天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

文字の大きさ
上 下
97 / 197

召喚 2

しおりを挟む
 やはり御側おそば御用ごよう取次とりつぎ見習いの泰行やすゆき小笠原おがさわら信喜のぶよしを呼びに行った。今の小笠原おがさわら信喜のぶよしはここ本丸ほんまる中奥なかおくにて将軍・家治につかえる御側おそばしゅうの一人として、御側おそばしゅう…、ひら御側おそば詰所つめしょである御側おそばしゅう部屋べやめていたからだ。

 さて信喜のぶよし泰行やすゆきの案内により御休息之間ごきゅうそくのまへと…、御休息之間ごきゅうそくのまの下段に面した入側いりがわ…、廊下へと足を踏み入れたわけだが、そこには意知おきともたちの姿があったので、信喜のぶよし警戒けいかい心をあらわにした。信喜のぶよしにしても意知おきともたち…、意知おきとも益五郎ますごろうに対して今は大納言だいなごんこと家基いえもとの死の真相について探索たんさくを命じられたことはすで把握はあくしていたからだ。

 一方、意知おきともたちは皆、そのような…、意知おきとも益五郎ますごろうの姿をの当たりにして警戒けいかい心をあらわにする信喜のぶよしのそのあからさまな態度に接して、信喜のぶよしの「有罪」を確信したものである。

 ともあれ信喜のぶよしもまた、意知おきともたちと同様、下段に面した入側いりがわ…、廊下にてこしをおろすと下段にて鎮座ちんざする将軍・家治と向かい合い、そしてその家治に対して平伏へいふくし、皆もひさしぶりに平伏へいふくした。

一同いちどうの者、おもてを上げぃ…」

 家治もひさしぶりにその台詞せりふを口にすると、信喜のぶよしたちの頭を上げさせた。

 それから家治は信喜のぶよしに対して、「信喜のぶよしよ…」とやわらかな口調で語りかけた。

「ははっ」

まぬが…、今、表向おもてむき菊之間きくのまにてめている大番頭おおばんがしら大久保おおくぼ忠恕ただみ本堂ほんどう親房ちかふさの二人をここへ連れて来てはもらえまいか…」

 家治がそう頼むと、信喜のぶよしは目を丸くした。

「それがしが、でござりまするか?」

「うむ。いや、本来なれば時斗之間とけいのま肝煎きもいり坊主ぼうずにでも頼むべきところなれど、大番頭おおばんがしらとしての面目めんぼくもあろう…」

 大久保おおくぼ忠恕ただみ本堂ほんどう親房ちかふさのその、

大番頭おおばんがしらとしての面子めんぼく

 それを考えた時、時斗之間とけいのま肝煎きもいり坊主ぼうずに命じて二人を連れて来させるよりも、ヒラとは言え、旗本にとっての出世の頂点とも言うべき御側おそばしゅう、その一人である小笠原おがさわら信喜のぶよしが二人を連れて来る方が、二人の…、大番頭おおばんがしらである大久保おおくぼ忠恕ただみ本堂ほんどう親房ちかふさのその、

大番頭おおばんがしらとしての面目めんぼく

 それが立つというものである…、家治はそう示唆しさしたのであった。

「いや、御側おそばしゅうのそなたに斯様かようなことを頼むのは心苦しいのだが…」

 家治はあくまで下手したてに出たので、これには信喜のぶよしの方が恐縮きょうしゅくしたものである。

滅相めっそうもござりませぬ」

「されば引き受けてくれるか?」

「ははっ。なれどその前に一つ、尋ね申し上げたきが…」

「何なりとくが良いぞ…」

「ははっ。さればおそれ多くも上様におかせられましては何ゆえに大久保おおくぼ下野しもつけ本堂ほんどう伊豆いずの両名をおしに…」

「気になるか?」

「はぁ…、その、御意ぎょい…」

 気になると、正直にそう答えれば如何いかにも、

「はしたない…」

 というものであり、到底とうてい、武士にあるまじき振る舞いと言えようが、さりとて気にならないと嘘を言えば、将軍・家治が大久保おおくぼ下野しもつけこと下野守しもつけのかみ忠恕ただみ本堂ほんどう伊豆いずこと伊豆守いずのかみ親房ちかふさし出すその理由を教えてくれない恐れがあったので、そこで信喜のぶよしは口ごもったすえに、

御意ぎょい…」

 そうはじしのんで、「教えをう」ことにしたのであった。

 それに対して家治はと言うと、そんな信喜のぶよしの心の軌跡きせきが手に取るように分かり、心の中で思わず苦笑くしょうした。

 それでも家治はそれは顔には出さずに、「されば…」と切り出すや、益五郎ますごろうとの「打ち合わせ」通りの台詞せりふを口にしたのであった。

大久保おおくぼ忠恕ただみ本堂ほんどう親房ちかふさ大番頭おおばんがしら拝命はいめいしてからまだ日が浅い…」

 家治のその台詞せりふに対して、信喜のぶよしもつられて「御意ぎょい」と答えた。どうやら家治の台詞せりふを信じている様子であった。

「それゆえ慣れない御役目に何かとまどうことも多く、苦労ぐろうえぬであろう…、されば直々じきじき大久保おおくぼ忠恕ただみ本堂ほんどう親房ちかふさの両名をはげましてやりたいのだ。その上で、大番頭おおばんがしらとしての心得こころえも説いてやりたいと思うてな…」

 家治は切々せつせつとそう語ったのであった。とても演技には見えず、だが実際には演技なわけで、家治は中々なかなかの役者、いや、ふるだぬきだと益五郎ますごろうはそう思った。

 一方、信喜のぶよしはすっかり家治の「めい演技えんぎ」にだまされた様子であり、それが証拠しょうこに、

「それはそれは…、何というご温情おんじょうあふるるご配慮はいりょにて…」

 信喜のぶよし如何いかにも、

かんきわまった…」

 そんな様子でそう告げたのであった。

 それでも信喜のぶよしもヒラとは言え、御側おそばしゅうを勤めているだけあって、それほど、単純ではなかった。信喜のぶよしはすぐに冷静れいせいさを取りもどすや、

「さればここで?」

 信喜のぶよしは疑問をていした。

 確かに、大番頭おおばんがしらに任じられたばかりで何かとまどうことも多く、苦労ぐろうえぬであろう忠恕ただみ親房ちかふさはげまし、さらには大番頭おおばんがしらとしての心得こころえを説くのにこの場は…、御側おそば御用ごよう取次とりつぎは元より、そもそも中奥なかおく役人ですらない、それどころか家基いえもとの死の真相の探索たんさくを命じられた意知おきとも益五郎ますごろうといった完全なる部外者までいるこの場は相応ふさわしいとは言えなかった。

 考えてみれば信喜のぶよしがそう疑問に思うであろうことは当然、予期よきできた。だが、益五郎ますごろうはそこまでは予期よきできず、それは意知おきともたちにしても同様であり、その点、皆のわきあまかったと言うべきであろう。

 いや、ただ一人ひとり、それを予期よきしていた者がいた。他でもない、将軍・家治であり、「ふるだぬき」の家治は決してあわてることがなかった。

「さればが説きし、例えば大番頭おおばんがしらとしての心得こころえなどは大番頭おおばんがしらである忠恕ただみ親房ちかふさは元より、他の者たち…、ここにひかえておる者たちが聞いても決して無駄むだではないと思うのだが、如何いかが?」

 中々なかなかうまい切り返しだと、意知おきとも心底しんそこ感嘆かんたんさせられた。信喜のぶよしは将軍・家治の御側おそば近くにつかえる御側おそばしゅうの身である。その身で、

「はい、無駄むだです」

 などとよもや答えられはしまい。案の定、

「確かに、とても有益ゆうえきかと…」

 家治が部外者とも言うべき意知おきとも益五郎ますごろうのいる前で、大番頭おおばんがしらとしての心得こころえを説くことが決して無駄むだではない、それどころか有益ゆうえきであるとさえ、信喜のぶよしはそれを認めたのであった。

「いや、分かってもらえてうれしく思うぞ…」

 家治はそう応ずると、続いて驚くべきことを口にした。

「されば信喜のぶよしよ、そなたも聞かぬか?」

 家治は何と信喜のぶよしを誘って見せたのであった。これにはさしもの益五郎ますごろう度肝どぎもかされたものであった。仮に信喜のぶよしがその「おさそい」にホイホイ乗ってきたらどうするつもりかと、益五郎ますごろう勿論もちろんのこと、他の誰もがそう思ったものである。

 もっともそうなればなったで、益五郎ますごろうの「アドバイス」通り、信喜のぶよしめ上げれば良いだけと、家治はそう割り切っていた。

 さて、それに対する信喜のぶよしの答えはと言うと、

「いえ、それがしは結構けっこうにて…、さればまたの機会きかいに…」

 そう家治からの「おさそい」を拝辞はいじしたのであった。

左様さようか…、それは残念…」

 家治は内心、まったく残念ではなかったものの、それでも表面的にはあくまで残念そうに、それも如何いかにも残念そうにそう告げると、その上で、

「されば、またの機会きかいにの…」

 家治は信喜のぶよしの言葉を拝借はいしゃくしてそう告げたのであったが、やはり内心ではその言葉とは裏腹うらはらに、

「またの機会きかいはあるまい…」

 そう思っていたのであった。

 ちなみに、家治のその「役者」ぶりには、

到底とうてい太刀たち出来できねぇや…」

 益五郎ますごろうをしてそう思わせたほどであった。

 一方、家治は菊之間きくのまへと足を運ぶ信喜のぶよし見送みおくったのであった。
しおりを挟む

処理中です...