末吉善左衛門と連絡を密にした。
末吉善左衛門もただの好意から、治済の味方をしたわけではない。そこには当然、
「打算…」
それがあった。
それでは末吉善左衛門の打算とは何かと言うと、
「出世」
ズバリそれであった。末吉善左衛門はこの一橋邸内において何かと「縁者風」を吹かせる谷口新十郎への対抗心から治済の味方をしたわけだが、それ以上に、
「出世」
それを目論んで治済の味方をしたのであった。
即ち、無事に谷口新十郎の姦計…、谷口新十郎とは折り合いの悪い治済を廃嫡した上で、誰か別の者を、それこそ治済のすぐ下の弟の治之を一橋家の新たな嫡子に据えようとする、谷口新十郎のその姦計を叩き潰した折には、
「谷口新十郎に代わって、己を一橋家の邸臣…、家臣の筆頭にしてもらいたい…」
末吉善左衛門はそう望み、実際、治済に対して、谷口新十郎の姦計を告げ、己は治済に忠誠を誓と同時に、そう陳情したのであった。
それに対して治済も即座に、末吉善左衛門のその「陳情」を了としたのであった。
それゆえ末吉善左衛門が見事、谷口新十郎の姦計を叩き潰してみせるや、治済は、
「今度は己が末吉善左衛門への約束を果たす番…」
というわけで、そこで治済は父、宗尹に頼んで、末吉善左衛門を用人の上首…、筆頭にしてもらった。
それまで用人の上首…、筆頭は鈴木彦八郎であったが、鈴木彦八郎は今回の谷口新十郎による「クーデター」計画において、特に目立った働きをしなかった。
無論、「クーデター」の首謀者とも言うべき谷口新十郎に与したわけではないので、罰するわけにもゆかぬが、さりとて末吉善左衛門のように積極的に、「クーデター」を阻止しようとしたわけでもない。
要は傍観であった。そうであれば、己のために力を尽くしてくれた末吉善左衛門こそ用人の上首に据えてやるのが当然であろう。
また、末吉善左衛門と共に、治済のために奔走してくれた年寄の岩田、それに工作資金を捻出してくれた郡奉行の横尾六右衛門と勘定奉行の小倉小兵衛に対してもそれぞれ、「ご褒美」を与えた。
まず横尾六右衛門と小倉小兵衛の二人に対しては、そのお役目の「濫用」を大っぴらに認めてやった。
今回、横尾六右衛門と小倉小兵衛が治済のために…、治済こそが一橋徳川家の正統なる世継であるとの、言わば地位確認のために幕閣諸侯や、或いは大奥にばら撒いたその「工作資金」だが、横尾六右衛門と小倉小兵衛がそれぞれ、職務を利用、いや、「濫用」して捻出したものであった。つまりは「横領」である。
それを治済はこれからは大っぴらに「横領」を認めたのであった。それは横尾六右衛門と小倉小兵衛が最も望むところであり、治済も二人がそれを望んでいるであろうと見越して、それを…、横領を認めてやったのだ。
また大奥への工作を担った年寄の岩田に対しては、横尾六右衛門と小倉小兵衛の二人に命じて、
「大っぴらに…」
横領させた多額の金を成功報酬として支払った。岩田は金を欲しがっており、それをまた、治済が見抜いたからだ。
治済はこの時、弱冠9つの幼児、とまでは言わぬにしても、幼き少年に過ぎなかった。にもかかわらず、誰が一体、何を望んでいるのか、ピタリと見抜いてみせたのであった。真にもって、
「末恐ろしい…」
その表現がピタリと当て嵌まり、その様を間近で見ていた家老の田沼意誠も治済の恐ろしさを肌で感じ取り、その当時、同居していた息・意致に対しても、治済の恐ろしさを語って聞かせたものである。
いや、治済の恐ろしさはそれに止まらない。
治済は己に味方してくれた末吉善左衛門たちに褒美を与える一方で、己を追い落とそうとした谷口新十郎に対する罰、報復をも忘れてはいなかった。
治済はやはり父、宗尹に対して、谷口新十郎のクビを求めた。いや、本音を言えば、腹を切らせたいところであったが、流石にそこまでは無理というもので、そこでせめて、谷口新十郎を屋敷より追い出して欲しいと、そう強く求めたのであった。
だがそれに対して父、宗尹は例の、谷口新十郎が附人である云々を持ち出して、それを拒絶したのであった。
ここまでは父、宗尹も、谷口新十郎に命じる格好で治済を廃嫡しようとしたその負い目から、治済の求めに応じてきたものの、しかし、谷口新十郎を追い出すことだけは宗尹も断固としてこれを拒絶したのであった。
そうなると治済とて引き下がるより他になかった。下手にごり押しをすれば、折角、認めてもらった末吉善左衛門たちに対する「ご褒美」まで失いかねなかったからだ。
それでも治済は谷口新十郎に対する恨みを忘れたわけではなかったようで、何とその年…、宝暦10(1760)年の10月19日に55歳で亡くなってしまったのだ。
一応、谷口新十郎の死は表向き、病死ではあるものの、しかし、意誠は谷口新十郎は殺されたのではあるまいかと、その疑いを強く持っており、息、意致に対してもその疑いを他言無用と釘を刺した後、洩らしたのであった。
無論、根拠は何もない。いや、未だ9歳の治済が谷口新十郎を殺せるとも思えなかった。
しかし、万が一という可能性もなくはなかった。丸っきりあり得ない話として片付けるわけにもゆかないように意誠にはそう思え、そして父、意誠よりその疑いを伝え聞いた意致にしても同意見であった。
意致はその時のことを思い出し、いよいよもって、治済こそが家基殺しの黒幕に相違ないと、疑惑を確信へと深めた。
この「クーデター」で一番、激怒したのは言うまでもなく、嫡子の座を脅かされそうになった治済である。
この時…、宝暦10(1760)年の時点では、治済はまだ9歳に過ぎなかったが、それでもこの間の事情や、或いは動きといったものを具に観察していた。
いや、ただ観察していたのみならず、己の味方をしてくれた用人の末吉善左衛門と連絡を密にした。
末吉善左衛門もただの好意から、治済の味方をしたわけではない。そこには当然、
「打算…」
それがあった。
それでは末吉善左衛門の打算とは何かと言うと、
「出世」
ズバリそれであった。末吉善左衛門はこの一橋邸内において何かと「縁者風」を吹かせる谷口新十郎への対抗心から治済の味方をしたわけだが、それ以上に、
「出世」
それを目論んで治済の味方をしたのであった。
即ち、無事に谷口新十郎の姦計…、谷口新十郎とは折り合いの悪い治済を廃嫡した上で、誰か別の者を、それこそ治済のすぐ下の弟の治之を一橋家の新たな嫡子に据えようとする、谷口新十郎のその姦計を叩き潰した折には、
「谷口新十郎に代わって、己を一橋家の邸臣…、家臣の筆頭にしてもらいたい…」
末吉善左衛門はそう望み、実際、治済に対して、谷口新十郎の姦計を告げ、己は治済に忠誠を誓と同時に、そう陳情したのであった。
それに対して治済も即座に、末吉善左衛門のその「陳情」を了としたのであった。
それゆえ末吉善左衛門が見事、谷口新十郎の姦計を叩き潰してみせるや、治済は、
「今度は己が末吉善左衛門への約束を果たす番…」
というわけで、そこで治済は父、宗尹に頼んで、末吉善左衛門を用人の上首…、筆頭にしてもらった。
それまで用人の上首…、筆頭は鈴木彦八郎であったが、鈴木彦八郎は今回の谷口新十郎による「クーデター」計画において、特に目立った働きをしなかった。
無論、「クーデター」の首謀者とも言うべき谷口新十郎に与したわけではないので、罰するわけにもゆかぬが、さりとて末吉善左衛門のように積極的に、「クーデター」を阻止しようとしたわけでもない。
要は傍観であった。そうであれば、己のために力を尽くしてくれた末吉善左衛門こそ用人の上首に据えてやるのが当然であろう。
また、末吉善左衛門と共に、治済のために奔走してくれた年寄の岩田、それに工作資金を捻出してくれた郡奉行の横尾六右衛門と勘定奉行の小倉小兵衛に対してもそれぞれ、「ご褒美」を与えた。
まず横尾六右衛門と小倉小兵衛の二人に対しては、そのお役目の「濫用」を大っぴらに認めてやった。
今回、横尾六右衛門と小倉小兵衛が治済のために…、治済こそが一橋徳川家の正統なる世継であるとの、言わば地位確認のために幕閣諸侯や、或いは大奥にばら撒いたその「工作資金」だが、横尾六右衛門と小倉小兵衛がそれぞれ、職務を利用、いや、「濫用」して捻出したものであった。つまりは「横領」である。
それを治済はこれからは大っぴらに「横領」を認めたのであった。それは横尾六右衛門と小倉小兵衛が最も望むところであり、治済も二人がそれを望んでいるであろうと見越して、それを…、横領を認めてやったのだ。
また大奥への工作を担った年寄の岩田に対しては、横尾六右衛門と小倉小兵衛の二人に命じて、
「大っぴらに…」
横領させた多額の金を成功報酬として支払った。岩田は金を欲しがっており、それをまた、治済が見抜いたからだ。
治済はこの時、弱冠9つの幼児、とまでは言わぬにしても、幼き少年に過ぎなかった。にもかかわらず、誰が一体、何を望んでいるのか、ピタリと見抜いてみせたのであった。真にもって、
「末恐ろしい…」
その表現がピタリと当て嵌まり、その様を間近で見ていた家老の田沼意誠も治済の恐ろしさを肌で感じ取り、その当時、同居していた息・意致に対しても、治済の恐ろしさを語って聞かせたものである。
いや、治済の恐ろしさはそれに止まらない。
治済は己に味方してくれた末吉善左衛門たちに褒美を与える一方で、己を追い落とそうとした谷口新十郎に対する罰、報復をも忘れてはいなかった。
治済はやはり父、宗尹に対して、谷口新十郎のクビを求めた。いや、本音を言えば、腹を切らせたいところであったが、流石にそこまでは無理というもので、そこでせめて、谷口新十郎を屋敷より追い出して欲しいと、そう強く求めたのであった。
だがそれに対して父、宗尹は例の、谷口新十郎が附人である云々を持ち出して、それを拒絶したのであった。
ここまでは父、宗尹も、谷口新十郎に命じる格好で治済を廃嫡しようとしたその負い目から、治済の求めに応じてきたものの、しかし、谷口新十郎を追い出すことだけは宗尹も断固としてこれを拒絶したのであった。
そうなると治済とて引き下がるより他になかった。下手にごり押しをすれば、折角、認めてもらった末吉善左衛門たちに対する「ご褒美」まで失いかねなかったからだ。
それでも治済は谷口新十郎に対する恨みを忘れたわけではなかったようで、何とその年…、宝暦10(1760)年の10月19日に55歳で亡くなってしまったのだ。
一応、谷口新十郎の死は表向き、病死ではあるものの、しかし、意誠は谷口新十郎は殺されたのではあるまいかと、その疑いを強く持っており、息、意致に対してもその疑いを他言無用と釘を刺した後、洩らしたのであった。
無論、根拠は何もない。いや、未だ9歳の治済が谷口新十郎を殺せるとも思えなかった。
しかし、万が一という可能性もなくはなかった。丸っきりあり得ない話として片付けるわけにもゆかないように意誠にはそう思え、そして父、意誠よりその疑いを伝え聞いた意致にしても同意見であった。
意致はその時のことを思い出し、いよいよもって、治済こそが家基殺しの黒幕に相違ないと、疑惑を確信へと深めた。
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