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西之丸書院番士兼進物番士・長谷川平蔵と意知の絆
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進物番とはその名からも察せられる通り、将軍家に献上される進物を受け取る御役である。
書院番、小姓組番の所謂、
「両番」
その中からこれはと思われる男が進物番に選ばれ、ゆえに進物番とは書院番士、あるいは小姓組番士との兼務の形を取る。
ともあれ、将軍家への献上品ともなると、その贈り主も錚々たる面々であり、旗本は勿論のこと、御三家を始めとする大名諸侯にまで至る。
進物番はそれら御三家を始めとする大名諸侯よりの進物を受け取るわけであり、それだけに畢竟、眉目秀麗、頭脳明晰な者が選ばれる。御三家を始めとする大名諸侯よりの進物を受け取らせる以上、ブ男では具合が悪く、ましてや馬鹿は論外であった。
平蔵は家基が存命の折には西之丸にて書院番士として勤めながら、この進物番を兼務していた。つまりは将軍家、それも西之丸の盟主であった家基へと贈られた、その進物を受け取る御役目であった。
それが今から2年前の安永8(1779)年3月24日に西之丸の盟主であった家基が薨去したために、主を失った西之丸は次の主を迎えるまでの間、
「閉城」
その措置が取られ、それゆえ西之丸にて家基に仕えていた者たちも西之丸より退去しなければならず、本丸へと異動を果たした。
即ち、平蔵は西之丸においては書院番士として家基に仕えていたので、それが本丸へと異動、今は本丸の盟主である将軍・家治に仕える書院番士として勤めていた。尚、進物番の方もやはり本丸にて、つまりは将軍・家治に献上される進物を受け取るその進物番を兼務していた。
してみると、将軍・家治が平蔵のことを知ったのは、平蔵が本丸にて将軍・家治に仕える書院番士として進物番を兼務するようになってから、つまりは愛息の家基が薨去して以降ということになる。あるいは家基よりその生前、父・家治に対して平蔵のことを伝えていたか、そのどちらかであろうと意知は考えた。
すると家治はそんな意知の胸中を察したのか、
「いや、家基より聞いたのだ…」
家治は意知にそう打ち明けたのであった。
「大納言様より?」
意知が聞き返すと、家治は「左様…」と答え、家基より聞いた話として打ち明けた。
「されば、平蔵は中々の男ぶりにて、意知とも親しいと、生前、左様に申しておったわ…」
家治は往時を偲ぶかのようにそう告げた。
確かに家基の言う通りであり、平蔵は中々の男ぶりであった。眉目秀麗が採用基準の一つである進物番に選ばれるぐらいだから、それも当然ではあった。
そして何より、平蔵は意知とも親しく、今は亡き家基に仕える西之丸の書院番士として取り立てられたのも、意知が家基に、
「口を利いたから…」
その側面があった。何しろ意知は家基の寵愛を受けていたのだ。
いや、意知と家基とでは13も年が離れていた。無論、意知の方が13も上であり、そうであればさしずめ、兄を慕うような、そのようなものであろうか。
事実、家基は意知を兄のように慕っていた。意知のその父・意次譲りとも言うべき、
「開明的な思想…」
それに大いに共鳴したからであり、そうであればこそ、家基は意知を西之丸に招くことも屡であった。
意知が今のように江戸城本丸の雁之間に詰めることが許されるようになったのは今から12年前の明和6(1769)年の9月朔日、つまりは1日のことであった。それより一月程前の8月18日に当時はまだ、従四位下諸大夫の御側御用人であった父・意次がこの日に、御側御用人を兼務する老中格へと昇格し、それに伴い、官位の方も老中のそれと同じく、あるいは京都所司代のそれとも同じく、
「従四位下侍従」
その官位へと昇叙したために、それまで菊之間の縁頬に詰めていた意知も今の雁之間へと異動を果たすことができたのであった。
そうして雁之間に詰めるようになってから4年程経った安永2(1773)年の中頃に意知は初めて西之丸に招かれたのであった。
その時、家基は10歳であり、その年の暮には11になろうかという時でもあった。家基は西之丸にて暮らしていたが、征夷大将軍として本丸にて君臨する父・家治と全く音信不通だったわけではなく、少ないとは言え、「親子の交流」も勿論、あった。
その折、家治が10歳になった家基に対して、
「田沼意次という有能な男がおり、その息である意知も中々に有能な男であるので、将来、征夷大将軍になった暁には意知を重用すると良い…」
そう告げたことがあり、家基もそれなればと、「面接試験」というわけでもないが、意知を西之丸へと招いて、その意見、さしずめ経綸を問うたのであった。
それに対して意知は私見を交えつつ、今の幕府が置かれている状況分析から始め、さらには海外情勢についても家基に語って聞かせたのであった。
家基はそれですっかり意知の虜となり、爾来、家基が意知を西之丸へと招くことが度々であり、その際、意知は雑談がてら、長谷川平蔵のことを家基に語ったことがあったのであった。
正確には平蔵の父、長谷川備中守宣雄の話題となった際であった。
意知が西之丸へと招かれるようになってから暫くして、京都西町奉行であった長谷川宣雄がその地で没したのだ。まだ55歳の働き盛りであった。
この長谷川宣雄の死を家族を除いて誰よりも悲しみ、そして惜しんだのが他ならぬ意次であった。
意次はまだ御側御用取次であった宝暦の中頃より長谷川宣雄のその才能に注目し始めていた。その頃の長谷川宣雄は今の平蔵と同じく、一介の西之丸の書院番士に過ぎなかったものの、それでも意次は早くも宣雄の才能を見抜き、そこでまずは旗本にとっての出世の登竜門とも言うべき従六位相当の布衣役に就けてやろうと思い、そこで意次はまず、宣雄を小十人頭に取り立てたのであった。
一方、宣雄にしても己の昇進が御側御用取次の意次のお蔭だと察し、意次の期待に応えるべく、仕事に励んだものであった。
そうして宣雄は意次という後ろ盾を得て、以後、先手弓頭、京都町奉行へと順調に昇進を重ねたのであった。とりわけ、先手弓頭から京都町奉行への昇進、それは大抜擢と言えた。
何しろ京都町奉行と言えば、遠国奉行の中でも、その「最高峰」とも言うべき長崎奉行に次ぐ。それだけに旗本であれば誰もが望むポストと言えた。
意次はその時、御側御用取次から御側御用人へと更なる昇進を果たしており、意次は側用人として平蔵を京都西町奉行に抜擢したのであった。
この頃には既に、宣雄のその才能、手腕といったものは意次のみならず、誰もが認めるところであったので、先手弓頭から京都町奉行への大抜擢についても周囲からは当然のこととして受け止められたものであった。
意次の構想としては、宣雄には京都町奉行として経験を積ませた後、長崎奉行に取り立てるつもりであった。長崎奉行として見聞を広めさせるのが狙いであった。
そうして宣雄に長崎奉行として見聞を広めさせた後で、いよいよ「本社」とも言うべき江戸へと召還、江戸町奉行として大いに手腕を振るってもらうつもりでいた。いや、更に言うなら御側衆、そして御側御用取次にまで考えていたのだ。意次はそれ程までにこの長谷川宣雄という男に惚れ込んでいたのだ。
それが京都西町奉行在職中に宣雄は55歳で儚くなり、宣雄を見出した意次は大いに嘆き悲しんだものであった。
意知はそのような父・意次の姿を間近に見ており、そのことを何かの折に家基に打ち明けたことがあった。
平蔵の話になったのはそれからであった。
宣雄には平蔵宣以なる嫡男がおり、意次も意知もそれは知っていた。それと言うのもその平蔵が父、宣雄に代わり、田沼屋敷に挨拶に訪れることが度々あったからだ。
田沼家の上屋敷は今でこそ神田橋御門内にあるが、神田橋御門内に上屋敷を構えたのは今から14年前の明和4(1767)年のことであり、それ以前は呉服橋御門内に上屋敷を構えており、平蔵は父・宣雄の言わば「名代」として意次に挨拶に訪れることが度々あった。そこには、
「己も田沼様にお近づきになり、将来の出世の足がかりとしたい…」
そんな下心があった。それでも意次はそのような平蔵の心根は決して嫌いではなかった。それどころか、
「中々に目端の利く男だ…」
意次は平蔵のことがそう強く印象に残った。意知にしてもその「クチ」であり、平蔵は己の「出世」を考えた場合、さしずめ、
「ニューリーダー」
とも言うべき意知にも「挨拶」をしておいた方が良いと、そこで平蔵は意知にも「挨拶」を欠かさなかったのだ。
そんな平蔵の面目躍如とも言えたのが今から9年前の明和9(1772)年の2月29日に発生した目黒行人坂の大火であろう。
この大火により、神田橋御門内に構えていた田沼家の上屋敷も燃えてしまった。本来ならばそのための避難先として大名は下屋敷、あるいは中屋敷まで構えており、意次も勿論、そうであった。
ところが田沼家の中屋敷は蛎殻町に、下屋敷は木挽町にあったのだが、その全てをこの大火で失ってしまったのであった。
そうなると屋敷が再建されるまでの間、仮の住処を見つけねばならない。幕府ではその翌日、2月の晦日、30日にはこの大火にもかかわらず、屋敷の焼失を免れた万石以上の全ての大名に対して、意次のように上屋敷、中屋敷、下屋敷を全て失った大名のために、その焼失を免れた上屋敷なり、中屋敷なり、下屋敷なりを、意次のように全ての屋敷を失った大名のために開放するよう命じたのであった。
意次の場合は既に老中であった松平康福の上屋敷にその一族郎党が迎えられた。それと言うのもこの時にはもう、康福は意知の岳父であったからだ。
即ち、康福の愛娘の義を意知が娶っており、それゆえ康噴は娘可愛さもあって、意次の一族郎党を迎え入れたのであった。
康福の場合も木挽町にある中屋敷と濱町にある下屋敷は焼失してしまったものの、幸いにも愛宕下の大名小路にある上屋敷は焼失を免れ、そこで康福はその愛宕下の大名小路にある上屋敷に意次の一族郎党を迎えたわけである。
それを平蔵はどこから聞きつけたのか、意次の一族郎党がその愛宕下の大名小路にある康福の上屋敷に着いて人心地がついたところで、平蔵の手配により蕎麦屋が温かい蕎麦を届けに来たのであった。
当然、康福は一切、与り知らぬことであり、また、康福の家臣にしてもそのような注文をした覚えはなく、蕎麦屋を問い質したところ、それが先手弓頭の長谷川平蔵宣雄が一子、平蔵宣以が注文したと分かったのだ。
いや、蕎麦を届けにきた主が長谷川宣雄が先手弓頭であることなど知り得よう筈もなく、恐らくは平蔵宣以がその蕎麦屋の主に教え込んだに違いなかった。
康福の屋敷に蕎麦を届ければ、必ずや誰の注文か問われるに違いないので、その時には、
「先手弓頭の長谷川平蔵宣雄が一子、平蔵宣以の名を出すように…」
平蔵は蕎麦屋の主に対してそう「レクチャー」したに違いなかった。
ともあれこの件は意次と、さらに意知にも長谷川平蔵という男の存在を強く印象付ける元となり、それが意知が家基に対して平蔵のことを打ち明けるきっかけともなった。
そして更に言うなら平蔵が西之丸にて家基に仕える書院番士として、召し出される元ともなった。
安永2(1773)年の中頃より西之丸に招かれるようになった意次はその翌年の2月頃の終わり頃に、そう言えばと、目黒行人坂の大火の一件を家基に語って聞かせ、その過程で平蔵の「大活躍」をも意知は家基に漏らしてしまったのだ。
すると家基もその長谷川平蔵という男にいたく興味を惹かれたようで、結果、平蔵が西之丸書院番士に取り立てられる元となったわけだ。
爾来、平蔵は己を取り立ててくれた家基や意知の期待に応えねばと、父・宣雄以上に働いた。
そしてそんな平蔵の働きぶりが家基の目にすぐに留まり、さらにその翌年の安永4(1775)年には進物番も兼ねるようになった。その働きぶりに加えて、眉目秀麗、頭脳明晰ときた日には、進物番に取り立てないわけにはゆかなかった。
そして平蔵は進物番としても極めて評判が良く、平蔵を取り立てた家基や意知は正に、
「愁眉が開かれる…」
そんな思いであった。
ともあれ、そのような背景があって、家基は平蔵のことを父・家治にも告げていたのであろう。
書院番、小姓組番の所謂、
「両番」
その中からこれはと思われる男が進物番に選ばれ、ゆえに進物番とは書院番士、あるいは小姓組番士との兼務の形を取る。
ともあれ、将軍家への献上品ともなると、その贈り主も錚々たる面々であり、旗本は勿論のこと、御三家を始めとする大名諸侯にまで至る。
進物番はそれら御三家を始めとする大名諸侯よりの進物を受け取るわけであり、それだけに畢竟、眉目秀麗、頭脳明晰な者が選ばれる。御三家を始めとする大名諸侯よりの進物を受け取らせる以上、ブ男では具合が悪く、ましてや馬鹿は論外であった。
平蔵は家基が存命の折には西之丸にて書院番士として勤めながら、この進物番を兼務していた。つまりは将軍家、それも西之丸の盟主であった家基へと贈られた、その進物を受け取る御役目であった。
それが今から2年前の安永8(1779)年3月24日に西之丸の盟主であった家基が薨去したために、主を失った西之丸は次の主を迎えるまでの間、
「閉城」
その措置が取られ、それゆえ西之丸にて家基に仕えていた者たちも西之丸より退去しなければならず、本丸へと異動を果たした。
即ち、平蔵は西之丸においては書院番士として家基に仕えていたので、それが本丸へと異動、今は本丸の盟主である将軍・家治に仕える書院番士として勤めていた。尚、進物番の方もやはり本丸にて、つまりは将軍・家治に献上される進物を受け取るその進物番を兼務していた。
してみると、将軍・家治が平蔵のことを知ったのは、平蔵が本丸にて将軍・家治に仕える書院番士として進物番を兼務するようになってから、つまりは愛息の家基が薨去して以降ということになる。あるいは家基よりその生前、父・家治に対して平蔵のことを伝えていたか、そのどちらかであろうと意知は考えた。
すると家治はそんな意知の胸中を察したのか、
「いや、家基より聞いたのだ…」
家治は意知にそう打ち明けたのであった。
「大納言様より?」
意知が聞き返すと、家治は「左様…」と答え、家基より聞いた話として打ち明けた。
「されば、平蔵は中々の男ぶりにて、意知とも親しいと、生前、左様に申しておったわ…」
家治は往時を偲ぶかのようにそう告げた。
確かに家基の言う通りであり、平蔵は中々の男ぶりであった。眉目秀麗が採用基準の一つである進物番に選ばれるぐらいだから、それも当然ではあった。
そして何より、平蔵は意知とも親しく、今は亡き家基に仕える西之丸の書院番士として取り立てられたのも、意知が家基に、
「口を利いたから…」
その側面があった。何しろ意知は家基の寵愛を受けていたのだ。
いや、意知と家基とでは13も年が離れていた。無論、意知の方が13も上であり、そうであればさしずめ、兄を慕うような、そのようなものであろうか。
事実、家基は意知を兄のように慕っていた。意知のその父・意次譲りとも言うべき、
「開明的な思想…」
それに大いに共鳴したからであり、そうであればこそ、家基は意知を西之丸に招くことも屡であった。
意知が今のように江戸城本丸の雁之間に詰めることが許されるようになったのは今から12年前の明和6(1769)年の9月朔日、つまりは1日のことであった。それより一月程前の8月18日に当時はまだ、従四位下諸大夫の御側御用人であった父・意次がこの日に、御側御用人を兼務する老中格へと昇格し、それに伴い、官位の方も老中のそれと同じく、あるいは京都所司代のそれとも同じく、
「従四位下侍従」
その官位へと昇叙したために、それまで菊之間の縁頬に詰めていた意知も今の雁之間へと異動を果たすことができたのであった。
そうして雁之間に詰めるようになってから4年程経った安永2(1773)年の中頃に意知は初めて西之丸に招かれたのであった。
その時、家基は10歳であり、その年の暮には11になろうかという時でもあった。家基は西之丸にて暮らしていたが、征夷大将軍として本丸にて君臨する父・家治と全く音信不通だったわけではなく、少ないとは言え、「親子の交流」も勿論、あった。
その折、家治が10歳になった家基に対して、
「田沼意次という有能な男がおり、その息である意知も中々に有能な男であるので、将来、征夷大将軍になった暁には意知を重用すると良い…」
そう告げたことがあり、家基もそれなればと、「面接試験」というわけでもないが、意知を西之丸へと招いて、その意見、さしずめ経綸を問うたのであった。
それに対して意知は私見を交えつつ、今の幕府が置かれている状況分析から始め、さらには海外情勢についても家基に語って聞かせたのであった。
家基はそれですっかり意知の虜となり、爾来、家基が意知を西之丸へと招くことが度々であり、その際、意知は雑談がてら、長谷川平蔵のことを家基に語ったことがあったのであった。
正確には平蔵の父、長谷川備中守宣雄の話題となった際であった。
意知が西之丸へと招かれるようになってから暫くして、京都西町奉行であった長谷川宣雄がその地で没したのだ。まだ55歳の働き盛りであった。
この長谷川宣雄の死を家族を除いて誰よりも悲しみ、そして惜しんだのが他ならぬ意次であった。
意次はまだ御側御用取次であった宝暦の中頃より長谷川宣雄のその才能に注目し始めていた。その頃の長谷川宣雄は今の平蔵と同じく、一介の西之丸の書院番士に過ぎなかったものの、それでも意次は早くも宣雄の才能を見抜き、そこでまずは旗本にとっての出世の登竜門とも言うべき従六位相当の布衣役に就けてやろうと思い、そこで意次はまず、宣雄を小十人頭に取り立てたのであった。
一方、宣雄にしても己の昇進が御側御用取次の意次のお蔭だと察し、意次の期待に応えるべく、仕事に励んだものであった。
そうして宣雄は意次という後ろ盾を得て、以後、先手弓頭、京都町奉行へと順調に昇進を重ねたのであった。とりわけ、先手弓頭から京都町奉行への昇進、それは大抜擢と言えた。
何しろ京都町奉行と言えば、遠国奉行の中でも、その「最高峰」とも言うべき長崎奉行に次ぐ。それだけに旗本であれば誰もが望むポストと言えた。
意次はその時、御側御用取次から御側御用人へと更なる昇進を果たしており、意次は側用人として平蔵を京都西町奉行に抜擢したのであった。
この頃には既に、宣雄のその才能、手腕といったものは意次のみならず、誰もが認めるところであったので、先手弓頭から京都町奉行への大抜擢についても周囲からは当然のこととして受け止められたものであった。
意次の構想としては、宣雄には京都町奉行として経験を積ませた後、長崎奉行に取り立てるつもりであった。長崎奉行として見聞を広めさせるのが狙いであった。
そうして宣雄に長崎奉行として見聞を広めさせた後で、いよいよ「本社」とも言うべき江戸へと召還、江戸町奉行として大いに手腕を振るってもらうつもりでいた。いや、更に言うなら御側衆、そして御側御用取次にまで考えていたのだ。意次はそれ程までにこの長谷川宣雄という男に惚れ込んでいたのだ。
それが京都西町奉行在職中に宣雄は55歳で儚くなり、宣雄を見出した意次は大いに嘆き悲しんだものであった。
意知はそのような父・意次の姿を間近に見ており、そのことを何かの折に家基に打ち明けたことがあった。
平蔵の話になったのはそれからであった。
宣雄には平蔵宣以なる嫡男がおり、意次も意知もそれは知っていた。それと言うのもその平蔵が父、宣雄に代わり、田沼屋敷に挨拶に訪れることが度々あったからだ。
田沼家の上屋敷は今でこそ神田橋御門内にあるが、神田橋御門内に上屋敷を構えたのは今から14年前の明和4(1767)年のことであり、それ以前は呉服橋御門内に上屋敷を構えており、平蔵は父・宣雄の言わば「名代」として意次に挨拶に訪れることが度々あった。そこには、
「己も田沼様にお近づきになり、将来の出世の足がかりとしたい…」
そんな下心があった。それでも意次はそのような平蔵の心根は決して嫌いではなかった。それどころか、
「中々に目端の利く男だ…」
意次は平蔵のことがそう強く印象に残った。意知にしてもその「クチ」であり、平蔵は己の「出世」を考えた場合、さしずめ、
「ニューリーダー」
とも言うべき意知にも「挨拶」をしておいた方が良いと、そこで平蔵は意知にも「挨拶」を欠かさなかったのだ。
そんな平蔵の面目躍如とも言えたのが今から9年前の明和9(1772)年の2月29日に発生した目黒行人坂の大火であろう。
この大火により、神田橋御門内に構えていた田沼家の上屋敷も燃えてしまった。本来ならばそのための避難先として大名は下屋敷、あるいは中屋敷まで構えており、意次も勿論、そうであった。
ところが田沼家の中屋敷は蛎殻町に、下屋敷は木挽町にあったのだが、その全てをこの大火で失ってしまったのであった。
そうなると屋敷が再建されるまでの間、仮の住処を見つけねばならない。幕府ではその翌日、2月の晦日、30日にはこの大火にもかかわらず、屋敷の焼失を免れた万石以上の全ての大名に対して、意次のように上屋敷、中屋敷、下屋敷を全て失った大名のために、その焼失を免れた上屋敷なり、中屋敷なり、下屋敷なりを、意次のように全ての屋敷を失った大名のために開放するよう命じたのであった。
意次の場合は既に老中であった松平康福の上屋敷にその一族郎党が迎えられた。それと言うのもこの時にはもう、康福は意知の岳父であったからだ。
即ち、康福の愛娘の義を意知が娶っており、それゆえ康噴は娘可愛さもあって、意次の一族郎党を迎え入れたのであった。
康福の場合も木挽町にある中屋敷と濱町にある下屋敷は焼失してしまったものの、幸いにも愛宕下の大名小路にある上屋敷は焼失を免れ、そこで康福はその愛宕下の大名小路にある上屋敷に意次の一族郎党を迎えたわけである。
それを平蔵はどこから聞きつけたのか、意次の一族郎党がその愛宕下の大名小路にある康福の上屋敷に着いて人心地がついたところで、平蔵の手配により蕎麦屋が温かい蕎麦を届けに来たのであった。
当然、康福は一切、与り知らぬことであり、また、康福の家臣にしてもそのような注文をした覚えはなく、蕎麦屋を問い質したところ、それが先手弓頭の長谷川平蔵宣雄が一子、平蔵宣以が注文したと分かったのだ。
いや、蕎麦を届けにきた主が長谷川宣雄が先手弓頭であることなど知り得よう筈もなく、恐らくは平蔵宣以がその蕎麦屋の主に教え込んだに違いなかった。
康福の屋敷に蕎麦を届ければ、必ずや誰の注文か問われるに違いないので、その時には、
「先手弓頭の長谷川平蔵宣雄が一子、平蔵宣以の名を出すように…」
平蔵は蕎麦屋の主に対してそう「レクチャー」したに違いなかった。
ともあれこの件は意次と、さらに意知にも長谷川平蔵という男の存在を強く印象付ける元となり、それが意知が家基に対して平蔵のことを打ち明けるきっかけともなった。
そして更に言うなら平蔵が西之丸にて家基に仕える書院番士として、召し出される元ともなった。
安永2(1773)年の中頃より西之丸に招かれるようになった意次はその翌年の2月頃の終わり頃に、そう言えばと、目黒行人坂の大火の一件を家基に語って聞かせ、その過程で平蔵の「大活躍」をも意知は家基に漏らしてしまったのだ。
すると家基もその長谷川平蔵という男にいたく興味を惹かれたようで、結果、平蔵が西之丸書院番士に取り立てられる元となったわけだ。
爾来、平蔵は己を取り立ててくれた家基や意知の期待に応えねばと、父・宣雄以上に働いた。
そしてそんな平蔵の働きぶりが家基の目にすぐに留まり、さらにその翌年の安永4(1775)年には進物番も兼ねるようになった。その働きぶりに加えて、眉目秀麗、頭脳明晰ときた日には、進物番に取り立てないわけにはゆかなかった。
そして平蔵は進物番としても極めて評判が良く、平蔵を取り立てた家基や意知は正に、
「愁眉が開かれる…」
そんな思いであった。
ともあれ、そのような背景があって、家基は平蔵のことを父・家治にも告げていたのであろう。
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