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岡本玄治松山
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さらに小笠原信喜の「ロボット」も同然の佐野右兵衛尉茂承までが現れ、そして加勢…、無論、小笠原信喜に加勢したのであった。
これで勝負あったに見えたが、ここで粘ったのが他でもない、元悳であったそうな。
「我ら本丸奥医では畏れ多くも大納言様の療治に当たりますには力不足と申されるのであれば、我ら本丸奥医師は引き下がりますゆえ、その代わり、本丸の寄合医の岡本玄治を畏れ多くも大納言様の療治に召し加えて頂き度…」
元悳は小笠原信喜と、それに野々山なる書院組頭に対してそう懇請したのであった。
元悳が口にした寄合医の岡本玄治とは、
「岡本玄治法眼こと岡本松山」
その人であり、寄合医師の中でも数少ない法眼であり、腕の良さも「ピカイチ」であった。
そこで元悳はこの岡本玄治こと岡本松山を家基の治療チームに加えてくれるよう懇請したのであった。
「されば今、西之丸にては本丸からも唯一人、表番医の遊佐卜庵が畏れ多くも大納言様の療治に加わっておる由にて…、さればいまひとり、寄合医の岡本玄治も召し加えて頂いても決して大納言様の療治の邪魔にはなり申さず…、それどころか役に立つと申すものにて…」
元悳のその主張は尤もであり、水上興正を頷かせ、それと正反対に小笠原信喜や野々山なる書院組頭を黙らせた。
己の意思をまるで持たない佐野茂承など、それこそ、
「己の飼い主…」
それも同然の小笠原信喜が黙り込んだことで完全に動揺した。
それでも小笠原信喜が黙り込んだのも束の間、何かに気付いたような顔を見せたかと思うと、
「岡本玄治など…、斯かる如何わしい寄合医を畏れ多くも大納言様の療治に召し加えるなど以ての外…」
そう捨て台詞を吐いたかと思うと、西之丸へと消え、佐野茂承もそのあとを追うようにして西之丸へと消えた。
あとに残されたのは元悳たち本丸の奥医師と、そんな彼らを決して西之丸には入れまいとする野々山なる書院組頭とそれにその組下の書院番士、そして御側御用取次の水上興正たちであった。
こうなっては元悳たち本丸の奥医師も西之丸に登営、登城して家基の治療チームに加わることを諦めざるを得なかったが、しかし、小笠原信喜の態度はどうにも解せず、それは水上興正にしても同じであった。
何ゆえ小笠原信喜はそうまでして、家基の治療を西之丸の奥医師だけに任せようとするのか…、裏を返せば本丸の医師を遠ざけようとするのか、その意図が分からなかった。
これではみすみす、家基の病状を悪化させるも同然、更に踏み込めば、
「家基の死期を早める…」
そうなるやも知れなかったからだ。元悳たち本丸の奥医師にはそれが分かっていただけに、
「小笠原信喜は家基の死を願っているのではあるまいか…」
そう疑った程なそうな。いや、元悳たち本丸の奥医師のみならず、医療の素人の水上興正さえもそう疑った程である。それと言うのも医療の素人である水上興正も岡本玄治こと岡本松山の名声ぐらいは耳にしたことがあるからだ。
無論、意知にしてもそうであった。
「岡本松山先生の名声なれば…、極めて優れた医師だとの、その評判なれば私も耳にしたことがあります。それこそ遊佐先生以上に腕が良いに違いなく、そうであれば遊佐先生を大納言様の療治に加えながら、その遊佐先生以上に腕が良い岡本先生を大納言様の療治に加えないとは…、やはりおかしい…」
きっと小笠原信喜はその時にはもう一橋治済と通じており、元悳が思った通り、家基の死を願う…、それどころか確実に死期を早めるべく、あえて岡本玄治を家基の治療チームに加えなかったのであろう…、意知はそう思ったものの、しかしそこまでは流石に口に出来なかったが、それでも元悳にはそうと察せられたようで、更に驚くべきことを言い出したのであった。
きっかけは意知の疑問であった。
「それにしても…、小笠原殿は何ゆえに、岡本先生を如何わしいなどと…」
それが意知には分からなかった。
「岡本先生当人と申しますよりは弟がちと、問題を起こしましてな…」
元悳はそう切り出すと、小笠原信喜が岡本玄治を「如何わしい」と形容するに至った詳しい経緯を説明し始めた。
岡本玄治法眼こと岡本松山は実は岡本家の生まれではなく、同じく官医の家柄の曾谷家の生まれであり、小石川療養所の医師を務めた曾谷伯安こと曾谷祐之の次男として生まれた。
但し、次男ゆえ曾谷家を継ぐことは出来ず、そこで同じく官医、それも寄合医師の岡本壽仙篤敬の養嗣子として迎えられ、ここに岡本松山が誕生したというわけだ。
さて、問題は岡本松山の実弟、即ち、曾谷家の三男坊の長安であった。
長安もまた、兄・松山と同じく曾谷家を継ぐことは出来ず、そこでやはりと言うべきか、同じく官医、それも表番医師の浅井休澤こと浅井又次郎の養嗣子として迎えられ、ここに、
「浅井長安」
が誕生したというわけだ。
養父の浅井又次郎は病弱であり、到底、子をなす力もなく、それゆえ必然的に他家より養嗣子を迎えることで御家の存続を図ることにしたわけで、そのような事情もあって、養父・浅井又次郎は延享4(1747)年の11月にはまだ30歳であったが、表番医師を辞し、その4年後の宝暦元(1751)年の閏6月に34歳の若さで卒した。浅井長安はまだ15であった。
浅井長安はしかし、15に過ぎないとは言え、歴とした官医・浅井家の養嗣子である以上、養父の又次郎が亡くなった以上は必然的に御家を継がねばならず、浅井長安は浅井家を継ぐと同時に、養父・又次郎と同じく表番医師に列し、
「浅井休碩」
を名乗るようになった。但し、未だ15に過ぎないことから、表番医師に名を列ねながら医師として修練を積むことになった。丁度、寄合医師に名を列ねながら、医師として修行中の身である長谷川玄通と同じ立場であった。
そうして長安は医師としての修行を積み、13年後の明和元(1764)年頃には表番医師から寄合医師へと移り、既に法眼に叙されていた実兄の岡本松山と共に、寄合医師に列するまでに至った。
このまま大過なく寄合医師として勤めていれば何の問題もなかったであろうが、それが一転、それも暗転することとなった。
きっかけはやはり養嗣子であった。
即ち、明和8(1771)年に入り、この時、長安は既に34、丁度、養父・又次郎の行年と同い年であり、明和8(1771)年にはその養父の行年を過ぎようと言うのに未だに子がなかった。
長安自身は病弱であった養父・又次郎とは違って、至って健康体であったが、生憎、子種がなかったものと見え、そこで養父・又次郎がそうしたように他家から養嗣子を迎えることにした。
だが生憎と言うべきか、長安は正に、
「医道一筋…」
裏を返せば世事に疎く、養嗣子を迎えようにも全くと言って良いほどに伝手がなかった。
それでも兄に相談を持ちかける程度の才覚はあり、そこで兄・岡本松山に相談を持ちかけたものの、しかし、松山にしてもやはり、
「医道一筋…」
そのような御仁であるので、その手の伝手は全くなく、そこで窮した長安は|仲間の医師に相談を持ちかけることにしたのであった。
即ち、寄合医師の中でも特に親しく付き合っていた丸山昌貞こと丸山英眞に相談を持ちかけたのであった。
丸山英眞は浅井長安と同じく外科であり、のみならず、英眞は岡本松山・浅井長安の実弟である英積を養嗣子として迎えていたのであった。
丸山英眞もまた男児に恵まれず、そこで曾谷祐之の五男…、岡本松山や浅井長安の実弟の英積を養嗣子として迎え入れた次第であり、そのような事情があって、長安はこの丸山英眞に養嗣子を迎える相談を持ちかけたのだが、しかし、英眞にしてもまた、すぐには適当な人物を思い浮かべることができず、そこで英眞は表番外科に相談を持ちかけたのであった。
このような「伝言ゲーム」を繰り返すうち、浅井長安が養嗣子を欲しがっているという話は官医の間であっという間に広まったそうな。元悳もその時…、明和8(1771)年には既に寄合医師に名を列ねていたので当然、そのことを耳にしていた。
そんな中、一人の表番医師が長安に「救いの手」を差し伸べたそうな。誰あろう、遊佐信庭であった。意知は元悳よりその名を耳にした時、流石に驚き、思わず「えっ」と声を上げたものだ。
元悳によると、遊佐信庭が長安に対して、顔見知りの外科を生業としている町医がいるのだがと、そう持ちかけたそうな。
|青山は久保町にて開業している今川泰元なる外科医がいるのだが、実は結城藩の藩医であった伊香泰元その人であり、今はわけあって藩医を離れ、青山久保町にて町医者をしているものの、青山と言えば結城藩の下屋敷の近くであり、それゆえ今でも結城藩の下屋敷に仕える藩士たちの療治に当たることが多く、年は31歳と34歳、いや、今年で35歳となる浅井長安とはたった4歳しか違わないが、それでも4歳とは言え、長安が年上である以上、養父となるに何ら問題はあるまい…、遊佐信庭はそのような「フレコミ」でもって長安に持ちかけたそうな。
これで浅井長安が本道医師、即ち、内科医であれば、如何に藩医とは言え、町医者に過ぎない者を養嗣子に迎えるなどと、即座に蹴っていたに違いない。
だが生憎、浅井長安は金瘡医師、即ち、外科医であった。外科医は内科医に比べて圧倒的に少なかった。こんなことを言えば内科医に怒られるやも知れぬが、外科医は内科医に比べて「スキル」が必要なことが、内科医に比べて数が少ない理由の一つ、それも最大の理由の一つと言えた。
それゆえ養嗣子を迎えようにも一苦労であり、長安が養嗣子を迎えるのに苦労したのもそのためで、そうであれば贅沢は言っていられなかった。例え、町医者であろうとも構わなかった。
但し、それには「腕が良い」というのが絶対条件であった。そうでなければわざわざ赤の他人を養嗣子に迎える意味がないからだ。
そこで長安は遊佐信庭に対してその伊香泰元もとい今川泰元の診察風景を見学したいと願ったそうな。
それに対して遊佐信庭も尤もな希望であると、そこで長安を青山久保町にある診療所、と言っても長屋にある二階家を間借りしての診療所だが、そこに案内して、伊香泰元もとい今川泰元の診察風景を見学させたのであった。
成程、浅井長安の目から見ても泰元の診察は中々に適確であり、縫合などは目を見張るものがあった。
また患者には藩士と思しき者もおり、どうやら遊佐信庭のその「フレコミ」に嘘はないと、長安はすっかりそう信じ込み、この伊香泰元もとい今川泰元を養嗣子として迎えることに決めたそうな。だがそれが甘かった。
浅井長安はご公儀…、幕府に対してこの、元は結城藩の藩医にして今は青山久保町にて開業している、そして今は3歳年下の伊香泰元改め今川泰元を養嗣子に迎えるとの届出をしたそうな。それが明和8(1771)年1月の末のことであった。
だが、それから届出を受けた幕府が調べたところ、とんでもない事実が判明した。即ち、結城藩に問い合わせたところ、過去、伊香泰元、或いは今川泰元なる藩医が在籍していた事実はなく、しかも年齢にしても養父となる筈の長安より3歳年下どころか、15も年上の49歳であったのだ。
これではそもそも養親子関係を結べる筈もない。
当然、浅井長安は遊佐信庭に対して、「一体、どういうことだ」と詰め寄ったものの、しかしそれに対して遊佐信庭は、「一体、何の話だ?」とまるで己が長安に対して養嗣子の世話をしたことなど…、伊香泰元もとい今川泰元を紹介した事実など忘れたかのような口ぶりであり、長安もこれでは埒が開かぬと、ご公儀…、幕府に対して己が遊佐信庭に騙されたのだと、弁明したのであった。
それに対してご公儀…、幕府も当然、遊佐信庭を詮議しようとしたものの、しかし急に「さる筋」からの圧力により遊佐信庭への詮議は打ち切りとなり、結局、伊香泰元もとい今川泰元は八丈への遠島の沙汰がくだり、一方、被害者とも言うべき浅井長安はご公儀に対して虚偽の届出をなしたとして、官医の身分を剥奪された上、追放を命じられた。それが明和8(1771)年の2月13日のことであり、この件とは一切、関係のない岡本松山までが浅井長安の実兄という理由で同じく2月13日から5月11日までの凡そ三月もの間、差し控えを命ぜられたそうな。
意知は元悳よりその話を聞いて再び、「えっ」と声を上げていた。
「明和8(1771)年と言えば…」
意知がそう言いかけると、元悳もその通りだと言わんばかりに頷いてみせた。
「畏れ多くも御台様がご薨去あそばされし年ではありませんか…」
意知がそう呟くと、元悳も「ええ」と答え、
「畏れ多くも御台様におかせられましては明和8(1771)年の8月20日にご薨去あそばされ…、それ以前に御台様がご体調をお崩しになられた頃には岡本先生の差し控えの期間もとうに明け、再び登城が許されておりましたが、しかし、この一件が祟ってか、御台様の療治に加わることが出来ず…」
そう付け加えたので、意知も「まさか…、またしても小笠原殿が邪魔立て致したとか?」とそう勘を働かせた。
「それもありますが…、何しろその当時…、明和8(1771)年の当時は小笠原様は本丸の御側衆でありましたゆえに…、なれど大奥のことゆえ…」
元悳にそう示唆されて、意知は大奥を監督するのは留守居であることを思い出した。即ち、果たして岡本松山を大奥にて闘病中の御台様こと将軍・家治の正室の倫子の療治に当たらせるか否か、それが留守居の正しく、
「胸先三寸…」
それにかかっていることを思い出したのであった。
してみると、結果として岡本松山が御台様こと倫子の治療チームに加わることが出来なかったということは留守居が岡本松山の治療チームへの加入を認めなかったことに他ならない。
「留守居の中で…、誰かが反対したとか?岡本先生が畏れ多くも御台様の療治に加わることに…」
意知は恐る恐る尋ねた。留守居の定員は4人から5人であり、その全員が岡本松山の治療チーム入りに反対したとは考え辛かったので、意知はそう尋ねたのであった。
すると結果は案の定であり、元悳は「左様…」と答えると、意外な人物の名を挙げた。
「されば依田様…、依田豊前守政次様が岡本先生が療治に加わることに反対されたそうな…」
これで勝負あったに見えたが、ここで粘ったのが他でもない、元悳であったそうな。
「我ら本丸奥医では畏れ多くも大納言様の療治に当たりますには力不足と申されるのであれば、我ら本丸奥医師は引き下がりますゆえ、その代わり、本丸の寄合医の岡本玄治を畏れ多くも大納言様の療治に召し加えて頂き度…」
元悳は小笠原信喜と、それに野々山なる書院組頭に対してそう懇請したのであった。
元悳が口にした寄合医の岡本玄治とは、
「岡本玄治法眼こと岡本松山」
その人であり、寄合医師の中でも数少ない法眼であり、腕の良さも「ピカイチ」であった。
そこで元悳はこの岡本玄治こと岡本松山を家基の治療チームに加えてくれるよう懇請したのであった。
「されば今、西之丸にては本丸からも唯一人、表番医の遊佐卜庵が畏れ多くも大納言様の療治に加わっておる由にて…、さればいまひとり、寄合医の岡本玄治も召し加えて頂いても決して大納言様の療治の邪魔にはなり申さず…、それどころか役に立つと申すものにて…」
元悳のその主張は尤もであり、水上興正を頷かせ、それと正反対に小笠原信喜や野々山なる書院組頭を黙らせた。
己の意思をまるで持たない佐野茂承など、それこそ、
「己の飼い主…」
それも同然の小笠原信喜が黙り込んだことで完全に動揺した。
それでも小笠原信喜が黙り込んだのも束の間、何かに気付いたような顔を見せたかと思うと、
「岡本玄治など…、斯かる如何わしい寄合医を畏れ多くも大納言様の療治に召し加えるなど以ての外…」
そう捨て台詞を吐いたかと思うと、西之丸へと消え、佐野茂承もそのあとを追うようにして西之丸へと消えた。
あとに残されたのは元悳たち本丸の奥医師と、そんな彼らを決して西之丸には入れまいとする野々山なる書院組頭とそれにその組下の書院番士、そして御側御用取次の水上興正たちであった。
こうなっては元悳たち本丸の奥医師も西之丸に登営、登城して家基の治療チームに加わることを諦めざるを得なかったが、しかし、小笠原信喜の態度はどうにも解せず、それは水上興正にしても同じであった。
何ゆえ小笠原信喜はそうまでして、家基の治療を西之丸の奥医師だけに任せようとするのか…、裏を返せば本丸の医師を遠ざけようとするのか、その意図が分からなかった。
これではみすみす、家基の病状を悪化させるも同然、更に踏み込めば、
「家基の死期を早める…」
そうなるやも知れなかったからだ。元悳たち本丸の奥医師にはそれが分かっていただけに、
「小笠原信喜は家基の死を願っているのではあるまいか…」
そう疑った程なそうな。いや、元悳たち本丸の奥医師のみならず、医療の素人の水上興正さえもそう疑った程である。それと言うのも医療の素人である水上興正も岡本玄治こと岡本松山の名声ぐらいは耳にしたことがあるからだ。
無論、意知にしてもそうであった。
「岡本松山先生の名声なれば…、極めて優れた医師だとの、その評判なれば私も耳にしたことがあります。それこそ遊佐先生以上に腕が良いに違いなく、そうであれば遊佐先生を大納言様の療治に加えながら、その遊佐先生以上に腕が良い岡本先生を大納言様の療治に加えないとは…、やはりおかしい…」
きっと小笠原信喜はその時にはもう一橋治済と通じており、元悳が思った通り、家基の死を願う…、それどころか確実に死期を早めるべく、あえて岡本玄治を家基の治療チームに加えなかったのであろう…、意知はそう思ったものの、しかしそこまでは流石に口に出来なかったが、それでも元悳にはそうと察せられたようで、更に驚くべきことを言い出したのであった。
きっかけは意知の疑問であった。
「それにしても…、小笠原殿は何ゆえに、岡本先生を如何わしいなどと…」
それが意知には分からなかった。
「岡本先生当人と申しますよりは弟がちと、問題を起こしましてな…」
元悳はそう切り出すと、小笠原信喜が岡本玄治を「如何わしい」と形容するに至った詳しい経緯を説明し始めた。
岡本玄治法眼こと岡本松山は実は岡本家の生まれではなく、同じく官医の家柄の曾谷家の生まれであり、小石川療養所の医師を務めた曾谷伯安こと曾谷祐之の次男として生まれた。
但し、次男ゆえ曾谷家を継ぐことは出来ず、そこで同じく官医、それも寄合医師の岡本壽仙篤敬の養嗣子として迎えられ、ここに岡本松山が誕生したというわけだ。
さて、問題は岡本松山の実弟、即ち、曾谷家の三男坊の長安であった。
長安もまた、兄・松山と同じく曾谷家を継ぐことは出来ず、そこでやはりと言うべきか、同じく官医、それも表番医師の浅井休澤こと浅井又次郎の養嗣子として迎えられ、ここに、
「浅井長安」
が誕生したというわけだ。
養父の浅井又次郎は病弱であり、到底、子をなす力もなく、それゆえ必然的に他家より養嗣子を迎えることで御家の存続を図ることにしたわけで、そのような事情もあって、養父・浅井又次郎は延享4(1747)年の11月にはまだ30歳であったが、表番医師を辞し、その4年後の宝暦元(1751)年の閏6月に34歳の若さで卒した。浅井長安はまだ15であった。
浅井長安はしかし、15に過ぎないとは言え、歴とした官医・浅井家の養嗣子である以上、養父の又次郎が亡くなった以上は必然的に御家を継がねばならず、浅井長安は浅井家を継ぐと同時に、養父・又次郎と同じく表番医師に列し、
「浅井休碩」
を名乗るようになった。但し、未だ15に過ぎないことから、表番医師に名を列ねながら医師として修練を積むことになった。丁度、寄合医師に名を列ねながら、医師として修行中の身である長谷川玄通と同じ立場であった。
そうして長安は医師としての修行を積み、13年後の明和元(1764)年頃には表番医師から寄合医師へと移り、既に法眼に叙されていた実兄の岡本松山と共に、寄合医師に列するまでに至った。
このまま大過なく寄合医師として勤めていれば何の問題もなかったであろうが、それが一転、それも暗転することとなった。
きっかけはやはり養嗣子であった。
即ち、明和8(1771)年に入り、この時、長安は既に34、丁度、養父・又次郎の行年と同い年であり、明和8(1771)年にはその養父の行年を過ぎようと言うのに未だに子がなかった。
長安自身は病弱であった養父・又次郎とは違って、至って健康体であったが、生憎、子種がなかったものと見え、そこで養父・又次郎がそうしたように他家から養嗣子を迎えることにした。
だが生憎と言うべきか、長安は正に、
「医道一筋…」
裏を返せば世事に疎く、養嗣子を迎えようにも全くと言って良いほどに伝手がなかった。
それでも兄に相談を持ちかける程度の才覚はあり、そこで兄・岡本松山に相談を持ちかけたものの、しかし、松山にしてもやはり、
「医道一筋…」
そのような御仁であるので、その手の伝手は全くなく、そこで窮した長安は|仲間の医師に相談を持ちかけることにしたのであった。
即ち、寄合医師の中でも特に親しく付き合っていた丸山昌貞こと丸山英眞に相談を持ちかけたのであった。
丸山英眞は浅井長安と同じく外科であり、のみならず、英眞は岡本松山・浅井長安の実弟である英積を養嗣子として迎えていたのであった。
丸山英眞もまた男児に恵まれず、そこで曾谷祐之の五男…、岡本松山や浅井長安の実弟の英積を養嗣子として迎え入れた次第であり、そのような事情があって、長安はこの丸山英眞に養嗣子を迎える相談を持ちかけたのだが、しかし、英眞にしてもまた、すぐには適当な人物を思い浮かべることができず、そこで英眞は表番外科に相談を持ちかけたのであった。
このような「伝言ゲーム」を繰り返すうち、浅井長安が養嗣子を欲しがっているという話は官医の間であっという間に広まったそうな。元悳もその時…、明和8(1771)年には既に寄合医師に名を列ねていたので当然、そのことを耳にしていた。
そんな中、一人の表番医師が長安に「救いの手」を差し伸べたそうな。誰あろう、遊佐信庭であった。意知は元悳よりその名を耳にした時、流石に驚き、思わず「えっ」と声を上げたものだ。
元悳によると、遊佐信庭が長安に対して、顔見知りの外科を生業としている町医がいるのだがと、そう持ちかけたそうな。
|青山は久保町にて開業している今川泰元なる外科医がいるのだが、実は結城藩の藩医であった伊香泰元その人であり、今はわけあって藩医を離れ、青山久保町にて町医者をしているものの、青山と言えば結城藩の下屋敷の近くであり、それゆえ今でも結城藩の下屋敷に仕える藩士たちの療治に当たることが多く、年は31歳と34歳、いや、今年で35歳となる浅井長安とはたった4歳しか違わないが、それでも4歳とは言え、長安が年上である以上、養父となるに何ら問題はあるまい…、遊佐信庭はそのような「フレコミ」でもって長安に持ちかけたそうな。
これで浅井長安が本道医師、即ち、内科医であれば、如何に藩医とは言え、町医者に過ぎない者を養嗣子に迎えるなどと、即座に蹴っていたに違いない。
だが生憎、浅井長安は金瘡医師、即ち、外科医であった。外科医は内科医に比べて圧倒的に少なかった。こんなことを言えば内科医に怒られるやも知れぬが、外科医は内科医に比べて「スキル」が必要なことが、内科医に比べて数が少ない理由の一つ、それも最大の理由の一つと言えた。
それゆえ養嗣子を迎えようにも一苦労であり、長安が養嗣子を迎えるのに苦労したのもそのためで、そうであれば贅沢は言っていられなかった。例え、町医者であろうとも構わなかった。
但し、それには「腕が良い」というのが絶対条件であった。そうでなければわざわざ赤の他人を養嗣子に迎える意味がないからだ。
そこで長安は遊佐信庭に対してその伊香泰元もとい今川泰元の診察風景を見学したいと願ったそうな。
それに対して遊佐信庭も尤もな希望であると、そこで長安を青山久保町にある診療所、と言っても長屋にある二階家を間借りしての診療所だが、そこに案内して、伊香泰元もとい今川泰元の診察風景を見学させたのであった。
成程、浅井長安の目から見ても泰元の診察は中々に適確であり、縫合などは目を見張るものがあった。
また患者には藩士と思しき者もおり、どうやら遊佐信庭のその「フレコミ」に嘘はないと、長安はすっかりそう信じ込み、この伊香泰元もとい今川泰元を養嗣子として迎えることに決めたそうな。だがそれが甘かった。
浅井長安はご公儀…、幕府に対してこの、元は結城藩の藩医にして今は青山久保町にて開業している、そして今は3歳年下の伊香泰元改め今川泰元を養嗣子に迎えるとの届出をしたそうな。それが明和8(1771)年1月の末のことであった。
だが、それから届出を受けた幕府が調べたところ、とんでもない事実が判明した。即ち、結城藩に問い合わせたところ、過去、伊香泰元、或いは今川泰元なる藩医が在籍していた事実はなく、しかも年齢にしても養父となる筈の長安より3歳年下どころか、15も年上の49歳であったのだ。
これではそもそも養親子関係を結べる筈もない。
当然、浅井長安は遊佐信庭に対して、「一体、どういうことだ」と詰め寄ったものの、しかしそれに対して遊佐信庭は、「一体、何の話だ?」とまるで己が長安に対して養嗣子の世話をしたことなど…、伊香泰元もとい今川泰元を紹介した事実など忘れたかのような口ぶりであり、長安もこれでは埒が開かぬと、ご公儀…、幕府に対して己が遊佐信庭に騙されたのだと、弁明したのであった。
それに対してご公儀…、幕府も当然、遊佐信庭を詮議しようとしたものの、しかし急に「さる筋」からの圧力により遊佐信庭への詮議は打ち切りとなり、結局、伊香泰元もとい今川泰元は八丈への遠島の沙汰がくだり、一方、被害者とも言うべき浅井長安はご公儀に対して虚偽の届出をなしたとして、官医の身分を剥奪された上、追放を命じられた。それが明和8(1771)年の2月13日のことであり、この件とは一切、関係のない岡本松山までが浅井長安の実兄という理由で同じく2月13日から5月11日までの凡そ三月もの間、差し控えを命ぜられたそうな。
意知は元悳よりその話を聞いて再び、「えっ」と声を上げていた。
「明和8(1771)年と言えば…」
意知がそう言いかけると、元悳もその通りだと言わんばかりに頷いてみせた。
「畏れ多くも御台様がご薨去あそばされし年ではありませんか…」
意知がそう呟くと、元悳も「ええ」と答え、
「畏れ多くも御台様におかせられましては明和8(1771)年の8月20日にご薨去あそばされ…、それ以前に御台様がご体調をお崩しになられた頃には岡本先生の差し控えの期間もとうに明け、再び登城が許されておりましたが、しかし、この一件が祟ってか、御台様の療治に加わることが出来ず…」
そう付け加えたので、意知も「まさか…、またしても小笠原殿が邪魔立て致したとか?」とそう勘を働かせた。
「それもありますが…、何しろその当時…、明和8(1771)年の当時は小笠原様は本丸の御側衆でありましたゆえに…、なれど大奥のことゆえ…」
元悳にそう示唆されて、意知は大奥を監督するのは留守居であることを思い出した。即ち、果たして岡本松山を大奥にて闘病中の御台様こと将軍・家治の正室の倫子の療治に当たらせるか否か、それが留守居の正しく、
「胸先三寸…」
それにかかっていることを思い出したのであった。
してみると、結果として岡本松山が御台様こと倫子の治療チームに加わることが出来なかったということは留守居が岡本松山の治療チームへの加入を認めなかったことに他ならない。
「留守居の中で…、誰かが反対したとか?岡本先生が畏れ多くも御台様の療治に加わることに…」
意知は恐る恐る尋ねた。留守居の定員は4人から5人であり、その全員が岡本松山の治療チーム入りに反対したとは考え辛かったので、意知はそう尋ねたのであった。
すると結果は案の定であり、元悳は「左様…」と答えると、意外な人物の名を挙げた。
「されば依田様…、依田豊前守政次様が岡本先生が療治に加わることに反対されたそうな…」
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久秀の声に頷いた新之助だったが、介錯の刀が振り下ろされると同時に気を失ってしまった。
新之助が意識を取り戻したのは、城下から二番目の宿場町にある旅籠だった。
「江戸に向かいます」
同行するのは三沢家剣術指南役だった安藤久秀と、新之助付き侍女咲良のみ。
父と兄の死の真相を探り、その無念を晴らす旅が始まった。
他サイトでも掲載しています
表紙は写真ACより引用しています
R15は保険です
GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲
俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。
今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。
「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」
その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。
当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!?
姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。
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第8回歴史時代小説参加しました!
信濃の大空
ypaaaaaaa
歴史・時代
空母信濃、それは大和型3番艦として建造されたものの戦術の変化により空母に改装され、一度も戦わず沈んだ巨艦である。
そんな信濃がもし、マリアナ沖海戦に間に合っていたらその後はどうなっていただろう。
この小説はそんな妄想を書き綴ったものです!
前作同じく、こんなことがあったらいいなと思いながら読んでいただけると幸いです!
[恥辱]りみの強制おむつ生活
rei
大衆娯楽
中学三年生になる主人公倉持りみが集会中にお漏らしをしてしまい、おむつを当てられる。
保健室の先生におむつを当ててもらうようにお願い、クラスメイトの前でおむつ着用宣言、お漏らしで小学一年生へ落第など恥辱にあふれた作品です。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
皇国の栄光
ypaaaaaaa
歴史・時代
1929年に起こった世界恐慌。
日本はこの影響で不況に陥るが、大々的な植民地の開発や産業の重工業化によっていち早く不況から抜け出した。この功績を受け犬養毅首相は国民から熱烈に支持されていた。そして彼は社会改革と並行して秘密裏に軍備の拡張を開始していた。
激動の昭和時代。
皇国の行く末は旭日が輝く朝だろうか?
それとも47の星が照らす夜だろうか?
趣味の範囲で書いているので違うところもあると思います。
こんなことがあったらいいな程度で見ていただくと幸いです
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
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