天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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大奥篇 ~倫子、萬壽姫、千穂、そして種姫~ 2

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 ともあれこうして、西之丸にしのまるの大奥入りを果たした千穂ちほと、彼女につかえるおく女中じょちゅうたちは大いに自由を満喫まんきつした。

 それと言うのも本丸ほんまるの大奥にいた頃には男子役人である廣敷ひろしき役人、その中でも警備けいび監察かんさつにな廣敷ひろしき番之頭ばんのかしらの目が常に光っており、千穂ちほおく女中じょちゅうたちも非常ひじょう窮屈きゅうくつな思いをしたものであった。

 千穂ちほは将軍・家治から「お部屋へや様」にはしてもらえなかった代わりに、高価こうかな着物や化粧道具などをそれこそ、

「買いあさった…」

 それが許され、また、千穂ちほのみならず、千穂ちほづきおく女中じょちゅうたちにもそれが…、それこそ「濫費らんぴ」が許されたのであった。

 もっとも、実際に千穂ちほおく女中じょちゅうたちが買い物をするわけではなかった。実際に着物や化粧道具などを購入こうにゅうするのは大奥の男子役人である廣敷ひろしき用達ようたしであった。

 具体的には年寄としよりおもて使づかいに対して「買い物リスト」を渡すのであった。このおもて使づかいとは所謂いわゆる、「大奥の外交係」であり、大奥の男子役人である廣敷ひろしき役人との折衝せっしょうに当たるのがこのおもて使づかいであった。

 そしておもて使づかい廣敷ひろしき役人、それも事務じむ処理しょり系の最高責任者である廣敷ひろしき用人ようにんへとその「買い物リスト」を渡し、さらにこの廣敷ひろしき用人ようにんから配下はいか廣敷ひろしき用達ようたしへと「買い物リスト」が渡り、廣敷ひろしき用達ようたしが市中にて買い物をし、大奥へと届けるのであった。

 この事務じむ処理しょり系の廣敷ひろしき用人ようにんとその配下はいかの、廣敷ひろしき用達ようたしを始めとする連中は大奥の濫費らんぴについて、内心ないしんではまゆひそめつつも、実際に小うるさいことを言うことはなかった。

 それと言うのも廣敷ひろしき用人ようにんや、あるいは配下はいか廣敷ひろしき用達ようたしは大奥で使う、と言うよりはもっぱ千穂ちほとその一派いっぱとも言うべきおく女中じょちゅうが使う高価な着物や化粧道具をあつかう業者より、

くちき手数料…」

 それを得ていたからだ。要は賄賂わいろである。大奥の買い物は年寄としより表使おもてづかい廣敷ひろしき用人ようにん廣敷ひろしき用達ようたしというルートで「買い物リスト」が、つまりは買い物して欲しい品が伝えられるわけだが、実際には、例えば着物が欲しければ、

「どこそこの呉服ごふく問屋が良い…」

 といった具合ぐあい廣敷ひろしき用達ようたし直属ちょくぞく上司じょうしに当たる廣敷ひろしき用人ようにんに対して「アドバイス」をし、それがまた表使おもてづかいに伝わり、さらに表使おもてづかいから年寄としよりへと伝わり、年寄としよりもそれなれば、ということでその業者に決めることが日常にちじょう茶飯さはんであった。

 無論むろんそのためには、廣敷ひろしき用達ようたしも業者より得たくちき手数料の一部を直属ちょくぞく上司じょうしである廣敷ひろしき用人ようにんや、さらに表使おもてづかい年寄としよりへと、

満遍まんべんなく…」

 流す必要があり、畢竟ひっきょう廣敷ひろしき用達ようたしが業者に求めるくちき手数料は莫大ばくだいなものとなる。

 ともあれそのような事情から、千穂ちほおく女中じょちゅうたちが濫費らんぴを…、買い物を望めば望むほどに、くちき手数料がそのふところに入る仕組しくみであり、そうであれば、廣敷ひろしき用達ようたしは元より、その直属ちょくぞく上司じょうしに当たる廣敷ひろしき用人ようにんにしても内心ないしんでは千穂ちほおく女中じょちゅうたちの濫費らんぴまゆひそめつつも、実際には小うるさいことを言わないのも当然と言えば当然であった。

 だがその手のくちき手数料とは無縁むえんの男たち…、廣敷ひろしき役人がおり、廣敷ひろしき番之頭ばんのかしらがそれであった。

 廣敷ひろしき用人ようにん事務じむ処理しょり系の最高責任者であれば、廣敷ひろしき番之頭ばんのかしら警備けいび監察かんさつの最高責任者であり、彼ら廣敷ひろしき番之頭ばんのかしらは大奥の警備けいび監察かんさつの最高責任者として、千穂ちほ濫費らんぴにつき、千穂ちほ附属ふぞくする年寄としより玉澤たまざわなどに度々たびたび小言こごとを言った。

 流石さすが廣敷ひろしき番之頭ばんのかしらも、将軍・家治の側妾そくしょうである千穂ちほ当人とうにん小言こごとを言うことはなかったものの、それでも千穂ちほつかえる年寄としより玉澤たまざわなどに対して、

「きちんとあるじ贅沢ぜいたくいましめ、制御せいぎょいたすのがその方どもの役目であろうが」

 そう難詰なんきつして、彼女らおく女中じょちゅうは元より、千穂ちほからも大層たいそうけむたがられていた。とりわけ玉澤たまざわなどはだい激怒げきどしたものである。

 この頃の玉澤たまざわは次期将軍・家基いえもと生母せいぼである千穂ちほつかえる年寄としよりということで、大層たいそう羽振はぶりが良かった。

 家基いえもと乳母うばつとめた、御台所みだいどころ倫子ともこづき年寄としより初崎はつざきや、あるいは将軍・家治づき松島まつしま高岳たかおかといった年寄としより連中も勿論もちろん羽振はぶりが良かったが、そこへ玉澤たまざわがさしずめ、

新興しんこう勢力せいりょく…」

 として台頭たいとうしてきたのだ。そしてその「台頭たいとう」ぶりたるや、目を見張みはるものがあり、流石さすが松島まつしま高岳たかおかには一歩いっぽおよばないものの、それでもいずれは松島まつしま高岳たかおかをもしのぐようになるであろうと、それがさしずめ、

衆目しゅうもく一致いっちするところ…」

 まさしくそれであり、ゆえにその玉澤たまざわに取り入ろうとするやからが、

あとたず…」

 そのような状況が現出げんしゅつし、それは老中や若年寄といった幕閣ばっかくもその例外れいがいではなかった。

 実際、老中首座しゅざであった松平まつだいら武元たけちかや、それに同じく老中の松平まつだいら輝高てるたか松平まつだいら康福やすよしがそうであり、明和4(1767)年頃のことであったが、彼らは玉澤たまざわを通じて、

近頃ちかごろ、お千穂ちほ方様かたさまにおかせられましては、狂言きょうげんにいたく執心しゅうしんにて…」

 それとなく伝えられるや、武元たけちか輝高てるたか、そして康福やすよしあいはかって、己が娘や女中じょちゅうらと共に、江戸でも人気の狂言きょうげんを大奥へとあがらせて、千穂ちほやそれに玉澤たまざわを始めとする千穂ちほつかえるおく女中じょちゅうたちの前で狂言きょうげんを演じさせたのであった。大名家の息女そくじょもまた、その大名家につかえる女中じょちゅうと共に大奥へとあがることができたのであった。

 ちなみにその中には康福やすよしの娘にしてすで田沼たぬま意知おきとも妻女さいじょとなっていたよしふくまれていた。

 それと言うのも実際に狂言きょうげんつくろったのは当時…、明和4(1767)年頃には御側おそば御用ごようにんであった田沼意次その人であり、そもそも玉澤たまざわより老中の松平まつだいら武元たけちからに対して、

千穂ちほ狂言きょうげん夢中むちゅう…」

 そう伝えられたのも、意次をかいしてであり、だが意次とはちがって名門めいもん武元たけちかや、それに同じく名門めいもん輝高てるたかにしろ康福やすよしにしろ世事せじうとく、それゆえ千穂ちほ狂言きょうげん夢中むちゅうと伝えられても、どうすれば良いものかピンとこず、そこで意次が、

「大奥に狂言きょうげんまねいて、千穂ちほ玉澤たまざわたちおく女中じょちゅうの前で狂言きょうげんえんじさせれば良い…」

 そうアドバイスをした賜物たまものであった。もっとも、世事せじうと武元たけちかたちにすれば、意次からそうアドバイスをされたところで、さて具体的には如何いかにして狂言きょうげんを連れて来れば良いものか、それに一口ひとくち狂言きょうげんと言われても、具体的には誰を連れて来れば良いものかと、まったくもって分からず、そこで意次が万事ばんじ仕切しきり、江戸でも人気の狂言きょうげん武元たけちか輝高てるたか、そして康福やすよしらにたくして、その息女そくじょ女中じょちゅうたちと共に江戸城本丸ほんまるは大奥へとあがらせた次第しだいであり、意次は武元たけちかたちに対して、

「花を持たせた…」

 格好かっこうであり、しかし、それではいくらなんでも意次に申し訳ないと、そう思った康福やすよしすでに意次のそく意知おきとももとへとしていたよしにも声をかけ、一緒いっしょに大奥へとあがらせたというわけだ。

 ともあれ、玉澤たまざわ事程ことほど左様さよう権勢けんせい高く、自身じしんも、

「老中と同格どうかく…」

 そのような意識いしき芽生めばえており、にもかかわらずそのような玉澤たまざわに対して、廣敷ひろしき番之頭ばんのかしら遠慮えんりょするところがまったくなかった。

 もっとも、玉澤たまざわにしても彼ら廣敷ひろしき番之頭ばんのかしらの気持ちも分からなくはなかった。

 それと言うのも廣敷ひろしき番之頭ばんのかしらは正式名称、

御台みだいさま廣敷ひろしき番之頭ばんのかしら

 であり、そうであれば、

御台みだい様こと、御台所みだいどころつかえて、大奥の警備けいび監察かんさつになう最高責任者である…」

 廣敷ひろしき番之頭ばんのかしらにはその意識があった。少なくとも、将軍・家治の御台所みだいどころ倫子ともこ本丸ほんまる大奥にて鎮座ちんざしていた時分じぶん廣敷ひろしき番之頭ばんのかしらの意識はそうであり、ゆえに御台所みだいどころ倫子ともこならばいざ知らず、あるいは倫子ともこの実娘の萬壽ますひめならばいざ知らず、側室そくしつ千穂ちほが己につかえるおく女中じょちゅうと共に、大奥の風儀ふうぎを乱す行為にはゆるがたいものがあったのであろう。

 一方、玉澤たまざわも己に遠慮えんりょするところのない廣敷ひろしき番之頭ばんのかしらに対して腹を立てながらも、その気持ちは理解出来なくもないというわけで、最初は懐柔かいじゅうつとめようとしたものの、

「けんもほろろ…」

 廣敷ひろしき番之頭ばんのかしらにあしらわれる始末しまつであった。この時、廣敷ひろしき番之頭ばんのかしらは9人も存在していたものの、9人とも、である。

 爾来じらい玉澤たまざわはこの廣敷ひろしき番之頭ばんのかしらにくむようになり、玉澤たまざわより話を聞いた千穂ちほも大いににくんだ。ある意味、玉澤たまざわ以上ににくんだと言っても良いだろう。何しろ、千穂ちほ玉澤たまざわより彼ら廣敷ひろしき番之頭ばんのかしらが、

御台所みだいどころ意向いこうを受けて…」

 そんな枕詞まくらことばするのを忘れなかったからだ。無論むろん千穂ちほを大いに刺激しげきするためであったが、結果は玉澤たまざわ思惑おもわく通りであり、いや、それ以上と言えた。

 千穂ちほ玉澤たまざわが期待した通り、将軍・家治に対して今の廣敷ひろしき番之頭ばんのかしらを一人残らず更迭こうてつした上で、

御台みだい様ではのうて、このわたくしめの…、千穂ちほの言うがままにしたごう者を廣敷ひろしき番之頭ばんのかしらに取り立てて欲しい…」

 そうあけすけにたのんだもので、これにはさしもの将軍・家治も心底しんそこあきれ果てると同時に、

左様さようなこと、出来るわけもなかろう…」

 千穂ちほの願いを、つまりは玉澤たまざわの願いを言下げんかに斬って捨てたのであった。

 こうなると千穂ちほとしても、そしてそれは玉澤たまざわにしても廣敷ひろしき番之頭ばんのかしら更迭こうてつ…、クビにしてもらうことはあきらめて、一刻いっこくも早く、家基いえもとと共に西之丸にしのまるに引き移りたいと願うようになった。

 それと言うのも、西之丸にしのまるの大奥にも廣敷ひろしき番之頭ばんのかしらが配されており、しかし本丸ほんまるの大奥のそれと比べると、その定員たるや3分の1に過ぎなかった。

 すなわち、西之丸にしのまるの大奥の警備けいび監察かんさつになう最高責任者たる廣敷ひろしき番之頭ばんのかしらの定員は3人であり、実際、明和6(1769)年の12月9日に西之丸にしのまるのそれも中奥なかおく入りをたした家基いえもとにに千穂ちほ玉澤たまざわたちおく女中じょちゅうと共に西之丸にしのまるの大奥入りをたした際の廣敷ひろしき番之頭ばんのかしらたるや、

戸田とだ荘左衛門しょうざえもん格誠まさのぶ

渡辺わたなべ源二郎げんじろうひろし

中村なかむら久兵衛きゅうべえ信興のぶおき

 この3名に過ぎなかった。本丸ほんまる大奥にて9人もの廣敷ひろしき番之頭ばんのかしら、もっと言うならば口うるさい、むさ苦しい男どもの目が光っていた頃よりはずっと快適かいてきに違いないと、千穂ちほにしろ、玉澤たまざわたちおく女中じょちゅうにしろ皆、そう思ったものである。

 とりわけ千穂ちほ満足まんぞくさせたのは彼らが西之丸にしのまるの大奥にてつかえる廣敷ひろしき番之頭ばんのかしらだということだ。

 つまりは千穂ちほつかえる廣敷ひろしき番之頭ばんのかしらであり、最早もはや御台所みだいどころつかえる廣敷ひろしき番之頭ばんのかしらではない、ということだ。

 そうであれば最早もはや西之丸にしのまるにて、すなわち、千穂ちほつかえるという意識いしきがあるに違いない廣敷ひろしき番之頭ばんのかしらが…、西之丸にしのまるの大奥の警備けいび監察かんさつになう最高責任者たる廣敷ひろしき番之頭ばんのかしら千穂ちほの行動、いや、乱行らんぎょうに口うるさく言うこともないだろうと、千穂ちほは元より、千穂ちほつかえる年寄としより玉澤たまざわを始めとするおく女中じょちゅうの誰もがそう思ったものである。

 いや、西之丸にしのまるにも本丸ほんまる留守居るすい相当そうとうするそれが…西之丸にしのまるの大奥を取りまるべき留守居るすいが置かれているものの、しかし、西之丸にしのまる留守居るすい本丸ほんまるのそれに比べて、かくが落ちる。

 西之丸にしのまる留守居るすい本丸ほんまる留守居るすいと同じく従五位下じゅごいのげ相当そうとうする諸大夫しょだいぶ役でこそあるものの、しかし、幕府内の序列じょれつという観点かんてんからすれば、西之丸にしのまる留守居るすい本丸ほんまる留守居るすいくらべて、それこそ、

「天と地…」

 それほどひらきがあった。無論むろん本丸ほんまる留守居るすいが「天」であり、一方、西之丸にしのまる留守居るすいは「地」であった。

 すなわち、本丸ほんまる留守居るすいは幕府の武官ぶかん五番ごばんかたの最上位に位置いちする大番頭おおばんがしらのちょうど真上まうえ位置いちし、役高やくだかも支配も大番頭おおばんがしらと同じく、5千石高の老中支配であった。

 大番頭おおばんがしらは基本的には旗本役ではあるものの、1万石から2万石クラスの小大名もじっており、ひるがえって、留守居るすいは旗本役であり、大名はけないポストであるので、つまり、幕府内の序列じょれつという観点かんてんからすれば、

「旗本である留守居るすいの方が大番頭おおばんがしらつとめる1万石から2万石クラスの大名よりもえらい…」

 という逆転現象が起こる。いや、これはあくまで極論きょくろんであり、それで実際に留守居るすいつとめる旗本が大番頭おおばんがしらつとめる1万石から2万石クラスの小大名に対して横柄おうへいな態度を取ることはあり得ないものの、しかし、あくまで理論上ではそうであった。

 そしてその「理論」を裏付けるかのように本丸ほんまる留守居るすいともなると、大名と同じくしも屋敷やしきを与えられ、その上、嫡男ちゃくなんのみならず、次男じなんまで将軍への御目見得おめみえが許されており、留守居るすいは大名並の格式かくしきを与えられていたのだ。

 それに比して西之丸にしのまる留守居るすいたるや、そのような格式かくしきは与えられてはいなかった。

 大体だいたい西之丸にしのまる留守居るすいは幕府内の序列じょれつにおいては大番頭おおばんがしらは元より、遠国おんごく奉行ぶぎょうよりも下に位置いちするのだ。

 また役高やくだかにしても西之丸にしのまる留守居るすいのそれは本丸ほんまる留守居るすいのそれの半分以下の2千石、支配にしても若年寄支配と、西之丸にしのまる留守居るすい本丸ほんまる留守居るすいよりも大分だいぶかくが落ちる。

 いや、それ以上に西之丸にしのまる留守居るすい本丸ほんまるのそれと比べて、

「次があるポスト…」

 でもあったのだ。どういうことかと言うと、本丸ほんまる留守居るすいが完全に閑職かんしょくひらたく言えば、

老衰ろうすい

 それであるのに対して、西之丸にしのまる留守居るすいは必ずしも、本丸ほんまる留守居るすいのように、

老衰ろうすい

 そうとは言い切れない側面そくめんがあったからだ。

 無論むろん西之丸にしのまる留守居るすいの中にも明らかに、

「次がない…」

 そのような高齢こうれいしゃ、それも後期こうき高齢こうれいしゃふくまれることもあったが、しかし、本丸ほんまる留守居るすいのように皆、「次がない…」後期こうき高齢こうれいしゃというわけではなかった。

 西之丸にしのまる留守居るすいの中には遠国おんごく奉行ぶぎょうや、あるいは作事さくじ普請ふしん小普請こぶしん所謂いわゆるしたさん奉行ぶぎょうや、しくは勘定かんじょう奉行ぶぎょうや江戸町奉行に、

「王手をかける…」

 そのような、言わば「バリバリ…」の旗本もふくまれており、そうであれば彼ら、「次がある…」旗本にしてみれば、

極力きょくりょく、大奥とは衝突しょうとつを起こしたくない…」

 そう考えるのが自然であった。

 そしてそう考える者は大抵たいてい、「ことなかれ主義」におちいる者であり、この時の…、明和6(1769)年12月の時点での西之丸にしのまる留守居るすいもその例外ではなかった。

松平まつだいら玄蕃頭げんばのかみ忠陸ただみち

萩原はぎわら主水正もんどのかみ雅忠まさただ

笹本ささもと靱負佐ゆきえのすけ忠省ただみ

永井ながい筑前守ちくぜんのかみ直令なおよし

古郡ふるごおり駿河守するがのかみ年庸としつね

 以上の5人が千穂ちほたちが西之丸にしのまるの大奥入りをたした際の留守居るすい西之丸にしのまる留守居るすいであった。

 いや、彼ら5人は笹本ささもと忠省ただみのぞいて皆、60歳以上であった。ことに古郡ふるごおり年庸としつねはこの時…、明和6(1769)年12月の時点で86歳と完全に、

後期こうき高齢こうれいしゃ

 であり、他の3人にしても松平まつだいら忠陸ただみち萩原はぎわら雅忠まさただが共に68歳、永井ながい直令なおよしは62歳、そして一番若い笹本ささもと忠省ただみですら58歳と、

後期こうき高齢こうれいしゃ

 でこそないものの、今からさら遠国おんごく奉行ぶぎょうあるいは作事さくじ奉行ぶぎょうを始めとする下三したさん奉行ぶぎょうしくは江戸町奉行や勘定奉行といった実務じつむ官僚かんりょうへと出世するには厳しい年頃であり、精々せいぜいはた奉行ぶぎょう昇進しょうしんするのが、

定番ていばんのコース」

 それであった。

 はた奉行ぶぎょうとはその名からも察せられる通り、幕府が保管ほかんしているはた指物さしもの…、軍旗ぐんきうまじるし旗幟きしを管理する役目であり、しかし戦時せんじならばいざ知らず、今のように平時へいじにおいては完全に閑職かんしょくであり、事実、留守居るすいなら閑職かんしょくとして知られていた。

 しかも、留守居るすいとは違い、はた奉行ぶぎょう従五位下じゅごいのげ相当そうとうするしょ大夫だいぶ役ではなく、従六位じゅろくい相当そうとう布衣ほい役であった。幕府内の序列じょれつにおいてははた奉行ぶぎょうの下に位置いちするはず西之丸にしのまる留守居るすいが本丸《ほんまる》の留守居るすいと同じく従五位下じゅごいのげ相当そうとうすると言うのに、である。

 それでも「実入みいり」という観点では西之丸にしのまる留守居るすいと変わらずで、すなわち、役高やくだかが2千石で何より、幕府内の序列じょれつという観点かんてんでは西之丸にしのまる留守居るすいよりも上であるのは当然として、遠国おんごく奉行ぶぎょうさら作事さくじ奉行ぶぎょう普請ふしん奉行ぶぎょう小普請こぶしん奉行ぶぎょう所謂いわゆる下三したさん奉行ぶぎょうよりも上であった。

 それゆえこれ以上、実務じつむ的な官僚かんりょうへと昇進しょうしんたすことが年齢面から難しい60代以上の西之丸にしのまる留守居るすいにとってこのはた奉行ぶぎょうというのはまさ格好かっこうの「老衰ろうすい」、いや、出世の終着しゅうちゃく駅と言えた。

 だがうらかえせば、「こわいものなし」とも言えた。これ以上、年齢ねんれいから言って、実務じつむ的な官僚かんりょうへと昇進しょうしんたすことが無理ならばと、

西之丸にしのまるの大奥を取りまる留守居るすいとしてその職責しょくせきまっとうしてやる…」

 そう考えてもおかしくはない、ということであり、実際、86歳と最高齢さいこうれい古郡ふるごおり年庸としつねがそう考え、そんな古郡ふるごおり年庸としつねに、なぜか二回ふたまわりも下の、62歳の永井ながい直令なおよし賛同さんどうし、古郡ふるごおり年庸としつね永井ながい直令なおよし千穂ちほや、千穂ちほつかえる年寄としより玉澤たまざわを始めとするおく女中じょちゅうたちがあんじょうと言うべきか、西之丸にしのまるの大奥においても「濫費らんぴ」を始めるや、古郡ふるごおり年庸としつね永井ながい直令なおよしはそれを…、「濫費らんぴ」をいましめるべく、何と千穂ちほ当人とうにんに対していましめようとする、

鼻息はないきあらさ…」

 それを見せつけた。

 だがそんな、

鼻息はないきあらい…」

 古郡ふるごおり年庸としつね永井ながい直令なおよしの二人を他の留守居るすいたしなめたのであった。

 まだ60代前の、つまりは実務じつむ的な官僚かんりょうへとさらなる昇進しょうしん見込みこめる御齢おんとし58の笹本ささもと忠省ただみが「自己じこ保身ほしん」から二人のその、

匹夫ひっぷゆう…」

 それをいましめたのは理解できるにしても、そんな笹本ささもと忠省ただみよりも年上の、それどころか永井ながい直令なおよしよりも年上の、御齢おんとし68同士の松平まつだいら忠陸ただみち萩原はぎわら雅忠まさただまでが笹本ささもと忠省ただみあとししたのだ。

 もっともこれにも事情があった。それと言うのも、松平まつだいら忠陸ただみちにしろ萩原はぎわら雅忠まさただにしろ、せがれがそれぞれ幕府の要職ようしょくにいたのだ。

 すなわち、松平まつだいら忠陸ただみちそく縫殿頭ぬいのかみ忠香ただよし小普請こぶしん奉行ぶぎょう萩原はぎわら雅忠まさただそく大學だいがく雅宴まさやす本丸ほんまる小納戸こなんどをそれぞれつとめていた。

 松平まつだいら忠香ただよしにしろ萩原はぎわら雅宴まさやすにしろ、家督かとく相続そうぞく前であるにもかかわらず、であり、とりわけ松平まつだいら忠香ただよし家督かとく相続そうぞく前であるにもかかわらず、小普請こぶしん奉行ぶぎょういたのはきわめて異例いれいと言えた。

 何しろ小普請こぶしん奉行ぶぎょうと言えば下三したさん奉行ぶぎょうであり、そうである以上、幕府内の序列じょれつで言えば遠国おんごく奉行ぶぎょうよりも上であった。

 いや、遠国おんごく奉行ぶぎょうでさえ、家督かとく相続そうぞく前の者がくなど前例ぜんれいのないことであった。

 それが遠国おんごく奉行ぶぎょうよりも格上かくうえ下三したさん奉行ぶぎょう小普請こぶしん奉行ぶぎょうともなれば尚更なおさらであろう。

 それだけ忠香ただよしが優秀だったからであり、そうであれば忠陸ただみちとしても父として、

せがれの出世の足を引っ張りたくない…」

 そう思うのは当然であり、それゆえ、

せがれの出世の足を…」

 引っ張ることにもなりかねない、千穂ちほたちの「濫費らんぴ」をいましめるなど、その忠陸ただみちには出来できようはずもなかった。

 そして同じことは萩原はぎわら雅忠まさただにも言えた。

 すなわち、萩原はぎわら雅忠まさただそく大學だいがく本丸ほんまるにて小納戸こなんどつとめており、しかし、忠香ただよしの場合とは違い、家督かとく相続そうぞく前での小納戸こなんど就任しゅうにんはそれほどめずらしいことではなかった。

 もっともそれは、

「同じく家督かとく相続そうぞく前で小普請こぶしん奉行ぶぎょういた松平まつだいら忠香ただよしの場合とくらべて…」

 つまりは比較ひかくの問題に過ぎず、旗本全体から見た場合、家督かとく相続そうぞく前での小納戸こなんど就任しゅうにんはやはりめずらしいと言えるかも知れない。

 何しろ小納戸こなんどと言えば、従五位下じゅごいのげ相当そうとうするしょ大夫だいぶ役の小普請こぶしん奉行ぶぎょうにはおよばないものの、それでも従六位じゅろくい相当そうとう布衣ほい役であり、この布衣ほい役は家督かとく相続そうぞくみの者でもそうそうなれる「ポスト」ではなかった。

 にもかかわらず、萩原はぎわら雅宴まさやすいま家督かとくいでいないにもかかわらず、その布衣ほい役である小納戸こなんどけたのも、松平まつだいら忠香ただよしと同じくやはり雅宴まさやす当人とうにんの実力が認められたから…、とそう言えれば実に格好かっこう良いのだが、現実は違い、雅宴まさやす当人とうにんの実力が評価されたから…、と言うよりは、

「父である萩原はぎわら雅忠まさただのおかげ…」

 それがだいであった。

 それと言うのも萩原はぎわら雅忠まさただにしてもまた、小納戸こなんどのみならず小姓こしょうをもつとめたことがあったのだ。西之丸にしのまる留守居るすいく前、それもはるか昔のことであるが、それでもそのことが評価されて、雅宴まさやす小納戸こなんどに取り立てられることとなったのであった。

 小納戸こなんどにしろ小姓こしょうにしろ中奥なかおく…、将軍の「プライベートエリア」である中奥なかおくつかえる役人、それも将軍に近侍きんじする「ポスト」であった。

 そうであればその小納戸こなんど小姓こしょうに取り立てられる者と言えば、父も小納戸こなんどあるいは小姓こしょうつとめていたことがあるケースが多かった。採用さいよう基準きじゅんと言っても過言かごんではないやも知れぬ。

 何しろ、将軍の立場に立てば、見知みしらぬ者がそばつかえてくれるよりも、

勝手かって知ったる者のせがれつかえてもらいたい…」

 そう考えるのが自然であり、そして将軍のその考えはそのまま人事じんじ反映はんえいされ、小納戸こなんど小姓こしょうに取り立てられる者は父も同じく小納戸こなんど小姓こしょうつとめていたことがあるケースが多く、それが家督かとく相続そうぞく前の者ともなると、父が小納戸こなんど小姓こしょうつとめていたケースがほとんどと言っても良いだろう。

 そこが主に実力が評価ひょうかされるおもてむきの人事との違いであり、つまりは小普請こぶしん奉行ぶぎょうを始めとするおもてむきの人事との違いであった。

 さらに萩原はぎわら雅忠まさただの場合、そく雅宴まさやす嫡男ちゃくなん雅忠まさただからすればちゃくそんに当たる式部しきぶ茂雅しげまさは未だ17歳と、御役おやくにこそいてはいなかったものの、それでも6年前の宝暦13(1763)年の9月には家基いえもと山王さんのうしゃもうでるべく、騎馬きばにて向かった際、そのおともを、所謂いわゆる

少人しょうじん騎馬きば…」

 それをつとめたことがあったほどで、つまりは萩原はぎわら雅忠まさただは三代に渡って将軍家の御側おそば近くにつかえているというわけで、そうであれば萩原はぎわら雅忠まさただにしてもまた、将軍家との「えにし」をこわすことにもなりかねない、千穂ちほたちに対してその「濫費らんぴ」をいましめるなど出来できようはずもなかったのであった。

 ともあれこうして5人の留守居るすいのうち、丁度ちょうど半数はんすうに当たる3人が千穂ちほたちのその「濫費らんぴ」について、

黙認もくにんすべし…」

 その態度をつらぬいたために、古郡ふるごおり年庸としつね永井ながい直令なおよし千穂ちほたちのその「濫費らんぴ」をいましめることをあきらめたのであった。

 仮に、千穂ちほたちの「濫費らんぴ」を、それも千穂ちほ当人に対していましめたとしても、あとの3人…、松平まつだいら忠陸ただみち萩原はぎわら雅忠まさただ、そして笹本ささもと忠省ただみの3人が反対の意思いし表示ひょうじを、つまりは、

千穂ちほたちの濫費らんぴについては将軍・家治自身が許したことでもあり、それを黙認もくにんすべし…」

 そう意思いし表示ひょうじをしてのける危険性が十二分じゅうにぶんに考えられ、そしてそうなれば莫迦ばかを見るのはそれこそ、

莫迦ばか正直しょうじきに…」

 千穂ちほたちの「濫費らんぴ」につき、千穂ちほ当人に対していましめた古郡ふるごおり年庸としつね永井ながい直令なおよしの2人ということになり、最悪さいあく千穂ちほ不興ふきょうを買ったがために、

御役おやく御免ごめんの上、ひかえ、小普請こぶしん入り…」

 それを命ぜられる「リスク」が十分じゅうぶんにあり、そのことは古郡ふるごおり年庸としつねにしろ、永井ながい直令なおよしにしろ承知しょうちしていたので、そうであれば古郡ふるごおり年庸としつね永井ながい直令なおよしもそのような「リスク」をおかしてまで、西之丸にしのまるの大奥の濫費らんぴについて千穂ちほ当人とうにんに対していましめようなどとは更々さらさら思わなかった。

 古郡ふるごおり年庸としつね永井ながい直令なおよし生憎あいにくとそこまでの正義せいぎかんではなかったからだ。

 それと言うのも古郡ふるごおり年庸としつね家禄かろくが1072石の古郡ふるごおり家の、永井ながい直令なおよし家禄かろく千石せんごく永井ながい家のそれぞれ当主とうしゅであり、そうであれば役高やくだかが2千石の西之丸にしのまる留守居るすいでいられるかぎりは、古郡ふるごおり年庸としつねは928石の、永井ながい直令なおよしは千石もの、それぞれ足高たしだか保証ほしょうされており、それが千穂ちほに対してその「濫費らんぴ」をいましめたがために、その西之丸にしのまる留守居るすいを、

御役おやく御免ごめん…」

 クビになろうものなら、西之丸にしのまる留守居るすいとしてそれまで保証ほしょうされていた足高たしだかについてももう、保証ほしょうされない、要はもらえないことになる。

 古郡ふるごおり年庸としつね永井ながい直令なおよしもそれを恐れて、千穂ちほの「濫費らんぴ」をいましめることをあきらめたわけであったが、それにしても足高たしだかもらえなくなることを恐れるとは、これでは千穂ちほとそれこそ、

「同じあなむじな…」

 そうとらえられてもいたかたあるまい。

 ともあれ、こうして千穂ちほの「濫費らんぴ」をいましめる者はだれ一人ひとりとして存在そんざいせず、千穂ちほの「濫費らんぴ」にいよいよ拍車はくしゃがかかった。
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