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清水重好への疑惑 4
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そんな中、景漸はいよいよもって重好の「無実」を確信したものである。治済の「口撃」に対してロクに反論できないのがその何よりの証と言えた。仮に重好こそが一連の事件の下手人、首魁であるならば、それも治済にその罪を着せようとしていたのならば、治済からの「口撃」も予期して、少しはまともな反論を用意しておくものであろう。
それが実際には重好は治済からの「口撃」に対してロクに反論も出来ずに治済に言い負かされていた。
それで重好も治済の潔白を、と言うよりは治済が「有罪」であるとの心証をいよいよ強くしたものである。
それと言うのも治済の重好への「口撃」ぶりたるや、予め台本でも用意していたかのようであったからだ。
治済は最初は意次に罪を着せるべく、そのための「台本」を用意しておき、それが叶わぬ時にはさらに重好に罪を着せるための「台本」を用意しておいたのではあるまいか…、景漸はそう思ったほどである。
そしてやはり評席にて控えていた老中の意次にしても景漸と同じことを考えていた。
意次に罪を着せられればそれで良し、仮にそれが叶わぬ時には重好に罪を着せるだけ…、治済はそう考えていたのではないかと、意次は思い、それは景漸の思いとも共通した。
だが意次にしろ景漸にしろ、勘以外には確たる根拠がないので、この場では治済を糾弾するわけにはゆかなかった。
「畏れながら…」
意次は控え目な口調で治済と重好のやり取りの間に、と言うよりは治済の重好に対する一方的な糾弾に割って入ろうとした。
すると意次は治済からはキッと睨まれたものの、しかし他でもない将軍・家治が、
「許す…」
その言葉を意次に対して告げたので、治済としてもとりあえず重好に対する「口撃」を打ち止めにせざるを得なかった。将軍・家治の「許し」を得え、発言しようとする意次を無視して重好に対する「口撃」を続けようものなら、それは意次に発言の「許し」を与えた将軍・家治を、
「軽んじる…」
それを意味するからだ。そうである以上、如何に治済とて、意次の発言を遮る格好での重好に対する「口撃」は厳に慎まねばならなかった。
「されば…、御三卿殿ともあらせられよう御方が奥医師はおろか、畏れ多くも大納言様を手にかけようなどとは、到底、信じられず…」
意次はそんな「一般論」を口にした。すると案の定、治済が意次のその「一般論」を一笑に付した。
「されば主殿めは宮内殿は潔白だと申すのか?」
治済からそう問われた意次は、「左様…」と答えると、
「重ねて申し上げまするが、御三卿殿に限って、よもや左様な大罪を犯される筈がなく…」
そう付け加えたのであった。すると治済も漸くに意次の「意図」が分かり、顔から笑みを、それも冷笑を消すと、苦々しさを浮かべた。
「御三卿殿に限って、よもや左様な大罪を犯される筈がなく…」
意次のその言葉を治済がさらに一笑に付そうものなら、それは治済自身の首を絞めることにもなりかねない。なぜなら治済もまた御三卿だからであり、それゆえ、
「御三卿殿に限って、よもや左様な大罪を犯される筈がなく…」
意次のその言葉を御三卿である治済が自ら一笑に付してしまっては、
「御三卿である己にもまた、重好と同じく、奥医師殺し、さらには家基殺しの疑いがある…」
相変わらずその疑いが消えていないことを治済自身が認めるも同然であったからだ。やはり勘の良い…、悪賢い、小賢しい治済がそこに気付かぬ筈がなく、それゆえ治済は黙り込んだのであった。
それでも治済は気を取り直して、
「御三卿と申しても、色々であろうぞ…」
そう告げたのだった。つまりは己と重好とは違うと、そう言いたいようであった。確かに治済と重好とでは違い過ぎていたやも知れぬ。
するとそこで家治が、「民部…」と低い声で割って入った。治済は散々、一人称として己の諱であるその「治済」の名を口にしていたにもかかわらず、である。
家治にしても治済の心底は分かっていた。いや、底が見えていたと言うべきか。己も重好や、あるいは意次・意知父子と同じく、諱で呼ばれたいと願い、そこでわざわざ一人称として、
「治済」
その名を口にし、のみならず、連発していたわけだ。そこには、
「将軍・家治に取り入りたい…、それも重好や、あるいは意次・意知父子以上の寵愛を得たい…」
そのような思惑も隠されていた。いや、治済当人としてはその思惑を隠したつもりであろうが、家治には何もかも、「お見通し」であった。家治もまた勘の良い男であるからだ。
そして家治は治済のそのような正に、
「嫌らしい…」
その思惑、もとい阿りに接してそれこそ、
「身の毛がよだつ…」
それほどまでに治済に対して嫌悪感を抱いたものである。
それゆえ家治はあえて、「民部」と治済のその官職名を口にすることで、裏を返せば諱を口にしないことで、
「将軍・家治に取り入りたい…、それも重好や、あるいは意次・意知父子以上の寵愛を得たい…」
治済のその秘かなる、そして家治にとっては気恥ずかしくなるほど「丸見え」のその思惑を拒絶したのであった。
治済もそうと気付くと、流石に肩を落としたものである。
家治はそんな治済に更に肩を落とさせるような言葉を告げた。
「民部よ…、奥医師の池原長仙院を斬りしが…、のみならず、家基までも害せしが真、民部が申す通り、重好の仕業であるのか、それともやはり民部よ、そなたの仕業であるのか、それは今はまだ余にも分からぬ…」
「それでは上様はこの重好か、あるいは民部をお疑いなので?」
重好は目を丸くして尋ねた。重好の立場では本来ならば、
「この重好をお疑いなので?」
そう尋ねるべきところであり、「あるいは…」と民部こと治済をもわざわざ付け加えたりはしないだろう。何しろ治済は重好こそが奥医師斬殺、さらには家基殺しの下手人、首魁として、重好を糾弾したからだ。
そうであれば重好も当然、治済に対して好印象を抱いている筈がなく、そこで本来ならば、将軍・家治に対して、
「この重好をお疑いなので…」
そう尋ねることで、治済こそが奥医師斬殺、さらには家基殺しの下手人、首魁であると示唆すべきところであろう。
だが重好はそうはせず、「あるいは…」との接続詞のあとで、わざわざ治済をも付け加えるとは、それでは、
「己も無実だが、治済もまた無実に違いない…」
そう主張しているも同然であるからだ。正に、「人が好い…」と言うべきか、いや、それこそが重好の美点、それも最大の美点であり、且つ、治済との最大の違いとも言えた。何しろ治済にはない美点だからだ。
将軍・家治もそんな腹違いの弟のその「美点」を目の当たりにして一瞬だが微笑みを浮かべたものである。家治にしても重好のその「美点」を愛でていたからだ。
尤も、家治が微笑みを浮かべていたのも束の間に過ぎず、すぐに表情を引き締めたものである。いや、治済は一瞬に過ぎなかった家治のその微笑みを見逃さず、すぐに家治が微笑みを、それも重好に対して微笑みを浮かべたことに気付いたものであった。
ともあれ家治はすぐに表情を引き締めるや、「左様…」と切り出した。
「されば意次は…、御三卿がよもや左様なる大罪を犯す筈がないと申したが…、まぁ、意次が御三卿であるお前たちを慮ってのことであろうが、それはともかく、余としてはとてもそうとは思えぬ…」
「と仰せになられますと、御三卿であろうとも…、我ら二人も左様なる大罪を犯せし可能性があると…、畏れ多くも上様におかせられましては左様に思し召されているので?」
重好は家治が腹違いとは言え、己の兄であるにもかかわらず、それに甘えることなく、折り目正しくそう尋ねた。そこがまた、家治をして、重好に好感を抱かせたのであった。
それでも家治もあえて表情を変えずに、「左様…」と答えた。
「それも重好か、あるいは民部か、そのどちらかがその大罪を犯したものと思うておる…」
家治はあくまで公平を期してそう告げた。無論、家治としては本心では重好がそのような大罪を犯したとは露ほどにも思ってはいなかったが。
それが実際には重好は治済からの「口撃」に対してロクに反論も出来ずに治済に言い負かされていた。
それで重好も治済の潔白を、と言うよりは治済が「有罪」であるとの心証をいよいよ強くしたものである。
それと言うのも治済の重好への「口撃」ぶりたるや、予め台本でも用意していたかのようであったからだ。
治済は最初は意次に罪を着せるべく、そのための「台本」を用意しておき、それが叶わぬ時にはさらに重好に罪を着せるための「台本」を用意しておいたのではあるまいか…、景漸はそう思ったほどである。
そしてやはり評席にて控えていた老中の意次にしても景漸と同じことを考えていた。
意次に罪を着せられればそれで良し、仮にそれが叶わぬ時には重好に罪を着せるだけ…、治済はそう考えていたのではないかと、意次は思い、それは景漸の思いとも共通した。
だが意次にしろ景漸にしろ、勘以外には確たる根拠がないので、この場では治済を糾弾するわけにはゆかなかった。
「畏れながら…」
意次は控え目な口調で治済と重好のやり取りの間に、と言うよりは治済の重好に対する一方的な糾弾に割って入ろうとした。
すると意次は治済からはキッと睨まれたものの、しかし他でもない将軍・家治が、
「許す…」
その言葉を意次に対して告げたので、治済としてもとりあえず重好に対する「口撃」を打ち止めにせざるを得なかった。将軍・家治の「許し」を得え、発言しようとする意次を無視して重好に対する「口撃」を続けようものなら、それは意次に発言の「許し」を与えた将軍・家治を、
「軽んじる…」
それを意味するからだ。そうである以上、如何に治済とて、意次の発言を遮る格好での重好に対する「口撃」は厳に慎まねばならなかった。
「されば…、御三卿殿ともあらせられよう御方が奥医師はおろか、畏れ多くも大納言様を手にかけようなどとは、到底、信じられず…」
意次はそんな「一般論」を口にした。すると案の定、治済が意次のその「一般論」を一笑に付した。
「されば主殿めは宮内殿は潔白だと申すのか?」
治済からそう問われた意次は、「左様…」と答えると、
「重ねて申し上げまするが、御三卿殿に限って、よもや左様な大罪を犯される筈がなく…」
そう付け加えたのであった。すると治済も漸くに意次の「意図」が分かり、顔から笑みを、それも冷笑を消すと、苦々しさを浮かべた。
「御三卿殿に限って、よもや左様な大罪を犯される筈がなく…」
意次のその言葉を治済がさらに一笑に付そうものなら、それは治済自身の首を絞めることにもなりかねない。なぜなら治済もまた御三卿だからであり、それゆえ、
「御三卿殿に限って、よもや左様な大罪を犯される筈がなく…」
意次のその言葉を御三卿である治済が自ら一笑に付してしまっては、
「御三卿である己にもまた、重好と同じく、奥医師殺し、さらには家基殺しの疑いがある…」
相変わらずその疑いが消えていないことを治済自身が認めるも同然であったからだ。やはり勘の良い…、悪賢い、小賢しい治済がそこに気付かぬ筈がなく、それゆえ治済は黙り込んだのであった。
それでも治済は気を取り直して、
「御三卿と申しても、色々であろうぞ…」
そう告げたのだった。つまりは己と重好とは違うと、そう言いたいようであった。確かに治済と重好とでは違い過ぎていたやも知れぬ。
するとそこで家治が、「民部…」と低い声で割って入った。治済は散々、一人称として己の諱であるその「治済」の名を口にしていたにもかかわらず、である。
家治にしても治済の心底は分かっていた。いや、底が見えていたと言うべきか。己も重好や、あるいは意次・意知父子と同じく、諱で呼ばれたいと願い、そこでわざわざ一人称として、
「治済」
その名を口にし、のみならず、連発していたわけだ。そこには、
「将軍・家治に取り入りたい…、それも重好や、あるいは意次・意知父子以上の寵愛を得たい…」
そのような思惑も隠されていた。いや、治済当人としてはその思惑を隠したつもりであろうが、家治には何もかも、「お見通し」であった。家治もまた勘の良い男であるからだ。
そして家治は治済のそのような正に、
「嫌らしい…」
その思惑、もとい阿りに接してそれこそ、
「身の毛がよだつ…」
それほどまでに治済に対して嫌悪感を抱いたものである。
それゆえ家治はあえて、「民部」と治済のその官職名を口にすることで、裏を返せば諱を口にしないことで、
「将軍・家治に取り入りたい…、それも重好や、あるいは意次・意知父子以上の寵愛を得たい…」
治済のその秘かなる、そして家治にとっては気恥ずかしくなるほど「丸見え」のその思惑を拒絶したのであった。
治済もそうと気付くと、流石に肩を落としたものである。
家治はそんな治済に更に肩を落とさせるような言葉を告げた。
「民部よ…、奥医師の池原長仙院を斬りしが…、のみならず、家基までも害せしが真、民部が申す通り、重好の仕業であるのか、それともやはり民部よ、そなたの仕業であるのか、それは今はまだ余にも分からぬ…」
「それでは上様はこの重好か、あるいは民部をお疑いなので?」
重好は目を丸くして尋ねた。重好の立場では本来ならば、
「この重好をお疑いなので?」
そう尋ねるべきところであり、「あるいは…」と民部こと治済をもわざわざ付け加えたりはしないだろう。何しろ治済は重好こそが奥医師斬殺、さらには家基殺しの下手人、首魁として、重好を糾弾したからだ。
そうであれば重好も当然、治済に対して好印象を抱いている筈がなく、そこで本来ならば、将軍・家治に対して、
「この重好をお疑いなので…」
そう尋ねることで、治済こそが奥医師斬殺、さらには家基殺しの下手人、首魁であると示唆すべきところであろう。
だが重好はそうはせず、「あるいは…」との接続詞のあとで、わざわざ治済をも付け加えるとは、それでは、
「己も無実だが、治済もまた無実に違いない…」
そう主張しているも同然であるからだ。正に、「人が好い…」と言うべきか、いや、それこそが重好の美点、それも最大の美点であり、且つ、治済との最大の違いとも言えた。何しろ治済にはない美点だからだ。
将軍・家治もそんな腹違いの弟のその「美点」を目の当たりにして一瞬だが微笑みを浮かべたものである。家治にしても重好のその「美点」を愛でていたからだ。
尤も、家治が微笑みを浮かべていたのも束の間に過ぎず、すぐに表情を引き締めたものである。いや、治済は一瞬に過ぎなかった家治のその微笑みを見逃さず、すぐに家治が微笑みを、それも重好に対して微笑みを浮かべたことに気付いたものであった。
ともあれ家治はすぐに表情を引き締めるや、「左様…」と切り出した。
「されば意次は…、御三卿がよもや左様なる大罪を犯す筈がないと申したが…、まぁ、意次が御三卿であるお前たちを慮ってのことであろうが、それはともかく、余としてはとてもそうとは思えぬ…」
「と仰せになられますと、御三卿であろうとも…、我ら二人も左様なる大罪を犯せし可能性があると…、畏れ多くも上様におかせられましては左様に思し召されているので?」
重好は家治が腹違いとは言え、己の兄であるにもかかわらず、それに甘えることなく、折り目正しくそう尋ねた。そこがまた、家治をして、重好に好感を抱かせたのであった。
それでも家治もあえて表情を変えずに、「左様…」と答えた。
「それも重好か、あるいは民部か、そのどちらかがその大罪を犯したものと思うておる…」
家治はあくまで公平を期してそう告げた。無論、家治としては本心では重好がそのような大罪を犯したとは露ほどにも思ってはいなかったが。
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