天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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公事上聴 3

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 さて、将軍・家治は既にそのこともやはり、治済はるさだを通じて把握はあくしていたものの、それでも今、初めて聞いたような風をよそおい、

「そは真か?」

 成賢しげかたにそう尋ねたのであった。それに対して成賢しげかたは「御意ぎょい…」と答えると、

妻女さいじょ藤江ふじえが左様に供述をしておりまする…」

 そう付け加え、そして成賢しげかたは今度は意次の方を向いて、

「されば…、おそれ多くも上様の御前ごぜんゆえ、言葉を改め申す…」

 意次に対してそう前置まえおきした。成賢しげかたがこのような前置まえおきをしたのは他でもない、これからは敬称や敬語をはぶくとの「前触まえぶれ」である。

 将軍の御前ごぜんにおいては…、将軍の前では例え、相手が老中であろうとも、「殿」や、まして「様」などと最高敬称を使うことは許されておらず、敬語にしても同様であった。将軍の御前ごぜんにおいてはせいぜい、御三家や御三卿ごさんきょうに対して「殿」という敬称をつけることが許される程度であった。

 そこで例えば、意次の場合はその官職名である「主殿頭とのものかみ」と呼び捨てにしなければならなかったのだ。いや、「主殿とのも」と略称りゃくしょうにて呼ぶのが正しいのだが、生憎あいにく成賢しげかたにそこまでの勇気はなく、

主殿頭とのものかみ…」

 その官職名を略称りゃくしょうではなしに、「フルネーム」できちんと呼んだ。

主殿頭とのものかみに尋ねるが…、妻女さいじょ藤江ふじえの供述に相違ないか?」

 成賢しげかたがそう尋ねると、意次もまた、将軍・家治の方へと体の向きを変えて答えた。

「されば…、如何いかにも池原いけはら長仙院ちょうせんいんは当家に…、神田橋かんだばし御門内ごもんないにござりまする当屋敷に往診おうしんに見えましてござりまするが、なれどそれがし、池原いけはら長仙院ちょうせんいん往診おうしんを頼みし覚えこれなく…」

 意次が家治に対してそう申し開きをするや、「見苦しいぞっ!」との治済はるさだ罵声ばせいが飛んで来た。

「おのれは、池原いけはら長仙院ちょうせんいんが日中、屋敷をけていることを良いことに、留守るすを預かりし妻女さいじょ藤江ふじえの元へと家臣を差し向け、そして藤江ふじえに対して、嫡孫ちゃくそん龍助りゅうすけ具合ぐあいが悪いとの名目にて、池原いけはら長仙院ちょうせんいん帰邸きてい次第、往診おうしんに来て欲しいと、そのむね池原いけはら長仙院ちょうせんいんに伝えてもらいたいと、妻女さいじょ藤江ふじえに対して言伝ことづてを頼ませたであろうがっ!」

 治済はるさだのその罵声ばせいにさしもの意次も目を丸くした。それはそうだろう。何しろ成賢しげかたいまだ事件の言わば、「さわり」にしかれていなかったからだ。

 それがそこまでくわしいとは…、治済はるさだがそこまでくわしい事情を把握はあくしているとは、場合によってはそれは所謂いわゆる

秘密ひみつ暴露ばくろ

 と看做みなされてもおかしくはない。意次が目を丸くしたのもそのためであり、いや、意次のみならず、評席ひょうせきにて列座れつざする他の面々めんめんにしても意次同様、目を丸くし、中には治済はるさだに対してはっきりと猜疑さいぎの目を向ける者もおり、特に北町奉行の曲淵まがりぶち景漸かげつぐがそうで、景漸かげつぐはその、

「職業的な勘」

 それが働き、条件じょうけん反射はんしゃ的に治済はるさだに尋ねていた。

一橋ひとつばし殿…、何ゆえに貴殿きでんがそこまでくわしい事情を把握はあくされているのでござるか?」

 景漸かげつぐもまた、将軍・家治の御前ごぜんであるということで、御三卿ごさんきょう治済はるさだに対してぞんざいな言い回しでもって尋ねた。

 それはともかく、景漸かげつぐのその問いは皆が聞きたがったことであった。すなわち、景漸かげつぐと同じ疑問が脳裏のうりに浮かんだということだ。

 それに対して治済はるさだ流石さすが動揺どうようし、そして後悔こうかいもした。

「あの下賤げせんなるやからめを追いつめんと勢い込む余り、いささか口がすべり過ぎたわい…」

 それが後悔こうかいの「もと」であった。

 一方、将軍・家治を真ん中にはさんで隣にひかえる清水重好しげよしは、

絶好ぜっこうの「反転はんてん攻勢こうせいのチャンス…」

 そうとらえたのか、

如何いかがなされた?一橋ひとつばし殿…」

 重好しげよしはそれこそ、「かさにかかって…」尋ねたのであった。

 すると治済はるさだ重好しげよしの問いに答える代わりに評席ひょうせきへと目をやり、そこにひかえる成賢しげかたを見た。

 一方、治済はるさだより視線を送られた成賢しげかたはと言うと、

「やれやれ…」

 内心、そう思ったものである。しゃべり過ぎだ…、とも思った。

 ともあれこのままでは治済はるさだが疑われると、それを危惧きぐした成賢しげかたは、治済はるさだ危難きなんを救うべく、

おそれながら申し上げまする…」

 将軍・家治の方へと体を向けてそう切り出したのであった。

「許す…」

 家治よりその言葉が聞かれると、成賢しげかたは昨晩、己が治済はるさだに事件の概要がいようを伝えたことを打ち明けたのであった。

大隅おおすみ、何ゆえに左様なことを…」

 成賢しげかたの隣に座る景漸かげつぐが非難するかのように尋ねた。それに対して成賢しげかたは平然と答えた。

「相手が相手ゆえ、だ…」

「相手が相手、とな?」

 景漸かげつぐは首をかしげて聞き返した。

 すると成賢しげかたは遂に「爆弾」を投下した。

「左様…、仮に奥医師おくいし殺しが老中・田沼たぬま主殿頭とのものかみ意次おきつぐ仕業しわざなれば到底、町方まちかたの手に負えるものではなく、そこで一橋ひとつばし殿に相談申し上げた次第…」

 成賢しげかたのその説明に評席ひょうせきからどよめきの声が上った。

大隅おおすみ…、そなた、おのれが何を口にしたのか、分かっておるのか?」

 老中の松平まつだいら周防守すおうのかみ康福やすよしいさめるように尋ねた。

 だがそれに対して成賢しげかたは相手が温厚おんこう篤実とくじつ康福やすよしだと意次に対する時のような恐れはなく、堂々どうどうと構えたものであった。

「十分に承知しておるわ。まぁ、主殿頭とのものかみかばいだてしたいそなたの気持ちも分からぬではないがな…」

 成賢しげかた康福やすよしの娘・よしが意次のそく意知おきとももとへとしていることをとらえてそう言ったのであった。いや、嘲罵ちょうばを浴びせたと言うべきか。

 如何いかに将軍の御前ごぜんと言えども町奉行の分際で直属の上司とも言うべき老中を「そなた」呼ばわりするとは、到底、許されない非礼であり、これにはさしもの温厚おんこう篤実とくじつ康福やすよしもカッとなり、康福やすよしは顔面を紅潮こうちょうさせながら、

「おのれは…」

 口惜くちおしそうにそうつぶやいた。本来ならば今にもりかかりたいところであっただろう。温厚おんこう篤実とくじつとは言え、康福やすよしも武士であることに変わりはない。侮辱ぶじょくを受けてそのままにしておくことはできないからだ。

 だが生憎あいにく、いや、康福やすよしの家臣や領民りょうみんのことを思えば幸いにと言うべきであろう、今の康福やすよし太刀たちは無論のこと、脇差わきざしすら帯びてはおらず、丸腰まるごしであったからだ。それと言うのも今日は将軍・家治が評定ひょうじょうを見学するということで、監察かんさつ役の大目付と目付を除いて皆、脇差わきざしとそれに扇子せんすまでも別間べつまに置いていたのだ。

 ともあれ丸腰まるごしではりかかろうにもりかかれない。いや、康福やすよし浅野あさの内匠頭たくみのかみのような無思慮むしりょ無分別むふんべつな武士でもなかったので、仮に脇差わきざしを帯びていたとしてもりかかるような、そんな愚かな真似まねはしなかったであろう。

 それゆえ康福やすよしは己のはかまを今にも引き千切ちぎらんばかりの勢いで両手でつかむことで精一杯せいいっぱいくやしさをあらわし、つ、怒りをこらえたのであった。

 だがそのような康福やすよしに対して、成賢しげかたは追い討ちをかけるかのように、「ふん」と冷笑れいしょうしてみせたのだ。この成賢しげかたの態度には景漸かげつぐ相役あいやく…、同僚としてたまらず、

大隅おおすみひかえぃ…」

 景漸かげつぐ成賢しげかたに対してそう訓戒くんかいを与えたものだが、老中に対してさえも非礼な態度を取る成賢しげかた相役あいやくに過ぎない景漸かげつぐ訓戒くんかいをまともに聞くはずもなく、完全に無視した。

 今度は景漸かげつぐがカッとなる番であったが、そこで将軍・家治が咳払せきばらいをしたので、一同、静まり返ると改めて威儀いぎを正した。
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