天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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一橋治済への疑惑

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 ともあれ成賢しげかた池原いけはら良誠よしのぶ斬殺ざんさつした下手人げしゅにんが落としたとする、田沼家の紋所もんどころでもある七曜しちようの紋が白くあしらわれたその紫の袱紗ふくさをそれこそ、

「これ見よがしに…」

 かかげてみせたのであった。

「これが…、貴殿きでんが家臣に命じて池原いけはら良誠よしのぶらせし何よりのあかしであろうがっ!」

 成賢しげかたのその余りに乱暴な推理に、いや、|推理のていさえもなしてはおらず、それは最早もはや妄想もうそういきであるそれに、流石さすが相役あいやく…、同僚である北町奉行の曲淵まがりぶち景漸かげつぐたまりかね、

牧野まきの大隅おおすみよ…、それはちと、余りに乱暴と申すものではあるまいか?」

 やんわりとそう反論したものである。それに対して成賢しげかたは、日頃から勝手に己が「ライバル視」する景漸かげつぐから反論されたことが気に入らず、

「何が乱暴なものかっ!」

 成賢しげかた気色けしきばんだ。それに対して景漸かげつぐはあくまで冷静に再反論を試みた。

「良いか?左様な…、紫の袱紗ふくさ…、七曜しちようの紋があしらわれし、それな紫の袱紗ふくさなど、別段、田沼たぬま主殿頭とのものかみならずとも、誰でも手に入れられようぞ…、金さえあれば、それこそ小間物こまもの屋にでも注文すれば、容易たやすく手に入れられようぞ。されば左様な紫の袱紗ふくさ下手人げしゅにんが落としたからと申して、その下手人げしゅにんを田沼の家臣と決め付けるは早計そうけいではあるまいか?」

 景漸かげつぐもっともな主張にはうなずく者が多かった。将軍・家治もそうであるし、隣に座る重好しげよしもそうであり、「田沼与党」である康福やすよし勿論もちろん、深くうなずいた。

 そんな中、意次はまるで能面のうめんを思わせるかのように無表情であり、これには康福やすよし勿論もちろんのこと、別段、「田沼与党」ではない景漸かげつぐさえも首をかしげたものである。

田沼たぬま主殿頭とのものかみ、何か申し開きがあれば…」

 景漸かげつぐは意次に反論をうながした。反論しようとしない意次に対して首をかしげてのことであり、康福やすよしにしても同様で、「左様…、何か申し開きを…」と康福やすよしも意次をうながした。

 すると意次は将軍・家治の方へと体を向けた。すると家治はそんな意次に対して、「許す…」と告げたので、そこでようやくに反論を試みることにした。

 あくまで将軍・家治の「許し」がなければ反論しない…、意次のその殊勝しゅしょうなる態度に康福やすよし景漸かげつぐは内心、感嘆させられた。いや、この二人だけでなく、その場にいた多くの者がそう感じた。

 さて、意次は将軍・家治からの反論の「許し」が出ると、成賢しげかたの方を向いて、

「さればその、紫の袱紗ふくさを…」

 意次はその紫の袱紗ふくさをとくと見分けんぶんしたいので渡すよう求めた。すると成賢しげかたは「それは…」と躊躇ちゅうちょした。

 意次はそんな成賢しげかたの態度をの当たりにして思わず苦笑した。

「それな紫の袱紗ふくさをどうこうしようなどとは…、それこそ引き裂こうなどとは思うてはおらぬ…」

 それこそが成賢しげかたが意次に対して紫の袱紗ふくさを渡すことに躊躇ちゅうちょした理由であり、意次はそんな成賢しげかたの胸のうちが手に取るように分かったので思わず苦笑したのだ。

「それに仮に左様なことを…、それこそ証拠品とも言えるそれな紫の袱紗ふくさを切り裂こうものなら、自ら下手人げしゅにんであると、自白じはくするようなものであろうぞ…」

 意次にそう言われて、成賢しげかたもそれはその通りだなと、考え直し、そこで成賢しげかたはその紫の袱紗ふくさを意次に渡すことにした。

 こうして意次は成賢しげかたからその紫の袱紗ふくさを受け取ると、じっくりと見分けんぶんした。そして、

「これは…、間違いなく当家が注文せしもの…」

 意次がそう答えたので、誰もが仰天ぎょうてんした。いや、正確には将軍・家治を除いて…。

「えっ…、それでは貴殿が作らせたものだと…、認めるのか?」

 康福やすよしは信じられぬといった顔で聞き返した。

「左様…」

 意次が認めたことで、成賢しげかたはそれこそ誇張こちょうなしに、

狂喜きょうき乱舞らんぶ…」

 その心持こころもちとなった。逆に治済はるさだは意次がいとも簡単に認めたことで逆に不安感に襲われた。

 そして治済はるさだのこの不安は的中することになる。

「されば贈答ぞうとう用として当家が白木屋に作らせし品…」

 意次がそう付け加えたことで、成賢しげかたは「えっ?」と疑問の声を上げた。

「されば…、今から3年前に我がおい意致おきむねが一橋殿の家老職を拝命はいめいせし折、この意次、その御礼のためにおそれ多くも上様や、今は亡き大納言だいなごん様を始め、諸侯しょこう幕閣ばっかく寸志すんし献上けんじょう、差し上げ申したことがあり…」

 意次がそう言うと、「おお、そうであった…」と康福やすよしが思い出したような声を上げた。実際、康福やすよしは思い出したのだ。

「確か、紫の袱紗ふくさに包まれた菓子折り、思い出したぞ…」

 康福やすよしの言う通りであり、意次はこの康福やすよしにも勿論もちろんおくっていた。

「そうか…、その時の袱紗ふくさがこれか…」

 康福やすよしが感慨深げにそう告げたので、意次も「左様…」と答えた。

「さればこの袱紗ふくさの持ち主…、主殿とのも菓子折かしおりを包みしこの紫の袱紗ふくさ、そのおくりし先が分かれば、池原を害せし下手人げしゅにん辿たどり着けるというわけだな。もそっとくだいてもうさば、今、この紫の袱紗ふくさを所持しておらぬ者こそ下手人げしゅにんであると…」

 康福やすよしはストレートに、そして勢い込んで尋ねた。

「まぁ、その可能性が高いな…」

 意次は曖昧あいまいな言い回しで答えた。すると家治はそうと察し、「意次」と声をかけた。それに対して意次は再び、家治の方へと向いて、「ははぁっ」と叩頭こうとうしてこれに応じた。

「意次は最早もはや、その紫の袱紗ふくさの贈り先に見当けんとうがついているのではあるまいか?」

 家治にそう問われた意次はしかし、すぐには答えられずにいた。答えることに逡巡しゅんじゅんを覚えたからだ。

 すると家治もやはりそうと察して、「許す、申せ」と意次をうながした。いや、それはうながすという体裁ていさいを取りつつも、実際には命令に他ならなかった。

 こうなると意次としては最早もはや、答えないわけにはゆかなかった。

 意次は家治の方を向き、つ、家治の隣に座る治済はるさだにも視線を向けつつ答えた。

「さればこれな紫の袱紗ふくさでござりまするが…、一橋殿におくりし菓子折かしおりを包みし袱紗ふくさにて…」

 意次がそう答えた途端とたん、その場からどよめきの声が起こった。それはとりもなおさず、治済はるさだ下手人げしゅにんであることを示唆しさしていたからだ。昨日の奥医師おくいし池原いけはら良誠よしのぶ斬殺事件、さらには2年前の大納言だいなごん様こと家基いえもと殺害の下手人げしゅにん、「真犯人」であることを…。

世迷言よまいごとを申すなっ!」

 治済はるさだ怒声どせいを響かせた。流石さすがに天下の御三卿ごさんきょう、それも八代将軍・吉宗の血を引いているだけあって、先ほどの成賢しげかたとは比べものにならぬほどに迫力はくりょくがあった。もっとも、意次を動じさせることはできなかったが。

「何を根拠にそのような…、何ゆえにこの身におくりし紫の袱紗ふくさだと分かるのだっ!」

 治済はるさだのその反論は一応、もっともであり、家治もそれを認めると、意次に説明を求めた。

「されば…、この紫の袱紗ふくさでござりまするが…、藤色でござりまする…」

 意次はその紫の袱紗ふくさをまず誓詞之間せいしのまにて鎮座ちんざする家治と、それに左右にひかえる治済はるさだ重好しげよしの前に両手で広げ、かかげて見せ、次いで、評席ひょうせき居並いならぶ者たちにも同じようにして見せた。

 すると康福やすよしっ先に、「成程なるほど…、確かに…」と応じ、将軍・家治も「うむ…」とそれを認めたことから他の、評席ひょうせきにいた者たちもそれを認めた。成賢しげかたさえも不承ふしょう不承ぶしょうではあったがこれを認めた。いや、認めざるを得なかったと言うべきか。

「それが何だと申すのだっ!」

 治済はるさだもそれを…、藤色であることを認めた上で、苛立いらだたしげに声を張り上げた。

「されば贈り先によって色を…、紫の袱紗ふくさの色を微妙びみょうに変え申した…」

 さしもの治済はるさだもそれは想定外であったのだろう、思わず、「えっ…」と戸惑とまどいの声を上げた。
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