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一橋治済の陰謀
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「面白くないのう…」
御三卿の一橋家の当主、治済は近習の岩本喜内正信を相手にそう呟いた。
今日、4月1日の恒例の月次御礼も生憎、御三卿はそれこそ、
「お呼びでない…」
というものであった。
御三卿が江戸城に登城できるのは正月元旦と11日の具足の祝い、それに五節句の式日などと、それに平日の登城が許されていた。
それはやはり御三卿は将軍家の家族という位置付けであることに由来し、そこが御三家との違いであった。
だが御三卿もこと、毎月1日と15日の月次御礼だけは登城が許されていなかった。御三卿はことほど左様に、いつにても将軍と顔を合わす機会に恵まれているので、
「月次御礼ぐらいは普段は平日登城など許されていない御三家を始めとする諸大名や、あるいは旗本を優先してやれ…」
御三卿が月次御礼に登城できない理由にはそのような意味が込められていた。
いや、それ以上に、
「御三卿は将軍の臣下ではなく、家族なのだから…」
そのような意味が込められていた。
即ち、月次御礼とは大名や旗本などが将軍との間で、
「主従の絆を再確認するため…」
そのような「コンセプト」があり、裏を返すと月次御礼に登城する大名や旗本たちは皆、将軍の家臣というわけだ。それは御三家もその例外ではなかった。つまりは御三家も将軍の家臣に過ぎないというわけだ。
それに比して御三卿はと言うと、将軍の家臣ではなく、将軍の家臣として扱われており、
「将軍の家族である以上、将軍との間で主従の絆を再確認する月次御礼にはあえて、登城する必要はあるまい…」
御三卿が月次御礼には登城できない、いや、正確に言うならば登城しない理由であり、つまり御三卿がその、今日のような月次御礼に登城しないのは御三卿にとっては、
「優遇」
であったのだ。
それゆえ治済は月次御礼に登城できないことを捉えて、近習の岩本喜内を相手に、
「面白くないのう…」
そう呟いたわけでは決してない。
治済が、「面白くないのう…」と呟いたのは他でもない、田沼意知がつい1週間ほど前…、先月の3月24日に江戸城本丸は中奥のそれも最奥部に位置する御用之間に招かれたことを指しての、
「面白くない…」
であった。
さて、治済にその「情報」をもたらしたのは他でもない、今、治済の相手をしている近習の岩本喜内その人であった。
岩本喜内の甥に当たる岩本正五郎正倫は江戸城本丸の中奥にて小納戸を勤めているので、それゆえ中奥の情報が叔父に当たる喜内へと、それこそ、
「リアルタイム」
で伝わるのであった。
と言っても、正五郎から喜内へと直に伝わるわけではなく、正五郎の父にして喜内の実兄に当たる岩本内膳正正利を介してであった。
この正五郎の父、内膳正正利もまた、小普請奉行として江戸城本丸は表向にて勤めており、それゆえ正利は我が子・正五郎と共にほぼ毎日、虎ノ御門内にある屋敷から勤務先である江戸城本丸へと「通勤」していたのだ。
そして中奥であった出来事について、正五郎は虎ノ御門内にある自邸へと帰宅してから父・正利にそのことを語るのが習慣であり、そうして倅・正五郎より伝え聞いたその中奥の情報を書状にしたためて、ここ一橋邸にて近習として一橋家、と言うよりは治済個人に仕える弟の喜内へとそれこそ伝言ゲームの要領で伝えるのが日課と化していた。
だがこと、今回の意知が将軍の秘密部屋とも言うべき御用之間へと招かれたというその情報については中々、喜内の元へと伝わらず、漸くその「情報」が喜内に齎されたのは昨日、3月31日のことであった。
このことは、中々に正五郎が父・正利に伝えられなかったことを意味する。余程に厳重な緘口令が敷かれていたのであろう。
それでも意知が御用之間に招かれてから6日目の先月30日にして、漸くに正五郎は実はと、父・正利にそう切り出して打ち明けると、それを伝え聞いた正利はその「情報」を書状にしたためて、ここ一橋邸にて暮らす弟・喜内へとその書状を届けたのがつい昨日のことであった。
喜内はその書状の中身を直ちに、治済に伝えようかとも思ったが、明日になれば…、即ち、今日4月1日になれば、家老の水谷勝富と田沼意致が不在となるので、報告は今日まで持ち越したというわけだ。
御三卿家老は御三卿の「お目付役」としての色彩を帯びる、
「附人」
ゆえに常に邸にて駐在せねばならなかった。
但し、御三卿家老は江戸町奉行や勘定奉行と同じく、相役…、同僚がいるので、二人して邸に詰める必要はなく、交代で詰めれば良かった。
そこで二人の家老のうち一人の家老が邸に詰めている間は、もう一人の家老は江戸城に登城して、中奥においては御側衆と、表向においては、
「御城附」
とも呼ばれる御三家の留守居、あるいは、
「御城使」
とも呼ばれるその他の大名の江戸留守居とそれぞれ情報交換に勤しむ。ちなみにその他の大名の江戸留守居は蘇鉄之間に詰めていた。
そのような御三卿家老のために中奥と表向の双方に詰所が与えられており、中奥においては御小納戸東部屋のすぐ傍に、表向においては菊之間の一角にそれぞれ詰所が与えられており、御三卿家老はほぼ毎日、交代で江戸城に登城しては御三家やその他の大名の江戸留守居と情報交換をすべく、それらの詰所に詰めるのを日課としていた。
尤も、今日のような月次御礼の式日ともなると話は別である。何しろ御三卿家老も幕臣、即ち、
「将軍の家臣…」
すうである以上、将軍との間で主従の絆を再確認できるこの、月次御礼の「イベント」に出席できる「恩典」を有していたからだ。
つまり御三卿家老は今日のような式日には職務から解放されて、二人して江戸城に登城しては将軍への拝謁が叶うのであった。つまりは主従の絆が再確認できるのであった。
それゆえその月次御礼の式日に当たる今日、4月1日は勝富も意致も江戸城に登城していて不在であったのだ。
そこで喜内は勝富と意致が不在となる今日を狙って、治済に伝えることにしたのだ。
一方、主君、治済にしても、喜内からその報告を聞き終えるや、まずは喜内のこの「処置」を褒めそやしたものである。
それは他でもない、治済は勝富と意致の両名に対して心底、心を許してはいなかったからだ。
成程、勝富にしろ意致にしろ、息・豊千代の西之丸入りの実現に向けて、つまりは豊千代の次期将軍就任に向けて随分と骨を折ってもらった。
勝富も意致も本来ならば御三卿の一橋家老として、この一橋家の当主である治済の、
「お目付役」
としての性格を帯びている「附人」であった。
それを治済がそんな勝富と意致の両名に対して、家基亡き後の次期将軍に我が子・豊千代を何としてでも擁立したいので、
「そのための工作を…」
治済は二人に頭を下げてまで頼んだのであった。
それに対して勝富も意致もまさかに御三卿の当主たる治済から頭を下げられるとは思いもせず、正に、
「完全に想定外…」
であったので、二人は大いに戸惑った。
だがこうして御三卿の一橋家という、それこそ、
「金看板」
を背負う治済から頭を下げられては、如何に御三卿当主のお目付役としての色彩を帯びている家老とは言え、否やはあり得なかった。
意気に感じたということもあるが、それ以上に打算もあった。
即ち、ここで豊千代の次期将軍就任に手を貸せば、
「その後の出世は思うがまま…」
という打算であった。
二人はそのような「情」と「欲」とが絡み合い、治済の頼みを引き受けるや、役割分担することにした。
即ち、勝富が大奥の工作を、意致は中奥と表向の工作をそれぞれ担うこととしたのであった。
この役割分担だが、水谷勝富が大奥に対して太いパイプがあるのに対して、意致は中奥と表向《おもてむき》の双方に対して太いパイプがあったからだ。
具体的に説明すると、まず水谷勝富だが、本家の水谷家の祖先に当たる左京亮勝宗の妻女・栄子は何と、夫・勝宗の死後に大奥に上臈年寄として招かれたのであった。
そのような縁があってか、今でもその縁が水谷家と大奥との間でさしずめ、
「地下水脈…」
それを思わせるかのように流れており、水谷家は今でも年頃の娘を大奥にあがらせ、大奥勤めさせており、それゆえその水谷家に列なる勝富が大奥の工作を担うことにしたわけである。
一方、田沼意致だが、言うまでもなく、表向における事実上の権力者とも言うべき老中・田沼意次の甥に当たる。意次の実弟に当たる能登守意誠の嫡男こそがこの意致である。
また、伯父・意次は中奥を出世の足がかりとし、今でも中奥には、
「意次シンパ」
が多く、何より田沼家は有力な中奥役人と縁戚関係で結ばれていた。
その一例を挙げるならばやはり何と言っても、新見家との縁であろう。
意次・意誠の実妹、即ち、意致の叔母は西之丸にて小納戸頭取の重職にあった新見讃岐守正則の妻女である。
尤も、家基の薨去に伴い、西之丸の主は不在となってしまったので、そうなると西之丸は新たな主を迎えるまでは、
「閉城」
の措置が取られ、そうなると畢竟、西之丸の主であった、今は亡き家基に仕えていた役人たちも西之丸から出て行かねばならず、ある者は本丸の同役へとスライド、異動し、またある者は別のお役へと、そしてまたある者は寄合入りを果たしたりと千差万別であり、そんな中、正則は寄合入りを果たした。
寄合とは家禄が3千石以上の無役、言わば、
「ニート」
の旗本が就職先が見つかるまでの間、待機する集まりのような組織であり、その点、正則が当主を務める新見家の家禄は700石に過ぎないので、本来なれば寄合入りの資格がないものの、しかし、西之丸にて小納戸頭取という重職を務めていた恩典として、特に寄合入りを果たすことが許されたのであった。これを、
「役寄合」
と言い、従五位下の諸大夫役を務めた者がこの恩典に与ることができ、正則が勤めた西之丸の小納戸頭取もまた、従五位下の諸大夫役であるので、その小納戸頭取を勤めた正則も当然に、
「役寄合」
を果たせたというわけだ。
ともあれ正則は西之丸において小納戸頭取として配下とも言うべき個々の小納戸を指揮していたので、西之丸の小納戸から本丸の小納戸へと、
「スライド」
を果たすことができた者の中には今でも正則を慕う者が多く、何より正則の息、意致からすれば従弟に当たる大炊頭正徧自身が本丸にて小姓頭取を務めていたのだ。
田沼家はこのように中奥の実力者である新見家と縁続きになることで、中奥において根を張ることに成功し、意次自身も将軍・家治より、
「中奥兼帯」
を命ぜられていたので、老中という表向の最高権力者の顔と同時に、中奥役人としての顔も持ち合わせていたのだ。
そのような事情があって、その田沼家、ひいては意次の縁者である意致が中奥と表向の工作を担い、結果、水谷勝富による大奥の工作とも相俟って、豊千代の西之丸入り、即ち、次期将軍就任が内定した次第である。
いや、実を言えば大奥の工作にしても意致ができないわけではなかった。それどころか、
「大奥への食い込み…」
という観点からすれば、意致、ひいては田沼家の方が水谷家よりも遥かに凌駕していただろうが、しかし、意致は中奥と表向の工作まで担うことにしたので、とてもではないが、大奥の工作までは手が回らず、そこで大奥の工作は水谷家の勝富に任せることにしたのだ。
尤も、意致自身こそ大奥の工作には「ノータッチ」であったものの、しかし、事前に伯父・意次に勝富の「サポート」を頼んだのであった。勝富一人に大奥の工作を任せたのでは、
「心許ない…」
誰あろう、治済がそう判断したからだ。
大奥の工作は勝富が、中奥と表向の工作は意致がそれぞれ担うことは勿論、治済の耳にも入れておいた。そのように役割分担するつもりであることを、勝富と意致が二人して、治済に伝えたのであった。
すると治済はそれを了承した上で、しかし後で、勝富が江戸城に登城し、意致が邸にて留守を預かっていた時を狙って、治済は意致に対して、勝富のその「力量」を疑問視したのであった。即ち、
「果たして、勝富一人に大奥の工作を任せても大丈夫か…」
そんな懸念を治済は意致に漏らしたのであった。
治済はその上で、
「意次の手を借りたいので、意致より意次にその旨、伝えて欲しい…」
意致にそう頼んだのであった。つまりは意次に勝富の「サポート」をして欲しいと、治済は頼んでいたのだ。
実は意致も同じ懸念を抱いていたので、治済からのその頼みを即座に引き受けた。
尤も、意致から勝富に対して、それも勝富から「サポート」を頼まれたわけでもないのに、それを…、意次の「サポート」の件を持ち出せば、勝富の機嫌を大いに害することになろう。何しろそれはとりもなおさず、勝富の「実力」を不安視、疑問視するも同然だからだ。
いや、実際に不安視、疑問視しているわけだが、しかし、それをはっきりと態度に出してしまえば、勝富の面子を潰すことになる。
そこで意致は意次に何もかも事情を打ち明けた上で、
「勝富に気付かれぬよう、後方支援を…」
そう頼んだのであった。具体的には勝富が大奥の工作に乗り出す前に、意次が大奥の年寄といった実力者にかくかくしかじかと、事情を打ち明けた上で、
「豊千代君を是非とも将軍家御養君にして差し上げたいので、大奥のご賛同を賜りたい…、勝富からこのような陳情を持ちかけられたならば、快諾して欲しい…」
意次が大奥サイドに対して事前にそう「根回し」を済ませていたからこそ、勝富の大奥の工作もうまくいったのであり、仮に意次の「根回し」がなかったならば、果たして勝富の工作がうまくいったかどうか、甚だ疑問ではあった。無論、その事実は今でも勝富は知らず、恐らくは永遠に知ることはないだろう。
ともあれ、そうであれば当然、治済は勝富と意致の二人に感謝すべきところであったが、しかし実際には治済はそれほど二人に感謝していなかった。それどころか、
「良い遣いっパシリであった…」
治済は二人の働き振りをその程度にしか評価していなかったのだ。
治済にとって、家老の二人はあくまで、そしてどこまでいっても、お目付役としての色彩が強い、
「附人」
の一人にしか過ぎず、その点、勝富も意致も判断が甘かったと言うしかない。
勝富にしろ、そして意致にしろ、治済から頭を下げられてまで豊千代の擁立を頼まれたために、二人もそれを意気に感ずると同時に、
「立身出世も夢ではない…」
そう信じたからこそ、豊千代擁立に骨を折ったにもかかわらず、治済としてはそんな二人を端から使い捨てにするつもりでいたのだ。
例え、豊千代が晴れて征夷大将軍となり、その豊千代が己を将軍にしてくれたも同然の勝富と意致の二人を旗本にとっての、
「出世双六の上がり」
とも言うべき御側御用取次に据えようとしても、実父である治済自身、それを許すつもりはなかった。
勝富にしろ意致にしろ、
「己が豊千代を将軍にしてやった…」
そんな自負があるに相違なく、そのような二人が例えば、御側御用取次に就こうものなら、
「いよいよもって図に乗るに違いない…」
それこそが治済が恩人とも言うべき二人を使い捨てにする動機であった。
図に乗るのは己一人で充分…、それが治済の偽らざる心境であった。
いや、これで勝富や意致が己の縁者であれば、多少、図に乗ったところで治済も大目にも見られよう。
だが生憎、勝富にしろ意致にしろ、治済の縁者ではない。
それに比べて、今、治済の目の前に座っている近習の岩本喜内は違った。即ち、治済の縁者であったのだ。
岩本喜内には実兄にして小普請奉行の内膳正正利の他に、お富なる妹がいるのだが、このお富こそが誰あろう、豊千代の生母なのである。つまり、治済の側妾であり、お富は治済との間に豊千代をもうけたというわけだ。
それゆえ喜内にとっては、そして兄の正利にしてもそうだが、豊千代は甥に当たり、一方、豊千代からすれば正利・喜内兄弟は伯父に当たる。
かかる事情から治済はこと、岩本一族には気を許していたのだ。とりわけ喜内は一橋家の近習として、いや、治済個人の近習として、
「汚れ仕事」
も厭わず、治済からの信頼が殊の外、厚かった。
さて、その喜内より意知が1週間以上前、先月の3月24日に将軍・家治の命により中奥の、それも最奥部にある将軍の秘密部屋とも称される御用之間に招かれたことを伝えられた治済は喜内の意見を求めた。
「これをどう見る?」
「正直に申し上げましても宜しゅうござりまするか?」
喜内はわざわざそう前置きした。
「許す。腹蔵なき意見が聞きたい」
治済がそう促すと、「されば…」と喜内は切り出した。
「24日という点が気がかりにて…」
「家基が月命日ゆえか?」
「御意」
「まさかに…、家基が死の真相に上様が気付かれたのではあるまいの…」
「仮に上様がお気付きになられたとして、その場合には上様を…、殿を召し出されるはずにて…」
喜内は治済のことを「上様」と呼び、治済もそれを当然のことと聞き流していた。
それはともかく、確かに喜内の言う通りだと、治済は自分にそう言い聞かせた。
「されば杞憂に過ぎぬと申すか?」
「いえ、そうとも…」
「なに?」
「確かに上様は家基殿の死の真相には気付かれていないか、あるいは気付かれていても確たる証がなく、そこで意知を召し出されたのではないかと…」
「それはつまり…、意知に家基が死の真相を探らせようと…、さように申すのではあるまいの?」
「正しく…、意知は雁之間詰なれど、奏者番などのお役には就いており申さず…」
「探索の時間はたっぷりあると申すか?」
「御意…」
「まずいな…」
「仮に意知が探索に乗り出そうとも、死の真相が暴かれることはないかと…」
「何ゆえに左様に断言できる?」
「上様の御前にて斯かることを申し上げまするは気が引けまするが…」
「構わぬ。申せ」
「ははっ。されば意知は所詮は大名の嫡子に過ぎず…」
「お坊っちゃんには何もできまいと申すのだな?」
治済は苦笑しながら尋ねると、喜内は如何にも申し訳なさそうな表情を浮かべ、「御意」と小さな声で答えた。
お坊っちゃんには何もできまい…、それはそのまま治済にも当て嵌まるからだ。
「なれど、万が一のことも考えておかずばなるまいて…」
「万が一…、意知が家基殿が死の真相を探り当てた場合、でござりまするか?」
「左様…」
「やはり…、ここは口を塞ぎまするか?」
「意知の口をか?如何に下賤なる成り上がり者、それこそ盗賊の小倅とは申せ、仮にも大名が嫡子ぞ…、しかも上様の寵愛も厚い、となればこの時期に意知の口を塞ぐのは如何なものであろうかのう…」
「いえ、意知ではのうて…」
喜内にそう示唆された治済は「成程」と合点がいった様子で別の人物の名を挙げた。
御三卿の一橋家の当主、治済は近習の岩本喜内正信を相手にそう呟いた。
今日、4月1日の恒例の月次御礼も生憎、御三卿はそれこそ、
「お呼びでない…」
というものであった。
御三卿が江戸城に登城できるのは正月元旦と11日の具足の祝い、それに五節句の式日などと、それに平日の登城が許されていた。
それはやはり御三卿は将軍家の家族という位置付けであることに由来し、そこが御三家との違いであった。
だが御三卿もこと、毎月1日と15日の月次御礼だけは登城が許されていなかった。御三卿はことほど左様に、いつにても将軍と顔を合わす機会に恵まれているので、
「月次御礼ぐらいは普段は平日登城など許されていない御三家を始めとする諸大名や、あるいは旗本を優先してやれ…」
御三卿が月次御礼に登城できない理由にはそのような意味が込められていた。
いや、それ以上に、
「御三卿は将軍の臣下ではなく、家族なのだから…」
そのような意味が込められていた。
即ち、月次御礼とは大名や旗本などが将軍との間で、
「主従の絆を再確認するため…」
そのような「コンセプト」があり、裏を返すと月次御礼に登城する大名や旗本たちは皆、将軍の家臣というわけだ。それは御三家もその例外ではなかった。つまりは御三家も将軍の家臣に過ぎないというわけだ。
それに比して御三卿はと言うと、将軍の家臣ではなく、将軍の家臣として扱われており、
「将軍の家族である以上、将軍との間で主従の絆を再確認する月次御礼にはあえて、登城する必要はあるまい…」
御三卿が月次御礼には登城できない、いや、正確に言うならば登城しない理由であり、つまり御三卿がその、今日のような月次御礼に登城しないのは御三卿にとっては、
「優遇」
であったのだ。
それゆえ治済は月次御礼に登城できないことを捉えて、近習の岩本喜内を相手に、
「面白くないのう…」
そう呟いたわけでは決してない。
治済が、「面白くないのう…」と呟いたのは他でもない、田沼意知がつい1週間ほど前…、先月の3月24日に江戸城本丸は中奥のそれも最奥部に位置する御用之間に招かれたことを指しての、
「面白くない…」
であった。
さて、治済にその「情報」をもたらしたのは他でもない、今、治済の相手をしている近習の岩本喜内その人であった。
岩本喜内の甥に当たる岩本正五郎正倫は江戸城本丸の中奥にて小納戸を勤めているので、それゆえ中奥の情報が叔父に当たる喜内へと、それこそ、
「リアルタイム」
で伝わるのであった。
と言っても、正五郎から喜内へと直に伝わるわけではなく、正五郎の父にして喜内の実兄に当たる岩本内膳正正利を介してであった。
この正五郎の父、内膳正正利もまた、小普請奉行として江戸城本丸は表向にて勤めており、それゆえ正利は我が子・正五郎と共にほぼ毎日、虎ノ御門内にある屋敷から勤務先である江戸城本丸へと「通勤」していたのだ。
そして中奥であった出来事について、正五郎は虎ノ御門内にある自邸へと帰宅してから父・正利にそのことを語るのが習慣であり、そうして倅・正五郎より伝え聞いたその中奥の情報を書状にしたためて、ここ一橋邸にて近習として一橋家、と言うよりは治済個人に仕える弟の喜内へとそれこそ伝言ゲームの要領で伝えるのが日課と化していた。
だがこと、今回の意知が将軍の秘密部屋とも言うべき御用之間へと招かれたというその情報については中々、喜内の元へと伝わらず、漸くその「情報」が喜内に齎されたのは昨日、3月31日のことであった。
このことは、中々に正五郎が父・正利に伝えられなかったことを意味する。余程に厳重な緘口令が敷かれていたのであろう。
それでも意知が御用之間に招かれてから6日目の先月30日にして、漸くに正五郎は実はと、父・正利にそう切り出して打ち明けると、それを伝え聞いた正利はその「情報」を書状にしたためて、ここ一橋邸にて暮らす弟・喜内へとその書状を届けたのがつい昨日のことであった。
喜内はその書状の中身を直ちに、治済に伝えようかとも思ったが、明日になれば…、即ち、今日4月1日になれば、家老の水谷勝富と田沼意致が不在となるので、報告は今日まで持ち越したというわけだ。
御三卿家老は御三卿の「お目付役」としての色彩を帯びる、
「附人」
ゆえに常に邸にて駐在せねばならなかった。
但し、御三卿家老は江戸町奉行や勘定奉行と同じく、相役…、同僚がいるので、二人して邸に詰める必要はなく、交代で詰めれば良かった。
そこで二人の家老のうち一人の家老が邸に詰めている間は、もう一人の家老は江戸城に登城して、中奥においては御側衆と、表向においては、
「御城附」
とも呼ばれる御三家の留守居、あるいは、
「御城使」
とも呼ばれるその他の大名の江戸留守居とそれぞれ情報交換に勤しむ。ちなみにその他の大名の江戸留守居は蘇鉄之間に詰めていた。
そのような御三卿家老のために中奥と表向の双方に詰所が与えられており、中奥においては御小納戸東部屋のすぐ傍に、表向においては菊之間の一角にそれぞれ詰所が与えられており、御三卿家老はほぼ毎日、交代で江戸城に登城しては御三家やその他の大名の江戸留守居と情報交換をすべく、それらの詰所に詰めるのを日課としていた。
尤も、今日のような月次御礼の式日ともなると話は別である。何しろ御三卿家老も幕臣、即ち、
「将軍の家臣…」
すうである以上、将軍との間で主従の絆を再確認できるこの、月次御礼の「イベント」に出席できる「恩典」を有していたからだ。
つまり御三卿家老は今日のような式日には職務から解放されて、二人して江戸城に登城しては将軍への拝謁が叶うのであった。つまりは主従の絆が再確認できるのであった。
それゆえその月次御礼の式日に当たる今日、4月1日は勝富も意致も江戸城に登城していて不在であったのだ。
そこで喜内は勝富と意致が不在となる今日を狙って、治済に伝えることにしたのだ。
一方、主君、治済にしても、喜内からその報告を聞き終えるや、まずは喜内のこの「処置」を褒めそやしたものである。
それは他でもない、治済は勝富と意致の両名に対して心底、心を許してはいなかったからだ。
成程、勝富にしろ意致にしろ、息・豊千代の西之丸入りの実現に向けて、つまりは豊千代の次期将軍就任に向けて随分と骨を折ってもらった。
勝富も意致も本来ならば御三卿の一橋家老として、この一橋家の当主である治済の、
「お目付役」
としての性格を帯びている「附人」であった。
それを治済がそんな勝富と意致の両名に対して、家基亡き後の次期将軍に我が子・豊千代を何としてでも擁立したいので、
「そのための工作を…」
治済は二人に頭を下げてまで頼んだのであった。
それに対して勝富も意致もまさかに御三卿の当主たる治済から頭を下げられるとは思いもせず、正に、
「完全に想定外…」
であったので、二人は大いに戸惑った。
だがこうして御三卿の一橋家という、それこそ、
「金看板」
を背負う治済から頭を下げられては、如何に御三卿当主のお目付役としての色彩を帯びている家老とは言え、否やはあり得なかった。
意気に感じたということもあるが、それ以上に打算もあった。
即ち、ここで豊千代の次期将軍就任に手を貸せば、
「その後の出世は思うがまま…」
という打算であった。
二人はそのような「情」と「欲」とが絡み合い、治済の頼みを引き受けるや、役割分担することにした。
即ち、勝富が大奥の工作を、意致は中奥と表向の工作をそれぞれ担うこととしたのであった。
この役割分担だが、水谷勝富が大奥に対して太いパイプがあるのに対して、意致は中奥と表向《おもてむき》の双方に対して太いパイプがあったからだ。
具体的に説明すると、まず水谷勝富だが、本家の水谷家の祖先に当たる左京亮勝宗の妻女・栄子は何と、夫・勝宗の死後に大奥に上臈年寄として招かれたのであった。
そのような縁があってか、今でもその縁が水谷家と大奥との間でさしずめ、
「地下水脈…」
それを思わせるかのように流れており、水谷家は今でも年頃の娘を大奥にあがらせ、大奥勤めさせており、それゆえその水谷家に列なる勝富が大奥の工作を担うことにしたわけである。
一方、田沼意致だが、言うまでもなく、表向における事実上の権力者とも言うべき老中・田沼意次の甥に当たる。意次の実弟に当たる能登守意誠の嫡男こそがこの意致である。
また、伯父・意次は中奥を出世の足がかりとし、今でも中奥には、
「意次シンパ」
が多く、何より田沼家は有力な中奥役人と縁戚関係で結ばれていた。
その一例を挙げるならばやはり何と言っても、新見家との縁であろう。
意次・意誠の実妹、即ち、意致の叔母は西之丸にて小納戸頭取の重職にあった新見讃岐守正則の妻女である。
尤も、家基の薨去に伴い、西之丸の主は不在となってしまったので、そうなると西之丸は新たな主を迎えるまでは、
「閉城」
の措置が取られ、そうなると畢竟、西之丸の主であった、今は亡き家基に仕えていた役人たちも西之丸から出て行かねばならず、ある者は本丸の同役へとスライド、異動し、またある者は別のお役へと、そしてまたある者は寄合入りを果たしたりと千差万別であり、そんな中、正則は寄合入りを果たした。
寄合とは家禄が3千石以上の無役、言わば、
「ニート」
の旗本が就職先が見つかるまでの間、待機する集まりのような組織であり、その点、正則が当主を務める新見家の家禄は700石に過ぎないので、本来なれば寄合入りの資格がないものの、しかし、西之丸にて小納戸頭取という重職を務めていた恩典として、特に寄合入りを果たすことが許されたのであった。これを、
「役寄合」
と言い、従五位下の諸大夫役を務めた者がこの恩典に与ることができ、正則が勤めた西之丸の小納戸頭取もまた、従五位下の諸大夫役であるので、その小納戸頭取を勤めた正則も当然に、
「役寄合」
を果たせたというわけだ。
ともあれ正則は西之丸において小納戸頭取として配下とも言うべき個々の小納戸を指揮していたので、西之丸の小納戸から本丸の小納戸へと、
「スライド」
を果たすことができた者の中には今でも正則を慕う者が多く、何より正則の息、意致からすれば従弟に当たる大炊頭正徧自身が本丸にて小姓頭取を務めていたのだ。
田沼家はこのように中奥の実力者である新見家と縁続きになることで、中奥において根を張ることに成功し、意次自身も将軍・家治より、
「中奥兼帯」
を命ぜられていたので、老中という表向の最高権力者の顔と同時に、中奥役人としての顔も持ち合わせていたのだ。
そのような事情があって、その田沼家、ひいては意次の縁者である意致が中奥と表向の工作を担い、結果、水谷勝富による大奥の工作とも相俟って、豊千代の西之丸入り、即ち、次期将軍就任が内定した次第である。
いや、実を言えば大奥の工作にしても意致ができないわけではなかった。それどころか、
「大奥への食い込み…」
という観点からすれば、意致、ひいては田沼家の方が水谷家よりも遥かに凌駕していただろうが、しかし、意致は中奥と表向の工作まで担うことにしたので、とてもではないが、大奥の工作までは手が回らず、そこで大奥の工作は水谷家の勝富に任せることにしたのだ。
尤も、意致自身こそ大奥の工作には「ノータッチ」であったものの、しかし、事前に伯父・意次に勝富の「サポート」を頼んだのであった。勝富一人に大奥の工作を任せたのでは、
「心許ない…」
誰あろう、治済がそう判断したからだ。
大奥の工作は勝富が、中奥と表向の工作は意致がそれぞれ担うことは勿論、治済の耳にも入れておいた。そのように役割分担するつもりであることを、勝富と意致が二人して、治済に伝えたのであった。
すると治済はそれを了承した上で、しかし後で、勝富が江戸城に登城し、意致が邸にて留守を預かっていた時を狙って、治済は意致に対して、勝富のその「力量」を疑問視したのであった。即ち、
「果たして、勝富一人に大奥の工作を任せても大丈夫か…」
そんな懸念を治済は意致に漏らしたのであった。
治済はその上で、
「意次の手を借りたいので、意致より意次にその旨、伝えて欲しい…」
意致にそう頼んだのであった。つまりは意次に勝富の「サポート」をして欲しいと、治済は頼んでいたのだ。
実は意致も同じ懸念を抱いていたので、治済からのその頼みを即座に引き受けた。
尤も、意致から勝富に対して、それも勝富から「サポート」を頼まれたわけでもないのに、それを…、意次の「サポート」の件を持ち出せば、勝富の機嫌を大いに害することになろう。何しろそれはとりもなおさず、勝富の「実力」を不安視、疑問視するも同然だからだ。
いや、実際に不安視、疑問視しているわけだが、しかし、それをはっきりと態度に出してしまえば、勝富の面子を潰すことになる。
そこで意致は意次に何もかも事情を打ち明けた上で、
「勝富に気付かれぬよう、後方支援を…」
そう頼んだのであった。具体的には勝富が大奥の工作に乗り出す前に、意次が大奥の年寄といった実力者にかくかくしかじかと、事情を打ち明けた上で、
「豊千代君を是非とも将軍家御養君にして差し上げたいので、大奥のご賛同を賜りたい…、勝富からこのような陳情を持ちかけられたならば、快諾して欲しい…」
意次が大奥サイドに対して事前にそう「根回し」を済ませていたからこそ、勝富の大奥の工作もうまくいったのであり、仮に意次の「根回し」がなかったならば、果たして勝富の工作がうまくいったかどうか、甚だ疑問ではあった。無論、その事実は今でも勝富は知らず、恐らくは永遠に知ることはないだろう。
ともあれ、そうであれば当然、治済は勝富と意致の二人に感謝すべきところであったが、しかし実際には治済はそれほど二人に感謝していなかった。それどころか、
「良い遣いっパシリであった…」
治済は二人の働き振りをその程度にしか評価していなかったのだ。
治済にとって、家老の二人はあくまで、そしてどこまでいっても、お目付役としての色彩が強い、
「附人」
の一人にしか過ぎず、その点、勝富も意致も判断が甘かったと言うしかない。
勝富にしろ、そして意致にしろ、治済から頭を下げられてまで豊千代の擁立を頼まれたために、二人もそれを意気に感ずると同時に、
「立身出世も夢ではない…」
そう信じたからこそ、豊千代擁立に骨を折ったにもかかわらず、治済としてはそんな二人を端から使い捨てにするつもりでいたのだ。
例え、豊千代が晴れて征夷大将軍となり、その豊千代が己を将軍にしてくれたも同然の勝富と意致の二人を旗本にとっての、
「出世双六の上がり」
とも言うべき御側御用取次に据えようとしても、実父である治済自身、それを許すつもりはなかった。
勝富にしろ意致にしろ、
「己が豊千代を将軍にしてやった…」
そんな自負があるに相違なく、そのような二人が例えば、御側御用取次に就こうものなら、
「いよいよもって図に乗るに違いない…」
それこそが治済が恩人とも言うべき二人を使い捨てにする動機であった。
図に乗るのは己一人で充分…、それが治済の偽らざる心境であった。
いや、これで勝富や意致が己の縁者であれば、多少、図に乗ったところで治済も大目にも見られよう。
だが生憎、勝富にしろ意致にしろ、治済の縁者ではない。
それに比べて、今、治済の目の前に座っている近習の岩本喜内は違った。即ち、治済の縁者であったのだ。
岩本喜内には実兄にして小普請奉行の内膳正正利の他に、お富なる妹がいるのだが、このお富こそが誰あろう、豊千代の生母なのである。つまり、治済の側妾であり、お富は治済との間に豊千代をもうけたというわけだ。
それゆえ喜内にとっては、そして兄の正利にしてもそうだが、豊千代は甥に当たり、一方、豊千代からすれば正利・喜内兄弟は伯父に当たる。
かかる事情から治済はこと、岩本一族には気を許していたのだ。とりわけ喜内は一橋家の近習として、いや、治済個人の近習として、
「汚れ仕事」
も厭わず、治済からの信頼が殊の外、厚かった。
さて、その喜内より意知が1週間以上前、先月の3月24日に将軍・家治の命により中奥の、それも最奥部にある将軍の秘密部屋とも称される御用之間に招かれたことを伝えられた治済は喜内の意見を求めた。
「これをどう見る?」
「正直に申し上げましても宜しゅうござりまするか?」
喜内はわざわざそう前置きした。
「許す。腹蔵なき意見が聞きたい」
治済がそう促すと、「されば…」と喜内は切り出した。
「24日という点が気がかりにて…」
「家基が月命日ゆえか?」
「御意」
「まさかに…、家基が死の真相に上様が気付かれたのではあるまいの…」
「仮に上様がお気付きになられたとして、その場合には上様を…、殿を召し出されるはずにて…」
喜内は治済のことを「上様」と呼び、治済もそれを当然のことと聞き流していた。
それはともかく、確かに喜内の言う通りだと、治済は自分にそう言い聞かせた。
「されば杞憂に過ぎぬと申すか?」
「いえ、そうとも…」
「なに?」
「確かに上様は家基殿の死の真相には気付かれていないか、あるいは気付かれていても確たる証がなく、そこで意知を召し出されたのではないかと…」
「それはつまり…、意知に家基が死の真相を探らせようと…、さように申すのではあるまいの?」
「正しく…、意知は雁之間詰なれど、奏者番などのお役には就いており申さず…」
「探索の時間はたっぷりあると申すか?」
「御意…」
「まずいな…」
「仮に意知が探索に乗り出そうとも、死の真相が暴かれることはないかと…」
「何ゆえに左様に断言できる?」
「上様の御前にて斯かることを申し上げまするは気が引けまするが…」
「構わぬ。申せ」
「ははっ。されば意知は所詮は大名の嫡子に過ぎず…」
「お坊っちゃんには何もできまいと申すのだな?」
治済は苦笑しながら尋ねると、喜内は如何にも申し訳なさそうな表情を浮かべ、「御意」と小さな声で答えた。
お坊っちゃんには何もできまい…、それはそのまま治済にも当て嵌まるからだ。
「なれど、万が一のことも考えておかずばなるまいて…」
「万が一…、意知が家基殿が死の真相を探り当てた場合、でござりまするか?」
「左様…」
「やはり…、ここは口を塞ぎまするか?」
「意知の口をか?如何に下賤なる成り上がり者、それこそ盗賊の小倅とは申せ、仮にも大名が嫡子ぞ…、しかも上様の寵愛も厚い、となればこの時期に意知の口を塞ぐのは如何なものであろうかのう…」
「いえ、意知ではのうて…」
喜内にそう示唆された治済は「成程」と合点がいった様子で別の人物の名を挙げた。
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