天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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家基存命時には西之丸にて御側衆として家基に仕えていた、今は大番頭の大久保忠恕と本堂親房への聴取 2

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「さればそなたらはそのことに…、西之丸にしのまるおくまで家基いえもとたかりにしたがわせるにはおよばぬとの小笠原おがさわら若狭わかさめの判断にとなえなかったのか?」

 家治は気になっていたことを尋ねた。すると親房ちかふさ忠恕ただみはまるで、家治に許しでもうかのように、

無論むろんとなえましてござりまする…」

 そう声をそろえて答えたものであった。それに対して家治はやはり予期よきしていたことなので、大して驚きはしなかった。

左様さようか…、いや、さもあろうな…、いや、となえしはそなたらだけではあるまい?」

 家治がそう水を向けると、親房ちかふさ忠恕ただみはやはり、「御意ぎょい」と声をそろえた。

「されば大久保おおくぼ忠翰ただなりもそのクチであろうな…」

 家治は同族どうぞくである忠恕ただみに対してそう水を向けた。すると忠恕ただみ即座そくざに、「御意ぎょい」と答えるや、

「されば一番、もう反発はんぱついたしましてござりまする…」

 忠恕ただみはそうも付け加えた。

左様さようか…、いや、さもろうな…、して御用ごよう取次とりつぎは…、その反応は如何いかが?」

 家治は信喜のぶよしと同じく、御側おそばしゅうの筆頭である御用ごよう取次とりつぎとして家基いえもとつかえていた者たちの反応も気になった。すなわち、

佐野さの右兵衛尉うひょうえのじょう茂承もちつぐ

水上みずかみ美濃守みののかみ興正おきまさ

 この二人の御側おそば御用ごよう取次とりつぎの反応である。家治はとりわけ、水上みずかみ興正おきまさの反応が大いに気になったものだが、それは顔には出さずに、親房ちかふさ、あるいは忠恕ただみの説明を待った。

「されば佐野さの右兵衛尉うひょうえのじょうは…」

 やはりと言うべきか、忠恕ただみよりも十も若い親房ちかふさが切り出した。忠恕ただみは58であるのに対して、親房ちかふさはそれより十も若い48であり、それゆえ若い親房ちかふさの方が反射神経が良かった。

「どっちつかずの態度にて…」

 佐野さの茂承もちつぐはどっちつかずの態度…、親房ちかふさがそう思い出すと、忠恕ただみもその通りだと言わんばかりにうなずいてみせると、

「さればかくたる信念しんねんもなく、かなりりなじんにて…」

 忠恕ただみはそう補足ほそく佐野さの茂承もちつぐ人物じんぶつひょうを加えたのであった。それは中々なかなか適確てきかく人物じんぶつひょうと言え、この辺はまさに、

としこう…」

 それを感じさせた。確かに忠恕ただみが言う通り、佐野さの茂承もちつぐ御側おそば御用ごよう取次とりつぎとしてはかなりりであり、実務じつむすべ小笠原おがさわら信喜のぶよしまるげしていたのだ。

 それも無理からぬことではあった。それと言うのもこの時点…、家基いえもと薨去こうきょする直前ちょくぜんの安永8年(1779)年時点での佐野さの茂承もちつぐよわいたるや77歳であり、どうしても気力きりょくが続かず、畢竟ひっきょう、若い者にたよちになってしまい、その若い者こそが小笠原おがさわら信喜のぶよしであった。

 と言っても、信喜のぶよしにしてもその当時はもうすでに62歳と決して若いというわけではなかったものの、それでも当時、77歳の佐野さの茂承もちつぐくらべればひとまわり以上も若いのは事実であった。

 いや、佐野さの茂承もちつぐよりは若いとは言え、それでもその当時、すでに70歳であった水上みずかみ興正おきまさは違った。

 興正おきまさりな佐野さの茂承もちつぐとは違い、次期将軍たる家基いえもとつかえる御側おそば御用ごよう取次とりつぎ相応ふさわしからんと、その御側おそば御用ごよう取次とりつぎとしての職務に対して、全身ぜんしん全霊ぜんれいかたむけていたのであった。まさに、

精励せいれい恪勤かっきん…」

 その四字熟語がピタリと当てまる働き振りであった。それだけに正邪せいじゃの判断もしっかりとしたものであり、そうであれば水上みずかみ興正おきまさもきっと、大久保おおくぼ忠恕ただみ本堂ほんどう親房ちかふさと同様、小笠原おがさわら信喜のぶよし采配さいはいに対して、すなわち、家基いえもとたかりに西之丸にしのまるにて家基いえもとつかえるおく医師いしだれ一人ひとりとしてしたがわせないとするその小笠原おがさわら信喜のぶよしの判断にとなえてくれたに違いないと、家治はそれを期待し、すると結果は案の定であった。

「されば水上みずかみ美濃守みののかみ佐野さの右兵衛尉うひょうえのじょうとは違い、西之丸にしのまるにておそれ多くも大納言だいなごん様につかたてまつりしおく医師いしだれ一人ひとりとして大納言だいなごん様がご放鷹ほうようしたがたてまつらぬことに到底とうてい承服しょうふくがたしと、小笠原おがさわら若狭守わかさのかみ争論そうろんいたりまして…」

成程なるほど…」

「また、それがしめが同族どうぞく志摩守しまのかみ水上みずかみ美濃守みののかみ加勢かせいいたしましてござりまする…、無論むろん、それがしや本堂ほんどう伊豆守いずのかみも同じく…」

 忠恕ただみがそう告げると、親房ちかふさもその通りだと言わんばかりに家治に対して会釈えしゃくしてみせた。

 一方、家治は水上みずかみ興正おきまさもまた、小笠原おがさわら信喜のぶよしに、ひいては一橋ひとつばし治済はるさだに対抗してくれたかと、それを思うとホッとすると同時に、うれしくも感じられた。

「本来なれば御側おそば御用ごよう取次とりつぎの筆頭に位置せし佐野さの右兵衛尉うひょうえのじょうが指導力を発揮はっきすべき場面にて、なれど…」

 親房ちかふさはそこで言葉を区切くぎると、その先は家治が引き取った。

佐野さの右兵衛尉うひょうえのじょうはロクに指導力を発揮はっきしなかったと申すのだな?」

 家治がそう尋ねると、親房ちかふさは、「御意ぎょい」と答え、そしてやはり忠恕ただみ補足ほそくしてくれた。

「されば佐野さの右兵衛尉うひょうえのじょう日頃ひごろより、御側おそば御用ごよう取次とりつぎとしての仕事…、細々こまごまとせし雑務ざつむいたるまで小笠原おがさわら若狭守わかさのかみに頼りきりにて…」

 忠恕ただみがそう補足ほそくしてくれたおかげで、家治も事情をめた。

「されば日頃ひごろより小笠原おがさわら若狭守わかさのかみに頼りきりの佐野さの右兵衛尉うひょうえのじょうとしてはその若狭守わかさのかみの意に反することなど元より出来できようはずもないと、左様さように申すのだな?」

 家治が確かめるようにそう尋ねると、忠恕ただみ親房ちかふさ共々ともども、「御意ぎょい」と声をそろえたのであった。

「いかさま…、御側おそば御用ごよう取次とりつぎの中でも筆頭格である佐野さの右兵衛尉うひょうえのじょう小笠原おがさわら若狭守わかさのかみの側についたとあらば、如何いか硬骨こうこつの士である水上みずかみ興正おきまさとて引き下がるより他になく、さればひら御側おそばのそなたらは言うにおよばず、というわけだな?」

 家治は目の前にいる、その当時、家基いえもとひら御側おそばとしてつかえていた忠恕ただみ親房ちかふさの立場に理解を示した。

 すると忠恕ただみにしろ親房ちかふさにしろ、家治のそのような配慮はいりょが伝わり、大いに感謝すると同時に、申し訳なくも思った。どうやら、西之丸にしのまるにて家基いえもとつかえていたおく医師いし家基いえもとたかりにしたがわせるべきと、もっと強く小笠原おがさわら信喜のぶよしに対して主張しておくべきだったと、忠恕ただみにしろ親房ちかふさにしろ、そう後悔こうかいしている様子がうかがえ、それがこうじて申し訳なさとなって表れたらしい。

 ともあれ忠恕ただみは言い訳するかのように、

「されば水上みずかみ美濃守みののかみはかなりねばり…、それほどまでに西之丸にしのまるおく医師いしおそれ多くも大納言だいなごん様がご放鷹ほうようしたがわせしむることに反対なのであらば、せめて西之丸にしのまる療治りょうちうけたまわりし、ここ本丸ほんまるにて勤仕きんしせし表番おもてばん医師いしをご放鷹ほうようしたがわせしめてはと…」

 そんな事情を打ち明けた。

水上みずかみ興正おきまさはなおもねばったと申すのだな?」

御意ぎょい…」

 忠恕ただみ心底しんそこ後悔こうかいしている様子であった。そしてそれは親房ちかふさにしても同じであり、親房ちかふさまでもが家治の知らない事情を、それも驚くべきその後の事情、さしずめ、

じつだん

 とも言うべきその事情を家治に打ち明けたのであった。
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