天明繚乱 ~次期将軍の座~

家基の治療チームに元悳たち本丸奥医師が加われなかった理由 2

　御側おそば御用ごよう取次とりつぎの水上みずかみ美濃守みののかみ興正おきまさの不意ふいの登場に、元悳もとのりたち本丸ほんまるの奥おく医師いしたちは、

「もしかしたら大納言だいなごん様の療治りょうじに加われる絶好ぜっこうの機会きかいやも知れぬ…」

　そう思ったそうな。元悳もとのりたち本丸ほんまるの奥おく医師いしも、「野々山ののやま様」なる西之丸にしのまるの書院しょいん組頭くみがしらの顔は知らなくとも、同じく西之丸にしのまるの御側おそば御用ごよう取次とりつぎの水上みずかみ興正おきまさの顔ぐらいは把握はあくしていた。

　ともあれ元悳もとのりたち本丸ほんまるの奥おく医師いしたちは御側おそば御用ごよう取次とりつぎの水上みずかみ興正おきまさに対して一切いっさいの事情を打ち明けた上で、今正まさにすぐ目の前の西之丸にしのまるにて闘病とうびょうしている大納言だいなごん様こと家基いえもとの療治りょうじに加くわわりたいと、陳情ちんじょうならぬ懇願こんがんをしたものであったそうな。

　それに対して水上みずかみ興正おきまさは元悳もとのりたち本丸ほんまるの奥おく医師いしの懇願こんがんを至当しとうと認めて、

「野々山ののやまよ、登営とえいを許してやれ…」

　そう命じたことから、元悳もとのりたち本丸ほんまるの奥おく医師いしもこの段だんになって漸ようやくに目の前の男が…、家基いえもとの療治りょうじに当たるべく、西之丸にしのまるへと登営とえい…、登城とじょうしようとした己らを邪魔じゃま立だてしたのが、

「野々山ののやま」

　なる男だと把握はあくしたのであった。

　するとそれに対してその「野々山ののやま」なる男は、

「畏おそれ多くも大納言だいなごん様の療治りょうじにつきましては、西之丸にしのまるの奥おく医師いしのみで当たりしことと相あい成なり申した。さればこの西之丸にしのまるの営中えいちゅうの警衛けいえいを担にないし書院しょいん組頭くみがしらとして本丸ほんまる奥おく医師いしの登営とえいを認めること、あたわず…」

　水上みずかみ興正おきまさに対してそう反論したことから、元悳もとのりたち本丸ほんまるの奥おく医師いしは「野々山ののやま様」なる男が書院しょいん組頭くみがしらだとも気付いたとのことであった。

　その「野々山ののやま様」なる書院しょいん組頭くみがしらは更さらに、

「この儀ぎ、水上みずかみ様もご承知しょうちの筈はず…」

　そう付け加え、これにはさしもの水上みずかみ興正おきまさも流石さすがに言葉に詰つまった様子を覗のぞかせたそうな。

　それはそうだろう。何しろ、家基いえもとの治療ちりょうチームには本丸ほんまるの奥おく医師いしは加くわえない、つまりは西之丸にしのまるの奥おく医師いしだけで家基いえもとの治療ちりょうに当たるとの決定は他ならぬ西之丸にしのまるの御側おそば衆しゅう、即すなわち、水上みずかみ興正おきまさたちが決めたことだからだ。

　それを今になって元悳もとのりたち本丸ほんまるの奥おく医師いしの西之丸にしのまるへの登城とえい…、登城とじょうを認めろとは、もっと言えば家基いえもとの治療ちりょうチームに加くわえろとは、自みずからの決定を覆くつがえすようなものではないか、要ようは、

「前言ぜんげん撤回てっかいするつもりか…」

　野々山ののやま様なる書院しょいん組頭くみがしらは水上みずかみ興正おきまさに対してそう言っているわけで、水上みずかみ興正おきまさとしてもこれには反論し難がたく、思わず言葉に詰つまった様子を見せたというわけだ。

　それでも水上みずかみ興正おきまさは何とか態勢たいせいを立て直すと、

「確かにそうだが、人手ひとではやはり多いに越こしたことはあるまいて…、されば人手ひとでが多い方が畏おそれ多くも大納言だいなごん様の御為おんためになるゆえ。さればこの際、本丸ほんまるの奥おく医いにも療治りょうじに加くわわってもらうべきであろう…」

　水上みずかみ興正おきまさはその野々山ののやまなる書院しょいん組頭くみがしらに対して諭さとすようにそう言ったそうな。

　一方、元悳もとのりたち本丸ほんまるの奥おく医師いしは水上みずかみ興正おきまさのその言葉を聞いて、西之丸にしのまるの御側おそば衆しゅうの中でも水上みずかみ興正おきまさのみは家基いえもとの治療ちりょうチームに本丸ほんまるの奥おく医師いしが加くわわることに賛成だったのではあるまいかと、そう確信したそうな。

　これには意知おきともも同感であった。いや、正確には興正おきまさばかりではあるまい。恐らく大久保おおくぼ志摩守しまのかみ忠翰ただなりや大久保おおくぼ下野守しもつけのかみ忠恕ただみにしてもそうに違いなかった。

　何しろ大久保おおくぼ忠翰ただなりの妻女さいじょは家基いえもとや、のみならずその姉に当たる萬壽ます姫の乳母うばを務つとめ、その上、息そくの銕蔵てつぞう忠道ただみちは家基いえもとの伽とぎ、それも最後の伽とぎを務つとめた程ほどであり、御側おそば衆しゅうの中でも特に家基いえもととの絆きずなが深く、大久保おおくぼ忠恕ただみもその一族に列つらなり、やはり家基いえもととの絆きずなが深く、そんな二人であるのできっと、家基いえもとの治療ちりょうチームに元悳もとのりたち本丸ほんまるの奥おく医師いしが加くわわることに賛成したに違いなかった。

　それを潰つぶしたのが他ならぬ、御側おそば衆しゅうの中でも筆頭である御用ごよう取次とりつぎの小笠原おがさわら若狭守わかさのかみ信喜のぶよしだったというわけだ。

　小笠原おがさわら信喜のぶよしは一応、

「船頭せんどうは少ない方が…」

　云々うんぬんと、要ようは西之丸にしのまるの奥おく医師いしだけで家基いえもとを治療ちりょうした方が良い、本丸ほんまるの奥おく医師いしなど邪魔じゃまだと一応、尤もっともらしい理由を挙げたようだが、その実、家基いえもとを見み殺ごろしにするつもりで本丸ほんまるの奥おく医師いしが家基いえもとの治療ちりょうチームに加くわわることを拒否したに相違なかった。

　そしてそんな小笠原おがさわら信喜のぶよしに対して正まさに、

「例れいの如ごとく…」

　そのような枕詞まくらことばがピタリと当あて嵌はまるかのように、やはり御側おそば衆しゅうの中でも筆頭である御用ごよう取次とりつぎ、それも御用ごよう取次とりつぎの中でも更さらにその筆頭である佐野さの右兵衛尉うひょうえのじょう茂承もちつぐが小笠原おがさわら信喜のぶよしの正まさしく、

「尻馬しりうまに乗った…」

　それに相違そういなかった。

　さて、水上みずかみ興正おきまさと野々山ののやまなる書院しょいん組頭くみがしらとが元悳もとのりたち本丸ほんまるの奥おく医師いしを西之丸にしのまるへと登営とえい、登城とじょうさせるさせないで、つまりは家基いえもとの治療ちりょうチームに加くわえる加くわえないで押おし問答もんどうを繰くり広げていると、そこへ騒さわぎを聞きつけたらしい小笠原おがさわら信喜のぶよしまでが姿を見せたそうな。

　水上みずかみ興正おきまさはそこで改めて小笠原おがさわら信喜のぶよしに対して元悳もとのりたち本丸ほんまるの奥おく医師いしも家基いえもとの治療ちりょうチームに加くわえるよう頼んだそうだ。

　だがそれに対して小笠原おがさわら信喜のぶよしはと言うと、案あんの定じょう、それを拒絶したのであった。

「たとい本丸ほんまるの奥おく医いしが畏おそれ多くも大納言だいなごん様の療治りょうじに加くわわりしところで、それで果たして大納言だいなごん様がご快癒かいゆあそばされるかどうか分からぬではないか…、第一、大納言だいなごん様がご放鷹ほうようの折おりに従したがい奉たてまつりし本丸ほんまる奥おく医いの池原いけはらがきちんと…、大納言だいなごん様がご発病はつびょうされし品川の東海寺にて、そこな池原いけはらめが大納言だいなごん様の応急おうきゅう措置そちにきちんと当たっておれば斯様かような…、大納言だいなごん様がご不例ふれいなどと、斯かかる大事だいじには至いたらなかったであろうがっ」

　小笠原おがさわら信喜のぶよしはそう反論して水上みずかみ興正おきまさを黙だまらせたのであった。

　恐らく小笠原おがさわら信喜のぶよしは家基いえもとの治療ちりょうチームに本丸ほんまるの奥おく医師いしを加くわわらせるか否いなか、そのことが御側おそば衆しゅうの会議の議題に上った際にも、本丸ほんまる奥おく医師いしも家基いえもとの治療ちりょうチームに加くわえるべしと、そう主張した水上みずかみ興正おきまさに対して、そのように主張して水上みずかみ興正おきまさを黙だまらせたに相違そういなかった。

　ともあれ家基いえもとの鷹たか狩がりに従したがった本丸ほんまる奥おく医師いしの池原いけはら良誠よしのぶがその鷹たか狩がりの帰途きとに立ち寄った品川の東海寺にて、発病はつびょうした家基いえもとの応急おうきゅう処置しょちが出来なかったと、その一点に関しては残念ながらと言うべきか、小笠原おがさわら信喜のぶよしの言う通りであり、そうであれば、

「そのような、無能むのうな本丸ほんまるの奥おく医師いしが家基いえもとの治療ちりょうチームに加くわわったところでかえって治療ちりょうの邪魔じゃまになるだけ…」

　小笠原おがさわら信喜のぶよしは水上みずかみ興正おきまさに対してそう示唆しさしたのであり、さしもの水上みずかみ興正おきまさもこれには黙だまらざるを得なかったのであろう。

　一方、本丸ほんまる奥おく医師いしの一人として西之丸にしのまるまで押しかけた池原いけはら良誠よしのぶは正まさに、

「針はりの筵むしろ…」

　それに相違そういなかっただろうとも、意知おきともは推察すいさつした。何しろ小笠原おがさわら信喜のぶよしも指摘してきした通り、池原いけはら良誠よしのぶが品川の東海寺にて家基いえもとの応急おうきゅう処置しょちを適切てきせつに行えなかったために、小笠原おがさわら信喜のぶよしからそのような、まるで本丸ほんまるの奥おく医師いしが全員、無能であるかのような烙印らくいんを押おされたのだから、池原いけはら良誠よしのぶは何とも居心地いごこちの悪い思いを、いや、それを通り越して、

「針はりの筵むそろ…」

　そのような状態であっただろうと、意知おきともはそう推察すいさつした次第しだいである。