天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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奥医師・池原良誠、斬殺さる 2

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 それから益五郎ますごろうが再び、現場に戻ると、既にそこには奉行所の役人でくされていた。玄通げんつうが呼んだに違いない。

 その玄通げんつう同心どうしんらしき男の聴取ちょうしゅを受けており、益五郎ますごろうの存在に気付くと、同心どうしんから益五郎ますごろうの方へと視線を動かし、

「おお」

 そう右手をかかげてみせた。それでその同心どうしん益五郎ますごろうの存在に気付くと、玄通げんつうへの聴取ちょうしゅを打ち切り、益五郎ますごろうの方へと近付いてきた。

 玄通げんつうもそのあとを追うようにして益五郎ますごろうの元へと近付いた。

 そしてその同心どうしん益五郎ますごろうの前で立ち止まると、まずは一礼してから、

拙者せっしゃ、南の定町じょうまちまわり同心どうしん原田はらだ和多五郎わたごろうと申します」

 そう自己紹介した。慇懃いんぎんに自己紹介をほどこしてくれたところから察するに、恐らく己の身元を把握はあくしているのだろうと、益五郎ますごろうは察した。

 それは他でもない、玄通げんつうより己のことを…、旗本たる鷲巣わしのす益五郎ますごろう…、その己と共に事件に遭遇そうぐうしたことを玄通げんつうは原田同心に打ち明けたがために、その玄通げんつうが己の存在に気付くや、

「おお」

 とご丁寧ていねいにも右手をかかげてみえたものだから、原田同心も己こそが玄通げんつうと共に事件に遭遇そうぐうした旗本の鷲巣わしのす益五郎えきごろうだと気付き、今の丁重ていちょう挨拶あいさつとなったのであろう。

 ともあれ相手が慇懃いんぎんに自己紹介してくれた以上、こちらも自己紹介するのが武士の、いや、人間の礼儀というものであろう。益五郎ますごろうにしてはめずらしく、

拙者せっしゃ鷲巣わしのす益五郎ますごろう清典きよのりと申します…」

 やはり慇懃いんぎんに、折り目正しくそう自己紹介した。

 すると原田同心は目を丸くした。まさか相手が、それも旗本が町方まちかたである己にここまで丁重ていちょう挨拶あいさつを返してくれるとは思ってもみなかったからだ。

 原田同心は大いに恐縮きょうしゅくした。

「ご丁重ていちょうなるご挨拶あいさついたみ入ります…」

 原田同心は頭を下げたので、これには益五郎ますごろう往生おうじょうした。益五郎ますごろうにとって一番苦手なことは頭を下げられることだからだ。

「まぁ、どうかその辺で…」

 益五郎ますごろうは原田同心の頭を上げさせると、すすんでこれまでの経緯けいいについて原田同心に語って聞かせた。

 すなわち、玄通げんつうとは博打ばくちの帰りにここ、愛宕下あたごしたにさしかかり、そこで奥医師おくいし池原いけはら良誠よしのぶ斬殺ざんさつ事件に遭遇そうぐうしたこと、そして、己は玄通げんつうと共に、池原医師をった下手人げしゅにんしばしの間、にらみあった後、下手人げしゅにんが逃げ出したので、己もそのあとを追いかけたが、比丘尼びくに橋のたもとで下手人げしゅにんを見失ってしまったこと、その際、下手人げしゅにんが、

「紫の袱紗ふくさ

 それを落としたことをも益五郎ますごろうは原田同心に語って聞かせたのであった。

「紫の袱紗ふくさ…」

 原田同心はそう反芻はんすうした。旗本の子弟がこともあろうに官医かんい賭場とばに通い、その帰りに事件に遭遇そうぐうするとは、場合によっては人一人が殺されたことよりも、そちらの方を問題にする者もいるかも知れない。いや、この時代においてはそれも当然の反応なのだが、しかし、今、益五郎ますごろうの目の前にいる原田同心は益五郎ますごろう玄通げんつうと共に賭場とばに通っていたことなど眼中がんちゅうにもない様子であった。

 ともあれ益五郎ますごろう懐中かいちゅうにしまったその紫の袱紗ふくさを取り出すと、原田同心に手渡した。

「これですか…」

「ええ。しかも白い七曜しちょう紋の紋所もんどころが…」

 益五郎ますごろうがその部分を指差すと、原田同心は慌ててそれに目を遣った。

「これは…」

「ええ。恐らくは田沼様の紋所もんどころではないかと…」

「それでは池原殿を斬ったのは田沼様の手の者だと?」

「さぁ、それは何とも…」

 益五郎ますごろうは首をかしげた。益五郎ますごろうの直感としては、

「田沼に罪を着せるため…」

 そうとしか思えなかったからだ。

 益五郎ますごろうはそれから気になっていたことを尋ねた。

「あの…、池原殿は…、やはり…」

 益五郎ますごろうがそう言いかけると、原田同心もそれだけで益五郎ますごろうが何を問いたいのか、それに気付き、答えてくれた。

「即死でした…」

「そうですか…」

 やはりな…、益五郎ますごろうはそう思った。

 そして益五郎ますごろうは池原邸の門前の方へと目をった。門は開いており、恐らくは別の同心が邸内にて妻女から事情を聴いているに違いなかった。妻女は夫の変事へんじを聞かされた上で、事情を聴かれているに違いなく、益五郎ますごろうはそれを思うと、がらにもなく胸が痛んだ。

 益五郎ますごろうは再び、原田同心の方へと振り返ると、「ご妻女さいじょからは…」と切り出した。

 すると原田同心はやはりそうと察して、「今、別の者が聴取ちょうしゅを…」と暗い顔で答えた。原田同心にしても他人事ながら胸が痛んでいるのであろう。

「ところで…、池原殿にはご子息しそくがおられるようで…、玄通げんつう、いや、長谷川殿からそうとうかがっていたもので…」

 益五郎ますごろうがそう言い訳気味に説明すると、原田同心も心得こころえていると言わんばかりにうなずいてみせた。

「長谷川殿からもそのように…、鷲巣わしのす様にそのように教えたと申し立てております」

 原田同心は微笑しながらそう答え、益五郎ますごろうにむずかゆい思いをさせた。様付けで呼ばれることに益五郎ますごろう生憎あいにく、慣れていなかった。

「いや、様などと…」

「いえいえ…、ともあれ矛盾むじゅん点はありませんよ」

 原田同心はやはり微笑びしょうを浮かべたままそう答えると、せがれ法眼ほうげん子明たねあきらは今夜は宿直とのいであることを教えてくれた。

 恐らくは妻女さいじょへの聴取ちょうしゅにより判明した事実であろうが、そうだとすると、せがれ子明たねあきらいまだ、父の変事へんじを知らされぬまま、江戸城にて勤めを果たしているわけで、果たして父の変事へんじを…、父の慙死ざんしを知らされたならば、どれだけなげき悲しむだろうかと、益五郎ますごろうはやはりそれを想像しただけで、胸が痛んだ。

 それも前よりも…、妻女さいじょの悲しみに思いをせた時よりも一層いっそう益五郎ますごろうの胸が痛んだのは恐らく、同じく父を失って間もない自分と重ね合わせたからかも知れなかった。

 いや、益五郎ますごろう表向おもてむきは父の死をなげき悲しんでなどいないように見受けられ、また、益五郎ますごろう自身も父の死などなげき悲しんでなどいないと、そうよそおってはいたものの、それでも内心では、それも深層しんそう心理として、父の死をなげき悲しんでいた。無論むろん、やはり益五郎ますごろう自身は認めたくないであろうが。

 それから間もなくして、池原邸の門から別の同心らしき男がけ出してきたかと思うと、原田同心の元へとけ寄り、そして益五郎ますごろうの存在に気付くと、益五郎ますごろうに聞かれたくなかったのであろう、耳打ちした。

 一方、益五郎ますごろうはと言うと、話の内容に興味がないわけではないものの、それでも相手が己に聞かせたくないような態度を取る以上、無理に聞き出すつもりもなかった。

 さて、原田同心は耳打ちされた内容にひどく驚いた様子を見せ、「本当か」と小声こごえで聞き返したほどであった。

「本当です」

 その耳打ちした同心もそう返すと、「悪いがもう一度、確かめてくれ」と原田同心は指図さしずした。どうやら原田同心はこの現場では一番の古株のようであった。

 ともあれ原田同心はその同心をもう一度、池原邸内へと立ち戻らせると、益五郎ますごろうの方へと視線を戻して、「鷲巣わしのす様…」と切り出した。

「はい?」

「どうも失礼つかまつりました…」

 どうやら原田同心は益五郎ますごろうはずして、「ヒソヒソ話」にきょうじたことをびているようであった。

「いえ、別に構いませんよ…、おそらく探索たんさくに関することでしょうから…」

 考えてみれば部外者に探索たんさくの内容についてベラベラと話す方がどうかしているのだ。

「とんでもない事実が判明いたしましたぞ…」

 どうやら部外者である益五郎ますごろうにも打ち明けてくれるらしい。

「と言うと?」

「今の同心…、小川おがわ久兵衛きゅうべえと申す同心なのですが…」

「小川さんね…」

「ええ。それで小川が申すには…、池原様のご妻女さいじょ藤江ふじえ殿が申されるには…、ああ、池原殿のご妻女さいじょ藤江ふじえ殿と申され…、その藤江ふじえ殿が申されるには、池原様は往診おうしんの帰りだったとか…」

往診おうしん…、ってまさか…」

「ええ、そのまさかです」

「まさか…、田沼様のお屋敷、ですかい?」

 益五郎ますごろうは思わずべらんめぇ調でそう確かめるように尋ねると、原田同心はうなずいた。
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