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小児科医・小野章以の経歴
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「なれど…、これは申し忘れていたことなのですが…」
善之はそんな切り出し方をした。そしてこの手の切り出し方は大抵、とんでもないことであろうと、意知の勘がそう告げていた。
「されば…、先ほど、私めが以前、小野先生より相談を受け申したことを伝えましたな?」
善之は意知の記憶を甦らせるかのようにそう尋ねた。
「ええ。確か以前に小野先生より遅効性にして、致死性のある毒はないかと、そう尋ねられ、それに対して善之先生がシロタマゴテングタケ、或いはドクツルタケの存在を教えられたと…」
「左様…、さればその以前でござるが、実は明和7(1770)年のやはり2月頃でしたか、その頃に相談を受けましてな…」
善之のこの意外な告白に、意知はやはりと言うべきか、「えっ!?」と驚きの声を上げた。意知はてっきり、善之が相談を受けたのは安永8(1779)年の少し前だろうと、そうとばかり思っていたからだ。
それが安永の前、明和7(1770)年に相談を受けていたとは…、そんなに前だったとは意知も考えもみなかった。やはりとんでもないことであった。
「いや、その頃にはまだ、豊千代君はお生まれには…」
豊千代はまだ生まれていないと、意知はそう示唆した。
「だが…、大納言様…、家基様はもうお生まれになっていたわけですよね?」
玄通が口を挟んだ。その通りであったので意知は頷いてみせた。
「だとしたら、治済の野郎はその頃からもう…、天下盗りを考えていたのかも知れませんよ?」
玄通までも、益五郎に倣い、治済のことを野郎呼ばわりする始末であった。
それは兎も角、「まだ豊千代君がお生まれになっていないにもかかわらず?」と意知は首をかしげてみせた。
「ええ。いや、治済の野郎はきっと、俺も必ずや子を…、嫡男をなしてみせると、そう決意していたんじゃないですかねぇ…、その頃にはもう…」
玄通にそう言われると、意知も何だかそんな気がしてきた。
「それにしても善之先生はその頃からもう、この躋寿館で?」
本草学を講義していたのか…、意知は話題を転換するようにそう示唆した。意知も善之の詳しい経歴についてまでは流石に把握していなかったからだ。
するとそうと察した善之はそんな意知のために己のその詳しい、「身の上」について意知に打ち明けてくれた。
善之曰く、善之がこの躋寿館に出入りするようになったのは明和2(1765)年の8月の末であった。
善之によると本草学を更に究めるためとのことであり、つまりは善之は当初は今の玄通と同じく、医学生の立場として躋寿館に通い始めたわけだ。
いや、この時点で善之は今ほどではないにしても、それなりに本草学に通じており、その本草学を更に究めるべく、この躋寿館に通い始めたとの話であるので、その立場は新米の医学生と言うよりは、さしずめ、
「博士課程に所属する非常勤講師…」
そのような立場であっただろう。実際、善之はこの躋寿館で本草学を究めつつ、それと同時に、今と同じく玄通のような新米の医学生に対して本草学を講義していた。
実は善之がこの躋寿館に通うようになったのは本人の意思もさることながら、父である藍水、こと田村元雄登の意思による。
即ち、父・登の命により、善之は本草学を究めるべく、この躋寿館に通うようになったのである。
それと言うのも、宝暦13(1763)年の8月半ばに父・登は当時の若年寄に対して、
「息・元長善之を人参製法所手伝としたい…」
人参製法所を手伝わせたいと、勘定奉行の一色安芸守政沅を通じてそう願い出たのがきっかけであった。
宝暦13(1763)年と言えば、善之の父、田村藍水こと元雄登が悲願とも言うべき…、そしてそれは八代将軍・吉宗、そして吉宗の遺志を引き継いだ意次にとっての悲願ともいうべき、人参製法所が本格稼動し始めた年である。
正確には人参製法所が稼動し始めたのはその年の9月であり、してみると父・登が勘定奉行を通じて若年寄に対して、倅の善之に人参製法所を手伝わせたいと願い出たのはその少し前ということになる。
ちなみに、登が勘定奉行を通じて若年寄に願ったのは他でもない、人参製法所は若年寄支配に属するものの、しかし、そこで働く者たちの給金については勘定奉行より支給されることになったからだ。
ともあれ登としてはいずれ善之を己の後継者とすべく、つまりは人参製法所を任せるべく、今のうちから善之を人参製法所にて仕事を手伝わせようと、そう考えて、その旨、勘定奉行を通じて、若年寄に対して願い出たのであった。
果たして、登の願い出は聞き届けられ、そこで登は善之に人参製法所にてその仕事を手伝わせ始めたのであった。
だが人参製法には本草学の知識が必要不可欠であった。
この時点で善之には十分な本草学の知識があったものの、しかし、学問、それもとりわけ医学や薬学は日々、進歩を遂げる。
そこで父・登は倅の善之に対して、更に本草学を究めさせようと思い立ったが、しかし、その時はまだ適当な教育機関がなく、そのまま時間だけが過ぎ去って行った。
局面が転回したのは元号も変わった明和2(1765)年5月9日のことであった。それよりも一月程前の4月10日に、元悳の父、多紀法眼元孝が幕府に願い出ていた医学館の創設が認められたのであった。
幕府では多紀元孝に対して、かつては司天台のあった神田佐久間町二丁目の土地を貸し与え、元孝はその地に自費でもって、つまりは私財を投じて医学館を建設したのであった。これこそが躋寿館の前身である。
このこれこそが躋寿館の前身である医学館は漢方を中心に教えるそれであり、登もその医学館の存在を知るや、
「本草学を究めるには正に打ってつけの教育機関…」
そう思えばこそ、倅の善之に対して医学館に通うよう命じたのであった。
こうして善之は躋寿館の前身とも言うべき医学館に通い始めたわけであり、それも開校当初よりの、言わば、
「オリジナルメンバー」
と言えた。
さてそれから…、医学館が開校してから一年後の明和3(1766)年、医学館には新たな「メンバー」が加わった。それこそが小野章以であった。
その当時の小野章以も既に小児医としてそれなりに経験を積んでおり、ゆえに医学生の立場ではなく、医学生に教える立場として医学館に通い始めたのであった。
即ち、今と同じく、小児の患者の診察の模様を見学させるべく、往診のために医学館へと定期的に足を運んでいたのだ。
善之はそんな切り出し方をした。そしてこの手の切り出し方は大抵、とんでもないことであろうと、意知の勘がそう告げていた。
「されば…、先ほど、私めが以前、小野先生より相談を受け申したことを伝えましたな?」
善之は意知の記憶を甦らせるかのようにそう尋ねた。
「ええ。確か以前に小野先生より遅効性にして、致死性のある毒はないかと、そう尋ねられ、それに対して善之先生がシロタマゴテングタケ、或いはドクツルタケの存在を教えられたと…」
「左様…、さればその以前でござるが、実は明和7(1770)年のやはり2月頃でしたか、その頃に相談を受けましてな…」
善之のこの意外な告白に、意知はやはりと言うべきか、「えっ!?」と驚きの声を上げた。意知はてっきり、善之が相談を受けたのは安永8(1779)年の少し前だろうと、そうとばかり思っていたからだ。
それが安永の前、明和7(1770)年に相談を受けていたとは…、そんなに前だったとは意知も考えもみなかった。やはりとんでもないことであった。
「いや、その頃にはまだ、豊千代君はお生まれには…」
豊千代はまだ生まれていないと、意知はそう示唆した。
「だが…、大納言様…、家基様はもうお生まれになっていたわけですよね?」
玄通が口を挟んだ。その通りであったので意知は頷いてみせた。
「だとしたら、治済の野郎はその頃からもう…、天下盗りを考えていたのかも知れませんよ?」
玄通までも、益五郎に倣い、治済のことを野郎呼ばわりする始末であった。
それは兎も角、「まだ豊千代君がお生まれになっていないにもかかわらず?」と意知は首をかしげてみせた。
「ええ。いや、治済の野郎はきっと、俺も必ずや子を…、嫡男をなしてみせると、そう決意していたんじゃないですかねぇ…、その頃にはもう…」
玄通にそう言われると、意知も何だかそんな気がしてきた。
「それにしても善之先生はその頃からもう、この躋寿館で?」
本草学を講義していたのか…、意知は話題を転換するようにそう示唆した。意知も善之の詳しい経歴についてまでは流石に把握していなかったからだ。
するとそうと察した善之はそんな意知のために己のその詳しい、「身の上」について意知に打ち明けてくれた。
善之曰く、善之がこの躋寿館に出入りするようになったのは明和2(1765)年の8月の末であった。
善之によると本草学を更に究めるためとのことであり、つまりは善之は当初は今の玄通と同じく、医学生の立場として躋寿館に通い始めたわけだ。
いや、この時点で善之は今ほどではないにしても、それなりに本草学に通じており、その本草学を更に究めるべく、この躋寿館に通い始めたとの話であるので、その立場は新米の医学生と言うよりは、さしずめ、
「博士課程に所属する非常勤講師…」
そのような立場であっただろう。実際、善之はこの躋寿館で本草学を究めつつ、それと同時に、今と同じく玄通のような新米の医学生に対して本草学を講義していた。
実は善之がこの躋寿館に通うようになったのは本人の意思もさることながら、父である藍水、こと田村元雄登の意思による。
即ち、父・登の命により、善之は本草学を究めるべく、この躋寿館に通うようになったのである。
それと言うのも、宝暦13(1763)年の8月半ばに父・登は当時の若年寄に対して、
「息・元長善之を人参製法所手伝としたい…」
人参製法所を手伝わせたいと、勘定奉行の一色安芸守政沅を通じてそう願い出たのがきっかけであった。
宝暦13(1763)年と言えば、善之の父、田村藍水こと元雄登が悲願とも言うべき…、そしてそれは八代将軍・吉宗、そして吉宗の遺志を引き継いだ意次にとっての悲願ともいうべき、人参製法所が本格稼動し始めた年である。
正確には人参製法所が稼動し始めたのはその年の9月であり、してみると父・登が勘定奉行を通じて若年寄に対して、倅の善之に人参製法所を手伝わせたいと願い出たのはその少し前ということになる。
ちなみに、登が勘定奉行を通じて若年寄に願ったのは他でもない、人参製法所は若年寄支配に属するものの、しかし、そこで働く者たちの給金については勘定奉行より支給されることになったからだ。
ともあれ登としてはいずれ善之を己の後継者とすべく、つまりは人参製法所を任せるべく、今のうちから善之を人参製法所にて仕事を手伝わせようと、そう考えて、その旨、勘定奉行を通じて、若年寄に対して願い出たのであった。
果たして、登の願い出は聞き届けられ、そこで登は善之に人参製法所にてその仕事を手伝わせ始めたのであった。
だが人参製法には本草学の知識が必要不可欠であった。
この時点で善之には十分な本草学の知識があったものの、しかし、学問、それもとりわけ医学や薬学は日々、進歩を遂げる。
そこで父・登は倅の善之に対して、更に本草学を究めさせようと思い立ったが、しかし、その時はまだ適当な教育機関がなく、そのまま時間だけが過ぎ去って行った。
局面が転回したのは元号も変わった明和2(1765)年5月9日のことであった。それよりも一月程前の4月10日に、元悳の父、多紀法眼元孝が幕府に願い出ていた医学館の創設が認められたのであった。
幕府では多紀元孝に対して、かつては司天台のあった神田佐久間町二丁目の土地を貸し与え、元孝はその地に自費でもって、つまりは私財を投じて医学館を建設したのであった。これこそが躋寿館の前身である。
このこれこそが躋寿館の前身である医学館は漢方を中心に教えるそれであり、登もその医学館の存在を知るや、
「本草学を究めるには正に打ってつけの教育機関…」
そう思えばこそ、倅の善之に対して医学館に通うよう命じたのであった。
こうして善之は躋寿館の前身とも言うべき医学館に通い始めたわけであり、それも開校当初よりの、言わば、
「オリジナルメンバー」
と言えた。
さてそれから…、医学館が開校してから一年後の明和3(1766)年、医学館には新たな「メンバー」が加わった。それこそが小野章以であった。
その当時の小野章以も既に小児医としてそれなりに経験を積んでおり、ゆえに医学生の立場ではなく、医学生に教える立場として医学館に通い始めたのであった。
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