天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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留守居・依田豊前守政次への疑惑

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まこと依田よだ殿が…、岡本おかもと先生がおそれ多くも御台みだい様やの療治りょうじくわわることに反対されたと?」

 意知おきともは決して元悳もとのりの言葉を疑ったわけではなかったものの、それでも思わずそう聞き返した。聞き返さずにはいられなかったからだ。

まことでござりまする…、それと申しますのも我らは…、御台みだい様の療治りょうじに当たりし我らはこぞって、広敷ひろしき番之頭ばんのかしら殿を通じて、留守居るすい様に、寄合よりあい岡本おかもと先生を…、岡本おかもと玄治げんじ療治りょうじくわえてくれるよう頼んだのですが…」

 広敷ひろしき番之頭ばんのかしらとは大奥の警備けいび監察かんさつになう男子役人、所謂いわゆる広敷ひろしき役人であり、留守居るすい支配であった。それゆえ元悳もとのりたち倫子ともこ治療ちりょうチームがその広敷ひろしき番之頭ばんのかしらを通じて留守居るすいに頼んだのは指揮しき命令めいれい系統けいとうしたがったものであり、その職掌しょくしょう観点かんてんからも当然と言えた。

 すなわち、広敷ひろしき役人以外の男が大奥に立ち入るには大奥を監督かんとくする留守居るすいの許可が絶対に必要であり、また実際に大奥の警備けいび監察かんさつに当たる広敷ひろしき番之頭ばんのかしらにも大奥への立ち入りを許してもらう必要があるからだ。

「それで…、広敷ひろしき番之頭ばんのかしらを通じて返ってきた答え…、留守居るすい返答へんとういなであったと?」

 意知おきともさきまわりして尋ねると、元悳もとのりうなずいた。

「誰が…、留守居るすいの中でも誰が反対したのか…、岡本おかもと先生が御台みだい様の療治りょうじくわわることに反対したのか、それを広敷ひろしき番之頭ばんのかしらに尋ねられたわけで?」

左様さよう…、されば依田よだ様が特に強く反対されたと、櫻井さくらい殿が…」

櫻井さくらい殿?」

 意知おきともが聞き返すと、「櫻井さくらい殿」が櫻井さくらい林右衛門りんえもん貴氐たかもとであると、元悳もとのりは教えてくれた。

「その櫻井さくらい殿が打ち明けてくれたと…、元悳もとのり先生に…」

 意知おきともは確かめるようにそうつぶやくと、元悳もとのりは「左様さよう…」と答えた。

もっとも、すぐに相役あいやく木室きむろ殿と若林わかばやし殿より、余計よけいなことは申すなと、注意されましたがな…」

 木室きむろと言うのは木室きむろ七左衛門しちざえもん朝濤ともなみのことであり、若林わかばやしと言うのは若林わかばやし平左衛門へいざえもん忠隆ただたかであると、意知おきともはやはり元悳もとのりからそう教えられた。

 その頃…、明和8(1771)年時における本丸ほんまる広敷ひろしき番之頭ばんのかしらの定員は9人であり、3人が一組となって「一日いちにち一夜いちやばん」をつとめていた。

 一日いちにち一夜いちやばんとはその名からも察せられる通り、朝から晩まで、いや、翌朝まで大奥の警備けいび監察かんさつに当たり、翌朝、次の組…、3人一組の広敷ひろしき番之頭ばんのかしらまさに「チーム」へと交代するのであった。

 さてその折…、元悳もとのりたち治療ちりょうチームが広敷ひろしき番之頭ばんのかしらを通じて留守居るすいに対して、岡本おかもと松山しょうざん倫子ともこ治療ちりょうチームにくわえてくれるよう頼んだその折には櫻井さくらい林右衛門りんえもん木室きむろ七左衛門しちざえもん、そして若林わかばやし平左衛門へいざえもんがチームを組んで大奥の警備けいび監察かんさつに当たっていたのだ。

 その「チーム」の一人である櫻井さくらい林右衛門りんえもん留守居るすい依田よだ政次まさつぐ岡本おかもと松山しょうざん治療ちりょうチーム入りをこばんだことを元悳もとのりたちに打ち明け、すると「チームメイト」の木室きむろ七左衛門しちざえもん若林わかばやし平左衛門へいざえもんの二人から余計よけいなことは言うなと、注意されたようであった。

「いや、わたくしとしても留守居るすい様の皆が皆、口をそろえて岡本おかもと先生の療治りょうじ入りに反対されたとも思えず…」

 元悳もとのりはそう付け加えた。成程なるほど元悳もとのりがそう思ったのももっともであった。それと言うのも留守居るすいの定員は4人から5人程度ていどであり、この時も…、明和8年時もそれは変わらずで、元悳もとのりはその全員が反対したとは考えづらく、そこで留守居るすいの中で誰か一人が、あるいは二人程度ていど岡本おかもと松山しょうざん治療ちりょうチーム入りに反対したと、そう当たりをつけてそのように尋ねたことを意知おきとも示唆しさしたのであった。

「ちなみにその時の留守居るすいは…」

 今でも存命ぞんめいにしてしかも現職げんしょく…、留守居るすい依田よだ政次まさつぐ高井たかい土佐守とさのかみ直熙なおひろ、そしてすで逝去せいきょした駒木根こまきね大内記だいないき政親まさちか以外で誰が留守居るすいであったのか、意知おきともはそれを元悳もとのりに尋ねたものの、元悳もとのりもどうやらそこまでは覚えていないようで…、あるいは元より興味も関心もなく知らなかったのか、「さぁ…」と首をかしげるばかりであった。

「まぁ、くわしい事情は高井たかい土佐守とさのかみ様に聞けば分かりましょう…」

 意知おきともは己に言い聞かせるようにそう言うと、のぞうすであるのを承知しょうちの上で、元悳もとのり高井たかい直熙なおひろ屋敷やしきの所在地を訪ねたものの、結果はあんじょうであった。すなわち、元悳もとのりは首をかしげるばかりであった。

 そこで意知おきともは質問を変えた。

「ところで…、萬壽ます姫様の療治りょうじにもやはり、岡本おかもと先生は…」

 治療ちりょうチームにくわわれなかったのかと、意知おきとも示唆しさすると、元悳もとのりうなずいてみせた。

「それもやはり…、依田よだ殿の反対で?」

 意知おきとも元悳もとのりたち治療ちりょうチーム…、今度は萬壽ます姫の治療ちりょうチームがやはり広敷ひろしき番之頭ばんのかしらを通じて留守居るすいに対して、岡本おかもと松山しょうざん萬壽ます姫の治療ちりょうチームにくわえてくれるよう頼んだであろうことを前提ぜんていに、元悳もとのりにそう尋ねると、元悳もとのりもその前提ぜんていの上で、「恐らくは…」と曖昧あいまいな答えが返ってきた。

「それは…、前回のこともあり、確かめられなかったと?」

 意知おきともがそうかんを働かせると、元悳もとのりはまたしてもうなずき、

「その折にも、若林わかばやし殿こそ、もうおりませなんだが、木室きむろ殿が当番とうばんでありましたゆえ…」

 そう付け加えたのであった。

「おりませなんだ?」

 意知おきともはそう聞き返した。

「されば若林わかばやし殿は確かその前年…、安永元(1772)年に亡くなったと記憶しておりますゆえ…」

「亡くなった…」

「ええ…」

「されば若林わかばやし殿の後任は…」

「確か補充ほじゅうされなかったと…」

「それでは広敷ひろしき番之頭ばんのかしらは8人に減ったことにあいりますが…」

 8人では3人一組のルーティンは不可能ではないか…、意知おきともはそう示唆しさしたのであった。

 それとも倫子ともこ闘病とうびょう…、いや、もっと言えば一橋ひとつばし治済はるさだの手により一服いっぷくられたであろう明和8(1771)年から、今度は萬壽ます姫がやはり一橋ひとつばし治済はるさだの手により一服いっぷくられたであろう安永2(1773)年までの間に広敷ひろしき番之頭ばんのかしらのメンバーに変更があったのか…、意知おきともがそう考えていると、元悳もとのりもそうと察して、メンバーには変更がないことを意知おきともに教えた上で、

「されば若林わかばやし殿亡き後は、2人一組にて当番とうばんつとめることにあいったと記憶しております…」

 成程なるほど、8人の定員に対して2人一組のルーティンならば可能というものだ。

若林わかばやし殿が亡くなられた安永元(1772)年にはすで御台みだい様もなく、されば2人でも十分じゅうぶん当番とうばんをこなせると、そう判断したのやも知れませぬな…」

 元悳もとのりはそう付け加えた。確かに、将軍・家治の正室せいしつである倫子ともこがいた大奥にいた時分じぶんには大奥の警備けいび監察かんさつ厳重げんじゅうに行わねばとの判断が幕閣ばっかくあるいは留守居るすいの間で働き、そこで3人一組でのルーティン…、一日いちにち一夜いちやばんを3人の広敷ひろしき番之頭ばんのかしらつとめさせることにしたが、それが倫子ともこ亡き後の大奥ではそれほど厳重げんじゅう警備けいび監察かんさつは必要ないだろうということで、3人から2人へと減らされたのやも知れぬと、意知おきともはそう思った。

「ともあれ…、具体的に確かめられたわけではなけれども、やはり依田よだ殿が反対されたと…、岡本おかもと先生の療治りょうじ入りに依田よだ殿が反対されたに違いないと、元悳もとのり先生は左様さようおぼされているわけですね?」

 意知おきともは念押し気味ぎみに尋ねた。

左様さよう…、されば留守居るすい面々めんめんにしても確か変わらなかったか…、いや、変わったか…、ともあれ依田よだ様がおられたことだけは間違いないゆえ…」

 元悳もとのりはそう断言だんげんしてみせた。余程よほど依田よだ政次まさつぐのことを気にしていたものと見える。

 それも無理からぬことではあった。岡本おかもと松山しょうざん倫子ともこ治療ちりょうチーム入りが留守居るすいに、それも依田よだ政次まさつぐに拒否されたのに引き続き、萬壽ます姫の治療ちりょうチーム入りまで拒否きょひされたとあらば、またしても依田よだ政次まさつぐが反対したに違いないと、そう考えるのが自然であり、そう考えたということはとりもなおさずその折にも、すなわち、萬壽ます姫がたおれた安永2(1773)年時にも依田よだ政次まさつぐ留守居るすいであったことの何よりのあかしと言えた。仮に政次まさつぐが死去、あるいは異動いどうにでもなっていれば、そのように考えるはずがないからだ。

 ともあれこれで依田よだ政次まさつぐ岡本おかもと松山しょうざん治療ちりょうチーム入り、それも倫子ともこ治療ちりょうチーム入りを拒否したのに続いて、萬壽ます姫の治療ちりょうチーム入りまで拒否した蓋然がいぜん性はきわめて高いと言え、それでは何ゆえに依田よだ政次まさつぐはそうまでして岡本おかもと松山しょうざん倫子ともこ治療ちりょうや、ては萬壽ます姫の治療ちりょうからとおざけようとしたのか、意知おきともはそのことに思いをせ、そして一つの結論にいたった。

岡本おかもと松山しょうざん治療ちりょうチームにくわえたら、倫子ともこや、あるいは萬壽ます姫が助かってしまうかも知れない…」

 依田よだ政次まさつぐはそれを恐れて岡本おかもと松山しょうざん倫子ともこや、それに萬壽ます姫の治療ちりょうチーム入りをこばんだのやも知れぬと、意知おきともはそう考え、それは裏を返すと、

依田よだ政次まさつぐ倫子ともこ萬壽ます姫の死を願っていた…」

 それに他ならず、そしてそのことはとりもなおさず、

依田よだ政次まさつぐ一橋ひとつばし治済はるさだの共犯者…」

 それに他ならなかった。

 ともあれその当時…、倫子ともこ死去時、あるいは萬壽ます姫死去時の大奥の事情をく相手として依田よだ政次まさつぐは不適任であり、そうなると大奥の事情をく相手は必然ひつぜん的に高井たかい直熙なおひろ一人にしぼられる。
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