天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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牧野成賢は一橋治済に面会すべく一橋邸に赴くも、家老の水谷勝富に阻まれる

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 それから半右衛門はんえもんは主君・成賢しげかたが外出するために支度したくととのえねばならぬと、そのことにも思いいたり、そこでその支度したくを手伝わせるための女中じょちゅうを呼びつけ、その女中じょちゅうに主君・成賢しげかた支度したく手伝てつだうように命じてから、自らも馬にて大目付おおめつけ大屋おおや遠江守とおとうみのかみ正富まさとみの屋敷がある市ヶ谷いちがや浄瑠璃じょうるりざかへと急いだ。

 与力よりき一騎いっき二騎にきと数えられるだけあって、騎乗きじょう資格が与えられていたのだ。それに仮に騎乗きじょう資格が与えられておらずとも、今は緊急事態ということで、主君・成賢しげかたもきっと騎馬きばを許してくれるに違いなかった。

 ともあれ半右衛門はんえもんは馬にまたがると、懐中かいちゅうには主君・成賢しげかたより預かった大事な書状しょじょうしのばせつつ、目的地へと急いだ。

 一方、成賢しげかた用意よういととのうや、やはり馬にて一橋ひとつばし邸へと急いだ。

 成賢しげかた一橋ひとつばし邸に着いたのは宵の五つ半(午後9時頃)を過ぎたあたりであった。当然、門は固く閉じられていたものの、それでも門番所もんばんしょの役人に身分を明かし、今さらだが、

駄目だめもと…」

 で一橋ひとつばし治済はるさだへの面会を求めるや、意外にもすぐに大門が開かれ、中へとしょうじ入れられた。

 成賢しげかたはそれからかお馴染なじみとも言うべき用人ようにん岩本いわもと喜内きない正信まさのぶの案内にて、奥座敷おくざしきへと通された。無論、成賢しげかた障子しょうじを背にして、下座げざ着座ちゃくざし、治済はるさだの到着を待った。

 だが最初に奥座敷おくざしきに姿を見せたのは治済はるさだではなく、家老の水谷みずのや但馬守たじまのかみ勝富かつとみ田沼たぬま能登守のとのかみ意致おきむねの二人であり、それもただ姿を見せたと言うよりは、

「乗り込んで来た…」

 正しくその表現が似合うほどの勢い、いや、剣幕けんまくであった。

大隅おおすみっ!斯様かようなる刻限こくげん一体いったい何用なにようぞっ!」

 勝富かつとみは本来、治済はるさだ着座ちゃくざすべき上座かみざへと、それこそ、

「ズカズカと…」

 足を踏み入れるや、成賢しげかたを前にして仁王におうちとなり、そう怒鳴どなった。

 一方、意致おきむねはと言うと、成賢しげかたの隣にひかえた。さしずめ名門と成り上がりの差とでも言えようか。

 意致おきむねは意次につらなる成り上がり者の田沼一族であり、そのため、例えば席次せきじというものにはひと一倍いちばい、気をつけており、それゆえ他家たけにおいては、ましてや御三卿ごさんきょうの屋敷においてはまかり間違っても上座かみざに足を踏み入れるような真似まねはしなかった。

 そこが意致おきむねとは正反対の名門の家柄いえがら出身である勝富かつとみとの違い、それも大いなる違いであり、勝富かつとみは名門の水谷みずのや家の出であるだけに、上座かみざに足を踏み入れることに何ら躊躇ちゅうちょはなかった。

 その上、相手が幕府内の序列じょれつでは御三卿ごさんきょう家老たる己の下に位置する江戸町奉行ともなれば、尚更なおさら遠慮えんりょする必要はないと、そう言わんばかりに下座げざにて着座ちゃくざし、ひかえる成賢しげかたを前にして、勝富かつとみ仁王におうちになり、あまつさえ、非常識な刻限こくげん来訪らいほうした成賢しげかたをなじった、いや、怒鳴どなりつけたのであった。

 そこには多分たぶんに、

鬱憤うっぷんらし…」

 その色合いも含まれていた。すなわち、御三卿ごさんきょう家老というポストこそ、幕府内の序列で言えば、江戸町奉行は元より、大目付おおめつけよりも格上かくうえのポストであった。

 だが実際には留守居るすい大目付おおめつけと並ぶ閑職かんしょくであった。

 無論、一橋ひとつばし家では当主・治済はるさだ実子じっし豊千代とよちよ家基いえもとわる次期将軍にえるべく、勝富かつとみ相役あいやく…、同僚である意致おきむね手分てわけして、大奥と表向おもてむき、そして中奥なかおくへと工作、骨を折ったので、それなりに忙しかったものの、それでもそれはあくまで例外であり、普段は御三卿ごさんきょう家老は実に「ヒマ」であった。

 ゆえに楽をしたい、その上、虚栄きょえい心の強い年寄りには大目付おおめつけや江戸町奉行よりも格上かくうえのこの御三卿ごさんきょう家老というポストは留守居るすいに次いで人気のあるポストであった。

 その点、勝富かつとみは今年で御齢おんとし67となり、

前期ぜんき高齢こうれい者」

 の仲間入りこそ既に果たしていたものの、勝富かつとみ当人はまだまだ現役げんえきのつもりでおり、御三卿ごさんきょう家老という格式かくしきこそ高いが閑職かんしょくのポストではき足らずに、例え、格下かくさげになっても良いので、江戸町奉行のような激職げきしょくでバリバリ働きたいとせつに願っていた。

 そこへ勝富かつとみよりもたった1歳とは言え、年上でありながら、江戸町奉行、それも北よりも格式かくしきのある南の町奉行として今でも現役げんえきでバリバリ働いている成賢しげかたが姿を見せたものだから、これで勝富かつとみ怒鳴どなるなと言う方が無理というものであろう。鬱憤うっぷん晴らしとはつまりは成賢しげかたに対する嫉妬しっと心であった。

 かねがね勝富かつとみは己とそれほど年が変わらぬ、それどころか1歳も年上としうえ成賢しげかたのことを意識していた。己よりも1歳も年上でありながら、江戸町奉行、それも南町奉行としてバリバリ働いている成賢しげかた勝富かつとみにはうらやましく思えて仕方しかたがなかったのである。

 その点、北町奉行の曲淵まがりぶち甲斐守かいのかみ景漸かげつぐ御齢おんとし57と、それほど勝富かつとみ嫉妬しっと心をり立てさせることはなかった。年齢が十も違えば、それも相手が十も若ければ、

「己が閑職かんしょくでも仕方しかたあるまい…」

 そうあきらめきれるからだ。だがそれが己とは1歳しか違わない、それどころか1歳も上の成賢しげかたが相手ではそれこそ、

否応いやおうなしに…」

 嫉妬しっと心をき立てさせるというものである。

 いや、だからこそ勝富かつとみはそんな今の御三卿ごさんきょう家老という閑職かんしょくから抜け出すべく、

治済はるさだに手を貸した…」

 のであった。治済はるさだ実子じっし豊千代とよちよを次期将軍にえてやることに成功すれば、実質的権限のある、その上、今の御三卿ごさんきょう家老よりも格上かくうえの、

御側おそば御用ごよう取次とりつぎになれるやも知れぬ…」

 そう思えばこそ、そして信じたからこそ、勝富かつとみ治済はるさだに手を貸し、そして今でもその「約束」が果たされるものと、勝富かつとみはすっかり信じ込んでいた。

 それでも今はまだ、御三卿ごさんきょう家老の身にあまんじていたので、ゆえに勝富かつとみ成賢しげかたへの嫉妬しっと心が今もって消えずにいた。

 それゆえその成賢しげかたが訪問するには明らかに非常識な刻限こくげんとも言える宵の五つ半(午後9時頃)過ぎに、この御三卿ごさんきょう一橋ひとつばし徳川家の屋敷を訪れたために、屋敷を守る家老の勝富かつとみからすれば、これはもう怒鳴どな格好かっこう口実こうじつを与えてくれたようなものであろう。

「既に今は宵の五つ半(午後9時頃)をとうの昔に過ぎておるわっ!うぬも武士のはしくれなれば、門限ぐらいは心得こころえておろうがっ!この慮外りょがい者めがっ!」

 勝富かつとみはここぞとばかり、「鬱憤うっぷんらし」をしてのけた。

 一方、成賢しげかた流石さすが不愉快ふゆかいであった。仮にこの一橋ひとつばし邸の当主である治済はるさだからそのように怒鳴どなられるのならば納得もできようが、勝富かつとみ所詮しょせん御三卿ごさんきょうの家老に過ぎない。

「典型的な虎のる何とやら…」

 成賢しげかた勝富かつとみを見上げながら、ふとそんな格言かくげんを頭に思い浮かべると、隣にひかえている意致おきむねの様子が気になり、そこで成賢しげかたは横にひかえる意致おきむねの方へと体の向きを向け、

「田沼殿も水谷みずのや殿と同意見にて?」

 成賢しげかた意致おきむねに対して気になっていたことを尋ねたのであった。

 意致おきむね勝富かつとみ以上には己の不意ふい来訪らいほうに腹を立ててはいないのではあるまいか…、成賢しげかたはそう思ったからこそ尋ねたのであり、結果は案の定であった。

 すなわち、成賢しげかたから不意ふいにそう問われた意致おきむねはさしずめ、

不意ふいちをらった…」

 それも同然であり、成賢しげかたのその問いに目をおよがせたものである。

 それでも意致おきむね相役あいやく…、同僚である勝富かつとみ手前てまえ

「ええ、まぁ、はい…」

 そう曖昧あいまいに答えたものの、心底、己の不意ふい来訪らいほうを怒っているようには成賢しげかたには見受けられず、

「さもあろう…」

 成賢しげかたはそんな意致おきむねの態度が十分に理解できた。

 それと言うのも意致おきむねは今年で41と、57の景漸かげつぐよりもさらに若く、無論、ここにいる成賢しげかた勝富かつとみよりもさらに若い。

 そうであれば意致おきむね勝富かつとみのように成賢しげかたに対して嫉妬しっと心を抱く余地よちはどこにもなく、逆に、成賢しげかたの方が意致おきむねに対して嫉妬しっと心を抱いたほどである。
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