天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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見張所

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「されば…、おそれ多くも御台みだい様、萬壽ます姫様のその死を看取みとりましたのが、それも死にいたるまでの経過けいか詳細しょうさい記録きろくせしが遊佐ゆさ信庭のぶにわにて…」

 平蔵のその言葉だけで景漸かげつぐはまたしても気付いた様子を見せた。それも顔色を変えて。

「まさか…、御台みだい様、萬壽ます姫様までが毒殺…、そのシロタマゴテングタケ、あるいはドクツルタケで毒殺されたと申すのではあるまいの…」

 景漸かげつぐうめくように尋ねた。

「そのまさかにて…、されば大納言だいなごん様の毒殺…、それもまずはご病死びょうしに見せかけ、それがかなわぬ時には清水様にその罪を…、大納言だいなごん様毒殺の罪を着せるその計画は一刻いっこくどころか寸分すんぶんくるいも許されず、そこで果たしてタマゴテングタケ、あるいはドクツルタケを摂取せっしゅした者が如何いかなる経過けいか辿たどって死にいたるのか、実際に誰かの体で毒の効果をためし、そしてそれを記録する必要があったものと…」

「それでは人体実験ではあるまいかっ!」

 景漸かげつぐがズバリそう言い切った。

如何いかにも…」

「それでは…、小野おの章以あきしげ遊佐ゆさ信庭のぶにわにそのシロタマゴテングタケ、あるいはドクツルタケを渡し、そしてそれを使ってまずは御台みだい様、次に萬壽ます姫様のおいのちうばったと申すのか?きたるべき、大納言だいなごん様殺害…、毒殺にそなえて、か?」

おそらくは…」

「なれど…、仮にそうだとしても、成程なるほど、それでシロタマゴテングタケ、あるいはドクツルタケは御城おしろに持ち込めるやも知れぬが、なれど御城おしろのそれも大奥におわす、いや、おわされた御台みだい様、萬壽ます姫様を毒殺…、シロタマゴテングタケ、あるいはドクツルタケをふくませるには大奥の中にも共犯者がいると考えるべきであろう…」

 確かに景漸かげつぐの言う通りであった。

「そこで曲淵まがりぶち様にもう一つ、お願いが…」

 平蔵はそう切り出した。

「何だ?」

留守居るすい高井たかい土佐守とさのかみ様のお屋敷の所在地を教えていただたく…」

 平蔵がそう頼むと、景漸かげつぐ文机ふづくえの紙に高井たかい直熙なおひろの屋敷の所在地を書き付けて、それを平蔵に渡した。

「大奥を監督かんとくせし高井たかい土佐守とさのかみ様なれば、おそれ多くも御台みだい様、萬壽ます姫様が薨去こうきょされし折…、それも前後の事情に通じているやも知れぬと、そういうわけだな?」

 景漸かげつぐがそう尋ねた。

如何いかにも…、特に遊佐ゆさ信庭のぶにわおそれ多くも御台みだい様、萬壽ます姫様の療治りょうじくわわりし事情について何かぞんじておられるやも知れず…、いや、意知おきともさん…、いえ、これもまた田沼殿より教えられましたことなのですが、何でも遊佐ゆさ信庭のぶにわみずか療治りょうじに…、その御台みだい様、萬壽ます姫様の療治りょうじくわわりたいと強く望んだそうで…、最終的には留守居るすい駒木根こまきね大内記だいないき様のつるの一声にて…」

「なれど、遊佐ゆさ信庭のぶにわおもてばん医師いしとのことではないか。されば大奥にておそれ多くも御台みだい様、萬壽ます姫様の療治りょうじくわわるは別段べつだん不審ふしんには思えぬのだが…」

「確かに…、なれど遊佐ゆさ信庭のぶにわおもてばん医師いしれっしましたるは明和6(1769)年だそうで…、一方、御台みだい様がやまいに…、いえ、今となっては毒にと申すべきやも知れませぬが、おたおれになられましたるはそれからわずか2年後の明和8(1771)年のことにて…」

「いかさま…、まだ2年目の、さしずめ新人というわけだな?」

左様さようにて…、さればその遊佐ゆさ信庭のぶにわが何ゆえに御台みだい様の療治りょうじくわわることが出来たのか…、留守居るすい駒木根こまきね様は何ゆえにつる一声ひとこえを発せられたのか、今でもご存命ぞんめいの、そしてその当時から今にいたるまで留守居るすいのお役にある高井たかい土佐守とさのかみ様なれば何か存じておられるのではないかと…」

「いかさま…、一橋ひとつばし卿様と通じておるやも知れぬ依田よだ豊前ぶぜんめをたよるわけにはゆかず、そこで高井たかい土佐守とさのかみ様をたよろうと、そういうわけだな?」

 景漸かげつぐが平蔵にそう尋ねたので、平蔵はやはり、「おやっ?」と思ったものである。それと言うのも、高井たかい直熙なおひろにしろ、依田よだ政次まさつぐにしろ共に留守居るすいであるにもかかわらず、景漸かげつぐ高井たかい直熙なおひろに対してだけ、

高井たかい様…」

 そう敬称を付け、その一方で依田よだ政次まさつぐに対しては、

依田よだ豊前ぶぜんめ…」

 そう呼び捨てであったからだ。しかも、嫌悪けんお感さえ感じられるほどであり、これは一体どうしたことかと、平蔵が首をかしげると、景漸かげつぐ流石さすがかんするどい男だけにすぐにそうと察すると、

「いや、昔、依田よだ豊前ぶぜんめとは色々いろいろとあってのう…」

 景漸かげつぐ依田よだ政次まさつぐとは不仲ふなかであることを平蔵ににおわせたのであった。

 平蔵としてはそれに対して、一体、何ゆえに不仲ふなかになったのか、大いに興味をかれたものの、しかし、その点については景漸かげつぐも口にしたくない様子であり、そうと察した平蔵はそれ以上のくわしい説明を求めるようなはおかさなかった。

「いや、話は良く分かった。されば見張みはりじょの件も承知しょうちした…」

 景漸かげつぐはそう請合うけあうなり、

「それと遊佐ゆさ信庭のぶにわ見張みはるための見張みはりじょも設けた方が良いな…」

 景漸かげつぐはそう告げて、平蔵をして、「あっ」と言わせた。確かにその必要性もあり、しかし、平蔵はそこまでは考えがいたらず、平蔵は己の未熟みじゅくさとると同時に、景漸かげつぐ老練ろうれんさに感嘆かんたんさせられた。

 だがそうは言っても一体、どこに見張みはりじょを設けるつもりかと、平蔵は首をかしげた。

 するとそのわたかんばたらきでもってやはりそうと察した景漸かげつぐは、「あんずるな…」とそうまえきすると、

「されば、栗崎くりさき先生を頼ろうぞ…」

栗崎くりさき先生と申されますのは…、あの外科げかの?」

 平蔵も栗崎くりさき苗字みょうじ程度ていどは、そして外科げか家柄いえがらであることぐらいは承知しょうちしていた。

左様さよう。あの…、おもてばん外科げか栗崎くりさき先生…、栗崎くりさき道巴どうは正明まさあきら先生よ…」

「と言うことは…、その栗崎くりさき先生の屋敷を見張みはりじょとするからには、遊佐ゆさ信庭のぶにわ屋敷やしきの近くで?」

「近くも何も、お隣さん同士よ」

 景漸かげつぐことげにそう答えてみせたので、平蔵をもう何度目か驚かせた。

八丁堀はっちょうぼりに二軒もの官医かんいの屋敷があるとは…」

 平蔵の疑問に景漸かげつぐは、「ああ…」と素直すなおに受け止めると、その事情を説明してくれた。

 すなわち、元禄げんろく御代みよ八丁堀はっちょうぼりの中でもきた八丁堀はっちょうぼり永沢ながさわ丁が官医かんい受領じゅりょう地、つまり屋敷やしき地として割り当てられたことに由来ゆらいする。

「だとしても…、栗崎くりさき先生は果たして、見張みはりじょとして屋敷やしきを貸していただけるのでしょうか…」

 平蔵には何とも疑問であった。

「なに、それもあんずることはない。いや、栗崎くりさき先生には日頃ひごろより世話せわになっておるゆえに…」

世話せわに?」

 平蔵は首をかしげた。

左様さよう…、されば町方まちかた捕物とりものなど、日頃ひごろより生疵なまきずえぬところがあるからのう…」

「ああ…、与力よりきや同心の療治りょうじも…」

左様さよう…、それゆえ町方まちかたは北南問わず、栗崎くりさき先生とはかお馴染なじみでの…、まぁ、多少たしょうの無理も聞いてくれるというものよ…」

 景漸かげつぐはそう言うと、手隙てすきじょうまちまわり同心を呼びつけると、仔細しさいを告げた上で、ただちに栗崎くりさき邸へと走らせた。

 だが、小野おの章以あきしげ見張みはるための見張みはりじょともなるとそうはいかない。何しろ一体いったいどこに見張みはりじょを設ければ良いのか分からないからだ。
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