天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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稲葉正明、遂に偽証を認める

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 江戸幕府には様々さまざまなお役があり、その中でも例えば、老中支配のお役なら老中が決め、一方、目付めつけのような若年寄支配のお役なら若年寄が老中とも相談しながら決め、そして将軍に対してその決裁けっさいを求めるべく、人事案件を上申じょうしんするというのが原則であった。

 いや、実際には「官房副長官」とも言うべきおく右筆ゆうひつの意見に左右されることが一般的であるのだが、それ以上に人事を左右する者があり、その者こそが御側おそば御用ごよう取次とりつぎであった。

 すなわち、御側おそば御用ごよう取次とりつぎは将軍に対して上申じょうしんされた人事案件につき、これに口をはさんで変更を加えることも許されていたのだ。これこそが、

「未決の人事を扱う」

 その意味するところであり、「力の源泉げんせん」であったのだ。

「そうであれば、目付めつけ兼務けんむせし掛や番につきて、口を差しはさむぐらい、容易たやすかろう…」

 家治は目を細めてそう告げ、いよいよもって正明まさあきらの顔色をあおくさせたものであった。

「されば若年寄に対して、末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんとも番を兼務けんむせし経緯けいいにつき尋ねしあかつきには、さぞかし面白おもしろき事実が判明するやも知れぬのう…」

 家治はネットリとした口調でそう告げた。ことここにいたって周囲の者もようやくに将軍・家治の真意しんいさとり、そして正明まさあきら顔面がんめん蒼白そうはくにさせたその理由についても合点がてんがいった。

末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんとも番を兼務けんむするようになったのは御側おそば御用ごよう取次とりつぎ稲葉いなば正明まさあきらが口をはさんだから…、そのように若年寄に対して圧力をかけたから…」

 ズバリそれであった。いや、準松のりとし意知おきともはもっと早くにそう察したものである。

 目付めつけ仲間なかまうちで決めるべき掛やら番やらについて、本来、事後じご承諾しょうだくを求めるべき相手であるはずの若年寄から、

末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんとも番を兼務けんむさせよ…」

 そのような「天の声」を降らせたに相違そういなく、そして若年寄に目付めつけに対してそのような異例いれいとも言える「天の声」を降らせることが出来る者と言えば、それは御側おそば御用ごよう取次とりつぎ以外にはあり得なかった。目付めつけ兼務けんむする掛やら番やらについてはあくまで目付めつけの、

仲間なかまうちでの話…」

 そのようなものであり、そうであればこれに「タッチ」できるのは直属の上司である若年寄程度ていどであり、老中やましておく右筆ゆうひつさえも、これに「タッチ」することはできなかった。

 それでも御側おそば御用ごよう取次とりつぎ別格べっかくであった。例え、そのような言葉は悪いが瑣末さまつなことでも若年寄に「天の声」を降らせ、そして目付めつけをその「天の声」にしたがわせることぐらい、

朝飯あさめしまえ…」

 というものであった。

 そうであれば横田よこた準松のりとし稲葉いなば正明まさあきらのどちらかがその「天の声」を降らせたことになる。それと言うのも当時も今も御側おそば御用ごよう取次とりつぎ横田よこた準松のりとし稲葉いなば正明まさあきらの二人だからだ。

 そして正明まさあきらのその顔面がんめん蒼白そうはく有様ありさまから、正明まさあきらが「天の声」を降らせたことは最早もはや、疑いようもなかった。

「のう、正明まさあきらよ…、今、この場にて何もかも打ち明けぬか…」

 今、何もかも打ち明ければ許してつかわそう…、家治は正明まさあきらに対してそう示唆しさしたのであった。そしてそれが分からぬ正明まさあきらではなかった。

 己が若年寄をかいして目付めつけに対して「天の声」を、すなわち、

末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんとも番を兼務けんむさせよ…」

 そのように圧力をかけたことが判明するのは時間の問題…、当時の若年寄は今でもそのままそのお役にあり、つ、「天の声」については今でも生々なまなましい記憶きおくとして、若年寄の脳裏のうりにしかときざまれているはずであり、そうであれば将軍・家治より「天の声」についてただされれば、若年寄が何もかも白状はくじょうするのは必定ひつじょう…、正明まさあきらはそこまで計算すると、

最早もはや、これまで…」

 観念かんねんすれば疵口きずぐちが浅く済む…、正明まさあきらはそう思い定めるや、

「申しわけござりませぬっ!」

 将軍・家治に対して謝罪がてら、土下座どげざしてみせたのだ。

「さればやはり、正明まさあきらが天の声を降らせたのだな?末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんとも番を兼務けんむさせよと…」

 家治の問いに対して正明まさあきら土下座どげざしたまま、たたみに向かって、「御意ぎょい」と答えた。

「されば誰に頼まれた?まさかに、そなたが一存いちぞんにてかる天の声を降らせたわけではあるまい?」

 家治のその問いに対してはしかし、正明まさあきら流石さすがにすぐには答えられずにいた。

 するとそのような正明まさあきらの姿…、あいわらず土下座どげざしたまま、

「天の声」

 それを降らすように頼んだ相手を打ち明けようとしない、いや、打ち明けられずにいる正明まさあきらのその姿を家治はの当たりにすると、

治済はるさだか?」

 そう家治から水を向けたのであった。すると正明まさあきらの体がピクリと反応したのであった。

 すると家治は改めて尋ねた。

一橋ひとつばし治済はるさだに頼まれたのだな?」

御意ぎょい…」

 正明まさあきらは「かぼそい」声でそう答えた。

「されば治済はるさだよりかる陳情ちんじょうを受けたることにつき、何か疑いを持たなんだか?」

 家治の疑問はもっともであった。目付めつけ兼務けんむなど、それこそ天下の御三卿ごさんきょうがかかわるような問題ではない。

「されば…、横田よこた筑後ちくごよりも…、おそれ多くも上様よりのご寵愛ちょうあい、それを横田よこた筑後ちくごよりも深く受けられる、それどころか、ひとめにできる良い機会であると…」

「なに?末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんとも番を兼務けんむせしむることが、寵愛ちょうあいとかかわりがあると申すか?」

御意ぎょい…」

「どうにも話が見えぬな…」

 家治はそれから正明まさあきらに対して顔を上げて説明するよううながした。土下座どげざしたままでは声が良く聞き取れないからだ。

 すると正明まさあきら如何いかにも、

弱々よわよわしく…」

 顔を上げると、その理由について説明した。

「されば…、正月30日…、ぐる年、安永8(1779)年の正月30日に一橋ひとつばし殿よりじか陳情ちんじょうを受けましてござりまする…」

「いかさま…、その前日に喜右衛門きえもんに対して濃勢のせ両国の河堤かてい修築しゅうちく監督かんとくを命じたからのう…」

 家治はその当時の記憶を手繰たぐりつつ、そう応じた。

 目付めつけ大久保おおくぼ喜右衛門きえもん濃勢のせすなわち、美濃みの伊勢いせ両国の河堤かてい修築しゅうちく監督かんとくのためにその地におもむいたのは安永8(1779)年2月4日のことであるが、喜右衛門きえもんに対して将軍・家治より直々じきじきにその命が下されたのはそれより前の1月29日のことであった。

 治済はるさだ正明まさあきらに対して、目付めつけ末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんとも番を兼務けんむさせてやって欲しいと、その陳情ちんじょうを行った1月30日はその翌日ということになる。

「して、正明まさあきらよ。そなたは何ゆえに御三卿ごさんきょうともあろう者がかる陳情ちんじょうすのか、当然に疑問に思うたのであろうな?」

 家治はその質問をり返すと、それに対して正明まさあきらもまた、「御意ぎょい」とその答えをり返した。

「そうであれば無論むろん治済はるさだにその点をただしたのであろうな?」

御意ぎょい…」

「して治済はるさだはそれに何と答えたのだ?」

「されば…、意次に…、今をときめく意次に恩を売る機会だと…」

「そはまた一体…」

「さればこの時…、1月30日の時点にて、翌月よくげつの2月21日に大納言だいなごん様がご放鷹ほうようが予定されておりました」

「うむ」

「そのご放鷹ほうようの折、意次が贔屓ひいきにせし本丸ほんまるおく池原いけはら長仙院ちょうせんいん大納言だいなごん様がご放鷹ほうようしたがわせしむることができれば、池原いけはら長仙院ちょうせんいんに恩を売ることが出来ると…、何しろ大納言だいなごん様はこの時、次期将軍にて、さればやはりこの時の池原いけはら長仙院ちょうせんいんも何とか大納言だいなごん様にお近づきになりたいと…、要は大納言だいなごん様が晴れて征夷大将軍になられたあかつきにも、つまりは大納言だいなごん様が正式に征夷大将軍にりあそばされ、それにともない、西之丸にしのまるよりここ本丸ほんまるへとお移りあそばされしその折にも引き続き、本丸ほんまるおくとして勤めを続けたいと…」

「ふむ…、池原いけはら長仙院ちょうせんいんの立場に立てば当然、そう考えるであろうな…」

 家治がそういの手を入れた。

御意ぎょい…、なれどここ本丸ほんまるにておそれ多くも上様につかえし池原いけはら長仙院ちょうせんいんには西之丸にしのまるにおわします大納言だいなごん様には中々なかなかに近付きになる機会にめぐまれず…」

「そこで家基いえもとたかりの機会を利用せしことを思いついたと?」

御意ぎょい…、いえ、一橋ひとつばし殿が左様さように申されただけでして…」

「実際に池原いけはら長仙院ちょうせんいん家基いえもとたかりへの同行どうこうを望んでいたか、それは分からぬと申すのだな?」

御意ぎょい。されば池原当人に確かめたわけではなく…」

「ふむ」

「なれどその時のそれがしは成程なるほどと…」

治済はるさだが話を信じたわけだな?」

御意ぎょい…」

 正明まさあきらうなれつつ、そう答えた。
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