天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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一橋治済は御側衆(平御側)の小笠原信喜の案内により将軍・家治の御前に進み出る

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 西之丸にしのまる入りを果たした、つまりは次期将軍の豊千代とよちよ御側おそば御用ごよう取次とりつぎになれれば、豊千代とよちよが晴れて征夷大将軍として西之丸にしのまるからここ本丸へと移る時には己も西之丸にしのまるから本丸へと、征夷大将軍となった豊千代とよちよの、つまりは本丸の御側おそば御用ごよう取次とりつぎとしてそのまま「スライド」できるからだ。

 今、本丸のあるじは言うまでもなく将軍・家治だが、その家治の御側おそば御用ごよう取次とりつぎになったところでそれほどメリットはない。言葉は悪いが、

「家治はもう下り坂…」

 信喜のぶよしはそう見ていたからだ。それに比して次期将軍に内定ないていした豊千代とよちよはさしずめ、

「これからの人間…」

 そうであれば豊千代とよちよ御側おそば御用ごよう取次とりつぎになった方がはるかにメリットがある。

 それに第一、今はここ本丸にては横田よこた筑後守ちくごのかみ準松のりとし稲葉いなば越中守えっちゅうのかみ正明まさあきらという2人の御側おそば御用ごよう取次とりつぎ鎮座ちんざしており、それに加えて本郷ほんごう伊勢守いせのかみ泰行やすゆきまでが御側おそば御用ごよう取次とりつぎ|見習いとしてひかえていたので、信喜のぶよしが割り込むすきはどこにもなかった。

 それよりも新たに西之丸にしのまるあるじとして、つまりは次期将軍としてむかえられる豊千代とよちよ御側おそば御用ごよう取次とりつぎを目指す方が、

「理に適《かな》っている…」

 というものであろう。豊千代とよちよ御側おそば御用ごよう取次とりつぎになれる可能性の方がはるかに高く、また将来性の点からもその方が良いからだ。

 それには何よりも、っ先に豊千代とよちよ西之丸にしのまる入り、すなわち次期将軍就任に賛成してみせることが絶対条件であり、それゆえ意致おきむねの工作に対して信喜のぶよしっ先に賛成してみせ、のみならず、わざわざ信喜のぶよしの方から一橋ひとつばし邸へと足を運んでは、当主・治済はるさだ忠誠ちゅうせいちかう始末であった。

 打算ださんとはつまりはこういう意味であった。

 その信喜のぶよし宿直とのいであったのだから、これは治済はるさだにとっては正しく、

僥倖ぎょうこう…」

 そうとしか言いようがなかった。

 信喜のぶよし治済はるさだうながされて御控おひかえ座敷ざしきへと入ると、上座かみざ鎮座ちんざする治済はるさだと向かい合うなり、平伏へいふくしようとして、治済はるさだがそれを制した。虚礼を何よりも好む治済はるさだにしてはこれは本当に珍しいことであった。それだけ急いでいるあかしとも言えた。

若狭わかさ殿…」

 治済はるさだは何と、信喜のぶよしに対して「殿」という敬称を用いて呼びかけたのであった。これはもう珍しいを通り越して奇跡きせきと言えた。

「ははぁっ」

 信喜のぶよしもそうと察して、平伏へいふくしてこれにこたえた。

「さればそこもとに頼みがある」

「何なりと…」

「今すぐに上様に目通めどおりをいたしたい…」

「えっ…」

 流石さすが信喜のぶよしは驚き、思わず顔を上げた。

「頼む…、豊千代とよちよのためなのだ…」

 治済はるさだがそう打ち明けると、信喜のぶよしにはそれだけで十分にその意味するところを察して、

かしこまりましてござりまする…」

 そう応じたのであった。

 豊千代とよちよのため…、それはすなわち、

豊千代とよちよ御側おそば御用ごよう取次とりつぎのポストを狙うお前のためでもある…」

 もっと言えば、

豊千代とよちよ御側おそば御用ごよう取次とりつぎになりたいのなら今すぐに上様との面会をセッティングしろ…」

 そういう意味でもあり、そうであれば豊千代とよちよ御側おそば御用ごよう取次とりつぎになりたいと願う信喜のぶよしには元より、豊千代とよちよの実父である治済はるさだの頼みを拒否する選択肢せんたくしはなかった。

 信喜のぶよしは「ははぁっ」と応じると、それから御小座敷之間おこざしきのまへと足を運んだ。

 刻限は既に明の六つ半(午前7時頃)の少し前であり、今頃はもう、将軍は小姓こしょう小納戸こなんどと共に御小座敷之間おこざしきのまのそれも上段じょうだんにて家治が御髪番おぐしばん小姓こしょうかみわせている最中さなかであり、間もなく朝食も運ばれてくるに違いなかった。

 信喜のぶよしはその下段げだんに面した入側いりがわ…、廊下ろうかに足を踏み入れると、下段げだんはさんで上段じょうだんにてその御髪番おぐしばん小姓こしょうかみわせている将軍・家治に対してまずは平伏へいふくした。

 それに対して家治は「おや」という顔をして、

若狭わかさか…」

 そうつぶやくや、「おもてを上げぃ…」と命じた。

 すると信喜のぶよしはすぐに顔を上げ、一方、将軍・家春はそんな信喜のぶよしに対して、

如何いかがいたしたのだ?」

 そう声をかけた。

「ははっ。されば只今ただいま一橋ひとつばし殿がご到着とうちゃく…」

「なに?治済はるさだが参ったと?」

御意ぎょい…、されば一橋ひとつばし殿におかれてはおそれ多くも上様への拝謁はいえつねがたてまつりしよしにて…」

「左様か…、それは今すぐにと?」

御意ぎょい…」

斯様かような格好でもかまわぬのなら、すぐに通せ」

「ははぁっ!」

 信喜のぶよしは再び、平伏へいふくしてから腰を上げると、治済はるさだが待つ御控おひかえ座敷ざしきへと戻り、今の上様こと将軍・家治の言葉を治済はるさだに伝えた上で、信喜のぶよし御小座敷之間おこざしきのまへと治済はるさだを案内したのであった。

 治済はるさだもまた信喜のぶよしの案内により御小座敷之間おこざしきのま下段げだんに面した入側いりがわ…、廊下ろうかに足を踏み入れると、今しがた信喜のぶよしがそうしたように、家治に対して平伏へいふくしてみせた。

 それに対して家治もまた、信喜のぶよしに対してかけた言葉を平伏へいふくする治済はるさだにもそのまま繰り返した。

おもてを上げぃ…」

 家治よりそう命じられた治済はるさだはすぐに顔を上げた。

 顔を上げた治済はるさだの目に御髪番おぐしばん小姓こしょうによってかみわせている将軍・家治の姿が映った。治済はるさだにしては珍しく、急に申し訳ないような気持ちにおそわれた。それと言うのも、髪をわせている姿を他人にさらすのはあまり良いものではなかったからだ。例えるならば、はだかさらすようなものであろうか。

 もっとも、治済はるさだがそんな殊勝しゅしょうな気持ちになったのもごくわずかの間に過ぎない。

 それからすぐに治済はるさだは気持ちを切り換えて本題に入った。
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