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大奥篇 ~倫子、萬壽姫、千穂、そして種姫~ 5
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だがいつまでも千穂に、それに千穂に仕える年寄の玉澤を始めとする奥女中たちに、西之丸の大奥に居座り続けることを、さしずめ、
「籠城…」
それを許しておくわけにはゆかなかった。
無論、
「強制的な排除」
という手段もあったが、しかし、強制的な排除ともなれば、千穂もその中に…、強制的に排除される対象となる。
だが千穂は仮にも次期将軍・家基の実母であり、その千穂を西之丸の大奥より強制的に排除…、謂わば、
「手荒に…」
扱われたとあらば、家基の「心」は元より、その次期将軍としての「権威」にも瑕を付けかねない。
そこで家治としてはそれは…、強制的な排除という手段は、出来れば「最後の手段」としたかった。
家治は最後の最後まで、それこそ「ギリギリ…」まで、
「穏便に…」
事をおさめたいと考えており、またそれを望んでいたのだ。
そこで家治は再び、高岳たち年寄に意見を求めてみたものの、高岳たち年寄にはこれといった名案が思い浮かばず、家治は対象を…、相談すべき相手を更に、御客会釈や御客会釈格、御中臈や御錠口にまで、つまりは、
「一生奉公…」
その奥女中にまで拡げて、相談を持ちかけたのであった。
すると御客会釈の一人、向坂が「畏れながら…」と名乗り出るや、相談を持ちかけた家治は元より、高岳たち年寄をも唸らせる妙案…、千穂を本丸の大奥へと、それも穏便に戻って来させる妙案を捻り出してみせたのであった。
即ち、
「されば、畏れ多くも大納言様に御台様をお迎えあそばされましては如何でござりましょうや…」
家基に嫁を、という提案であり、向坂のこの提案に対して、家治は元より、高岳たち年寄も皆、首をかしげたものである。家基に嫁を迎えることがどうして千穂が本丸の大奥へと戻って来ることに繋がるのか、それが分からなかったからだ。
向坂も家治たちの疑問を予期しており、更に続けた。
「されば畏れ多くも大納言様が御台様となられます御方なれば当然、西之丸の大奥にてお暮らしあそばされますことに…」
向坂の口から、千穂たちが居座る「西之丸の大奥」という単語が聞かれたことから、家治は一切の疑問を呑み込み、向坂にその先を続けさせた。無論、高岳たち年寄にしても同じく、口を差し挟まずにその先を待った。
「さればその折には…、畏れ多くも大納言様が御台様を西之丸の大奥へとお迎えあそばされし折には御台様として…、次期将軍の妻に相応しいよう、畏れ多くも上様のご養女とお定めになられましたる上で、西之丸の大奥へと…」
向坂にそう言われて、家治も「読めたぞっ!」と大声を上げたかと思うと、
「されば…、余が養女となれば、その立場たるや、一介の側室に過ぎぬ…、内証の千穂よりも立場が…、大奥での…、西之丸の大奥での席次が上ということになる。さればこのまま、西之丸の大奥に居座り続けるのは自由だが、いずれ家基が妻として迎えし…、将軍たる余が養女と定めし上で、家基が妻として西之丸の大奥へと迎えしその者に傅かねばならぬことと相成るが、それでも良いか…、左様に千穂を…、それに千穂の取り巻きを…、年寄の玉澤たちを脅せると申すのだな?」
家治のそのあけすけな聞き方には、さしもの向坂も戸惑いを覗かせたものの、大意、その通りであったので、
「御意にござりまする…」
向坂はそう答えたのであった。
「流石は知恵者ぞっ」
家治は向坂をそう称揚してみせた。
それと言うのも向坂は大奥随一の知恵者として知られていたからだ。家治のその称揚に対して高岳たち年寄も皆、頷いたものである。
「して、具体的には誰が良いかの…」
家治は向坂に更にそう…、家基に娶わせるべき相手、その具体的な人名を尋ねたのであった。
すると向坂が逆に家治に問い返した。
「されば畏れ多くも上様にあらせられましては如何な御家柄を大納言様が御台様としてご所望にて?やはり御三家や御三卿のご息女をご所望で?」
向坂にそう問われた家治は、
「一橋以外なれば、誰でも良い…」
思わずその言葉を口にしそうになり、喉元まで出掛かったその言葉を家治は何とか呑み込むと、「左様…」と首肯してみせた。家治は倫子に続いて萬壽姫にまで先立たれた段階で、二人の死が一橋家、いや、一橋治済の手によるものではないかと疑っていたからだ。
それゆえ、仮に向坂が一橋家の息女の名を挙げようものなら適当な口実をもうけて却下するつもりでいた。
だがそれは家治の杞憂であり、向坂が一橋家の息女の名を挙げることはなかった。
「されば御三家、御三卿に限りますれば…、御三卿の田安家の息女の他にはこれなく…」
向坂がそう即答してみせ、これには家治も目を丸くした。
「他の…、御三家や御三卿には息女はおらぬと?」
家治は信じられないといった面持ちでそう尋ねた。
「いえ、おりまするが、なれど年齢面で釣り合わず、或いは年齢面では釣り合うたとしても、既に他家に嫁いでいたりと…」
「それで…、家基が妻に相応しきは御三卿の田安家の息女以外にはおらぬと、そういうわけだな?」
「御意にござりまする…」
家治はホッとした。これで田安家ではなく、一橋家であったらと、そう思うと、心底ホッとせずにはいられなかった。
ともあれ家治は続けざま、その田安家の姫君の名を尋ねた。
「されば種姫殿と定姫殿にて…」
二人も姫が…、家基の御台所…、妻女に相応しい姫君がいたとは、家治には驚きであった。
いや、家治も征夷大将軍である以上、御三家や御三卿の家族構成についてはある程度把握しているつもりであったが、しかしそれはあくまで大まかに把握していると言うに過ぎず、細かなところまでは知らなかった。
それに対して向坂は御客会釈として江戸城本丸の大奥へとあがる、御三家や御三卿、諸大名の女使、所謂、
「公儀奥女使」
その接遇を職掌としており、そうであれば日頃よりその女使の相手をする過程で嫌でも御三家や御三卿、諸大名の家族構成について詳しくなるというものである。
「してその種姫と定姫だが…」
家治は向坂に対して二人の姫君の更に詳しい「プロフィール」の説明を求めた。
「されば種姫殿も定姫殿も、田安宗武殿が息女にて…」
向坂がそう答えるや、
「何と…、叔父上が息女とな?」
家治がそう聞き返したので、向坂は、「御意にござりまする」と答えた。
「されば…、叔父上が娘なれば…、余が従妹というわけではるまいか…」
家治の言う通りであった。田安宗武は将軍・家治の父にして九代将軍・家重の実弟に当たる。
その叔父・宗武の娘ともなれば、家治の言う通り、家治にとっては「いとこ」に当たり、年齢面から家基に釣り合うということは、家基の父である己…、家治よりも年上であるとは考えられず、それゆえ「従妹」に当たる。
「御意にござりまする…、ちなみに大納言様にとりましては従妹半にて…」
「して年は?」
「お二人とも畏れ多くも大納言様よりも年下にて…、されば種姫殿は明和2(1765)年生まれにて、今年…、安永2(1773)年で御齢8歳に、一方、妹御の定姫殿は明和4(1767)年生まれにて、今年で御齢6歳に、それぞれお成りで…」
「8歳と6歳か…」
「御意にござりまする…、さればいまひとつ…」
「何だ?」
「種姫殿も定姫殿も香詮院殿が息女にて…」
「何と…、とや殿が息女とな?」
家治はそう問い返した。
家治の口にした「とや」とは今はもう亡い、その香詮院の俗名である。
それでは家治は何ゆえにその、種姫・定姫姉妹の実母である香詮院の俗名を…、
「とや」
なる俗名を知っているのかと言うと、家治にとってはやはり、種姫・定姫姉妹と同じく「いとこ」に当たる、それも、
「従弟」
に当たる賢丸の実母でもあるからだ。
即ち、賢丸は種姫・定姫姉妹の兄に当たる。
家治はこの賢丸をとりわけ目にかけていた。それと言うのも賢丸は己と同じく祖父にして八代将軍の吉宗を尊崇していたからだ。
家治が八代将軍・吉宗の孫であるのと同じく、賢丸もまた、八代将軍・吉宗の孫であった。と言っても年は将軍…、現将軍の家治の方が上であり、家治が元文2(1737)年生まれでこの時…、安永2(1773)年で36歳の年男を迎えるのに対して、賢丸は宝暦8(1758)年生まれで、この年で15歳を迎えた。
家治と賢丸は共に、八代将軍・吉宗を祖父に持つ従兄弟同士というわけだが、実際には将軍・家治と賢丸は「親子」のような関係に近く、そして更に、家治の嫡男である家基とは…、賢丸と家基とは兄弟のような関係に近く、実際、家基は賢丸と仲が良く、家基は賢丸のことをそれこそ、
「実の兄の如く…」
そう慕っていた。
実際、家基は宝暦12(1762)年生まれであり、賢丸より4つ年下であった。それゆえ家基が賢丸を、
「実の兄の如く…」
そう慕うのも当然の成り行きであったやも知れぬ。
いや、年齢面から言えば、賢丸のやはり実兄、即ち、種姫・定姫姉妹にとっても実兄に当たる定國もまた、家基にとっては、
「実の兄のような存在…」
そう言える筈であったが、しかし、実際には家基はこの定國のことは賢丸に対するのと同じように、
「実の兄の如く…」
そう慕うことは生憎となかった。
それどころか家基はこの定國のことは苦手であった。
「そりがあわない…」
そう言っても良いだろう。
定國は宝暦7(1757)年生まれであり、実弟の賢丸とは1歳違いで、即ち、家基より5歳年上であった。
その定國は安永2(1773)年の時点では既に御家門…、親藩の伊予松山藩主の松平隠岐守定静の養嗣子として迎えられており、
「松平中務少輔定國」
そう名乗っていたものの、それ以前…、伊予松山藩主の松平定静の養嗣子に迎えられる前までは、
「生家」
とも言うべき田安邸にて暮らしていた。それが明和5(1768)年までであり、それまで田安邸にて暮らしていた定國は、
「豊丸」
という幼名を名乗っており、豊丸として実弟の賢丸や、それに妹の種姫、定姫と田安邸にて暮らしていたのだ。
つまりは御三卿の田安家の人間として生活していたわけで、そのため、定國もとい豊丸・賢丸・種姫・定姫の四兄弟姉妹は、
「将軍家の家族…」
その位置付けであり、それゆえ当主・治察に率いられ御城へと登城し、そして本丸の大奥へとあがることも屡であった。
それがちょうど、家基が生まれて翌年の宝暦13(1763)年から、豊丸改め定國が伊予松山藩主の松平定静の養嗣子として迎えられた明和5(1768)年までの大よそ5年の間であり、この5年の間、田安邸にて暮らしていた子女こそこの4人であったのだ。
しかもこの4人は同腹であり、田安徳川家の初代当主である宗武が側妾の「とや」との間でもうけた4人であった。
ちなみに「とや」はこの4人の他にも、淑姫と友菊という女子と男子を一人ずつもうけていたものの、淑姫は宝暦13(1763)年に佐賀藩主の鍋島重茂の許へと嫁し、一方、友菊は「とや」が延享4(1747)年にもうけた男児であるが、それから6年後の宝暦3(1753)年に夭折してしまったために、結局、無事に成長したのはこの4人というわけだ。
いや、実を言うと宗武の後を襲った治察にしてもこの4人の兄に当たる。と言っても、治察は「とや」の子ではなく、宗武が正室・通子こと宝蓮院との間にもうけた嫡男であった。
治察はこの4人の兄弟姉妹、己とは腹違いの兄弟姉妹のうち、定國と賢丸の二人を引き連れて御城に登城し、その上、本丸の大奥へとあがることが屡であった。
その頃…、宝暦13(1763)年から明和5(1768)年までの5年間、家基は「竹千代」として暮らしていた。
いや、本丸の大奥にて暮らしていた子女は家基だけではない。家基にとっては腹違いの姉に当たる萬壽姫も暮らしていた。
萬壽姫はその当時はまだ、千代姫を名乗っており、その千代姫こと萬壽姫は腹違い弟の竹千代家基と共に、定國こと豊丸・賢丸兄弟の「遊び相手」であった。
そのような経緯があったので、竹千代こと家基は賢丸を、
「実の兄の如く…」
そう慕うようになったわけだが、しかし、豊丸こと定國に対しては、
「実の兄の如く…」
そう慕うことができなかったのだ。
家基はどうにも定國とは、
「そりがあわない…」
それが原因であったが、その理由まではその時の家基には分からなかったが、後年、家基はそれが、
「定國が卑屈だったから…」
それが定國に対する嫌悪感の正体だと気付いた。それと言うのも定國・賢丸兄弟は典型的な、
「愚兄賢弟…」
その四字熟語がピタリと当て嵌まる兄弟であったからだ。
定信は何をやらせても、それこそ「文」にしろ「武」にしろ兄・定國を凌駕、それも圧倒的に凌駕しており、これで卑屈になるなと言う方が無理というものであったやも知れぬが、それでも家基はまだ幼い、それこそ、
「年端もいかない…」
そうであったにもかかわらず、定國の弟・賢丸に対するその劣等感からくる卑屈さを嗅ぎ取っていたのだ。いや、実を言えばそれは萬壽姫にしてもそうで、とりわけ萬壽姫は露骨に定國を嫌ったものだ。
ともあれ、賢丸と、それに兄の豊丸こと定國は将軍・家治が愛娘であった千代姫こと萬壽姫と、その腹違いの弟にして、やはり家治の愛息であった竹千代こと家基の遊び相手であったゆえ、その母堂…、実母が俗名「とや」なる香詮院であることをも、家治は当然、把握してわけだが、しかし、生憎と種姫と定姫の姉妹は、定國と賢丸の兄弟が萬壽姫と家基の「遊び相手」を務めていた時分にはまだ、大奥にあがれる程には成長しておらず、ゆえに家治は萬壽姫と家基の「遊び相手」を務めてくれた定國と賢丸の兄弟にばかり目が行き、それゆえ向坂から種姫と定姫の姉妹の名を聞かされても、
「いまいちピンとこなかった…」
そのためであったが、しかし、家治は向坂から更に、種姫と定姫の姉妹の母堂…、実母の名を知らされるに至って漸くに種姫と定姫の存在を思い出したのであった。
「籠城…」
それを許しておくわけにはゆかなかった。
無論、
「強制的な排除」
という手段もあったが、しかし、強制的な排除ともなれば、千穂もその中に…、強制的に排除される対象となる。
だが千穂は仮にも次期将軍・家基の実母であり、その千穂を西之丸の大奥より強制的に排除…、謂わば、
「手荒に…」
扱われたとあらば、家基の「心」は元より、その次期将軍としての「権威」にも瑕を付けかねない。
そこで家治としてはそれは…、強制的な排除という手段は、出来れば「最後の手段」としたかった。
家治は最後の最後まで、それこそ「ギリギリ…」まで、
「穏便に…」
事をおさめたいと考えており、またそれを望んでいたのだ。
そこで家治は再び、高岳たち年寄に意見を求めてみたものの、高岳たち年寄にはこれといった名案が思い浮かばず、家治は対象を…、相談すべき相手を更に、御客会釈や御客会釈格、御中臈や御錠口にまで、つまりは、
「一生奉公…」
その奥女中にまで拡げて、相談を持ちかけたのであった。
すると御客会釈の一人、向坂が「畏れながら…」と名乗り出るや、相談を持ちかけた家治は元より、高岳たち年寄をも唸らせる妙案…、千穂を本丸の大奥へと、それも穏便に戻って来させる妙案を捻り出してみせたのであった。
即ち、
「されば、畏れ多くも大納言様に御台様をお迎えあそばされましては如何でござりましょうや…」
家基に嫁を、という提案であり、向坂のこの提案に対して、家治は元より、高岳たち年寄も皆、首をかしげたものである。家基に嫁を迎えることがどうして千穂が本丸の大奥へと戻って来ることに繋がるのか、それが分からなかったからだ。
向坂も家治たちの疑問を予期しており、更に続けた。
「されば畏れ多くも大納言様が御台様となられます御方なれば当然、西之丸の大奥にてお暮らしあそばされますことに…」
向坂の口から、千穂たちが居座る「西之丸の大奥」という単語が聞かれたことから、家治は一切の疑問を呑み込み、向坂にその先を続けさせた。無論、高岳たち年寄にしても同じく、口を差し挟まずにその先を待った。
「さればその折には…、畏れ多くも大納言様が御台様を西之丸の大奥へとお迎えあそばされし折には御台様として…、次期将軍の妻に相応しいよう、畏れ多くも上様のご養女とお定めになられましたる上で、西之丸の大奥へと…」
向坂にそう言われて、家治も「読めたぞっ!」と大声を上げたかと思うと、
「されば…、余が養女となれば、その立場たるや、一介の側室に過ぎぬ…、内証の千穂よりも立場が…、大奥での…、西之丸の大奥での席次が上ということになる。さればこのまま、西之丸の大奥に居座り続けるのは自由だが、いずれ家基が妻として迎えし…、将軍たる余が養女と定めし上で、家基が妻として西之丸の大奥へと迎えしその者に傅かねばならぬことと相成るが、それでも良いか…、左様に千穂を…、それに千穂の取り巻きを…、年寄の玉澤たちを脅せると申すのだな?」
家治のそのあけすけな聞き方には、さしもの向坂も戸惑いを覗かせたものの、大意、その通りであったので、
「御意にござりまする…」
向坂はそう答えたのであった。
「流石は知恵者ぞっ」
家治は向坂をそう称揚してみせた。
それと言うのも向坂は大奥随一の知恵者として知られていたからだ。家治のその称揚に対して高岳たち年寄も皆、頷いたものである。
「して、具体的には誰が良いかの…」
家治は向坂に更にそう…、家基に娶わせるべき相手、その具体的な人名を尋ねたのであった。
すると向坂が逆に家治に問い返した。
「されば畏れ多くも上様にあらせられましては如何な御家柄を大納言様が御台様としてご所望にて?やはり御三家や御三卿のご息女をご所望で?」
向坂にそう問われた家治は、
「一橋以外なれば、誰でも良い…」
思わずその言葉を口にしそうになり、喉元まで出掛かったその言葉を家治は何とか呑み込むと、「左様…」と首肯してみせた。家治は倫子に続いて萬壽姫にまで先立たれた段階で、二人の死が一橋家、いや、一橋治済の手によるものではないかと疑っていたからだ。
それゆえ、仮に向坂が一橋家の息女の名を挙げようものなら適当な口実をもうけて却下するつもりでいた。
だがそれは家治の杞憂であり、向坂が一橋家の息女の名を挙げることはなかった。
「されば御三家、御三卿に限りますれば…、御三卿の田安家の息女の他にはこれなく…」
向坂がそう即答してみせ、これには家治も目を丸くした。
「他の…、御三家や御三卿には息女はおらぬと?」
家治は信じられないといった面持ちでそう尋ねた。
「いえ、おりまするが、なれど年齢面で釣り合わず、或いは年齢面では釣り合うたとしても、既に他家に嫁いでいたりと…」
「それで…、家基が妻に相応しきは御三卿の田安家の息女以外にはおらぬと、そういうわけだな?」
「御意にござりまする…」
家治はホッとした。これで田安家ではなく、一橋家であったらと、そう思うと、心底ホッとせずにはいられなかった。
ともあれ家治は続けざま、その田安家の姫君の名を尋ねた。
「されば種姫殿と定姫殿にて…」
二人も姫が…、家基の御台所…、妻女に相応しい姫君がいたとは、家治には驚きであった。
いや、家治も征夷大将軍である以上、御三家や御三卿の家族構成についてはある程度把握しているつもりであったが、しかしそれはあくまで大まかに把握していると言うに過ぎず、細かなところまでは知らなかった。
それに対して向坂は御客会釈として江戸城本丸の大奥へとあがる、御三家や御三卿、諸大名の女使、所謂、
「公儀奥女使」
その接遇を職掌としており、そうであれば日頃よりその女使の相手をする過程で嫌でも御三家や御三卿、諸大名の家族構成について詳しくなるというものである。
「してその種姫と定姫だが…」
家治は向坂に対して二人の姫君の更に詳しい「プロフィール」の説明を求めた。
「されば種姫殿も定姫殿も、田安宗武殿が息女にて…」
向坂がそう答えるや、
「何と…、叔父上が息女とな?」
家治がそう聞き返したので、向坂は、「御意にござりまする」と答えた。
「されば…、叔父上が娘なれば…、余が従妹というわけではるまいか…」
家治の言う通りであった。田安宗武は将軍・家治の父にして九代将軍・家重の実弟に当たる。
その叔父・宗武の娘ともなれば、家治の言う通り、家治にとっては「いとこ」に当たり、年齢面から家基に釣り合うということは、家基の父である己…、家治よりも年上であるとは考えられず、それゆえ「従妹」に当たる。
「御意にござりまする…、ちなみに大納言様にとりましては従妹半にて…」
「して年は?」
「お二人とも畏れ多くも大納言様よりも年下にて…、されば種姫殿は明和2(1765)年生まれにて、今年…、安永2(1773)年で御齢8歳に、一方、妹御の定姫殿は明和4(1767)年生まれにて、今年で御齢6歳に、それぞれお成りで…」
「8歳と6歳か…」
「御意にござりまする…、さればいまひとつ…」
「何だ?」
「種姫殿も定姫殿も香詮院殿が息女にて…」
「何と…、とや殿が息女とな?」
家治はそう問い返した。
家治の口にした「とや」とは今はもう亡い、その香詮院の俗名である。
それでは家治は何ゆえにその、種姫・定姫姉妹の実母である香詮院の俗名を…、
「とや」
なる俗名を知っているのかと言うと、家治にとってはやはり、種姫・定姫姉妹と同じく「いとこ」に当たる、それも、
「従弟」
に当たる賢丸の実母でもあるからだ。
即ち、賢丸は種姫・定姫姉妹の兄に当たる。
家治はこの賢丸をとりわけ目にかけていた。それと言うのも賢丸は己と同じく祖父にして八代将軍の吉宗を尊崇していたからだ。
家治が八代将軍・吉宗の孫であるのと同じく、賢丸もまた、八代将軍・吉宗の孫であった。と言っても年は将軍…、現将軍の家治の方が上であり、家治が元文2(1737)年生まれでこの時…、安永2(1773)年で36歳の年男を迎えるのに対して、賢丸は宝暦8(1758)年生まれで、この年で15歳を迎えた。
家治と賢丸は共に、八代将軍・吉宗を祖父に持つ従兄弟同士というわけだが、実際には将軍・家治と賢丸は「親子」のような関係に近く、そして更に、家治の嫡男である家基とは…、賢丸と家基とは兄弟のような関係に近く、実際、家基は賢丸と仲が良く、家基は賢丸のことをそれこそ、
「実の兄の如く…」
そう慕っていた。
実際、家基は宝暦12(1762)年生まれであり、賢丸より4つ年下であった。それゆえ家基が賢丸を、
「実の兄の如く…」
そう慕うのも当然の成り行きであったやも知れぬ。
いや、年齢面から言えば、賢丸のやはり実兄、即ち、種姫・定姫姉妹にとっても実兄に当たる定國もまた、家基にとっては、
「実の兄のような存在…」
そう言える筈であったが、しかし、実際には家基はこの定國のことは賢丸に対するのと同じように、
「実の兄の如く…」
そう慕うことは生憎となかった。
それどころか家基はこの定國のことは苦手であった。
「そりがあわない…」
そう言っても良いだろう。
定國は宝暦7(1757)年生まれであり、実弟の賢丸とは1歳違いで、即ち、家基より5歳年上であった。
その定國は安永2(1773)年の時点では既に御家門…、親藩の伊予松山藩主の松平隠岐守定静の養嗣子として迎えられており、
「松平中務少輔定國」
そう名乗っていたものの、それ以前…、伊予松山藩主の松平定静の養嗣子に迎えられる前までは、
「生家」
とも言うべき田安邸にて暮らしていた。それが明和5(1768)年までであり、それまで田安邸にて暮らしていた定國は、
「豊丸」
という幼名を名乗っており、豊丸として実弟の賢丸や、それに妹の種姫、定姫と田安邸にて暮らしていたのだ。
つまりは御三卿の田安家の人間として生活していたわけで、そのため、定國もとい豊丸・賢丸・種姫・定姫の四兄弟姉妹は、
「将軍家の家族…」
その位置付けであり、それゆえ当主・治察に率いられ御城へと登城し、そして本丸の大奥へとあがることも屡であった。
それがちょうど、家基が生まれて翌年の宝暦13(1763)年から、豊丸改め定國が伊予松山藩主の松平定静の養嗣子として迎えられた明和5(1768)年までの大よそ5年の間であり、この5年の間、田安邸にて暮らしていた子女こそこの4人であったのだ。
しかもこの4人は同腹であり、田安徳川家の初代当主である宗武が側妾の「とや」との間でもうけた4人であった。
ちなみに「とや」はこの4人の他にも、淑姫と友菊という女子と男子を一人ずつもうけていたものの、淑姫は宝暦13(1763)年に佐賀藩主の鍋島重茂の許へと嫁し、一方、友菊は「とや」が延享4(1747)年にもうけた男児であるが、それから6年後の宝暦3(1753)年に夭折してしまったために、結局、無事に成長したのはこの4人というわけだ。
いや、実を言うと宗武の後を襲った治察にしてもこの4人の兄に当たる。と言っても、治察は「とや」の子ではなく、宗武が正室・通子こと宝蓮院との間にもうけた嫡男であった。
治察はこの4人の兄弟姉妹、己とは腹違いの兄弟姉妹のうち、定國と賢丸の二人を引き連れて御城に登城し、その上、本丸の大奥へとあがることが屡であった。
その頃…、宝暦13(1763)年から明和5(1768)年までの5年間、家基は「竹千代」として暮らしていた。
いや、本丸の大奥にて暮らしていた子女は家基だけではない。家基にとっては腹違いの姉に当たる萬壽姫も暮らしていた。
萬壽姫はその当時はまだ、千代姫を名乗っており、その千代姫こと萬壽姫は腹違い弟の竹千代家基と共に、定國こと豊丸・賢丸兄弟の「遊び相手」であった。
そのような経緯があったので、竹千代こと家基は賢丸を、
「実の兄の如く…」
そう慕うようになったわけだが、しかし、豊丸こと定國に対しては、
「実の兄の如く…」
そう慕うことができなかったのだ。
家基はどうにも定國とは、
「そりがあわない…」
それが原因であったが、その理由まではその時の家基には分からなかったが、後年、家基はそれが、
「定國が卑屈だったから…」
それが定國に対する嫌悪感の正体だと気付いた。それと言うのも定國・賢丸兄弟は典型的な、
「愚兄賢弟…」
その四字熟語がピタリと当て嵌まる兄弟であったからだ。
定信は何をやらせても、それこそ「文」にしろ「武」にしろ兄・定國を凌駕、それも圧倒的に凌駕しており、これで卑屈になるなと言う方が無理というものであったやも知れぬが、それでも家基はまだ幼い、それこそ、
「年端もいかない…」
そうであったにもかかわらず、定國の弟・賢丸に対するその劣等感からくる卑屈さを嗅ぎ取っていたのだ。いや、実を言えばそれは萬壽姫にしてもそうで、とりわけ萬壽姫は露骨に定國を嫌ったものだ。
ともあれ、賢丸と、それに兄の豊丸こと定國は将軍・家治が愛娘であった千代姫こと萬壽姫と、その腹違いの弟にして、やはり家治の愛息であった竹千代こと家基の遊び相手であったゆえ、その母堂…、実母が俗名「とや」なる香詮院であることをも、家治は当然、把握してわけだが、しかし、生憎と種姫と定姫の姉妹は、定國と賢丸の兄弟が萬壽姫と家基の「遊び相手」を務めていた時分にはまだ、大奥にあがれる程には成長しておらず、ゆえに家治は萬壽姫と家基の「遊び相手」を務めてくれた定國と賢丸の兄弟にばかり目が行き、それゆえ向坂から種姫と定姫の姉妹の名を聞かされても、
「いまいちピンとこなかった…」
そのためであったが、しかし、家治は向坂から更に、種姫と定姫の姉妹の母堂…、実母の名を知らされるに至って漸くに種姫と定姫の存在を思い出したのであった。
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