天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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一橋治済は牧野成賢の田沼意次断罪に手を貸すことに

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 ともあれこうして勝富かつとみを退出させたところで、治済はるさだは「見苦みぐるしきところを見せた…」と向かい合って座る成賢しげかたにまずはそう声をかけた。

滅相めっそうもござりませぬ…」

 成賢しげかた叩頭こうとうして答えた。

「されば大隅守おおすみのかみ、本日の用向ようむきをうけたまわりたい…」

 治済はるさだ成賢しげかたをそううながした。それにしても御三卿ごさんきょうの江戸町奉行へのこの接し方は異例いれいとも言える丁重ていちょうさであった。

 それというのもわざわざ、

大隅守おおすみのかみ

 そう成賢しげかたの官職名を「フルネーム」で呼びかけ、あまつさえ、

用向ようむきをうけたまわりたい…」

 そう「うけたまわる」などとへりくだってみせるとは、本来であれば到底、考えられないことであった。

 本来ならば、御三卿ごさんきょうであれば江戸町奉行に対しては、

大隅おおすみ…」

 そう官職名を省略して呼び、その上で、用件を聞くつもりなら、

「許す、申すが良い…」

 そう大上段だいじょうだんから命ずるのが普通だからだ。

 だが治済はるさだはそうはせずに、江戸町奉行…、南町奉行の牧野まきの大隅守おおすみのかみ成賢しげかたに対して、異例いれいとも言える丁重ていちょうな応対をしてみせるあたり、如何いか治済はるさだ成賢しげかたの存在を重く見ているのか、それがうかがい知れよう。

 ともあれ成賢しげかた恐縮きょうしゅくしたのは言うまでもない。

「ははっ。されば今夕こんゆう…、暮六つ(午後6時頃)のことでござりまするが…、奥医師おくいし池原いけはら長仙院ちょうせんいん何者なにものかに斬殺ざんさつされましてござりまする…」

 成賢しげかたからそう切り出された治済はるさだ大袈裟おおげさに驚いてみせた。

「なっ、何と、そはまことかっ!?」

「まことでござりまする…、されば田沼様、いえ、田沼殿のお屋敷…、神田橋御門内にありまする上屋敷かみやしきよりの往診おうしんの帰り、自邸じていの門に到着とうちゃくせし折に何者なにものかに背後はいごよりりつけられ…、いえ、一刀いっとうのもと、せられましてござりまする…」

「誰ぞ、見ていたような口ぶりだのう…」

御意ぎょい…、されば賭場とば帰りの旗本と寄合よりあい医師の二人がその現場をしかと見届みとどけましたるそうで…」

「何と…、寄合よりあい医はともかく、旗本の身でありながら賭場とば通いとは…」

 治済はるさだは今度は本当に驚いた。

「さればその旗本が下手人げしゅにん追跡ついせきいたしましたが、結局、比丘尼びくに橋のたもとにて下手人げしゅにん見失みうしない…、なれど下手人げしゅにんは紫の袱紗ふくさを落としましたるそうで…」

「ほう…、紫の袱紗ふくさとな…」

 治済はるさだは目を細めた。ついにきたな…、そう思いもした。

 一方、そんなことには気付かぬ成賢しげかたは「御意ぎょい」と答えると、その紫の袱紗ふくさについてくわしい解説かいせつほどこした。

「さればその紫の袱紗ふくさには七曜しちよう紋があしらわれておりましてござりまする…」

「何と…、七曜しちよう紋とな…、されば田沼の紋所もんどころではあるまいか…」

御意ぎょい…、これはいよいよ口封くちふうじではないかと…」

 成賢しげかたは声をひそませてそう告げた。すると治済はるさだも同感だと言わんばかりにうなずいてみせた。

「されば今後のことにつきまして一橋ひとつばし様に是非ぜひとも相談申し上げようと思い立ちまして、斯様かように非常識なる刻限こくげんにまかりこしましたる次第しだいにて…」

「いやいや、それはかまわぬが、なれどに一体、何ができるか…」

 治済はるさだはここはあえて知らぬフリをし、尚且なおかつ、自信なさそうに応じた。いや、実際には治済はるさだ成賢しげかたが己に何を頼むつもりか大よその見当けんとうはついており、つ、自信もあったが、ここは「演技えんぎ」の「しどころ」であった。

 一方、成賢しげかたはやはりそうとは思いもせずに説明した。

「仮に一橋ひとつばし卿様がご懸念けねん通り、田沼殿が亡き大納言だいなごん様を奥医師おくいしの池原を使つこうて殺害に及び、それが発覚しそうになるや、今度は池原を田沼殿の手の者を使つこうて口封くちふうじを図った…、となれば、田沼殿は当然、裁かれねばなりませぬ…」

如何いかにもその通りだな…」

「なれど田沼殿は大名、それも今を時めく老中なれば、五手掛ごてかかりどころか評定所ひょうじょうしょ一座いちざかかりでも手に余るかと…、何しろ今の老中は皆、田沼殿になびいておりますゆえ、公明こうめい正大せいだいなるお裁きなど到底期待できず、そこで是非ぜひとも一橋ひとつばし卿様の御力おちからえをたまわたく…」

「話は分かった…、されば明日は幸いにも…、と申しては語弊ごへいがあるやも知れぬが2日ぞ…」

「はぁ…」

式日しきじつではないか…」

 治済はるさだにそう指摘してきされて、成賢しげかたは明日が評定所ひょうじょうしょ式日しきじつであることを思い出した。

「ああ、確かにそうでござりました…」

 評定所ひょうじょうしょ式日しきじつとは評定所ひょうじょうしょ一座いちざすなわち、寺社奉行・江戸南北両町奉行・公事くじ勘定かんじょう奉行の三奉行に加えて、老中も評定所ひょうじょうしょに出席して吟味ぎんみものすじと呼ばれる刑事、公事くじ出入でいりすじと呼ばれる民事のそれぞれの裁判を行う日のことであり、これが毎月2日と11日、21日であり、明日が正にそうであった。

 もっとも、ドラマとは違い、毎回、そう都合つごう良く刑事・民事の裁判があるわけではなく、その場合には政事まつりごとに関して話し合われることになり、実際にはほとんどがそうであった。

 それでも今回は評定所ひょうじょうしょの本来の役目である裁判の、それも吟味ぎんみものすじである刑事裁判の機能きのうかせそうであった。

「されば評定所ひょうじょうしょにて田沼殿を…」

 そう確かめるように尋ねる成賢しげかたに対して治済はるさだは、「左様…」と答えた。

「なれど今も申し上げました通り、今の老中は皆…」

 成賢はるさだがそう言いかけたので、治済はるさだは右手をかかげて成賢しげかたを制した。

「分かっておる。されば列席れっせきしようではあるまいか…」

一橋ひとつばし卿様が評定ひょうじょうに、でござりまするか?」

 成賢しげかたは信じられぬといった面持おももちで尋ねた。

「左様」

「なれど…、おそれ多きことながら…」

「分かっておる。如何いか御三卿ごさんきょうと言えども、評定ひょうじょうへの列席れっせき資格がないことぐらいはな…」

御意ぎょい…」

「されば上様に頼む所存しょぞんぞ…」

「上様に?」

「左様。幸い、は将軍家の家族であるがゆえに、いつにても登城が許されておる…、いや、今日のような朔日さくじつ月次つきなみ御礼おんれいこそ登城が許されてはおらぬが…、は将軍家の臣ではないのでそれも当然なのだが…、ともあれ平日はいつにても登城が許されておるゆえに、明日は平日ゆえ、明日、登城して上様に目通めどおりを願う所存しょぞん…」

「その場にて上様にお頼みになられると…」

「左様…、いや、その評定ひょうじょうの場にて大納言だいなごん様を殺害せし下手人げしゅにんが明らかになるとなれば、上様ももしかしたら評定ひょうじょう御出座おでましになられるやも知れぬ…」

「何と…、おそれ多くも上様までもが…」

「左様。されば如何いかに今の老中が、皆、あのどこぞの馬の骨ともわからぬ、盗賊も同然の下賤げせんなる成り上がり者めになびいているとは申せ、上様が目を光らせているとなれば、流石さすがにあの成り上がり者めを…、意次めをかばい立てするのは不可能と申すものにて…」

「なるほど…」

「さればが明日、それも朝早くに登城してその、上様に願い上げようぞ…」

何卒なにとぞ、よしなに…」

 成賢しげかた平伏へいふくした。

「ああ、それとな大隅守おおすみのかみ

 治済はるさだからそう声をかけられた成賢しげかたは顔を少しだけ上げ、「ははっ」と応じた。

大目付おおめつけ目付めつけにも…、いや、これは大名の犯罪であるのでことに大目付おおめつけに話を通した方が良いやも知れぬな…」

 評定所ひょうじょうしょ式日しきじつには大目付おおめつけ目付めつけ監察官かんさつかんとして出廷しゅっていする。治済はるさだはそのことをとらえて、成賢しげかたにそうアドバイスしたのであった。

「それなればすでに手の者に命じて、大目付おおめつけ大屋おおや遠江とおとうみの元へと走らせましてござりまする…」

大屋おおや遠江とおとうみとな?」

御意ぎょい。されば大屋おおや道中どうちゅう奉行を兼務けんむしておりますゆえ…」

成程なるほど…、大目付おおめつけの筆頭というわけだな?」

御意ぎょい。さればその大屋おおや遠江とおとうみに事件の概要がいようを…」

「いや、実に良い処置であった…、これで大屋おおやとか申す大目付おおめつけより他の相役あいやくへと伝わるであろうから、これで大目付おおめつけから邪魔かまてされずに済むと申すものにて…、大目付おおめつけ閑職かんしょくなれば…、その上、己がないがしろにされたなどと、少しくでも思わせたならば、ここぞとばかりに監察役かんさつやくとしての権限けんげんを振りかざしては邪魔じゃまてしようとするに相違そういなく…」

 治済はるさだは顔をしかめさせてそう言った。それに対して成賢しげかたも正しくそれを案じたからこそ、大目付おおめつけの中でも筆頭の大屋おおや正富まさとみには話を通しておいた方が賢明けんめいだろうと、そう判断して内与力ないよりき高原たかはら半右衛門はんえもんをその大屋おおや正富まさとみの元へと走らせたのであった。

御意ぎょい…」

「いや、これは何も大目付おおめつけに限った話ではあるまいがの…、今しがたまでここに居座りし家老とてそうじゃ…」

 治済はるさだ勝富かつとみのことをとらえてそう言い、成賢しげかたを笑わせた。
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