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清水重好への疑惑 2
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だが実際には、豊千代の小姓や小納戸として取り立てられる者と言えば、日頃より治済・豊千代父子の御側近くに仕える一橋邸における小姓や、あるいは近習番と相場が決まっており、その点、納戸頭に過ぎない高橋又四郎には例え、豊千代が次期将軍として西之丸へと迎えられたとしても、その身は相変わらず納戸頭のまま、つまりは一橋邸に残されることが容易に予想された。
いや、それは同じく清水邸にて納戸頭として仕える山下理右衛門にしても当て嵌まることであり、仮に重好が次期将軍として西之丸入りを果たすことが出来たとしても、納戸頭に過ぎない山下理右衛門の「出番」は本来であればなかったであろう。
山下理右衛門もまたそのことは良く承知しており、だからこそ重好に対して豊千代の次期将軍就任阻止、そのために豊千代の実父である一橋治済に奥医師・池原良誠斬殺事件の「下手人」であるとの「濡れ衣」を着せるという、極めて「リスキー」なその計画を実行するに当たって、「将来の出世」という交換条件を持ち出したに違いない。
そしてそれは高橋又四郎にしてもそうであったに違いない。つまりは実兄・山下吉左衛門からのその「誘い」に対して、
「晴れて事が成就した暁には…、豊千代に代わって重好が次期将軍として西之丸入りを果たす際には己も重好に仕える小姓か、あるいは小納戸として西之丸に召し出して欲しい…」
そんな「将来の出世」という交換条件を持ち出したに違いない。何しろ実兄・山下吉左衛門の「誘い」に乗るということは、それはとりもなおさず、己が仕える一橋治済を裏切ることに他ならないからだ。主君を裏切れという以上、如何に実兄からの頼みとは言え、
「将来の出世…」
それぐらい約束してもらわないことには正に、
「割が合わない…」
というものであろう。
それに対して兄・山下吉左衛門も弟からのその交換条件を至当と思い、その旨、直ちに養父・山下理右衛門に伝えたものと思われ、そして理右衛門よりさらに重好へと、「伝言ゲーム」の要領で伝わったに違いない。
そして重好にしてもまた、高橋又四郎からの頼みを至当と思ったに違いない。いや、むしろ無償で引き受けようものなら、かえって疑ったやも知れぬであろう。
ともあれそうして高橋又四郎もまた、重好との間で、
「将来の出世…」
その「取引」を成立させ、そこで高橋又四郎は紫の袱紗を持ち出して姿を消したのではあるまいか。高橋又四郎は納戸頭としての経験から、田沼意次より贈られたその紫の袱紗が「特注」の品であることを、つまりは、
「治済に対して贈られたもの…」
そうと分かることを一目で見抜いたに相違なく、そこで高橋又四郎は相役である堀内平左衛門に対して、
「治済卿様のご意向…」
その口実にて、紫の袱紗を持ち出しては、姿を消したのではあるまいかと、誰もがそのような「絵」を描いたものである。
景漸にしても勿論、その「絵」を描いたものの、しかし、どうにも腑に落ちなかった。それと言うのも疑問だらけであったからだ。
わけても最大の疑問は何ゆえに高橋又四郎はわざわざ、
「治済卿様のご意向により…」
そのような口実を相役…、同僚である堀内平左衛門に並べ立てて、紫の袱紗を持ち出したのか、という点であった。
高橋又四郎もまた、堀内平左衛門と同じく、治済へと贈られた品…、贈答品を管理する納戸頭である以上、その贈答品である紫の袱紗を黙って持ち出すことも十分に可能であった筈だからだ。
にもかかわらず、高橋又四郎はわざわざ平左衛門に対して、
「治済卿さまのご意向…」
そのような口実を告げて紫の袱紗を持ち出し、あまつさえ、姿を消したのだ。これでは紫の袱紗を奪い取ったのは己であると進んで自白するようなものではないか。
少なくとも景漸が高橋又四郎の立場であれば、黙って紫の袱紗を持ち出したであろう。そうなれば己が紫の袱紗を持ち出した「下手人」であることが永遠にバレない、とまでは言えないにしても、それでも当面の間はバレずに済むであろう。
無論、贈答品である紫の袱紗が紛失したとなれば、贈答品を管理する納戸頭としての管理責任は免れぬであろうが、それでも「窃盗」の嫌疑まで受けることは少なくともすぐにはないだろう。
いや、紫の袱紗程度であれば、如何にその品が特注品であろうとも、換金性という観点に立てば、極めてそれに欠けるものであり、そうであればそのような紫の袱紗一枚程度が紛失したところで、やはり永遠にバレることはないやも知れなかった。
なのに高橋又四郎は紫の袱紗を持ち出すことを今、この白洲にて床机に腰掛ける平左衛門に宣言してみせるとは、景漸にはどうにも高橋又四郎のその行動が理解できなかった。
理解できないと言えば姿を消したことにしてもそうだ。
仮に重好がそのような「絵」を描いたとして…、いや、このような「絵」を重好が描くのは無理であろうから、仮に納戸頭の山下理右衛門が「絵」を描き、重好はその「絵」にお墨付きを与えたとっして、その場合には高橋又四郎には暫くの間は素知らぬ顔で今まで通り、一橋邸にて納戸頭として勤めてもらう筈である。いきなり姿を消せば、いよいよもって、
「奥医師の池原良誠斬殺事件だが、実は清水重好が一橋治済に罪を着せるつもりでわざわざ、一橋邸にて納戸頭として仕える高橋又四郎を仲間に引き込んで、一橋邸にて保管されてある、田沼意次が一橋治済のために贈った紫の袱紗を持ち出させたのではないか…」
周囲にそう思わせてしまう恐れがあり、現に今、殆どの者がそう考えていた。
仮に、このような「絵」を描いたのが山下理右衛門だとして、これだけの「姦計」を考えられる能力のある山下理右衛門がその恐れに気付かぬ筈がなかった。
そうであれば高橋又四郎にはこれまで通り、一橋邸にて納戸頭として素知らぬ顔で勤めを続けてもらおうとする筈であった。いずれ、高橋又四郎には西之丸にて小姓、あるいは小納戸として働いてもらうにしても、今、一橋邸を辞してもらっては困るだろう。高橋又四郎を今回の「姦計」の仲間に引き込んだことを周囲に悟られないためにも。
そして最大の疑問は、仮に池原良誠斬殺事件の下手人、黒幕が清水重好だとして、その場合には家基を殺害した下手人、黒幕も重好ということになるからだ。
今回の池原良誠斬殺事件は家基殺害の延長線上にある…、そうであれば今回の池原良誠斬殺事件の下手人、黒幕が重好だとしたら、必然的に、家基殺害の下手人、黒幕にしても重好ということになる。
だが、だとしたら動機は何か…、重好が家基を殺害する動機は何か。やはり次期将軍の座であろうか。
いや、と景漸はそれを否定した。何しろ将軍・家治と重好は母こそ違えど仲の良い兄弟であり、そうであれば兄・家治の嫡男の家基は重好にとっては、
「可愛い甥」
ということになり、実際、重好はこの甥に当たる家基を可愛がっていた。そして家基にしても叔父の重好を慕っていたのだ。
そうであった以上、景漸にはどうしても重好が家基を殺したとは思えなかったのだ。
無論、根拠は何もない。重好は家基を殺す筈がない…、それはあくまで景漸の勘に過ぎず、何の根拠もなかった。
それでも景漸には自分のその勘に自信があった。根拠のない自信と言えばその通りなのだが、しかし、景漸の勘働きが外れたことは滅多になかった。
ともあれ景漸は最後に懐中よりそれまで隠し持っていたその紫の袱紗を取り出して、堀内平左衛門に確認してもらった。確かにその紫の袱紗が意次より一橋治済へと贈られた品であり、即ち、高橋又四郎が「持ち逃げ」した紫の袱紗であること、それを確かめてもらったのだ。
堀内平左衛門は流石に驚いた表情を浮かべた。何ゆえに北町奉行の曲淵景漸が相役…、同僚の高橋又四郎が「持ち逃げ」したその紫の袱紗を所持しているのかと。そして実際、平左衛門は紫の袱紗を「鑑定」する前にそのことを景漸に尋ねたものの、しかし、景漸は平左衛門の疑問は尤もであると認めながらも、
「済まぬが詳しいことは打ち明けられぬのだ…」
平左衛門にはそう断りを入れ、それに対して平左衛門もそれに「理解」を示して、それ以上は何も訊かずにその紫の袱紗を「鑑定」してもらい、確かに一橋邸に保管されていた紫の袱紗であることを、つまりは高橋又四郎が「持ち逃げ」した紫の袱紗であることを、さらに言うならば、
「奥医師の池原良誠を斬殺した下手人が逃走を図った折、追いかけてきた鷲巣益五郎の目の前で落とした紫の袱紗であること…」
平左衛門は流石にそこまでは気付かなかったであろうが、平左衛門も気付かぬうちに、それが明らかになったのであった。
いや、それは同じく清水邸にて納戸頭として仕える山下理右衛門にしても当て嵌まることであり、仮に重好が次期将軍として西之丸入りを果たすことが出来たとしても、納戸頭に過ぎない山下理右衛門の「出番」は本来であればなかったであろう。
山下理右衛門もまたそのことは良く承知しており、だからこそ重好に対して豊千代の次期将軍就任阻止、そのために豊千代の実父である一橋治済に奥医師・池原良誠斬殺事件の「下手人」であるとの「濡れ衣」を着せるという、極めて「リスキー」なその計画を実行するに当たって、「将来の出世」という交換条件を持ち出したに違いない。
そしてそれは高橋又四郎にしてもそうであったに違いない。つまりは実兄・山下吉左衛門からのその「誘い」に対して、
「晴れて事が成就した暁には…、豊千代に代わって重好が次期将軍として西之丸入りを果たす際には己も重好に仕える小姓か、あるいは小納戸として西之丸に召し出して欲しい…」
そんな「将来の出世」という交換条件を持ち出したに違いない。何しろ実兄・山下吉左衛門の「誘い」に乗るということは、それはとりもなおさず、己が仕える一橋治済を裏切ることに他ならないからだ。主君を裏切れという以上、如何に実兄からの頼みとは言え、
「将来の出世…」
それぐらい約束してもらわないことには正に、
「割が合わない…」
というものであろう。
それに対して兄・山下吉左衛門も弟からのその交換条件を至当と思い、その旨、直ちに養父・山下理右衛門に伝えたものと思われ、そして理右衛門よりさらに重好へと、「伝言ゲーム」の要領で伝わったに違いない。
そして重好にしてもまた、高橋又四郎からの頼みを至当と思ったに違いない。いや、むしろ無償で引き受けようものなら、かえって疑ったやも知れぬであろう。
ともあれそうして高橋又四郎もまた、重好との間で、
「将来の出世…」
その「取引」を成立させ、そこで高橋又四郎は紫の袱紗を持ち出して姿を消したのではあるまいか。高橋又四郎は納戸頭としての経験から、田沼意次より贈られたその紫の袱紗が「特注」の品であることを、つまりは、
「治済に対して贈られたもの…」
そうと分かることを一目で見抜いたに相違なく、そこで高橋又四郎は相役である堀内平左衛門に対して、
「治済卿様のご意向…」
その口実にて、紫の袱紗を持ち出しては、姿を消したのではあるまいかと、誰もがそのような「絵」を描いたものである。
景漸にしても勿論、その「絵」を描いたものの、しかし、どうにも腑に落ちなかった。それと言うのも疑問だらけであったからだ。
わけても最大の疑問は何ゆえに高橋又四郎はわざわざ、
「治済卿様のご意向により…」
そのような口実を相役…、同僚である堀内平左衛門に並べ立てて、紫の袱紗を持ち出したのか、という点であった。
高橋又四郎もまた、堀内平左衛門と同じく、治済へと贈られた品…、贈答品を管理する納戸頭である以上、その贈答品である紫の袱紗を黙って持ち出すことも十分に可能であった筈だからだ。
にもかかわらず、高橋又四郎はわざわざ平左衛門に対して、
「治済卿さまのご意向…」
そのような口実を告げて紫の袱紗を持ち出し、あまつさえ、姿を消したのだ。これでは紫の袱紗を奪い取ったのは己であると進んで自白するようなものではないか。
少なくとも景漸が高橋又四郎の立場であれば、黙って紫の袱紗を持ち出したであろう。そうなれば己が紫の袱紗を持ち出した「下手人」であることが永遠にバレない、とまでは言えないにしても、それでも当面の間はバレずに済むであろう。
無論、贈答品である紫の袱紗が紛失したとなれば、贈答品を管理する納戸頭としての管理責任は免れぬであろうが、それでも「窃盗」の嫌疑まで受けることは少なくともすぐにはないだろう。
いや、紫の袱紗程度であれば、如何にその品が特注品であろうとも、換金性という観点に立てば、極めてそれに欠けるものであり、そうであればそのような紫の袱紗一枚程度が紛失したところで、やはり永遠にバレることはないやも知れなかった。
なのに高橋又四郎は紫の袱紗を持ち出すことを今、この白洲にて床机に腰掛ける平左衛門に宣言してみせるとは、景漸にはどうにも高橋又四郎のその行動が理解できなかった。
理解できないと言えば姿を消したことにしてもそうだ。
仮に重好がそのような「絵」を描いたとして…、いや、このような「絵」を重好が描くのは無理であろうから、仮に納戸頭の山下理右衛門が「絵」を描き、重好はその「絵」にお墨付きを与えたとっして、その場合には高橋又四郎には暫くの間は素知らぬ顔で今まで通り、一橋邸にて納戸頭として勤めてもらう筈である。いきなり姿を消せば、いよいよもって、
「奥医師の池原良誠斬殺事件だが、実は清水重好が一橋治済に罪を着せるつもりでわざわざ、一橋邸にて納戸頭として仕える高橋又四郎を仲間に引き込んで、一橋邸にて保管されてある、田沼意次が一橋治済のために贈った紫の袱紗を持ち出させたのではないか…」
周囲にそう思わせてしまう恐れがあり、現に今、殆どの者がそう考えていた。
仮に、このような「絵」を描いたのが山下理右衛門だとして、これだけの「姦計」を考えられる能力のある山下理右衛門がその恐れに気付かぬ筈がなかった。
そうであれば高橋又四郎にはこれまで通り、一橋邸にて納戸頭として素知らぬ顔で勤めを続けてもらおうとする筈であった。いずれ、高橋又四郎には西之丸にて小姓、あるいは小納戸として働いてもらうにしても、今、一橋邸を辞してもらっては困るだろう。高橋又四郎を今回の「姦計」の仲間に引き込んだことを周囲に悟られないためにも。
そして最大の疑問は、仮に池原良誠斬殺事件の下手人、黒幕が清水重好だとして、その場合には家基を殺害した下手人、黒幕も重好ということになるからだ。
今回の池原良誠斬殺事件は家基殺害の延長線上にある…、そうであれば今回の池原良誠斬殺事件の下手人、黒幕が重好だとしたら、必然的に、家基殺害の下手人、黒幕にしても重好ということになる。
だが、だとしたら動機は何か…、重好が家基を殺害する動機は何か。やはり次期将軍の座であろうか。
いや、と景漸はそれを否定した。何しろ将軍・家治と重好は母こそ違えど仲の良い兄弟であり、そうであれば兄・家治の嫡男の家基は重好にとっては、
「可愛い甥」
ということになり、実際、重好はこの甥に当たる家基を可愛がっていた。そして家基にしても叔父の重好を慕っていたのだ。
そうであった以上、景漸にはどうしても重好が家基を殺したとは思えなかったのだ。
無論、根拠は何もない。重好は家基を殺す筈がない…、それはあくまで景漸の勘に過ぎず、何の根拠もなかった。
それでも景漸には自分のその勘に自信があった。根拠のない自信と言えばその通りなのだが、しかし、景漸の勘働きが外れたことは滅多になかった。
ともあれ景漸は最後に懐中よりそれまで隠し持っていたその紫の袱紗を取り出して、堀内平左衛門に確認してもらった。確かにその紫の袱紗が意次より一橋治済へと贈られた品であり、即ち、高橋又四郎が「持ち逃げ」した紫の袱紗であること、それを確かめてもらったのだ。
堀内平左衛門は流石に驚いた表情を浮かべた。何ゆえに北町奉行の曲淵景漸が相役…、同僚の高橋又四郎が「持ち逃げ」したその紫の袱紗を所持しているのかと。そして実際、平左衛門は紫の袱紗を「鑑定」する前にそのことを景漸に尋ねたものの、しかし、景漸は平左衛門の疑問は尤もであると認めながらも、
「済まぬが詳しいことは打ち明けられぬのだ…」
平左衛門にはそう断りを入れ、それに対して平左衛門もそれに「理解」を示して、それ以上は何も訊かずにその紫の袱紗を「鑑定」してもらい、確かに一橋邸に保管されていた紫の袱紗であることを、つまりは高橋又四郎が「持ち逃げ」した紫の袱紗であることを、さらに言うならば、
「奥医師の池原良誠を斬殺した下手人が逃走を図った折、追いかけてきた鷲巣益五郎の目の前で落とした紫の袱紗であること…」
平左衛門は流石にそこまでは気付かなかったであろうが、平左衛門も気付かぬうちに、それが明らかになったのであった。
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