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召喚 2
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やはり御側御用取次見習いの泰行が小笠原信喜を呼びに行った。今の小笠原信喜はここ本丸の中奥にて将軍・家治に仕える御側衆の一人として、御側衆…、平御側の詰所である御側衆部屋に詰めていたからだ。
さて信喜は泰行の案内により御休息之間へと…、御休息之間の下段に面した入側…、廊下へと足を踏み入れたわけだが、そこには意知たちの姿があったので、信喜は警戒心を露にした。信喜にしても意知たち…、意知と益五郎に対して今は亡き大納言こと家基の死の真相について探索を命じられたことは既に把握していたからだ。
一方、意知たちは皆、そのような…、意知と益五郎の姿を目の当たりにして警戒心を露にする信喜のそのあからさまな態度に接して、信喜の「有罪」を確信したものである。
ともあれ信喜もまた、意知たちと同様、下段に面した入側…、廊下にて腰をおろすと下段にて鎮座する将軍・家治と向かい合い、そしてその家治に対して平伏し、皆も久しぶりに平伏した。
「一同の者、面を上げぃ…」
家治も久しぶりにその台詞を口にすると、信喜たちの頭を上げさせた。
それから家治は信喜に対して、「信喜よ…」と柔らかな口調で語りかけた。
「ははっ」
「済まぬが…、今、表向の菊之間にて詰めている大番頭の大久保忠恕と本堂親房の二人をここへ連れて来てはもらえまいか…」
家治がそう頼むと、信喜は目を丸くした。
「それがしが、でござりまするか?」
「うむ。いや、本来なれば時斗之間の肝煎坊主にでも頼むべきところなれど、大番頭としての面目もあろう…」
大久保忠恕と本堂親房のその、
「大番頭としての面子」
それを考えた時、時斗之間肝煎坊主に命じて二人を連れて来させるよりも、ヒラとは言え、旗本にとっての出世の頂点とも言うべき御側衆、その一人である小笠原信喜が二人を連れて来る方が、二人の…、大番頭である大久保忠恕と本堂親房のその、
「大番頭としての面目」
それが立つというものである…、家治はそう示唆したのであった。
「いや、御側衆のそなたに斯様なことを頼むのは心苦しいのだが…」
家治はあくまで下手に出たので、これには信喜の方が恐縮したものである。
「滅相もござりませぬ」
「されば引き受けてくれるか?」
「ははっ。なれどその前に一つ、尋ね申し上げたき儀が…」
「何なりと訊くが良いぞ…」
「ははっ。されば畏れ多くも上様におかせられましては何ゆえに大久保下野と本堂伊豆の両名をお召しに…」
「気になるか?」
「はぁ…、その、御意…」
気になると、正直にそう答えれば如何にも、
「はしたない…」
というものであり、到底、武士にあるまじき振る舞いと言えようが、さりとて気にならないと嘘を言えば、将軍・家治が大久保下野こと下野守忠恕と本堂伊豆こと伊豆守親房を召し出すその理由を教えてくれない恐れがあったので、そこで信喜は口ごもった末に、
「御意…」
そう恥を偲んで、「教えを請う」ことにしたのであった。
それに対して家治はと言うと、そんな信喜の心の軌跡が手に取るように分かり、心の中で思わず苦笑した。
それでも家治はそれは顔には出さずに、「されば…」と切り出すや、益五郎との「打ち合わせ」通りの台詞を口にしたのであった。
「大久保忠恕も本堂親房も大番頭を拝命してからまだ日が浅い…」
家治のその台詞に対して、信喜もつられて「御意」と答えた。どうやら家治の台詞を信じている様子であった。
「それゆえ慣れない御役目に何かと戸惑うことも多く、気苦労も耐えぬであろう…、されば余が直々に大久保忠恕と本堂親房の両名を励ましてやりたいのだ。その上で、大番頭としての心得も説いてやりたいと思うてな…」
家治は切々とそう語ったのであった。とても演技には見えず、だが実際には演技なわけで、家治は中々の役者、いや、古狸だと益五郎はそう思った。
一方、信喜はすっかり家治の「名演技」に騙された様子であり、それが証拠に、
「それはそれは…、何というご温情溢るるご配慮にて…」
信喜は如何にも、
「感極まった…」
そんな様子でそう告げたのであった。
それでも信喜もヒラとは言え、御側衆を勤めているだけあって、それ程、単純ではなかった。信喜はすぐに冷静さを取り戻すや、
「さればここで?」
信喜は疑問を呈した。
確かに、大番頭に任じられたばかりで何かと戸惑うことも多く、気苦労も耐えぬであろう忠恕と親房を励まし、更には大番頭としての心得を説くのにこの場は…、御側御用取次は元より、そもそも中奥役人ですらない、それどころか家基の死の真相の探索を命じられた意知や益五郎といった完全なる部外者までいるこの場は相応しいとは言えなかった。
考えてみれば信喜がそう疑問に思うであろうことは当然、予期できた。だが、益五郎はそこまでは予期できず、それは意知たちにしても同様であり、その点、皆の脇が甘かったと言うべきであろう。
いや、唯一人、それを予期していた者がいた。他でもない、将軍・家治であり、「古狸」の家治は決して慌てることがなかった。
「されば余が説きし、例えば大番頭としての心得などは大番頭である忠恕や親房は元より、他の者たち…、ここに控えておる者たちが聞いても決して無駄ではないと思うのだが、如何?」
中々に巧い切り返しだと、意知は心底、感嘆させられた。信喜は将軍・家治の御側近くに仕える御側衆の身である。その身で、
「はい、無駄です」
などとよもや答えられはしまい。案の定、
「確かに、とても有益かと…」
家治が部外者とも言うべき意知や益五郎のいる前で、大番頭としての心得を説くことが決して無駄ではない、それどころか有益であるとさえ、信喜はそれを認めたのであった。
「いや、分かってもらえて余は嬉しく思うぞ…」
家治はそう応ずると、続いて驚くべきことを口にした。
「されば信喜よ、そなたも聞かぬか?」
家治は何と信喜を誘って見せたのであった。これにはさしもの益五郎も度肝を抜かされたものであった。仮に信喜がその「お誘い」にホイホイ乗ってきたらどうするつもりかと、益五郎は勿論のこと、他の誰もがそう思ったものである。
尤もそうなればなったで、益五郎の「アドバイス」通り、信喜を締め上げれば良いだけと、家治はそう割り切っていた。
さて、それに対する信喜の答えはと言うと、
「いえ、それがしは結構にて…、さればまたの機会に…」
そう家治からの「お誘い」を拝辞したのであった。
「左様か…、それは残念…」
家治は内心、全く残念ではなかったものの、それでも表面的にはあくまで残念そうに、それも如何にも残念そうにそう告げると、その上で、
「されば、またの機会にの…」
家治は信喜の言葉を拝借してそう告げたのであったが、やはり内心ではその言葉とは裏腹に、
「またの機会はあるまい…」
そう思っていたのであった。
ちなみに、家治のその「役者」ぶりには、
「到底、太刀打ち出来ねぇや…」
益五郎をしてそう思わせた程であった。
一方、家治は菊之間へと足を運ぶ信喜を見送ったのであった。
さて信喜は泰行の案内により御休息之間へと…、御休息之間の下段に面した入側…、廊下へと足を踏み入れたわけだが、そこには意知たちの姿があったので、信喜は警戒心を露にした。信喜にしても意知たち…、意知と益五郎に対して今は亡き大納言こと家基の死の真相について探索を命じられたことは既に把握していたからだ。
一方、意知たちは皆、そのような…、意知と益五郎の姿を目の当たりにして警戒心を露にする信喜のそのあからさまな態度に接して、信喜の「有罪」を確信したものである。
ともあれ信喜もまた、意知たちと同様、下段に面した入側…、廊下にて腰をおろすと下段にて鎮座する将軍・家治と向かい合い、そしてその家治に対して平伏し、皆も久しぶりに平伏した。
「一同の者、面を上げぃ…」
家治も久しぶりにその台詞を口にすると、信喜たちの頭を上げさせた。
それから家治は信喜に対して、「信喜よ…」と柔らかな口調で語りかけた。
「ははっ」
「済まぬが…、今、表向の菊之間にて詰めている大番頭の大久保忠恕と本堂親房の二人をここへ連れて来てはもらえまいか…」
家治がそう頼むと、信喜は目を丸くした。
「それがしが、でござりまするか?」
「うむ。いや、本来なれば時斗之間の肝煎坊主にでも頼むべきところなれど、大番頭としての面目もあろう…」
大久保忠恕と本堂親房のその、
「大番頭としての面子」
それを考えた時、時斗之間肝煎坊主に命じて二人を連れて来させるよりも、ヒラとは言え、旗本にとっての出世の頂点とも言うべき御側衆、その一人である小笠原信喜が二人を連れて来る方が、二人の…、大番頭である大久保忠恕と本堂親房のその、
「大番頭としての面目」
それが立つというものである…、家治はそう示唆したのであった。
「いや、御側衆のそなたに斯様なことを頼むのは心苦しいのだが…」
家治はあくまで下手に出たので、これには信喜の方が恐縮したものである。
「滅相もござりませぬ」
「されば引き受けてくれるか?」
「ははっ。なれどその前に一つ、尋ね申し上げたき儀が…」
「何なりと訊くが良いぞ…」
「ははっ。されば畏れ多くも上様におかせられましては何ゆえに大久保下野と本堂伊豆の両名をお召しに…」
「気になるか?」
「はぁ…、その、御意…」
気になると、正直にそう答えれば如何にも、
「はしたない…」
というものであり、到底、武士にあるまじき振る舞いと言えようが、さりとて気にならないと嘘を言えば、将軍・家治が大久保下野こと下野守忠恕と本堂伊豆こと伊豆守親房を召し出すその理由を教えてくれない恐れがあったので、そこで信喜は口ごもった末に、
「御意…」
そう恥を偲んで、「教えを請う」ことにしたのであった。
それに対して家治はと言うと、そんな信喜の心の軌跡が手に取るように分かり、心の中で思わず苦笑した。
それでも家治はそれは顔には出さずに、「されば…」と切り出すや、益五郎との「打ち合わせ」通りの台詞を口にしたのであった。
「大久保忠恕も本堂親房も大番頭を拝命してからまだ日が浅い…」
家治のその台詞に対して、信喜もつられて「御意」と答えた。どうやら家治の台詞を信じている様子であった。
「それゆえ慣れない御役目に何かと戸惑うことも多く、気苦労も耐えぬであろう…、されば余が直々に大久保忠恕と本堂親房の両名を励ましてやりたいのだ。その上で、大番頭としての心得も説いてやりたいと思うてな…」
家治は切々とそう語ったのであった。とても演技には見えず、だが実際には演技なわけで、家治は中々の役者、いや、古狸だと益五郎はそう思った。
一方、信喜はすっかり家治の「名演技」に騙された様子であり、それが証拠に、
「それはそれは…、何というご温情溢るるご配慮にて…」
信喜は如何にも、
「感極まった…」
そんな様子でそう告げたのであった。
それでも信喜もヒラとは言え、御側衆を勤めているだけあって、それ程、単純ではなかった。信喜はすぐに冷静さを取り戻すや、
「さればここで?」
信喜は疑問を呈した。
確かに、大番頭に任じられたばかりで何かと戸惑うことも多く、気苦労も耐えぬであろう忠恕と親房を励まし、更には大番頭としての心得を説くのにこの場は…、御側御用取次は元より、そもそも中奥役人ですらない、それどころか家基の死の真相の探索を命じられた意知や益五郎といった完全なる部外者までいるこの場は相応しいとは言えなかった。
考えてみれば信喜がそう疑問に思うであろうことは当然、予期できた。だが、益五郎はそこまでは予期できず、それは意知たちにしても同様であり、その点、皆の脇が甘かったと言うべきであろう。
いや、唯一人、それを予期していた者がいた。他でもない、将軍・家治であり、「古狸」の家治は決して慌てることがなかった。
「されば余が説きし、例えば大番頭としての心得などは大番頭である忠恕や親房は元より、他の者たち…、ここに控えておる者たちが聞いても決して無駄ではないと思うのだが、如何?」
中々に巧い切り返しだと、意知は心底、感嘆させられた。信喜は将軍・家治の御側近くに仕える御側衆の身である。その身で、
「はい、無駄です」
などとよもや答えられはしまい。案の定、
「確かに、とても有益かと…」
家治が部外者とも言うべき意知や益五郎のいる前で、大番頭としての心得を説くことが決して無駄ではない、それどころか有益であるとさえ、信喜はそれを認めたのであった。
「いや、分かってもらえて余は嬉しく思うぞ…」
家治はそう応ずると、続いて驚くべきことを口にした。
「されば信喜よ、そなたも聞かぬか?」
家治は何と信喜を誘って見せたのであった。これにはさしもの益五郎も度肝を抜かされたものであった。仮に信喜がその「お誘い」にホイホイ乗ってきたらどうするつもりかと、益五郎は勿論のこと、他の誰もがそう思ったものである。
尤もそうなればなったで、益五郎の「アドバイス」通り、信喜を締め上げれば良いだけと、家治はそう割り切っていた。
さて、それに対する信喜の答えはと言うと、
「いえ、それがしは結構にて…、さればまたの機会に…」
そう家治からの「お誘い」を拝辞したのであった。
「左様か…、それは残念…」
家治は内心、全く残念ではなかったものの、それでも表面的にはあくまで残念そうに、それも如何にも残念そうにそう告げると、その上で、
「されば、またの機会にの…」
家治は信喜の言葉を拝借してそう告げたのであったが、やはり内心ではその言葉とは裏腹に、
「またの機会はあるまい…」
そう思っていたのであった。
ちなみに、家治のその「役者」ぶりには、
「到底、太刀打ち出来ねぇや…」
益五郎をしてそう思わせた程であった。
一方、家治は菊之間へと足を運ぶ信喜を見送ったのであった。
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