天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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大奥篇 ~倫子、萬壽姫、千穂、そして種姫~ 5

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 だがいつまでも千穂ちほに、それに千穂ちほつかえる年寄としより玉澤たまざわを始めとするおく女中じょちゅうたちに、西之丸にしのまるの大奥にすわり続けることを、さしずめ、

籠城ろうじょう…」

 それを許しておくわけにはゆかなかった。

 無論むろん

強制きょうせい的な排除はいじょ

 という手段もあったが、しかし、強制きょうせい的な排除はいじょともなれば、千穂ちほもその中に…、強制きょうせい的に排除はいじょされる対象たいしょうとなる。

 だが千穂ちほかりにも次期将軍・家基いえもと実母じつぼであり、その千穂ちほ西之丸にしのまるの大奥より強制きょうせい的に排除はいじょ…、わば、

手荒てあらに…」

 あつかわれたとあらば、家基いえもとの「心」は元より、その次期将軍としての「権威けんい」にもきずを付けかねない。

 そこで家治としてはそれは…、強制きょうせい的な排除はいじょという手段しゅだんは、出来れば「最後さいご手段しゅだん」としたかった。

 家治は最後の最後まで、それこそ「ギリギリ…」まで、

穏便おんびんに…」

 ことをおさめたいと考えており、またそれを望んでいたのだ。

 そこで家治はふたたび、高岳たかおかたち年寄としよりに意見を求めてみたものの、高岳たかおかたち年寄としよりにはこれといった名案めいあんが思い浮かばず、家治は対象たいしょうを…、相談そうだんすべき相手をさらに、御客おきゃく会釈あしらい御客おきゃく会釈あしらいかく中臈ちゅうろう錠口じょうぐちにまで、つまりは、

一生いっしょう奉公ぼうこう…」

 そのおく女中じょちゅうにまでひろげて、相談そうだんを持ちかけたのであった。

 すると御客おきゃく会釈あしらいの一人、向坂さきさかが「おそれながら…」と名乗り出るや、相談を持ちかけた家治は元より、高岳たかおかたち年寄としよりをもうならせる妙案みょうあん…、千穂ちほ本丸ほんまるの大奥へと、それも穏便おんびんもどって来させる妙案みょうあんひねり出してみせたのであった。

 すなわち、

「されば、おそれ多くも大納言だいなごん様に御台みだい様をおむかえあそばされましては如何いかがでござりましょうや…」

 家基いえもとよめを、という提案ていあんであり、向坂さきさかのこの提案ていあんに対して、家治は元より、高岳たかおかたち年寄としよりも皆、首をかしげたものである。家基いえもとよめむかえることがどうして千穂ちほ本丸ほんまるの大奥へと戻って来ることにつながるのか、それが分からなかったからだ。

 向坂さきさかも家治たちの疑問を予期よきしており、さらに続けた。

「さればおそれ多くも大納言だいなごん様が御台みだい様となられます御方おんかたなれば当然、西之丸にしのまるの大奥にておらしあそばされますことに…」

 向坂さきさかの口から、千穂ちほたちがすわる「西之丸にしのまるの大奥」という単語たんごが聞かれたことから、家治は一切いっさいの疑問をみ、向坂さきさかにその先を続けさせた。無論むろん高岳たかおかたち年寄としよりにしても同じく、口をはさまずにその先を待った。

「さればそのおりには…、おそれ多くも大納言だいなごん様が御台みだい様を西之丸にしのまるの大奥へとおむかえあそばされしおりには御台みだい様として…、次期将軍の妻に相応ふさわしいよう、おそれ多くも上様うえさまのご養女ようじょとおさだめになられましたる上で、西之丸にしのまるの大奥へと…」

 向坂さきさかにそう言われて、家治も「読めたぞっ!」と大声を上げたかと思うと、

「されば…、養女ようじょとなれば、その立場たるや、一介いっかい側室そくしつに過ぎぬ…、内証ないしょう千穂ちほよりも立場たちばが…、大奥での…、西之丸にしのまるの大奥での席次せきじが上ということになる。さればこのまま、西之丸にしのまるの大奥にすわり続けるのは自由だが、いずれ家基いえもとが妻としてむかえし…、将軍たる養女ようじょさだめし上で、家基いえもとが妻として西之丸にしのまるの大奥へとむかえしその者にかしずかねばならぬこととあいるが、それでも良いか…、左様さよう千穂ちほを…、それに千穂ちほの取り巻きを…、年寄としより玉澤たまざわたちをおどせると申すのだな?」

 家治のそのあけすけな聞き方には、さしもの向坂さきさかまどいをのぞかせたものの、大意たいい、その通りであったので、

御意ぎょいにござりまする…」

 向坂さきさかはそう答えたのであった。

流石さすが知恵ちえしゃぞっ」

 家治は向坂さきさかをそう称揚しょうようしてみせた。

 それと言うのも向坂さきさかは大奥随一ずいいち知恵ちえしゃとして知られていたからだ。家治のその称揚しょうように対して高岳たかおかたち年寄としよりも皆、うなずいたものである。

「して、具体的には誰が良いかの…」

 家治は向坂さきさかさらにそう…、家基いえもとめあわせるべき相手、その具体ぐたい的な人名を尋ねたのであった。

 すると向坂さきさかぎゃくに家治にかえした。

「さればおそれ多くも上様うえさまにあらせられましては如何いか家柄いえがら大納言だいなごん様が御台みだい様としてご所望しょもうにて?やはり御三家や御三卿ごさんきょうのご息女そくじょをご所望しょもうで?」

 向坂さきさかにそう問われた家治は、

一橋ひとつばし以外なれば、誰でも良い…」

 思わずその言葉を口にしそうになり、喉元のどもとまで出掛でかかったその言葉を家治は何とかむと、「左様さよう…」と首肯しゅこうしてみせた。家治は倫子ともこに続いて萬壽ますひめにまでさきたれた段階だんかいで、二人の死が一橋ひとつばし家、いや、一橋ひとつばし治済はるさだの手によるものではないかと疑っていたからだ。

 それゆえ、仮に向坂さきさか一橋ひとつばし家の息女そくじょの名をげようものなら適当てきとう口実こうじつをもうけて却下きゃっかするつもりでいた。

 だがそれは家治の杞憂きゆうであり、向坂さきさか一橋ひとつばし家の息女そくじょの名をげることはなかった。

「されば御三家、御三卿ごさんきょうかぎりますれば…、御三卿ごさんきょう田安たやす家の息女そくじょの他にはこれなく…」

 向坂さきさかがそう即答そくとうしてみせ、これには家治も目を丸くした。

「他の…、御三家や御三卿ごさんきょうには息女そくじょはおらぬと?」

 家治は信じられないといったおもちでそう尋ねた。

「いえ、おりまするが、なれど年齢ねんれい面でり合わず、あるいは年齢ねんれい面ではうたとしても、すで他家たけとついでいたりと…」

「それで…、家基いえもとが妻に相応ふさわしきは御三卿ごさんきょう田安たやす家の息女そくじょ以外にはおらぬと、そういうわけだな?」

御意ぎょいにござりまする…」

 家治はホッとした。これで田安たやす家ではなく、一橋ひとつばし家であったらと、そう思うと、心底しんそこホッとせずにはいられなかった。

 ともあれ家治は続けざま、その田安たやす家の姫君ひめぎみの名を尋ねた。

「されば種姫たねひめ殿と定姫さだひめ殿にて…」

 二人もひめが…、家基いえもと御台所みだいどころ…、妻女さいじょ相応ふさわしい姫君ひめぎみがいたとは、家治には驚きであった。

 いや、家治も征夷大将軍である以上、御三家や御三卿ごさんきょうの家族構成についてはある程度ていど把握はあくしているつもりであったが、しかしそれはあくまで大まかに把握はあくしていると言うにぎず、こまかなところまでは知らなかった。

 それに対して向坂さきさか御客おきゃく会釈あしらいとして江戸城本丸ほんまるの大奥へとあがる、御三家や御三卿きょう、諸大名の女使おんなづかい所謂いわゆる

公儀こうぎおく女使おんなづかい

 その接遇せつぐう職掌しょくしょうとしており、そうであれば日頃ひごろよりその女使おんなづかいの相手をする過程かていいやでも御三家や御三卿ごさんきょう、諸大名の家族構成こうせいについてくわしくなるというものである。

「してその種姫たねひめ定姫さだひめだが…」

 家治は向坂さきさかに対して二人の姫君ひめぎみさらくわしい「プロフィール」の説明を求めた。

「されば種姫たねひめ殿も定姫さだひめ殿も、田安たやす宗武たけ殿が息女そくじょにて…」

 向坂さきさかがそう答えるや、

「何と…、叔父おじうえ息女そくじょとな?」

 家治がそう聞き返したので、向坂さきさかは、「御意ぎょいにござりまする」と答えた。

「されば…、叔父おじうえが娘なれば…、従妹いとこというわけではるまいか…」

 家治の言う通りであった。田安たやす宗武むねたけは将軍・家治の父にして九代将軍・家重いえしげ実弟じっていに当たる。

 その叔父おじ宗武むねたけの娘ともなれば、家治の言う通り、家治にとっては「いとこ」に当たり、年齢ねんれい面から家基いえもとうということは、家基いえもとの父である己…、家治よりも年上であるとは考えられず、それゆえ「従妹いとこ」に当たる。

御意ぎょいにござりまする…、ちなみに大納言だいなごん様にとりましては従妹いとこはんにて…」

「して年は?」

「お二人ともおそれ多くも大納言だいなごん様よりも年下にて…、されば種姫たねひめ殿は明和2(1765)年生まれにて、今年…、安永2(1773)年で御齢おんとし8歳に、一方、いもうと定姫さだひめ殿は明和4(1767)年生まれにて、今年で御齢おんとし6歳に、それぞれおりで…」

「8歳と6歳か…」

御意ぎょいにござりまする…、さればいまひとつ…」

「何だ?」

種姫たねひめ殿も定姫さだひめ殿も香詮院こうせんいん殿が息女そくじょにて…」

「何と…、とや殿が息女そくじょとな?」

 家治はそう問いかえした。

 家治の口にした「とや」とは今はもうい、その香詮院こうせんいん俗名ぞくみょうである。

 それでは家治は何ゆえにその、種姫たねひめ定姫さだひめ姉妹しまいの実母である香詮院こうせんいん俗名ぞくみょうを…、

「とや」

 なる俗名ぞくみょうを知っているのかと言うと、家治にとってはやはり、種姫たねひめ定姫さだひめ姉妹しまいと同じく「いとこ」に当たる、それも、

従弟いとこ

 に当たる賢丸まさまる実母じつぼでもあるからだ。

 すなわち、賢丸まさまる種姫たねひめ定姫さだひめ姉妹しまいの兄に当たる。

 家治はこの賢丸まさまるをとりわけ目にかけていた。それと言うのも賢丸まさまるは己と同じく祖父そふにして八代将軍の吉宗を尊崇そんすうしていたからだ。

 家治が八代将軍・吉宗の孫であるのと同じく、賢丸まさまるもまた、八代将軍・吉宗の孫であった。と言っても年は将軍…、現将軍の家治の方が上であり、家治が元文2(1737)年生まれでこの時…、安永2(1773)年で36歳の年男としおとこむかえるのに対して、賢丸まさまるは宝暦8(1758)年生まれで、この年で15歳をむかえた。

 家治と賢丸まさまるは共に、八代将軍・吉宗を祖父そふに持つ従兄弟いとこ同士というわけだが、実際には将軍・家治と賢丸まさまるは「親子おやこ」のような関係に近く、そしてさらに、家治の嫡男ちゃくなんである家基いえもととは…、賢丸まさまる家基いえもととは兄弟のような関係に近く、実際、家基いえもと賢丸まさまると仲が良く、家基いえもと賢丸まさまるのことをそれこそ、

「実の兄のごとく…」

 そうしたっていた。

 実際、家基いえもとは宝暦12(1762)年生まれであり、賢丸まさまるより4つ年下であった。それゆえ家基いえもと賢丸まさまるを、

「実の兄のごとく…」

 そうしたうのも当然のきであったやも知れぬ。

 いや、年齢ねんれい面から言えば、賢丸まさまるのやはり実兄じっけいすなわち、種姫たねひめ定姫さだひめ姉妹しまいにとっても実兄じっけいに当たる定國さだくにもまた、家基いえもとにとっては、

「実の兄のような存在そんざい…」

 そう言えるはずであったが、しかし、実際には家基いえもとはこの定國さだくにのことは賢丸まさまるに対するのと同じように、

「実の兄のごとく…」

 そうしたうことは生憎あいにくとなかった。

 それどころか家基いえもとはこの定國さだくにのことは苦手にがてであった。

「そりがあわない…」

 そう言っても良いだろう。

 定國さだくには宝暦7(1757)年生まれであり、実弟じってい賢丸まさまるとは1歳違いで、すなわち、家基いえもとより5歳年上であった。

 その定國さだくには安永2(1773)年の時点ではすで家門かもん…、親藩しんぱん伊予いよ松山まつやま藩主はんしゅ松平まつだいら隠岐守おきのかみ定静さだきよ養嗣子ようししとしてむかえられており、

松平まつだいら中務なかつかさ少輔しょうゆう定國さだくに

 そう名乗っていたものの、それ以前いぜん…、伊予いよ松山まつやま藩主はんしゅ松平まつだいら定静さだきよ養嗣子ようししむかえられる前までは、

生家せいか

 とも言うべき田安たやす邸にてらしていた。それが明和5(1768)年までであり、それまで田安たやす邸にてらしていた定國さだくには、

豊丸とよまる

 という幼名ようみょうを名乗っており、豊丸とよまるとして実弟の賢丸まさまるや、それに妹の種姫たねひめ定姫さだひめ田安たやす邸にてらしていたのだ。

 つまりは御三卿ごさんきょう田安たやす家の人間として生活していたわけで、そのため、定國さだくにもとい豊丸とよまる賢丸まさまる種姫たねひめ定姫さだひめの四兄弟姉妹は、

「将軍家の家族…」

 その位置いちけであり、それゆえ当主とうしゅ治察はるさとひきいられ御城おしろへと登城とじょうし、そして本丸ほんまるの大奥へとあがることもしばしばであった。

 それがちょうど、家基いえもとが生まれて翌年よくねんの宝暦13(1763)年から、豊丸とよまる改め定國さだくに伊予いよ松山まつやま藩主はんしゅ松平まつだいら定静さだきよ養嗣子ようししとしてむかえられた明和5(1768)年までの大よそ5年の間であり、この5年の間、田安たやす邸にてらしていた子女しじょこそこの4人であったのだ。

 しかもこの4人は同腹どうふくであり、田安たやす徳川家の初代当主である宗武むねたけ側妾そくしょうの「とや」との間でもうけた4人であった。

 ちなみに「とや」はこの4人の他にも、淑姫すえひめ友菊ともぎくという女子と男子を一人ずつもうけていたものの、淑姫すえひめは宝暦13(1763)年に佐賀さが藩主はんしゅ鍋島なべしま重茂しげもちもとへとし、一方、友菊ともぎくは「とや」が延享4(1747)年にもうけた男児であるが、それから6年後の宝暦3(1753)年に夭折ようせつしてしまったために、結局、無事に成長したのはこの4人というわけだ。

 いや、実を言うと宗武むねたけあとおそった治察はるさとにしてもこの4人の兄に当たる。と言っても、治察はるさとは「とや」の子ではなく、宗武むねたけ正室せいしつ通子みちここと宝蓮院ほうれんいんとの間にもうけた嫡男ちゃくなんであった。

 治察はるさとはこの4人の兄弟姉妹、己とははらちがいの兄弟姉妹のうち、定國さだくに賢丸まさまるの二人を引き連れて御城おしろ登城とじょうし、その上、本丸ほんまるの大奥へとあがることがしばしばであった。

 その頃…、宝暦13(1763)年から明和5(1768)年までの5年間、家基いえもとは「たけ千代ちよ」としてらしていた。

 いや、本丸ほんまるの大奥にてらしていた子女しじょ家基いえもとだけではない。家基いえもとにとってははらちがいの姉に当たる萬壽ますひめらしていた。

 萬壽ますひめはその当時はまだ、千代ちよひめを名乗っており、その千代ちよひめこと萬壽ますひめはらちがい弟のたけ千代ちよ家基いえもとと共に、定國さだくにこと豊丸とよまる賢丸まさまる兄弟の「遊び相手」であった。

 そのような経緯けいいがあったので、竹千代たけちよこと家基いえもと賢丸まさまるを、

「実の兄のごとく…」

 そうしたうようになったわけだが、しかし、豊丸とよまること定國さだくにに対しては、

「実の兄のごとく…」

 そうしたうことができなかったのだ。

 家基いえもとはどうにも定國さだくにとは、

「そりがあわない…」

 それが原因であったが、その理由まではその時の家基いえもとには分からなかったが、後年こうねん家基いえもとはそれが、

定國さだくに卑屈ひくつだったから…」

 それが定國さだくにに対する嫌悪けんお感の正体しょうたいだと気付いた。それと言うのも定國さだくに賢丸まさまる兄弟は典型的てんけいてきな、

愚兄ぐけい賢弟けんてい…」

 その四字熟語がピタリと当てまる兄弟であったからだ。

 定信は何をやらせても、それこそ「文」にしろ「武」にしろ兄・定國さだくに凌駕りょうが、それも圧倒的あっとうてき凌駕りょうがしており、これで卑屈ひくつになるなと言う方が無理むりというものであったやも知れぬが、それでも家基いえもとはまだおさない、それこそ、

年端としはもいかない…」

 そうであったにもかかわらず、定國さだくにの弟・賢丸まさまるに対するその劣等感れっとうかんからくる卑屈ひくつさをぎ取っていたのだ。いや、実を言えばそれは萬壽ますひめにしてもそうで、とりわけ萬壽ますひめ露骨ろこつ定國さだくにを嫌ったものだ。

 ともあれ、賢丸まさまると、それに兄の豊丸とよまること定國さだくには将軍・家治が愛娘まなむすめであった千代ちよひめこと萬壽ますひめと、そのはらちがいの弟にして、やはり家治の愛息あいそくであったたけ千代ちよこと家基いえもとの遊び相手であったゆえ、その母堂ぼどう…、実母じつぼ俗名ぞくみょう「とや」なる香詮院こうせんいんであることをも、家治は当然、把握はあくしてわけだが、しかし、生憎あいにく種姫たねひめ定姫さだひめ姉妹しまいは、定國さだくに賢丸まさまるの兄弟が萬壽ますひめ家基いえもとの「あそ相手あいて」をつとめていた時分じぶんにはまだ、大奥にあがれるほどには成長しておらず、ゆえに家治は萬壽ますひめ家基いえもとの「あそ相手あいて」をつとめてくれた定國さだくに賢丸まさまるの兄弟にばかり目が行き、それゆえ向坂さきさかから種姫たねひめ定姫さだひめ姉妹しまいの名を聞かされても、

「いまいちピンとこなかった…」

 そのためであったが、しかし、家治は向坂さきさかからさらに、種姫たねひめ定姫さだひめ姉妹しまい母堂ぼどう…、実母じつぼの名を知らされるにいたってようやくに種姫たねひめ定姫さだひめ存在そんざいを思い出したのであった。
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