天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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犯行現場の錯覚 ~長谷川玄通は品川の東海寺が家基毒殺の犯行現場でなかった可能性を指摘する~

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「仮にそうだとしてもだ、実際、おそれ多くも大納言だいなごん様におかせられては品川の東海寺にてちゃ菓子がしを…、それも清水殿が所縁ゆかり小納戸こなんど毒見どくみをし、その上、やはり清水殿が所縁ゆかり小姓こしょう給仕きゅうじをせしそのちゃ菓子がしを口にした後で、急に病に、いや、毒にでもたおれられたのであろうが、さればそなたが申す通り一橋ひとつばし殿がおそれ多くも大納言だいなごん様をがいたてまつりし黒幕くろまくだとして、如何いかにしてそれなちゃ菓子がしに毒でも仕込しこんだと申すのだ?よもや、それら…、清水殿と所縁ゆかりのありし小納戸こなんど小姓こしょうらが一橋ひとつばし殿のためにかる危険をおかはずもあるまいて…」

「そりゃ、勿論もちろん重好しげよし殿は…、重好しげよし殿に関係のあるその小納戸こなんどやら、小姓こしょうやらは一橋ひとつばしの野郎にめられたに違いねぇから…」

 益五郎ますごろう正明まさあきらもっとも過ぎる質問に答えられず、結果として正明まさあきらの言葉をなぞっただけであった。

「されば如何いかにして?如何いかにして、一橋ひとつばし殿はさも、清水殿が…、清水殿に所縁ゆかりのありしそれら小納戸こなんどや、あるいは小姓こしょう如何いかにもおそれ多くも大納言だいなごん様をがいたてまつりしように見せかけたと申すのだ?」

 正明まさあきらからさしずめ、

とどめをされるかのように…」

 益五郎ますごろうはそう問われたために、つい益五郎ますごろうは答えにきゅうし、だまった。

 すると意知おきともがそんな益五郎ますごろうの「窮地きゅうち」を救ってくれた。

おそれながら…」

 意知おきともはそう切り出して将軍・家治に対して発言の許可を求めたのであった。それに対して家治は勿論もちろん、すぐに「許す」と、意知おきともの発言を許可した。

「ははっ。されば只今ただいま御三卿ごさんきょう家老の詰所つめしょにて待機させておりまする寄合よりあい医師いし長谷川はせがわ玄通げんつうに尋ねてみたいと…」

如何いかにして、家基いえもとが殺されたか…、それもさも、重好しげよしがその清水家に所縁ゆかりのありし小納戸こなんどなり小姓こしょうなりに命じて家基いえもとを殺させたと、そのように治済はるさだが見せかけたかを、か?」

御意ぎょい。されば玄通げんつうなればその医師としての知識でもって何か分かるやも知れませぬゆえ…」

「ふむ…、そうだのう。聞いてみようぞ…」

 家治はそう断を下すと、今度は玄通げんつうをここ、将軍・家治が鎮座ちんざする御休息之間ごきゅうそくのまの下段、その下段に面した入側いりがわ…、廊下へとし出したのであった。

 やはり家治は平伏へいふくしようとする玄通げんつうを制すると、意知おきともからこれまでの経緯けいいつまんで説明させた上で、家治より玄通げんつうへと「ご下問かもん」がなされたのであった。

「さればそのように…、さも重好しげよしが、それら重好しげよし…、清水家と所縁ゆかりのありし小納戸こなんどなり、小姓こしょうなりに命じて家基いえもと毒殺どくさつした…、そのように治済はるさだが…、一橋ひとつばし家が見せかけることは可能か?」

 家治よりそう問われた玄通げんつうは、「実は…」と思わせぶりに切り出して家治の興味をきつけた。

「実はわたくしめもずっとそのことを考えておりまして、それで一つの可能性を…」

「可能性をみいしたと申すかっ!?」

 家治は身を乗り出すようにして尋ねた。

御意ぎょい、いえ、その前にとんでもないかんちがいをしていたのではないかと、その可能性に気付きましてござりまする…」

「とんでもないかんちがい、とな?」

御意ぎょい…」

「して、そのかんちがいとは?」

「されば大納言だいなごん様は品川の東海寺にてちゃ菓子がしを口にされ、その後、腹痛ふくつうを起こされた…、確か日記にはそうありました…」

 玄通げんつうもまた、日記の内容を、とりわけ家基いえもとの発病前後のくだりを徹底的に読み込み、すべて頭にたたんであった。

左様さよう。して、それが何だと申すのだ?」

 家治がうながした。

「さればちゃ菓子がしに毒が含まれていたのではないか…、皆様、そう思われておいでで…」

「それこそがかんちがいとでも申すか?」

 家治がかんを働かせた。

御意ぎょい…」

「されば…、ちゃ菓子がしには…、おそれ多くも大納言だいなごん様がご放鷹ほうよう帰途きとにお立ち寄りあそばされしその、品川の東海寺にておし上がりになられしちゃ菓子がしには毒など仕込しこまれてはいなかったと申すか?」

 意知おきともかんを働かせた。

まさしく…、されば大納言だいなごん様はもっと以前に毒をふくまれたのではないかと…」

「もっと前だと?」

 家治が聞き返した。

御意ぎょい…」

「だがそれでは…、そのもっと以前に毒をおふくみになられし時点で…」

 意知おきともはそこで言葉を区切くぎるや、

「まさかに…、遅効ちこう性の毒とな?」

 意知おきともがそう問うたので、玄通げんつうの舌を巻かせた。

まさしく…、いや、良くご存知ぞんじで…」

 玄通げんつう意知おきともの知識を…、遅効ちこう性などという単語を知っていたことをめたのであった。

「ちこうせい、とは何ぞや?」

 家治が尋ねたので、意知おきともが、「されば…」と切り出すや、遅効ちこう性なる単語の書き方を教えた上で、その意味をも教えたのであった。

「いかさま…、薬効やっこう発揮はっきせしが遅いとな…」

 家治が聞き返したので、意知おきともも「御意ぎょい」と答えた。

「するってぇとこういうことか?家基いえもと様は実は…、例えば一刻(約2時間)めぇなり、二刻(約4時間)めぇなりに毒をまされて…、でもその毒ってのは遅効ちこう性だったか?ともかく、効力が…、毒の効力が発揮はっきされんのに時間が…、例えば一刻(約2時間)なり、二刻(約4時間)なり、かく、時間がかかり、そんで、家基いえもと様が例の品川の東海寺でちゃ菓子がしを口にした後でその毒、遅効ちこう性とやらの毒が効力を発揮はっきし始めたんで…、つまりはちゃ菓子がしを口にした後で毒が効力を発揮はっきし始めたんで、それで俺たちは家基いえもと様はさも品川の東海寺で一服いっぷくられたに違いねぇ、ってそう誤解ごかいしたってわけか?」

 益五郎ますごろう要領ようりょう良くまとめた。

「ああ、その通りだ」

 玄通げんつううなずいた。

「そうか…、それでか…」

 益五郎ますごろう一人ひとり合点がてんしていると、「如何いかがいたした?」と家治から問われた。

「いえね…、さっき…、っつってももう、かなり時間がっちまいましたが、評定ひょうじょうの場で一橋ひとつばしの野郎、家基いえもと様の死のことにれた時、家基いえもと様が品川の東海寺にて亡くなった、ってやけにそれを強調していたような…」

 益五郎ますごろうが思い出すようにそう言うと、「確かに…」と家治もそう応じた。

「それって、品川の東海寺こそが犯行現場だと…、そこでさも、家基いえもと様は重好しげよし殿に所縁ゆかりのある小納戸こなんどなり、小姓こしょうなりに一服いっぷくられた、ってそう見せかけようとしたためじゃないっすかねぇ…」

 益五郎ますごろうがそんな感想をらすと、家治も同感だと言わんばかりに深くうなずいた。

「それで…、その遅効ちこう性とやらの毒は一体、何でぇ…」

 益五郎ますごろうは皆が知りたがっていたそのことを玄通げんつうに尋ねた。

 だがその問いに対して玄通げんつうは答えられなかった。

「いや、それは俺にも分からん…」

「それじゃ、意味ねぇじゃねぇか…」

「だが…、多紀たき先生に聞けばあるいは…」

 玄通げんつうがそう答えたので、益五郎ますごろうが「たき?」と聞き返すや、

多紀たき安元あんげん先生だな?」

 意知おきともが確かめるように尋ねたので、玄通げんつうは目を丸くした。

多紀たき先生をご存知ぞんじなので?」

神田かんだ佐久間さくま町にて躋寿せいじゅかん督事とくじ…、わば館長を務めておられし…、さればここ本丸ほんまるにておく医師いしとしても勤めております…」

 意知おきともは将軍・家治に向けてそう告げた。

「せいじゅかん…、ああ、医学館の躋寿せいじゅかんであるな…」

 家治もどうやらその名を知っていたようで、意知おきともは「御意ぎょい」と答えた。

おくってぇと、殺された池原の同僚ってことか?」

 益五郎ますごろうが尋ねたので、これには玄通げんつうが答えた。

「そういうことになるな」

「そいじゃあ、今、ここにその多紀たき大先生を呼んで聞きゃぁ良いんじゃね?」

 確かにそれが一番合理的ではあった。

「いや、それがそうはいかないんだよ」

 玄通げんつうさとすように言った。

「どうして?」

多紀たき先生は今日は御城おしろには登城されていないからな…」

「だってここ本丸ほんまるおくを勤めてるんだろ?なら、登城しなきゃなんねぇだろ?」

「いや、無論むろん、登城する日もあるが、今日は2日ゆえ、登城はしないんだよ」

「2日に何かあんのか?」

多紀たき先生は医学館…、躋寿せいじゅかんの館長でもあるんだ…」

「それは聞いたが、それが何だってんだ?」

「先生はそこで俺たちのようなまだ、新米しんまいの医師に医学を教えて下さるんだ…」

「それじゃあ、登城する暇なんてねぇじゃねぇか…」

「いや、毎日、教えて下さるわけではないんだ」

「それが2日ってことか?」

「そうだが、2日だけではない。2日と12日と22日、それから3日と13日と23日、それに7日と17日と27日、そして8日と18日と28日に館長である多紀たき先生が自ら指導して下さるんだ…」

「要は2、3、7、8のつく日に多紀たき先生が教えて下さるってことか?」

「そういうことだ」

「それで…、今日は2日ってことで、まさに2のつく日だから、多紀たき先生は今日は登城しないで、その躋寿せいじゅかんで教えてるってわけか?」

「そういうことだ」

「おめぇ、授業に出なくて良いのかよ…、今さらだが…」

「出なくて良いわけはないが…、それでも夕七つ(午後4時頃)にまで間に合えばそれで良いさ…」

「夕七つ(午後4時頃)から授業が始まんのか?」

「いや、授業ならもうとっくに始まってる…、昼九つ(正午頃)から授業が始まるからな…」

 今はもう昼九つ(正午頃)をとっくの昔に過ぎていた。

「それじゃあ、まずいだろ…、まぁ、俺がとやかく言うことじゃねぇが…」

「まぁ、確かにまずいが、それでも今も言った通り、夕七つ(午後4時頃)にまで間に合えばそれで良いから…」

「夕七つ(午後4時頃)から何かあんのか?」

「ああ。夕七つ(午後4時頃)から多紀たき先生の授業なんだよ。だから…」

「そんなに多紀たき先生の授業が好きなのか?」

「ああ。何しろ実習じっしゅうだからな…」

実習じっしゅう…」

「ああ。要は実際に患者かんじゃさんを診察しんさつするわけだ」

「ああ、それで実習じっしゅう…」

「そういうこと…」

「そうか…、お前、要は座学ざがくが苦手ってことか…」

 益五郎ますごろうは苦笑しながらそう言うと、玄通げんつうまさしく図星ずぼしであったので、やはり苦笑してこれに応じた。
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