天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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岡本玄治松山

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 さらに小笠原おがさわら信喜のぶよしの「ロボット」も同然どうぜん佐野さの右兵衛尉うひょうえのじょう茂承もちつぐまでが現れ、そして加勢かせい…、無論むろん小笠原おがさわら信喜のぶよし加勢かせいしたのであった。

 これで勝負あったに見えたが、ここでねばったのが他でもない、元悳もとのりであったそうな。

「我ら本丸ほんまるおくではおそれ多くも大納言だいなごん様の療治りょうじに当たりますにはちから不足ぶそくと申されるのであれば、我ら本丸ほんまるおく医師は引き下がりますゆえ、その代わり、本丸ほんまる寄合よりあい岡本おかもと玄治げんじおそれ多くも大納言だいなごん様の療治りょうじくわえていただたく…」

 元悳もとのり小笠原おがさわら信喜のぶよしと、それに野々山ののやまなる書院しょいん組頭くみがしらに対してそう懇請こんせいしたのであった。

 元悳もとのりが口にした寄合よりあい岡本おかもと玄治げんじとは、

岡本おかもと玄治げんじ法眼ほうげんこと岡本おかもと松山しょうざん

 その人であり、寄合よりあい医師いしの中でも数少ない法眼ほうげんであり、腕の良さも「ピカイチ」であった。

 そこで元悳もとのりはこの岡本おかもと玄治げんじこと岡本おかもと松山しょうざん家基いえもと治療ちりょうチームにくわえてくれるよう懇請こんせいしたのであった。

「されば今、西之丸にしのまるにては本丸ほんまるからもただ一人ひとりおもてばん遊佐ゆさ卜庵ぼくあんおそれ多くも大納言だいなごん様の療治りょうじくわわっておるよしにて…、さればいまひとり、寄合よりあい岡本おかもと玄治げんじくわえていただいても決して大納言だいなごん様の療治りょうじ邪魔じゃまにはなり申さず…、それどころか役に立つと申すものにて…」

 元悳もとのりのその主張はもっともであり、水上みずかみ興正おきまさうなずかせ、それと正反対に小笠原おがさわら信喜のぶよし野々山ののやまなる書院しょいん組頭くみがしらだまらせた。

 己の意思いしをまるで持たない佐野さの茂承もちつぐなど、それこそ、

「己のぬし…」

 それも同然どうぜん小笠原おがさわら信喜のぶよしだまんだことで完全に動揺どうようした。

 それでも小笠原おがさわら信喜のぶよしだまんだのもつか、何かに気付いたような顔を見せたかと思うと、

岡本おかもと玄治げんじなど…、かる如何いかがわしい寄合よりあいおそれ多くも大納言だいなごん様の療治りょうじくわえるなどもってのほか…」

 そう台詞ぜりふいたかと思うと、西之丸にしのまるへと消え、佐野さの茂承もちつぐもそのあとを追うようにして西之丸にしのまるへと消えた。

 あとに残されたのは元悳もとのりたち本丸ほんまるおく医師いしと、そんな彼らを決して西之丸にしのまるには入れまいとする野々山ののやまなる書院しょいん組頭くみがしらとそれにその組下くみか書院しょいん番士ばんし、そして御側おそば御用ごよう取次とりつぎ水上みずかみ興正おきまさたちであった。

 こうなっては元悳もとのりたち本丸ほんまるおく医師いし西之丸にしのまる登営とえい登城とじょうして家基いえもと治療ちりょうチームにくわわることをあきらめざるを得なかったが、しかし、小笠原おがさわら信喜のぶよしの態度はどうにもせず、それは水上みずかみ興正おきまさにしても同じであった。

 何ゆえ小笠原おがさわら信喜のぶよしはそうまでして、家基いえもと治療ちりょう西之丸にしのまるおく医師いしだけにまかせようとするのか…、うらかえせば本丸ほんまる医師いしを遠ざけようとするのか、その意図いとが分からなかった。

 これではみすみす、家基いえもと病状びょうじょうを悪化させるも同然どうぜんさらめば、

家基いえもと死期しきはやめる…」

 そうなるやも知れなかったからだ。元悳もとのりたち本丸ほんまるおく医師いしにはそれが分かっていただけに、

小笠原おがさわら信喜のぶよし家基いえもとの死を願っているのではあるまいか…」

 そう疑ったほどなそうな。いや、元悳もとのりたち本丸ほんまるおく医師いしのみならず、医療いりょう素人しろうと水上みずかみ興正おきまささえもそう疑ったほどである。それと言うのも医療いりょう素人しろうとである水上みずかみ興正おきまさ岡本おかもと玄治げんじこと岡本おかもと松山しょうざん名声めいせいぐらいは耳にしたことがあるからだ。

 無論むろん意知おきともにしてもそうであった。

岡本おかもと松山しょうざん先生の名声めいせいなれば…、きわめてすぐれた医師いしだとの、その評判ひょうばんなれば私も耳にしたことがあります。それこそ遊佐ゆさ先生以上に腕が良いに違いなく、そうであれば遊佐ゆさ先生を大納言だいなごん様の療治りょうじくわえながら、その遊佐ゆさ先生以上に腕が良い岡本おかもと先生を大納言だいなごん様の療治りょうじくわえないとは…、やはりおかしい…」

 きっと小笠原おがさわら信喜のぶよしはその時にはもう一橋ひとつばし治済はるさだと通じており、元悳もとのりが思った通り、家基いえもとの死を願う…、それどころか確実に死期しきはやめるべく、あえて岡本おかもと玄治げんじ家基いえもと治療ちりょうチームにくわえなかったのであろう…、意知おきともはそう思ったものの、しかしそこまでは流石さすがに口に出来できなかったが、それでも元悳もとのりにはそうと察せられたようで、さらに驚くべきことを言い出したのであった。

 きっかけは意知おきともの疑問であった。

「それにしても…、小笠原おがさわら殿は何ゆえに、岡本おかもと先生を如何いかがわしいなどと…」

 それが意知おきともには分からなかった。

岡本おかもと先生当人とうにんと申しますよりは弟がちと、問題を起こしましてな…」

 元悳もとのりはそう切り出すと、小笠原おがさわら信喜のぶよし岡本おかもと玄治げんじを「如何いかがわしい」と形容けいようするにいたったくわしい経緯いきさつを説明し始めた。

 岡本おかもと玄治げんじ法眼ほうげんこと岡本おかもと松山しょうざんは実は岡本おかもと家の生まれではなく、同じく官医かんい家柄いえがら曾谷そだに家の生まれであり、小石川こいしかわ療養りょうようじょ医師いしつとめた曾谷そだに伯安はくあんこと曾谷そだに祐之すけゆきの次男として生まれた。

 ただし、次男ゆえ曾谷そだに家をぐことは出来ず、そこで同じく官医かんい、それも寄合よりあい医師いし岡本おかもと壽仙じゅせん篤敬とくけい養嗣子ようししとしてむかえられ、ここに岡本おかもと松山しょうざん誕生たんじょうしたというわけだ。

 さて、問題は岡本おかもと松山しょうざん実弟じっていすなわち、曾谷そだに家の三男さんなんぼう長安ながやすであった。

 長安ながやすもまた、兄・松山しょうざんと同じく曾谷そだに家をぐことは出来ず、そこでやはりと言うべきか、同じく官医かんい、それもおもてばん医師いし浅井あさい休澤きゅうたくこと浅井あさい又次郎またじろう養嗣子ようししとしてむかえられ、ここに、

浅井あさい長安ながやす

 が誕生たんじょうしたというわけだ。

 養父ようふ浅井あさい又次郎またじろう病弱びょうじゃくであり、到底とうてい、子をなす力もなく、それゆえ必然ひつぜんてき他家たけより養嗣子ようししむかえることで御家おいえ存続そんぞくはかることにしたわけで、そのような事情もあって、養父ようふ浅井あさい又次郎またじろうは延享4(1747)年の11月にはまだ30歳であったが、おもてばん医師いしし、その4年後の宝暦元(1751)年のうるう6月に34歳の若さでしゅっした。浅井あさい長安ながやすはまだ15であった。

 浅井あさい長安ながやすはしかし、15に過ぎないとは言え、れきとした官医かんい浅井あさい家の養嗣子ようししである以上、養父ようふ又次郎またじろうが亡くなった以上は必然ひつぜんてき御家おいえがねばならず、浅井あさい長安ながやす浅井あさい家をぐと同時に、養父・又次郎またじろうと同じくおもてばん医師いしれっし、

浅井あさい休碩きゅうせき

 を名乗るようになった。ただし、いまだ15に過ぎないことから、おもてばん医師いしに名をつらねながら医師いしとして修練しゅうれんむことになった。丁度ちょうど寄合よりあい医師いしに名をつらねながら、医師いしとして修行中の身である長谷川はせがわ玄通げんつうと同じ立場であった。

 そうして長安ながやす医師いしとしての修行を積み、13年後の明和元(1764)年頃にはおもてばん医師いしから寄合よりあい医師いしへと移り、すで法眼ほうげんじょされていた実兄じっけい岡本おかもと松山しょうざんと共に、寄合よりあい医師いしれっするまでにいたった。

 このまま大過たいかなく寄合よりあい医師いしとしてつとめていれば何の問題もなかったであろうが、それが一転いってん、それも暗転あんてんすることとなった。

 きっかけはやはり養嗣子ようししであった。

 すなわち、明和8(1771)年に入り、この時、長安ながやすすでに34、丁度ちょうど養父ようふ又次郎またじろう行年ぎょうねんと同い年であり、明和8(1771)年にはその養父ようふ行年ぎょうねんを過ぎようと言うのに未だに子がなかった。

 長安ながやす自身は病弱びょうじゃくであった養父ようふ又次郎またじろうとは違って、いたって健康体であったが、生憎あいにく子種こだねがなかったものと見え、そこで養父ようふ又次郎またじろうがそうしたように他家たけから養嗣子ようししむかえることにした。

 だが生憎あいにくと言うべきか、長安ながやすまさに、

医道いどう一筋ひとすじ…」

 裏をかえせば世事せじうとく、養嗣子ようししむかえようにもまったくと言って良いほどに伝手つてがなかった。

 それでも兄に相談を持ちかける程度ていど才覚さいかくはあり、そこで兄・岡本おかもと松山しょうざんに相談を持ちかけたものの、しかし、松山しょうざんにしてもやはり、

医道いどう一筋ひとすじ…」

 そのような御仁ごじんであるので、その手の伝手つてまったくなく、そこできゅうした長安ながやすは|仲間の医師に相談を持ちかけることにしたのであった。

 すなわち、寄合よりあい医師いしの中でも特に親しく付き合っていた丸山まるやま昌貞しょうていこと丸山まるやま英眞ふさざねに相談を持ちかけたのであった。

 丸山まるやま英眞ふさざね浅井あさい長安ながやすと同じく外科であり、のみならず、英眞ふさざね岡本おかもと松山しょうざん浅井あさい長安ながやす実弟じっていである英積ふさつむ養嗣子ようししとしてむかえていたのであった。

 丸山まるやま英眞ふさつむもまた男児だんじめぐまれず、そこで曾谷そだに祐之すけゆき五男ごなん…、岡本おかもと松山しょうざん浅井あさい長安ながやす実弟じってい英積ふさつむ養嗣子ようししとしてむかえ入れた次第しだいであり、そのような事情があって、長安ながやすはこの丸山まるやま英眞ふさざね養嗣子ようししむかえる相談を持ちかけたのだが、しかし、英眞ふさざねにしてもまた、すぐには適当な人物を思い浮かべることができず、そこで英眞ふさざねおもてばん外科げかに相談を持ちかけたのであった。

 このような「伝言でんごんゲーム」をかえすうち、浅井あさい長安ながやす養嗣子ようししを欲しがっているという話は官医かんいの間であっという間に広まったそうな。元悳もとのりもその時…、明和8(1771)年にはすで寄合よりあい医師いしに名をつらねていたので当然、そのことを耳にしていた。

 そんな中、一人のおもてばん医師いし長安ながやすに「救いの手」を差し伸べたそうな。誰あろう、遊佐ゆさ信庭のぶにわであった。意知おきとも元悳もとのりよりその名を耳にした時、流石さすがに驚き、思わず「えっ」と声を上げたものだ。

 元悳もとのりによると、遊佐ゆさ信庭のぶにわ長安ながやすに対して、顔見知りの外科を生業なりわいとしているまちがいるのだがと、そう持ちかけたそうな。

 |青山は久保町にて開業している今川いまがわ泰元やすもとなる外科医がいるのだが、実は結城ゆうき藩の藩医であった伊香いこう泰元やすもとその人であり、今はわけあって藩医はんいを離れ、青山久保町にて町医者をしているものの、青山と言えば結城ゆうき藩のしも屋敷やしきの近くであり、それゆえ今でも結城ゆうき藩のしも屋敷やしきつかえる藩士はんしたちの療治りょうじに当たることが多く、年は31歳と34歳、いや、今年で35歳となる浅井あさい長安ながやすとはたった4歳しか違わないが、それでも4歳とは言え、長安ながやすが年上である以上、養父ようふとなるに何ら問題はあるまい…、遊佐ゆさ信庭のぶにわはそのような「フレコミ」でもって長安ながやすに持ちかけたそうな。

 これで浅井あさい長安ながやす本道ほんどう医師いしすなわち、内科医であれば、如何いか藩医はんいとは言え、町医者に過ぎない者を養嗣子ようししむかえるなどと、即座そくざっていたに違いない。

 だが生憎あいにく浅井あさい長安ながやす金瘡きんそう医師いしすなわち、外科医であった。外科医は内科医に比べて圧倒的に少なかった。こんなことを言えば内科医に怒られるやも知れぬが、外科医は内科医に比べて「スキル」が必要なことが、内科医に比べて数が少ない理由の一つ、それも最大の理由の一つと言えた。

 それゆえ養嗣子ようししむかえようにも一苦労であり、長安ながやす養嗣子ようししむかえるのに苦労したのもそのためで、そうであれば贅沢ぜいたくは言っていられなかった。例え、町医者であろうとも構わなかった。

 ただし、それには「腕が良い」というのが絶対条件であった。そうでなければわざわざ赤の他人を養嗣子ようししむかえる意味がないからだ。

 そこで長安ながやす遊佐ゆさ信庭のぶにわに対してその伊香いこう泰元やすもともとい今川いまがわ泰元やすもと診察しんさつ風景を見学したいと願ったそうな。

 それに対して遊佐ゆさ信庭のぶにわもっともな希望であると、そこで長安ながやすを青山久保町にある診療しんりょうじょ、と言っても長屋ながやにある二階家を間借まがりしての診療しんりょうじょだが、そこに案内して、伊香いこう泰元やすもともとい今川いまがわ泰元やすもと診察しんさつ風景を見学させたのであった。

 成程なるほど浅井あさい長安ながやすの目から見ても泰元やすもと診察しんさつ中々なかなか適確てきかくであり、縫合ほうごうなどは目を見張みはるものがあった。

 また患者かんじゃには藩士はんしおぼしき者もおり、どうやら遊佐ゆさ信庭のぶにわのその「フレコミ」に嘘はないと、長安ながやすはすっかりそう信じみ、この伊香いこう泰元やすもともとい今川いまがわ泰元やすもと養嗣子ようししとしてむかえることに決めたそうな。だがそれが甘かった。

 浅井あさい長安ながやすはご公儀こうぎ…、幕府に対してこの、元は結城ゆうき藩の藩医はんいにして今は青山久保町にて開業している、そして今は3歳年下の伊香いこう泰元やすもと改め今川いまがわ泰元やすもと養嗣子ようししむかえるとの届出とどけでをしたそうな。それが明和8(1771)年1月のすえのことであった。

 だが、それから届出とどけでを受けた幕府が調べたところ、とんでもない事実が判明した。すなわち、結城ゆうき藩に問い合わせたところ、過去、伊香いこう泰元やすもとあるいは今川いまがわ泰元やすもとなる藩医はんい在籍ざいせきしていた事実はなく、しかも年齢にしても養父ようふとなるはず長安ながやすより3歳年下どころか、15も年上の49歳であったのだ。

 これではそもそもよう親子しんし関係を結べるはずもない。

 当然、浅井あさい長安ながやす遊佐ゆさ信庭のぶにわに対して、「一体いったい、どういうことだ」とったものの、しかしそれに対して遊佐ゆさ信庭のぶにわは、「一体いったい、何の話だ?」とまるで己が長安ながやすに対して養嗣子ようしし世話せわをしたことなど…、伊香いこう泰元やすもともとい今川いまがわ泰元やすもと紹介しょうかいした事実など忘れたかのような口ぶりであり、長安ながやすもこれではらちかぬと、ご公儀こうぎ…、幕府に対して己が遊佐ゆさ信庭のぶにわだまされたのだと、弁明べんめいしたのであった。

 それに対してご公儀こうぎ…、幕府も当然、遊佐ゆさ信庭のぶにわ詮議せんぎしようとしたものの、しかし急に「さるすじ」からの圧力により遊佐ゆさ信庭のぶにわへの詮議せんぎは打ち切りとなり、結局、伊香いこう泰元やすもともとい今川いまがわ泰元やすもと八丈はちじょうへの遠島えんとう沙汰さたがくだり、一方、被害者とも言うべき浅井あさい長安ながやすはご公儀こうぎに対して虚偽きょぎ届出とどけでをなしたとして、官医かんいの身分を剥奪はくだつされた上、追放を命じられた。それが明和8(1771)年の2月13日のことであり、この件とは一切いっさい、関係のない岡本おかもと松山しょうざんまでが浅井あさい長安ながやす実兄じっけいという理由で同じく2月13日から5月11日までのおよ三月みつきもの間、ひかえを命ぜられたそうな。

 意知おきとも元悳もとのりよりその話を聞いてふたたび、「えっ」と声を上げていた。

「明和8(1771)年と言えば…」

 意知おきともがそう言いかけると、元悳もとのりもその通りだと言わんばかりにうなずいてみせた。

おそれ多くも御台みだい様がご薨去こうきょあそばされし年ではありませんか…」

 意知おきともがそうつぶやくと、元悳もとのりも「ええ」と答え、

おそれ多くも御台みだい様におかせられましては明和8(1771)年の8月20日にご薨去こうきょあそばされ…、それ以前に御台みだい様がご体調たいちょうをおくずしになられた頃には岡本おかもと先生のひかえの期間もとうにけ、ふたた登城とじょうが許されておりましたが、しかし、この一件がたたってか、御台みだい様の療治りょうじくわわることが出来ず…」

 そう付け加えたので、意知おきともも「まさか…、またしても小笠原おがさわら殿が邪魔じゃまいたしたとか?」とそうかんを働かせた。

「それもありますが…、何しろその当時…、明和8(1771)年の当時は小笠原おがさわら様は本丸ほんまる御側おそばしゅうでありましたゆえに…、なれど大奥のことゆえ…」

 元悳もとのりにそう示唆しさされて、意知おきともは大奥を監督かんとくするのは留守居るすいであることを思い出した。すなわち、たして岡本おかもと松山しょうざんを大奥にて闘病とうびょう中の御台みだい様こと将軍・家治の正室せいしつ倫子ともこ療治りょうじに当たらせるかいなか、それが留守居るすいまさしく、

胸先むさなき三寸さんずん…」

 それにかかっていることを思い出したのであった。

 してみると、結果として岡本おかもと松山しょうざん御台みだい様こと倫子ともこ治療ちりょうチームにくわわることが出来なかったということは留守居るすい岡本おかもと松山しょうざん治療ちりょうチームへの加入かにゅうを認めなかったことに他ならない。

留守居るすいの中で…、誰かが反対したとか?岡本おかもと先生がおそれ多くも御台みだい様の療治りょうじくわわることに…」

 意知おきともは恐る恐る尋ねた。留守居るすいの定員は4人から5人であり、その全員が岡本おかもと松山しょうざん治療ちりょうチーム入りに反対したとは考えづらかったので、意知おきともはそう尋ねたのであった。

 すると結果はあんじょうであり、元悳もとのりは「左様さよう…」と答えると、意外な人物の名を挙げた。

「されば依田よだ様…、依田よだ豊前守ぶぜんのかみ政次まさつぐ様が岡本おかもと先生が療治りょうじくわわることに反対されたそうな…」
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