天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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稲葉正明、遂に偽証を認める 2

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「されば池原いけはら長仙院ちょうせんいんに恩を売れば、それがめぐめぐりて、意次にも恩を売ることにつながると、その理屈りくつは分からぬではないが…、何しろ池原いけはら長仙院ちょうせんいんは意次が寵愛ちょうあいせしおくであるのは周知しゅうちの事実だからのう…、その池原いけはら長仙院ちょうせんいんに恩を売れば、長仙院ちょうせんいんの口よりその事が…、正明まさあきらより格別かくべつ配慮はいりょを…、本丸ほんまるおくの身にて、西之丸にしのまるに住まう家基いえもとたかりに同行どうこうすることがかなうことになった、その配慮はいりょたまわったと、そのことが意次の耳に入り、されば意次も正明まさあきら尽力じんりょくとするであろう…、己が寵愛ちょうあいせし池原いけはら長仙院ちょうせんいんのためによく骨を折ってくれたと…」

御意ぎょい…」

「なれど分からぬ…、正明まさあきらよ、何ゆえにそなたはそうまでして意次に恩を売ろうと思うたのだ?」

 家治は勿論もちろん、その理由に察しがついていたものの、しかし、今この場においてはその理由が分からぬ者もいるやも知れず、それゆえ尋ねないわけにはゆかなかったのだ。

「されば…、それがしは御側おそば御用ごよう取次とりつぎとして相役あいやくよりも…、相役あいやく横田よこた筑後ちくごよりも深く、おそれ多くも上様がご寵愛ちょうあいを得たいと、いえ、深くどころか、ひといたしたいと…」

「それをねごうて、まずは意次に恩を売り、次いで意次よりに対して、正明まさあきらがことを…、さしずめ正明まさあきら如何いかに役に立つ者か…、大方おおかたかることをんでもらえるに相違そういないと、左様さように思うて、治済はるさだが話を信じたのか?」

 家治が尋ねると、正明まさあきらは「御意ぎょい」と答え、その上で、

田沼たぬま主殿とのももまた、おそれ多くも上様がご寵愛ちょうあいが厚いゆえ…」

 そう補足ほそくしたのであった。すぐそばでそれを聞いていた意知おきともは気恥ずかしさにおそわれた。

「ふむ…、なれど本丸ほんまるおく池原いけはら長仙院ちょうせんいん家基いえもとたかりにしたがわせしめようと思えば、おく差配さはいせし御膳ごぜん番の小納戸こなんどにそのむね、取り計らわせなければなるまい?」

御意ぎょい。なれど今の御膳ごぜん番の小納戸こなんど大久保おおくぼ半五郎はんごろう吉川よしかわ一學いちがくにて…、両名とも何よりも前例を重んじる傾向けいこうこれありそうろう…」

「その二人を…、前例を重んじる半五郎はんごろう一學いちがくに対して、たかりの監督かんとくをも勤めしとも番の目付めつけより、前例があると回答させる腹積もりで、そこで末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんとも番を兼務けんむさせようと思い立ったわけか?」

御意ぎょい…、いえ、それを思い立ちましたのは一橋ひとつばし殿にて…、それと申しますのも、一橋ひとつばし殿いわく、末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんは一橋家と縁があり、それゆえ治済はるさだが申すことなれば何でも聞くと…」

「何と…、治済はるさだ左様さようなことを申したのか?」

御意ぎょい。さればその末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんに対してとも番を兼務けんむさせ、その上で、御膳ごぜん番の小納戸こなんどの、前例を重んじる半五郎はんごろう一學いちがくの両名に、本丸ほんまるおくおそれ多くも大納言だいなごん様…、西之丸にしのまるにおわします大納言だいなごん様がご放鷹ほうようしたがたてまつりし前例ならあると、左様さように答えさせることぐらいわけないとも…」

治済はるさだ左様さようなことまで申したのか?」

御意ぎょい。さればそれがしも一橋ひとつばし殿がそこまで末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんなる目付めつけ影響えいきょう力を行使できるのであればと、それで…」

治済はるさだが話を信じたそなたは若年寄に対して、天の声を降らせたと、そういうわけだな?」

御意ぎょい。いえ、それだけではなく、そこにおります同族どうぞく稲葉いなば主計かずえに対しましても…」

稲葉いなば正存まさよし小納戸こなんど頭取とうどりしゅうとしてその当時より半五郎はんごろう一學いちがくが直属の上司にて、されば正存まさよしにそれな末吉すえよし善左衛門ぜんざえもん共々ともども半五郎はんごろう一學いちがくへの説得を思い立ったというわけだな?本丸ほんまるおく差配さはいえし御膳ごぜん番の小納戸こなんどとして、本丸ほんまるおく池原いけはら長仙院ちょうせんいん家基いえもとたかりに同行どうこうできるよう取りはからえ、と…」

御意ぎょい…」

「それも治済はるさだ知恵ぢえか?」

「いえ…、これはそれがしの思いつきにて…」

「左様か…、なれど末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんがことを…、前例ぜんれいおもんじる半五郎はんごろう一學いちがくに対して、末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんより…、一橋ひとつばし家と縁があり、ゆえに治済はるさだが申し条なれば何でも聞くらしいその、目付めつけである末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんより、前例ぜんれいなれば…、本丸ほんまるおく大納言だいなごんたかりにしたがいしその前例ぜんれいなればあると、そう答えさせるべく、そのためにはたかりをも監督かんとくせしとも番を末吉すえよし善左衛門ぜんざえもん兼務けんむさせる必要があると、治済はるさだ左様さように申して、正明まさあきらよ、そなたに天の声を…、末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんとも番を兼務けんむさせよと、かる天の声を若年寄を通じて目付めつけに降らせたのであろう?されば治済はるさだは当然、半五郎はんごろう一學いちがくの性格…、前例ぜんれいおもんじると、その性格を把握はあくしていたことにはならぬか?」

 家治は一応、そう尋ねた。一応とは他でもない。治済はるさだが何ゆえにここ中奥なかおくにて将軍たる己につかえる小納戸こなんどの事情にそこまでくわしいのか、その理由に思い当たるふしがあったからだ。

 それでも一応、家治は知らぬ風をよそおい、正明まさあきらに尋ねたのであった。

 果たして正明まさあきらは家治の予想した通りの答えをよこした。

「されば岩本いわもと正五郎しょうごろう正倫まさともがここ中奥なかおくにて小納戸こなんどとしておそれ多くも上様の御側おそば近くにつかたてまつりしゆえに…」

 正明まさあきらがそう答えると、やはりそうかと、家治はそう思った。いや、家治のみならず、誰もがそう思った。それと言うのも数ある小納戸こなんどの中でも岩本いわもと正五郎しょうごろう別格べっかくであったからだ。

 それと言うのも岩本いわもと正五郎しょうごろうの姉こそが治済はるさだ側妾そくしょうにして、豊千代とよちよの実母だからだ。

 そうであれば岩本いわもと正五郎しょうごろうより治済はるさだへと中奥なかおくの事情がそれこそ、

つつけ…」

 その状態であっただろう。そしてその中には勿論もちろん御膳ごぜん番の小納戸こなんどに冠する情報もふくまれていたに違いない。すなわち、今のおく医師いし差配さはいする御膳ごぜん番を兼務けんむする小納戸こなんど大久保おおくぼ半五郎はんごろう吉川よしかわ一學いちがくの両名が前例ぜんれいおもんじる性格の持ち主であることも当然、治済はるさだつつであっただろう。

 そこで治済はるさだはそんな前例ぜんれいおもんじる、言ってみれば、

前例ぜんれい好き」

 その大久保おおくぼ半五郎はんごろう吉川よしかわ一學いちがくの両名に対して、本丸ほんまるにて将軍・家治につかえるおく医師いし池原いけはら良誠よしのぶ西之丸にしのまる盟主めいしゅとも言うべき次期将軍の家基いえもとたかりへと同行どうこうさせることを了承りょうしょうさせ、そのように取りはからわせるべく、治済はるさだの言うことであれば何でも聞く目付めつけ末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんたかりの監督かんとくをも行うとも番を兼務けんむさせ、その善左衛門ぜんざえもんより半五郎はんごろう一學いちがくに対して、本丸ほんまるおく医師いし西之丸にしのまる盟主めいしゅとも言うべき次期将軍のたかりにしたがった前例ぜんれいならばあると答えさせ、池原いえはら良誠よしのぶ家基いえもとたかりに同行どうこうさせることを認めさせようと、治済はるさだはそう考えたに違いなく、実際、その通りに事を運ぶべく、稲葉いなば正明まさあきらに対して「天の声」を降らせることを陳情ちんじょうしたに違いない。
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