天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

文字の大きさ
上 下
59 / 197

一橋邸に仕える納戸頭の堀内平左衛門氏芳の証言

しおりを挟む
 それから大よそ半刻はんとき(約1時間)ほど経った後、今度は一橋ひとつばし邸につかえる納戸なんどがしらがここ辰ノ口たつのぐち評定所ひょうじょうしょ白洲しらす召喚しょうかんされた。

 なお、その際には老中や評定所ひょうじょうしょ一座いちざひかえる評席ひょうせきと将軍・家治とそれに一橋ひとつばし治済はるさだ清水しみず重好しげよし鎮座ちんざする誓詞之間せいしのまとの間はふすまで固く閉じられた。

 そうしないと…、ふすまめないことには白洲しらすから評席ひょうせきはさんでその誓詞之間せいしのままさに、

丸見まるみえ…」

 それはつまり白洲しらす召喚しょうかんされた、一橋ひとつばし邸につかえる納戸なんどがしら治済はるさだから、上品に言えば、

見守みまもられながら…」

 下品に言えば、監視かんしされながら証言することとなり、これで果たして納戸なんどがしらが正直に証言するか、いや、証言できるか、はなはうたがわしく、そこで納戸なんどがしらには、

「リラックスして…」

 つまりは正直に、「ありのまま」を証言してもらうべく、それまではなたれていた評席ひょうせきとその誓詞之間せいしのまとをふすまめ切ったのである。

 さて、白洲しらすには納戸なんどがしらのための床机しょうぎが用意された。益五郎ますごろう玄通げんつうと同じく、あくまで、

「参考人」

 その立場ゆえ、床机しょうぎが用意されたのだが、しかし、同じく「参考人」として前に呼ばれた公儀こうぎ御用達ごようたし呉服ごふく商の後藤ごとう縫殿助ぬいのすけには床机しょうぎは与えられず、白洲しらすの上の茣蓙ござに座らされたのはやはり、後藤ごとう縫殿助ぬいのすけ商人あきんどだからであろう。

 如何いか後藤ごとう縫殿助ぬいのすけがご公儀こうぎ御用達ごようたし呉服ごふく商とは言え、所詮しょせん商人あきんど、町人に過ぎず、ゆえに武士と同じ待遇たいぐうを許すわけにはゆかず、白洲しらすの上のいた茣蓙ござに座らせたのであった。ちなみに玄通げんつうは武士ではないものの、それでも寄合よりあい医師として修行中の身とは言え、長谷川家の家督かとくいだ折には将軍への御目見おめみが許されたので、武士、それも旗本と同様の扱いを受けていたのだ。

 ともあれ、召喚しょうかんされたその、一橋ひとつばし邸につかえる納戸なんどがしら益五郎ますごろう玄通げんつうと並んで座り、これで白洲しらすにて床机しょうぎ腰掛こしかけた三人が評席ひょうせき居並いならぶ老中や、それに評定所ひょうじょうしょ一座と監察かんさつ役である大目付おおめつけ目付めつけたちと向かい合った。

 納戸なんどがしらへの訊問じんもんを開始したのは北町奉行の曲淵まがりぶち景漸かげつぐであった。

 本来ならば月番つきばんである、何より御三卿ごさんきょう一橋ひとつばし治済はるさだといううしだてを得て、

「意次弾劾だんがい

 それに燃えていた南町奉行の牧野まきの成賢しげかた訊問じんもんを行うべきところであったが、それが「風向かざむき」が変わり、成賢しげかたうしだてである一橋ひとつばし治済はるさだの身に「疑惑」が…、

奥医師おくいし池原いけはら良誠よしのぶ斬殺ざんさつ事件と、さらに家基いえもと殺害」

 その「疑惑」が降りかかり、そうなるとその治済はるさだ唯一ゆいいつにして強大な、頼みのつなとしていた成賢しげかたはさしずめ、

梯子はしごはずされたも同然…」

 そのような状況におちいり、そうなると意次の弾劾だんがいどころではない。成賢しげかたはこれからどうしたら良いのか、

「己の身の振り方…」

 それを考えるのに精一杯せいいっぱいであり、とてもではないが参考人を訊問じんもんするだけの心の余裕よゆう生憎あいにく、持ち合わせてはおらず、そこで二人への訊問じんもん相役あいやく…、同僚の北町奉行の曲淵まがりぶち景漸かげつぐゆずったのであった。いや、ゆずるも何も、今の成賢しげかたまさしく、

茫然ぼうぜん自失じしつてい…」

 それであり、またその他の評定所ひょうじょうしょ一座いちざのメンバー、すなわち、寺社奉行や公事くじ勘定かんじょう奉行にしても、二人への訊問じんもん如何いかんによっては、

「とんでもない事実…」

 それを引き出してしまう恐れがあり得たので、

「己の身に火のが降りかかってはたまらぬ…」

 寺社奉行や公事くじ勘定かんじょう奉行はその思惑おもわくで共通しており、ゆえに二人への訊問じんもんには手をつけかねており、監察かんさつ役の大目付おおめつけ目付めつけにしてもそんな寺社奉行や公事くじ勘定かんじょう奉行と同様であり、まして老中はこの手の訊問じんもんに慣れてはおらず、ゆえに老中にも任せるわけにもゆかず…、いや、老中の中でも意次なればこの手の訊問じんもん手馴てなれていたものの、生憎あいにく、今の意次はいまだ、

被告ひこくにん

 その立場であったので、やはり意次にも任せるわけにはゆかずと、そういうわけで、畢竟ひっきょう景漸かげつぐ訊問じんもんを引き受けるより他になかったのである。

 さて、景漸かげつぐ評席ひょうせきより白洲しらすへと向いて、そこで床机しょうぎ腰掛こしかける納戸なんどがしらを見つめると、訊問じんもん口火くちびを切った。

吟味ぎんみを始める前に…、何ゆえに床机しょうぎ空席くうせきが生じておるのだ?」

 景漸かげつぐ白洲しらすに向かってそう疑問をぶつけた。そしてその疑問は主に、出頭しゅっとうしてきた納戸なんどがしらに向けられたものであった。

 それと言うのも出頭しゅっとうしてきた納戸なんどがしらは一人だけであったからだ。

 通常、御三卿ごさんきょうやしきつかえる納戸なんどがしらは、いや、納戸なんどがしらに限らず、すべての御役おやくについても言えることだが、相役あいやく、つまりは同僚がいるものであり、一橋ひとつばし邸につかえる納戸なんどがしらにしてもその例外ではなく、二人いた。

 にもかかわらず、ここ評定所ひょうじょうしょ白洲しらす出頭しゅっとうしてきた納戸なんどがしらはたった一人、すなわち、堀内ほりうち平左衛門へいざえもん氏芳うじよしだけであった。

 すでに、景漸かげつぐを始めとして、評席ひょうせき居並いならぶ誰もが、それどころか誓詞之間せいしのまにて鎮座ちんざする将軍・家治とそれに治済はるさだと同様、家治のとなりひかえる、つまりは家治をん中にはさんで治済はるさだの隣にひかえる清水しみず重好しげよしまでもが、

一橋ひとつばし邸につかえる納戸なんどがしら堀内ほりうち平左衛門へいざえもん氏芳うじよし高橋たかはし又四郎またしろう高美たかよしの二人である…」

 そのことを治済はるさだより教えられており、つ、徒目付かちめつけより出頭しゅっとうしてきた納戸なんどがしらがそのうちの堀内ほりうち平左衛門へいざえもん氏芳うじよしのみであることを景漸かげつぐたちは告げられたために、

堀内ほりうち平左衛門へいざえもん相役あいやくは…、高橋たかはし又四郎またしろう如何いかがいたしたのだ?」

 景漸かげつぐはこれがしょ対面たいめん堀内ほりうち平左衛門へいざえもんにそう尋ねることができたのだ。

 それに対する堀内ほりうち平左衛門へいざえもんの証言たるや、景漸かげつぐたちを驚愕きょうがくさせるに十分過ぎた。

「それが…、昨日の昼過ぎより行方ゆくえが知れませぬ…」

 堀内ほりうち平左衛門へいざえもん困惑こんわく気味ぎみにそう答えた。

行方ゆくえ不明とな?」

 景漸かげつぐが確かめるように尋ねると、平左衛門へいざえもんは「はい」とやはり困惑こんわく気味ぎみに答えた。

 すると景漸かげつぐばやく、所謂いわゆる

「フルスピードで…」

 脳内のうない回転かいてんさせたのであった。

 結果、納戸なんどがしら高橋たかはし又四郎またしろう失踪しっそうと、おく医師いし池原いけはら良誠よしのぶ斬殺ざんさつした下手人げしゅにんがどうやら故意こいに落としたらしい、今は景漸かげつぐ懐中かいちゅうにてしのばせてあるその紫の袱紗ふくさとがつながりを見せた。

堀内ほりうち平左衛門へいざえもんよ」

「はい」

「昨日の昼過ぎより、そなたの相役あいやく高橋たかはし又四郎またしろう行方ゆくえが知れぬとの話だが…、その前に高橋たかはし又四郎またしろうは何か持ち出さなかったか?」

 堀内ほりうち平左衛門へいざえもんのぞく、その場にいた誰もが今の景漸かげつぐの問いの意味するところを察したものである。

 一方、唯一ゆいいつ、事情が分からぬ堀内ほりうち平左衛門へいざえもんは、「そういえば…」と切り出したのであった。

「されば紫の袱紗ふくさを持ち出しましてござりまする…」

 平左衛門へいざえもんのその答えに皆がどよめいた。冷静れいせい沈着ちんちゃくなる意次でさえ、その答えには驚きを隠せなかった。景漸かげつぐも皆と同じく驚き、そして直情ちょくじょう径行けいこうなる益五郎ますごろうも当然、驚いた。

 それでも景漸かげつぐは冷静さを取り戻して質問をかさねた。

「紫の袱紗ふくさと申したが、くわしくは…、如何いかな品ぞ?」

 景漸かげつぐはあえてそ知らぬ風をよそおい尋ねた。

「さればそこにおられるご老中の田沼様より頂戴ちょうだいせし紫の袱紗ふくさにて、紫の地に白く田沼様の紋所もんどころである七曜しちようがあしらわれており申す…」

 平左衛門へいざえもん評席ひょうせきにてひかえる意次を見ながらそう答えた。御三卿ごさんきょうつかえる納戸なんどがしらはそれほど、高い地位ではないものの、それでも一度ぐらいは意次の顔を見たことがあるのであろう。

 一方、その答えを聞いた景漸かげつぐたちは皆、今度は、

「やはりそうか…」

 そう思ったものである。それでも…、想像していた答えであったとは言え、驚きもした。

 景漸かげつぐは驚きをかくしつつ、さらに質問をかさねた。

「さればその紫の袱紗ふくさはご老中の田沼様より一橋ひとつばし卿様へとおくられし品ということか?」

「はい」

「さればそれは…、紫の袱紗ふくさ一橋ひとつばし卿様への贈答ぞうとう品にて、当然、納戸なんどがしらがその管理にせめうているわけだな?」

 景漸かげつぐ一々いちいちねんしするように尋ねた。

 それに対して平左衛門へいざえもんいなな顔一つせずに、「はい」と律儀りちぎに応じた。
しおりを挟む

処理中です...